「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評 第118回  口語の時代は、寒いのか。その2       萩原健次郎

2014年03月19日 | 詩客
 隠喩や換喩や堤喩などといった複雑なメタファーの分析などではなく、表面においては、書き言葉とは違った、その対極にある方法として、しゃべり言葉、口語について考えている。たとえば、最近手にした、久保田展弘の著作『日本宗教とは何か』(新潮選書)の冒頭は、アイヌの言葉の引用から書きだされている。

 アイヌの人々は、初対面の人に挨拶するとき、必ずこういったものだという。
 イ ラン カラッ テー
 イ(それ)、ラン(思い)、カラッ(触れる)、テー(ます)という意味をもつこの挨拶は、「あなたのこころにそっと触れさせていただきます」という思いを表わしている。


 「イ ラン カラッ テー」と、少しは知っているアイヌの言葉のイントネーションで呟いてみる。もちろんその表徴としての記号を口腔の中に響かせるだけではない。そこには、「こころに触れさせていただく」という意味を味読しつつ、発声するわけだが、とても美しい言葉のように感じられる。それだけではない。アイヌは、この日本のある時代において、『文字を有しない民』として、先住していたという事実も、美しい響きに加担しているように思えるのである。
 口承で伝えられたアイヌの叙事詩を日本の言葉で文字にした『ユーカラ』(岩波文庫)の冒頭で訳者の金田一京助は、こう記している。

 人類として言語を有しないものは無いが、文字を有しない種族は、地上到る所にまだ存在する。さういふ所でも、往々日常語のほかに一種の雅語があって、幾代となく湛へた美しい詞章が、それで出来上がつてゐて、口傳へに傳承されることである。
                <中略>
文學以前の文學であつて、而も原始の文學はここから出發して宗教や、その他のものから分化したものであらうことが、アイヌの此の『書かれざる文學』の味識から自然に頷けるのである。
 然しながらこの『書かれざる文學』はその内容へ一歩立ち入ると、咽せ返る様な異教の匂ひで、之を離れては全く一篇の趣意を補足する事が出来ない程である。


 金田一の、「文學以前の文學」あるいは、「書かれざる文學」という言は、幾分誇張しているようだが、事実に根差している。ただ、翻って考えてみれば、「書かれざる」ものは、「文学ではない」のかと問うてみたくなる。金田一京助が、訳出した詩篇を引いてみる。

 『童子に、我等が逢ひしときに、
 「魚よ!魚よ!」と我等によびかけたり。
 忝ければ、一分四什を我等告ぐべし。
 水汲むことを厭ひ、
 爐ぶちを打叩き、戸柱を打ち叩いたる
 その罰に、月から捕へられて 
  今は月中の人になりて居るなり』
 といふことを、鮭たちに云ひたりけり。

(『ハンチキキー』部分)


 このいかにも古式に満ちた文語への翻案は、私には強引に映る。一旦、朗誦によって謳われた「音」を、ローマ字で筆記し、そののちに訳者は、自分が考えている「文学」の鋳型に収納しているように思える。
 一方で、更科源蔵が、1929年に発表した次の詩篇は、この文語的接近に比して、ひたすら口語的に接している。

 シャモのようにちるいくもなかったよ
 うしょもいわないし ほーらもふかないかったよ
 わるいこと みんなシャモがおしいたんだよ

 アイヌのくに ほんとのにんげんのくにたよ
 おれたち みんなライしても
 おれたちのかんがえているよんな
 よのなかにならないければ
 シャモもカイコクジンもほろびるよ

 にたりやいたりしたらためたよ
 しょのまんまが よいよ
 おれたち うしょいいなくてみんなほろびるけれども
 カムイ ちゃーんとしっているよ
 うしょいうと カムイひんといめにあわせるよ
 ライよりひんといめにあうよ

(「日本プロレタリア文学集」より『チャチャはこう話して呉れた』部分)

 
 ゆっくり読めば、この詩は、じんわりと沁みてくる。ある種の吃音的、あるいは時間差の味読を強いるが、それがまた切迫した真実を伝える。詩篇の中の「ライ」という言葉は、注によると、「死」を意味していると書かれている。これは、金田一が志向した、古式の型に納める「雅語」的なものに比して、私には「野語」というような熱と情を感じさせる。野の言葉と言うか、五官による野生としての感応。

