隠喩や換喩や堤喩などといった複雑なメタファーの分析などではなく、表面においては、書き言葉とは違った、その対極にある方法として、しゃべり言葉、口語について考えている。たとえば、最近手にした、久保田展弘の著作『日本宗教とは何か』(新潮選書)の冒頭は、アイヌの言葉の引用から書きだされている。
アイヌの人々は、初対面の人に挨拶するとき、必ずこういったものだという。
イ ラン カラッ テー
イ(それ)、ラン(思い)、カラッ(触れる)、テー(ます)という意味をもつこの挨拶は、「あなたのこころにそっと触れさせていただきます」という思いを表わしている。
「イ ラン カラッ テー」と、少しは知っているアイヌの言葉のイントネーションで呟いてみる。もちろんその表徴としての記号を口腔の中に響かせるだけではない。そこには、「こころに触れさせていただく」という意味を味読しつつ、発声するわけだが、とても美しい言葉のように感じられる。それだけではない。アイヌは、この日本のある時代において、『文字を有しない民』として、先住していたという事実も、美しい響きに加担しているように思えるのである。
口承で伝えられたアイヌの叙事詩を日本の言葉で文字にした『ユーカラ』(岩波文庫)の冒頭で訳者の金田一京助は、こう記している。
人類として言語を有しないものは無いが、文字を有しない種族は、地上到る所にまだ存在する。さういふ所でも、往々日常語のほかに一種の雅語があって、幾代となく湛へた美しい詞章が、それで出来上がつてゐて、口傳へに傳承されることである。
<中略>
文學以前の文學であつて、而も原始の文學はここから出發して宗教や、その他のものから分化したものであらうことが、アイヌの此の『書かれざる文學』の味識から自然に頷けるのである。
然しながらこの『書かれざる文學』はその内容へ一歩立ち入ると、咽せ返る様な異教の匂ひで、之を離れては全く一篇の趣意を補足する事が出来ない程である。
金田一の、「文學以前の文學」あるいは、「書かれざる文學」という言は、幾分誇張しているようだが、事実に根差している。ただ、翻って考えてみれば、「書かれざる」ものは、「文学ではない」のかと問うてみたくなる。金田一京助が、訳出した詩篇を引いてみる。
『童子に、我等が逢ひしときに、
「魚よ!魚よ!」と我等によびかけたり。
忝ければ、一分四什を我等告ぐべし。
水汲むことを厭ひ、
爐ぶちを打叩き、戸柱を打ち叩いたる
その罰に、月から捕へられて
今は月中の人になりて居るなり』
といふことを、鮭たちに云ひたりけり。
このいかにも古式に満ちた文語への翻案は、私には強引に映る。一旦、朗誦によって謳われた「音」を、ローマ字で筆記し、そののちに訳者は、自分が考えている「文学」の鋳型に収納しているように思える。
一方で、更科源蔵が、1929年に発表した次の詩篇は、この文語的接近に比して、ひたすら口語的に接している。
シャモのようにちるいくもなかったよ
うしょもいわないし ほーらもふかないかったよ
わるいこと みんなシャモがおしいたんだよ
アイヌのくに ほんとのにんげんのくにたよ
おれたち みんなライしても
おれたちのかんがえているよんな
よのなかにならないければ
シャモもカイコクジンもほろびるよ
にたりやいたりしたらためたよ
しょのまんまが よいよ
おれたち うしょいいなくてみんなほろびるけれども
カムイ ちゃーんとしっているよ
うしょいうと カムイひんといめにあわせるよ
ライよりひんといめにあうよ
ゆっくり読めば、この詩は、じんわりと沁みてくる。ある種の吃音的、あるいは時間差の味読を強いるが、それがまた切迫した真実を伝える。詩篇の中の「ライ」という言葉は、注によると、「死」を意味していると書かれている。これは、金田一が志向した、古式の型に納める「雅語」的なものに比して、私には「野語」というような熱と情を感じさせる。野の言葉と言うか、五官による野生としての感応。
さて、ここで注目したいのは、金田一が心中から零すように発した「咽せ返る様な異教の匂ひ」という言葉である。一方に、古式の型へ納められようとする書き言葉の文学があり、もう一方に、吃音気味に記された話し言葉の文学がある。どちらが、「咽せ返る様な異教の匂ひ」を発しているのか。
