「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第280回 まだ見つかっていない言葉の表情 岡 英里奈

2023年02月13日 | 詩客
 スマートフォンというと、どんなイメージがあるだろう。
 現代の機械。いそがしさの象徴。集中を盗み取っていく卑近なもの。

 2020年、『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著)という新書が話題になったが、スティーブ・ジョブズは自分の息子にスマートフォンの使用を禁止し、iPadをそばに置くことすらしなかったという。それほど、人のこころをさらう機器なのだろう。

 できるだけスマホから離れる時間を増やそう。デジタルデトックス。SNSの他人とのつながりに依存してもむなしい。
 そうした悪いイメージばかりがスマホにはある。

 今回は、古屋朋の詩「ブルーライトはあおくない」を見てみたい。ブルーライトとは、目の奥にまで届くエネルギーの高い光線である。太陽光にも含まれるが、パソコン・スマホの画面からも発生する。目に悪いブルーライトをカットする眼鏡や、軽減するディスプレイ用シートなどもよく販売されている。

さて、詩の中身である。

語り手「ぼく」は、「きみ」からの連絡を待っている。もうすぐ連絡が来ることはわかっている。来るまでの時間をつぶすためにスマートフォンを覗き込み、「動画サイト」を「スクロール」する。
 メッセージのやりとりだけだと齟齬が発生しがちだからだろうか、「言葉でときどきすれ違いもするから」「せめてお揃いにして」「さいきんきみがよく使う」「どうぶつのスタンプ」を「ぼく」も買ったという。

 連絡を待つあいだに動画サイトを見る。相手とお揃いにするために有料のスタンプを買う。スマホが登場してもう十数年経った今ではとてもなじみ深い行為だが、それらを言葉にして詩の形にしたものに出会ったのが初めてだったので面白く感じた。

(前略)
ブルーライトはあおくない
つなぐ指先が
つなぐあの日が
照らしすぎる
星たちよりも
月たちよりも
なにげない つかのまを
各々の手で照射していく
(中略)
とりまく営みすべてが
発光している 青に 海の色に
目をさす色の
名前も知らずに

古屋朋『てばなし』(2022年9月 七月堂)


 星や月をことほぐことは多いが、ブルーライトをこのように描いたものがあっただろうか。
 この詩について考えているなか、小林真大『詩のトリセツ』(2021年 五月書房新社)に出会った。本書は、しかつめらしい言葉を使わず、言葉とは何か、詩を読むとはどういうことかをたいへん丁寧にわかりやすく解説した良書であったが、そのなかで「美しい」ものを「美しい」と言うだけでは本当の感動は伝わらないといった文脈で、以下の吉野弘の言葉が引用されていた。

 松という言葉が松そのものではない、ということぐらいは、誰でも知っていますが、松という言葉を使いなれてゆくうちに、松についてすべてを知っているつもりになるという傾きが生じやすいのです。言葉の日常的な使われ方は、“すべて知っているつもり”の使われ方といってもいいでしょう。
吉野弘『詩の楽しみ』(1982年 岩波書店)


 日常的に使われる「ブルーライト」という単語は、前述した悪い印象しか与えない。しかしその言葉に注目し、もぐりこみ、そこから見える世界を描くと、「言葉の日常的な使われ方」を超えて、このような詩が生まれる。

 光につつまれるようなあたたかさを感じたのは、太陽光の粒子のような、目で見えなくともたしかにそこにあるものたち――そこには人と人との「なにげない」「営み」のようなものも含まれているだろう――のことを「ブルーライト」を通して感じたからだろうか。

 とにかく、ブルーライトという言葉の別の面に光をあててもらえたことが、とてもうれしかった。

 まだ見つかっていない言葉の表情が、あちこちにたくさん隠れている。それを発見していくことが、詩なのかもしれない。