 さて、ここで注目したいのは、金田一が心中から零すように発した「咽せ返る様な異教の匂ひ」という言葉である。一方に、古式の型へ納められようとする書き言葉の文学があり、もう一方に、吃音気味に記された話し言葉の文学がある。どちらが、「咽せ返る様な異教の匂ひ」を発しているのか。
 文学が、日常の異化を志向しているとしてその異化の方法としてある種の喩化による事実と状況の褶曲が試みられる。この褶曲が、作品の妙となり強さに代えられる。前者の二篇の方法を比べた時、そのどちらにも志向は、明らかだ。双方に、書き手の喩法による切実な再生成への意欲があり、伝達への情熱がある。それを自らが信じた方法(純朴なイデオロギー)で文字化している。金田一の方法は、「雅語」であり、更科のそれは「野語」なのである。



現在、書かれている詩に目を移してみる。清水あすかの第一詩集『頭を残して放られる。』(南海タイムス社)から引く。

 今日会ったとしょうりが近いうちまるぶのは、
 とてもよくあるおはなしなので、わたしは名前をおぼえたりしない。
 ママはわたしを色んなとしょうりのところへ連れて行くので、
 初めて会うとしょうりに、ぼうくなって、と言われると
 その人が知ってるわらいがおになれる気がする。
 最後にわたしに会えてうれぇしかったろうあの人は、とママがゆうので
 わたしはママの、ありがとうねぇ、ということばだけおぼえて
 その人がまるぼことはわすれる。
 
 ふくふくとやらかいものを置いて帰る道で
 ママは、としょうりは子どもを見るとうれぇしけだら、とゆうので
 ふくふくとやらかいとはわたしのうれしけことと知る。
 
 ママは少し小さくなったので
 わたしは左右にゆれながらちぃと大またに歩いて
 だからふだんもまっすぐに歩かない。
 わたしはママのもってる千円札も
 きっとしわしわなんだろうとおもっている。
 
 しかしてぇげぇとしょうりは先にまるばぁんて
 時々おもう。ふりかえったら
 だれもいない。しかし
 だれもいないところから来て、
 だれもいないところにわたしは帰ってしまうから
 だれもいないのは始めからかと
 おもい出して、ママとふたり
 左右にゆれて、歩いて帰る。

(「そのふくふくとしてやわらかいもの。」部分)


「咽せ返る様な異教の匂ひ」などと、あらたまって言うまでもなく、文学を形容するのに、それはひとつの本質的属性であることに気づく。
『詩客』の、今回の『自由詩時評』という要請を聞き、私の心中にまっさきに浮かんだのが清水あすかの、いくつかの詩篇であった。支路遺耕治、八木重吉、そして「ユーカラ」、さらには更科源蔵の詩篇と、ぐるぐる迂回しつつ引用ばかりでうんざりされたかもしれないが、私が、このごろ考えてる「不確かな確信」にもう少し、おつきあい願いたい。