文学が、日常の異化を志向しているとしてその異化の方法としてある種の喩化による事実と状況の褶曲が試みられる。この褶曲が、作品の妙となり強さに代えられる。前者の二篇の方法を比べた時、そのどちらにも志向は、明らかだ。双方に、書き手の喩法による切実な再生成への意欲があり、伝達への情熱がある。それを自らが信じた方法(純朴なイデオロギー)で文字化している。金田一の方法は、「雅語」であり、更科のそれは「野語」なのである。
●
現在、書かれている詩に目を移してみる。清水あすかの第一詩集『頭を残して放られる。』(南海タイムス社)から引く。
今日会ったとしょうりが近いうちまるぶのは、
とてもよくあるおはなしなので、わたしは名前をおぼえたりしない。
ママはわたしを色んなとしょうりのところへ連れて行くので、
初めて会うとしょうりに、ぼうくなって、と言われると
その人が知ってるわらいがおになれる気がする。
最後にわたしに会えてうれぇしかったろうあの人は、とママがゆうので
わたしはママの、ありがとうねぇ、ということばだけおぼえて
その人がまるぼことはわすれる。
ふくふくとやらかいものを置いて帰る道で
ママは、としょうりは子どもを見るとうれぇしけだら、とゆうので
ふくふくとやらかいとはわたしのうれしけことと知る。
ママは少し小さくなったので
わたしは左右にゆれながらちぃと大またに歩いて
だからふだんもまっすぐに歩かない。
わたしはママのもってる千円札も
きっとしわしわなんだろうとおもっている。
しかしてぇげぇとしょうりは先にまるばぁんて
時々おもう。ふりかえったら
だれもいない。しかし
だれもいないところから来て、
だれもいないところにわたしは帰ってしまうから
だれもいないのは始めからかと
おもい出して、ママとふたり
左右にゆれて、歩いて帰る。
「咽せ返る様な異教の匂ひ」などと、あらたまって言うまでもなく、文学を形容するのに、それはひとつの本質的属性であることに気づく。
『詩客』の、今回の『自由詩時評』という要請を聞き、私の心中にまっさきに浮かんだのが清水あすかの、いくつかの詩篇であった。支路遺耕治、八木重吉、そして「ユーカラ」、さらには更科源蔵の詩篇と、ぐるぐる迂回しつつ引用ばかりでうんざりされたかもしれないが、私が、このごろ考えてる「不確かな確信」にもう少し、おつきあい願いたい。
アイヌの人々は、初対面の人に挨拶するとき、必ずこういったものだという。
イ ラン カラッ テー
イ(それ)、ラン(思い)、カラッ(触れる)、テー(ます)という意味をもつこの挨拶は、「あなたのこころにそっと触れさせていただきます」という思いを表わしている。
「イ ラン カラッ テー」と、少しは知っているアイヌの言葉のイントネーションで呟いてみる。もちろんその表徴としての記号を口腔の中に響かせるだけではない。そこには、「こころに触れさせていただく」という意味を味読しつつ、発声するわけだが、とても美しい言葉のように感じられる。それだけではない。アイヌは、この日本のある時代において、『文字を有しない民』として、先住していたという事実も、美しい響きに加担しているように思えるのである。
口承で伝えられたアイヌの叙事詩を日本の言葉で文字にした『ユーカラ』(岩波文庫)の冒頭で訳者の金田一京助は、こう記している。
人類として言語を有しないものは無いが、文字を有しない種族は、地上到る所にまだ存在する。さういふ所でも、往々日常語のほかに一種の雅語があって、幾代となく湛へた美しい詞章が、それで出来上がつてゐて、口傳へに傳承されることである。
<中略>
文學以前の文學であつて、而も原始の文學はここから出發して宗教や、その他のものから分化したものであらうことが、アイヌの此の『書かれざる文學』の味識から自然に頷けるのである。
然しながらこの『書かれざる文學』はその内容へ一歩立ち入ると、咽せ返る様な異教の匂ひで、之を離れては全く一篇の趣意を補足する事が出来ない程である。
金田一の、「文學以前の文學」あるいは、「書かれざる文學」という言は、幾分誇張しているようだが、事実に根差している。ただ、翻って考えてみれば、「書かれざる」ものは、「文学ではない」のかと問うてみたくなる。金田一京助が、訳出した詩篇を引いてみる。
『童子に、我等が逢ひしときに、
「魚よ!魚よ!」と我等によびかけたり。
忝ければ、一分四什を我等告ぐべし。
水汲むことを厭ひ、
爐ぶちを打叩き、戸柱を打ち叩いたる
