松井啓子さんの処女詩集『くだもののにおいのする日』が、ゆめある舎より復刊された。1980年に駒込書房より刊行された本集は、じつに三十四年ぶりの新装復刊であるという。
復刊の経緯は、「ゆめある舎」のサイトにくわしいが、ゆめある舎主の谷川恵さんはじめ、いくたりの詩人と詩人をとりまく出版の関係者の、おだやかで熱い要望と尽力により実現させたものであることがわかる。個人的には松井啓子さんが現在は詩からは遠ざかっておられることを知ったことがさびしくもあった。
自費出版という形態のなかでの、少部数そして多くが謹呈という市場の在り方は、売ることを意識したというよりも、作り手のほうの、作品を纏め、かたちにする意識の具体といったほうがいいかもしれず、多くは絶版のままに入手は不可能になることが多いと思う。
そのなかでの実店舗及びネットでの、一般読者への宛先をもつ販売の形態は、あらたな読者の獲得も意味するだろう。詩集が新たな読み手をみつけると、読み手と対話すること、そのキュレーターとしての作り手。業界の沈滞や自費出版のあれこれを考えるとき、あらたな関係性の構築を改めて考える。
さて、『くだもののにおいのする日』を改めて読んだとき、集が醸すメルヘンチックな雰囲気と異なり、意外に暗い情念のようなものが凝っているように感じられた。
絵葉書
柴折戸をしめると
この庭は いつも夕方です
鉛筆で描いた柵ですから
わりと器用に空が暗くもできるのです
前庭に植わったいっぽんの木から
しいなのしいの実が落ちてくると
顔をあげ 手をあわせて受けとめます
この柵のむこうが海原であるかくさはらであるかは
わたしもまだ知らされていないのです
わたくしは出かけないでしょう
わたくしは 裏庭の
子どものござに
ひとりのお茶に
よばれていますので
「絵葉書」より。「わたくし」の視点と語りで描かれているが、「庭」に注目してみたい。タイトルのように絵はがきにある「庭」なのか、心象なのかは明瞭ではない。
「いつも夕方」で、「前庭」にはしいの実をおとす木があり、「裏庭」には子どもがござをひろげてお茶会をしている。「庭」に「柵」があるのかは定かではないが、絵はがき故に鉛筆で「空が暗くもできる」という。庭からは出ない「わたくし」は、柵のむこうがどんな光景なのかも知らされていない。さらに裏庭の子どものお茶会が、「わたくし」のそれ以外の行動を阻害している。 閉塞性を暗示する描写があらゆる詩行から満ちているのを感じるときに、女の性と生を縛る、あらゆるものの存在をみるように思う。
さらに見てみたい。
冬瓜
きょうは思いきって
とうがん
というものを煮てみる
うりでも
かぼちゃでもない
飾り窓もない ばかでかい野菜
部屋に背をむけて
薄く切りきざんで
とろ火で煮こむ
(後略)
「冬瓜」より。厨仕事の行為のなかで、冬瓜は現在の自身を換喩して描かれているように思う。「うりでも/かぼちゃでもない」というどっちつかずの位置、「飾り窓もない」という閉塞、「部屋に背を向けて」という関係の遮断が、ゆったりとした語り口で綴られていくとき、厨仕事というありふれた日常の些事をこなしつつ、なお自身としての「今生のどうしようもなさ」のようなものを感じるのは筆者ばかりではないだろう。女性としての身体性ではなく、閉塞された精神性が各作品において繰り返し異なる形を携えて表されている。
平易な言葉で綴られた松井の詩は、平易であるゆえにまっすぐに心の奥処へ届いてくるようだ。この詩集が発刊された八十年と、それ以降に勃興したいわゆる「女性詩ブーム」の状況を併せて読解していくときに、詩人・松井啓子の立ち位置や主題がそしてより鮮やかに浮かび上がることはいうまでもないだろう。また当時の状況を具体的に把握する上で貴重な資料としていっそうの意味合いがあるだろうと思う。