つづく

自由時評 京谷裕彰

2014年03月11日 | 詩客
 無知による知的なものの疎外、こういってよければある種の"いびつな支配"は前世紀の終わり頃から顕著にみられるようになったが、その進行は文化的なものの崩壊という現象を取って確実に進行している。
 それを加速度的に昂進させた条件を考える上で、IT(Information Technology)が私たちの身の回りの至るところに浸透し、市場原理に馴染まないものを切り捨てる方向で制度の再編が進んだこと、それにより人々の慣習までもがシステマチックに規律化された問題を外すわけにはいかない。だが、IT環境の「進化」とは人々が日々の営みを無駄なく便利に送りたいという望み、つまりは生を蕩尽したくないという希求を糧に推進されたものでもある。であるからには、その恩恵が誰も否定できないものとして認知されるに至るのは必然だろう。
 しかしITはそもそも実存的な反省を伴わない悟性によって構築されたものである。資本主義の搾取構造への反省がないままでは、IT化が人間を労働から解放するどころか、労働量の激化と労働からの疎外(失業や無業)をもたらすのは当然の帰結である。ゆえに企業や行政の実務がIT化されると、それを担う人々の思考の中で、異質な他者を予め避ける予定調和的なものが増大し、合理主義の蔓延に拍車がかかる(合理主義がイデオロギーであるということすら忘れられている事態は、蔓延の深刻さを如実に物語っている)。実務が合理化され、高速化されるということは、その過程において人間的なやさしさや、弱さに対する寛容さが折り込まれる時間が縮減ないし消滅することを意味する。これは、経済、社会、文化、自然、環境、あらゆる問題における負のスパイラルに歯止めが利かない大きな原因のひとつである。悟性に由来する問題を、悟性によって解決しようとするならば、問題の核心を捉え損ね、大切なことが先送りされたまま、投じられた解決策それ自体があらたな問題の火種になるというスパイラルは避けられない。そうして、記号による支配と従属の構造は強固なものとなってゆく。
 今後、放射能汚染、都市のスラム化、地方の荒廃、少数の富者と多数の貧者への分極化がますます進行してゆくことが予想されるが、放置され、捨て置かれた人々は、それが何に由来するのか理解できないままに不満や怒りを鬱積させるだろう。だが、それが暴発しても自壊しても、他者にとっては理解の手がかりがないゆえに、各自の無関心な日常がただの日常でしかないようなセル化された冷たい社会が全面的に到来するかもしれない(あるいはすでに到来しているとも)。空虚な心には巨大なイデオロギーが闖入し、やがて自発的な隷従がはじまる。人々から愛や文化を育む時間を奪い、完璧なスペクタクル社会を実現させた資本とマスメディアにとって、人心をナショナリズムやショービニスムで回収することはいとも容易いことなのだ。そして批判的な知性をもつ人なら誰でも(表現者や研究者でなくとも)、社会の成層に限らず公的に承認されたあらゆる場所から、秘密裏にでも公然とでもなく構造的に排除され、政治的・社会的な決定に参与できなくなるばかりか、経済的分配からも締め出されてゆく。潜在的には求められているにも拘わらずだ。しかし、ハイパー管理社会が常識的なコードに掛からない知性を排除する事態に恐れをなしてはいけない。管理工学によって人を分類し批判的知性を疎外するのなら、そのいくらでもあらわれる漏出線から、いつでも抵抗の場がつくれることを意味するのだから。現にオルタナティブな共同性はそこかしこに簇生しており、存在感を示すものも少なくない。これからは創造することと抵抗することの自然な一致が、より重要な意味をもつかもしれない。志を分有できる人々との共同体を自閉させず、起きている事態から目を背けないこと、孤立しても異質な他者との交わりを欠かないこと、などが肝要だろう。見えない他者を疎外する人々もまた、豊かな人生を求め、日々勤勉に仕事する善良な人々だからである。ただ構造化された社会秩序における、現実の布置が違うだけなのだ。あるひとつの物事をめぐる複数の解釈があるにすぎない以上、疎外と被疎外の関係は布置をみる枠組みが変われば容易に入れ替わることも忘れてはならない。
 このような支配のあり方は、そもそも科学的理性、分析的理性への限界付けを欠いた、悟性への信仰によってもたらされたものである。だから、私たちの知覚が他者の(集合意識と化した)悟性によって知らず知らずのうちに変容を強制されることが不当な支配であると自覚すれば、たとえ小さくともそこが流れを変える起点になるはずである。その自覚を持ちつつ、フェティッシュな蠱惑性をもったデジタルツールに分不相応な地位を与えずにいられるならば、感性的なものの自律が犯されない距離感を保つことができるだろう。大量の情報が高速で押し寄せる場所から身を離し、紙に刷られた文学や哲学をゆっくりとたしなむ、街のギャラリーで過ごす、といった小さな行為であっても、感性的なものの自律と心身の健康を回復・維持するためには有効なのだ。こういった行為をデジタルメディアに晒される時間と置き換えるだけでも未来への効果は計り知れない。
