「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第270回  逃げたい 鈴木 康太

2022年04月12日 | 詩客
 リチャード・ブローティガン詩集『東京日記』中の作品で「イチゴの俳句」というのがあります。

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(十二個の)赤い実だ。



 「・・・」って「粒」じゃねえか、って呟いたひといるんじゃないでしょうか。でも正解は「実」なんです。なぜなら「5・7・5」だから。カッコまで使ってちゃんと守っているこの詩人は、とてもかわいらしい。(*後述 これは訳者福間氏の技の賜物だった)そう、僕は昔から、ブローティガンの作品が好きで、その理由は何だろうと思っていてわかったことなんですが、やっぱりかわいいってとこだなと思います。

 こんなふうに(書くことは、本来嘘をつくことですが)書くことに対する素直さだったり、実感であったり気付かせてくれる。そういうものに触れたい、と常に思っています。

 詩には俳句や短歌みたいに守るべきルールが少ないからこそ、かわいいところを見つけにくいんだと思います。とても短い詩があったりとても長い詩があったり、難しい詩簡単な詩があったり、バリュエーションが広いので比較対象がなく、(この比較っていうのが肝なのですが)……生存競争、という日常と関わりにくい。
 日常は選択の連続です。先の戦争でもそうです。SNSとかでたまーに見てみると、そうだな人は戦争が好きなんだな、と思わざるをえない。とにかく選択をしないとうまく生きのびていけないんだものしょうがないさという必死さが伝わってくる。だから戦争はかわいくない。戦争は生き延びるものだから。しょうがない、というのが前提にあって。
 
 比較は苦手です。誰かの詩と誰かの詩を比べたくない。それを前提としていないのが非日常であって、僕のときどき駆け込みたくなる場所なのですが。別のみかたからすればそれは逃避といえるでしょうけど…… 僕は逃げたい。

         *

 尾形亀之助の詩集『カステーラのような明るい夜』をぺらぺらとめくっていると、どれもタイトルがおもしろくて、香気漂っていて、かわいい。
 二章のタイトルを全て抜粋します。


Ⅱ 
  昼 床にいる
  私は待つ時間の中に這入っている
  いつまでも寝ずにいると朝になる
  ある昼の話
  暗夜行進
  夜が重い
  雨降り
  商に就いての答
  雨日
  初夏一週間(恋愛後記)
  雨が降る
  愚かなる秋
  花(仮題)
  秋の日は静か
  十二月
  年のくれの街
  ひょっとこ面


 まるでこれで一編の作品になってしまいそうな凄みがあります。
 前述した僕の「非日常」という場所を呈示してくれるような、明証してくれるようなイメージがあります。編集の西尾勝彦氏の選定や編集の、賜物でもありますが。

 尾形亀之助の詩をさっそくあげて終わります。


 夜が重い
  (笑ったような顔をして来る朝陽に袋をかぶせる)



私は夜の眠り方を忘れている

ぽっとした電燈の下で
指をくわえるような馬鹿をして
風に耳をかしげ足を縮めて床の中に眠れないでいる

乾いた口に煙草を噛んで
熟した柿のような顎を枕におしつけている
眼に穴があいている


※太字は題名


 引用

 リチャード・ブローティガン『東京日記』福間健二訳(思潮社・1992)
 尾形亀之助『カステーラのような明るい夜』西尾勝彦編(七月堂・2021)

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