明るい陽のなかに差し出された、新装版の『くだもののにおいのする日』をより多くの読み手が手にすることを願ってやまない。
復刊の経緯は、「ゆめある舎」のサイトにくわしいが、ゆめある舎主の谷川恵さんはじめ、いくたりの詩人と詩人をとりまく出版の関係者の、おだやかで熱い要望と尽力により実現させたものであることがわかる。個人的には松井啓子さんが現在は詩からは遠ざかっておられることを知ったことがさびしくもあった。
自費出版という形態のなかでの、少部数そして多くが謹呈という市場の在り方は、売ることを意識したというよりも、作り手のほうの、作品を纏め、かたちにする意識の具体といったほうがいいかもしれず、多くは絶版のままに入手は不可能になることが多いと思う。
そのなかでの実店舗及びネットでの、一般読者への宛先をもつ販売の形態は、あらたな読者の獲得も意味するだろう。詩集が新たな読み手をみつけると、読み手と対話すること、そのキュレーターとしての作り手。業界の沈滞や自費出版のあれこれを考えるとき、あらたな関係性の構築を改めて考える。
さて、『くだもののにおいのする日』を改めて読んだとき、集が醸すメルヘンチックな雰囲気と異なり、意外に暗い情念のようなものが凝っているように感じられた。
絵葉書
柴折戸をしめると
この庭は いつも夕方です
鉛筆で描いた柵ですから
わりと器用に空が暗くもできるのです
前庭に植わったいっぽんの木から
しいなのしいの実が落ちてくると
顔をあげ 手をあわせて受けとめます
この柵のむこうが海原であるかくさはらであるかは
わたしもまだ知らされていないのです
わたくしは出かけないでしょう
わたくしは 裏庭の
子どものござに
ひとりのお茶に
よばれていますので
「絵葉書」より。「わたくし」の視点と語りで描かれているが、「庭」に注目してみたい。タイトルのように絵はがきにある「庭」なのか、心象なのかは明瞭ではない。
「いつも夕方」で、「前庭」にはしいの実をおとす木があり、「裏庭」には子どもがござをひろげてお茶会をしている。「庭」に「柵」があるのかは定かではないが、絵はがき故に鉛筆で「空が暗くもできる」という。庭からは出ない「わたくし」は、柵のむこうがどんな光景なのかも知らされていない。さらに裏庭の子どものお茶会が、「わたくし」のそれ以外の行動を阻害している。 閉塞性を暗示する描写があらゆる詩行から満ちているのを感じるときに、女の性と生を縛る、あらゆるものの存在をみるように思う。
さらに見てみたい。
冬瓜
きょうは思いきって
とうがん
というものを煮てみる
うりでも
かぼちゃでもない
飾り窓もない ばかでかい野菜
部屋に背をむけて
薄く切りきざんで
とろ火で煮こむ
(後略)
「冬瓜」より。厨仕事の行為のなかで、冬瓜は現在の自身を換喩して描かれているように思う。「うりでも/かぼちゃでもない」というどっちつかずの位置、「飾り窓もない」という閉塞、「部屋に背を向けて」という関係の遮断が、ゆったりとした語り口で綴られていくとき、厨仕事というありふれた日常の些事をこなしつつ、なお自身としての「今生のどうしようもなさ」のようなものを感じるのは筆者ばかりではないだろう。女性としての身体性ではなく、閉塞された精神性が各作品において繰り返し異なる形を携えて表されている。
平易な言葉で綴られた松井の詩は、平易であるゆえにまっすぐに心の奥処へ届いてくるようだ。この詩集が発刊された八十年と、それ以降に勃興したいわゆる「女性詩ブーム」の状況を併せて読解していくときに、詩人・松井啓子の立ち位置や主題がそしてより鮮やかに浮かび上がることはいうまでもないだろう。また当時の状況を具体的に把握する上で貴重な資料としていっそうの意味合いがあるだろうと思う。
明るい陽のなかに差し出された、新装版の『くだもののにおいのする日』をより多くの読み手が手にすることを願ってやまない。