 ところで、ITをめぐる「誰も否定できない恩恵」として共有される観念とは、ややもすれば現前性を絶対化する受肉した形而上学にも成り下がる。例えば小さきもの、弱きものを劣位におくIT支配によって蔑ろにされた人が、ITラッダイト(打ち毀し)を夢想しそれを表明するならば、途端にその人は嘲笑されるに違いない。それが真っ当な怒りによる、解放への夢想であったとしても。である以上は、受肉しない形而上学、つまり純粋な内在性に由来する超越性への志向が要請されることを、少なくとも表現者は認めるものであってほしい。私たちはここで、ヤスパースの包越者存在論を参照することもできるのだ(著書『真理について』で全面展開される)。
 現前するものの神格化・絶対化の否定を通じ、無限に開かれたものとして絶えざる動きの中で定位しつつ、いかなる意味においても対象化されえない存在のことをヤスパースは包越者と呼んだ。これは、存在を深遠なるものの閉ざされに探る一般的な存在論とは立場も方法も異なっている。では、包越者とは具体的にはどんなこと(もの)をさすのだろうか。包越者には様々な様態があるのであまり話を複雑にしてはいけないが、ひとつ例を挙げてみよう。 
 私たちが人生をかけて営む創造や探求といった営為から、日々をよりよく送りたいといった素朴な願望にいたるまで、人はその都度なにかしらの真理を志向せずにはいられないものだが、そのときだれもが必ず「達成」「統一」「完成」といった、ある理想や展望をもって道を歩んでゆくよりほかない。真剣に、誠実に取り組んでいる営みが、なにかに導かれるように進んでゆくことがあるのは、だれもが経験則として知っているだろう。このとき、自己の意識を存在と時間の彼方から、理想として描かれたものの彼方から誘引するものが包越者である。主体の歩みと他者や事物が織り成す諸関係の動的な絡み合いの中で、当初思い描かれた夢や、理想として描かれた世界は更新を繰り返しながら進んでいくとしても、生成変化の中でつねに何かしらの徴(しるし)をあらわす。それは純粋に内在的な超越性であるがゆえに、他者への伝達を試みる際にはとらえどころのなさがつきまとう。だが、対象化されうる存在から非対象的な存在へと超越することで、現前性と自明性に囲われた知の囚われから解放され、意識の変革が可能になる。ヤスパースはここに希望を見出したのだ。世俗的なコードで人間を分類しない包越者存在論を仲立ちにすることができれば、無神論者と宗教者、科学者とオカルティストの対話、ひいては実存的交わりさえもが可能となりうる。ルパン三世と銭形警部の交わりに、その具体的な表徴を読みとるのもありだろう。
 私たちは、定点から見つめる強さと、定点に据わり続けることで失う弱さとの間を揺れ動きながら、それでも前進する志を維持しようと欲する(ここでいう定点とは、浮遊しているかに見える人であっても必ず持っている、その人独自の視座や足場のようなもの)。その中にあってはじめてよろこびを実感することもできれば、悲しみや苦しみの中で生を実感することもあるが、いずれにせよ前へと向かう意志や意識を誘引する存在(包越者)なしには考えられない。現象としては前進を否定し、頑張ることを止め、ぐうたら哲学を実践するとしても、それが現状批判からなされ、批判精神が忘れられない限りは、やはり前進としかいいようのない何かであるだろう。
 そんなことを考えつつ21世紀10年代の今に思いを馳せるなら、他者を抑圧することなく、異種交雑性とマイナー性とを手放さず、自由自在に異なる立場を移動することはいかにして可能なのか?という問いが、今ほど重要な時代はないように思える。人間の生を包摂し、生を保護すると同時に疎外しもする、雇用や婚姻の生権力からいかにして距離をとるかという問題や、IT環境への漬かり具合、はたまたリアルにマイノリティであるかないかはこの際大した問題ではない。各自が生活を維持するために付き合うしがらみや、現存在の空間的布置と理想との距離に一喜一憂するのは人の情ではあるが、縛られた現存在ではあっても、想像力によって壁や柵を越境するよろこびは、つねにより高次の可能性を開いてゆくきっかけになる。未来を志向する実存にとって、存在の彼方から実存を惹きつける、引っ張る力のさらに先にある光が見えるなら、それは内なる確信として、来たるべきものの萌芽を促すはずである。たとえ、ある負い目から贖いとして動機付けられた営みであったとしても、贖いとは別のものに変成しうるだろう。また、長い時間と労力をかけて積み上げたものを、自ら放棄したり、自ら壊さねばならないことがあったとしても、その先に光が見えるなら、負ではなく正へと導かれる可能性が潰えることはない。
 言語・造形・音楽・映像その他いかなる方法によるのであれ、芸術的な創造行為や作品の享受においてしばしば光の表象がともなうのは、それが実存の内奥にあるものと呼応するからだ。
 その光に信をおけるか否かが、崩壊する世界、消え去りゆく現在のただ中にあってさえも続く人生を、豊かになしうるか否かを決めるのかもしれない。
 すべては、交わりの中にある。