その罰に、月から捕へられて
今は月中の人になりて居るなり』
といふことを、鮭たちに云ひたりけり。
(『ハンチキキー』部分)
このいかにも古式に満ちた文語への翻案は、私には強引に映る。一旦、朗誦によって謳われた「音」を、ローマ字で筆記し、そののちに訳者は、自分が考えている「文学」の鋳型に収納しているように思える。
一方で、更科源蔵が、1929年に発表した次の詩篇は、この文語的接近に比して、ひたすら口語的に接している。
シャモのようにちるいくもなかったよ
うしょもいわないし ほーらもふかないかったよ
わるいこと みんなシャモがおしいたんだよ
アイヌのくに ほんとのにんげんのくにたよ
おれたち みんなライしても
おれたちのかんがえているよんな
よのなかにならないければ
シャモもカイコクジンもほろびるよ
にたりやいたりしたらためたよ
しょのまんまが よいよ
おれたち うしょいいなくてみんなほろびるけれども
カムイ ちゃーんとしっているよ
うしょいうと カムイひんといめにあわせるよ
ライよりひんといめにあうよ
(「日本プロレタリア文学集」より『チャチャはこう話して呉れた』部分)
ゆっくり読めば、この詩は、じんわりと沁みてくる。ある種の吃音的、あるいは時間差の味読を強いるが、それがまた切迫した真実を伝える。詩篇の中の「ライ」という言葉は、注によると、「死」を意味していると書かれている。これは、金田一が志向した、古式の型に納める「雅語」的なものに比して、私には「野語」というような熱と情を感じさせる。野の言葉と言うか、五官による野生としての感応。
さて、ここで注目したいのは、金田一が心中から零すように発した「咽せ返る様な異教の匂ひ」という言葉である。一方に、古式の型へ納められようとする書き言葉の文学があり、もう一方に、吃音気味に記された話し言葉の文学がある。どちらが、「咽せ返る様な異教の匂ひ」を発しているのか。
文学が、日常の異化を志向しているとしてその異化の方法としてある種の喩化による事実と状況の褶曲が試みられる。この褶曲が、作品の妙となり強さに代えられる。前者の二篇の方法を比べた時、そのどちらにも志向は、明らかだ。双方に、書き手の喩法による切実な再生成への意欲があり、伝達への情熱がある。それを自らが信じた方法(純朴なイデオロギー)で文字化している。金田一の方法は、「雅語」であり、更科のそれは「野語」なのである。
●
現在、書かれている詩に目を移してみる。清水あすかの第一詩集『頭を残して放られる。』(南海タイムス社)から引く。
今日会ったとしょうりが近いうちまるぶのは、
とてもよくあるおはなしなので、わたしは名前をおぼえたりしない。
ママはわたしを色んなとしょうりのところへ連れて行くので、
初めて会うとしょうりに、ぼうくなって、と言われると
その人が知ってるわらいがおになれる気がする。
最後にわたしに会えてうれぇしかったろうあの人は、とママがゆうので
わたしはママの、ありがとうねぇ、ということばだけおぼえて
その人がまるぼことはわすれる。
ふくふくとやらかいものを置いて帰る道で
ママは、としょうりは子どもを見るとうれぇしけだら、とゆうので
ふくふくとやらかいとはわたしのうれしけことと知る。
ママは少し小さくなったので
わたしは左右にゆれながらちぃと大またに歩いて
だからふだんもまっすぐに歩かない。
わたしはママのもってる千円札も
きっとしわしわなんだろうとおもっている。
しかしてぇげぇとしょうりは先にまるばぁんて
時々おもう。ふりかえったら
だれもいない。しかし
だれもいないところから来て、
だれもいないところにわたしは帰ってしまうから
だれもいないのは始めからかと
おもい出して、ママとふたり
左右にゆれて、歩いて帰る。
(「そのふくふくとしてやわらかいもの。」部分)
「咽せ返る様な異教の匂ひ」などと、あらたまって言うまでもなく、文学を形容するのに、それはひとつの本質的属性であることに気づく。
『詩客』の、今回の『自由詩時評』という要請を聞き、私の心中にまっさきに浮かんだのが清水あすかの、いくつかの詩篇であった。支路遺耕治、八木重吉、そして「ユーカラ」、さらには更科源蔵の詩篇と、ぐるぐる迂回しつつ引用ばかりでうんざりされたかもしれないが、私が、このごろ考えてる「不確かな確信」にもう少し、おつきあい願いたい。
つづく