「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第278回 その先に 今野 和代

2022年12月16日 | 詩客
 誰もがそうかも知れないのだけど。私のなかにはひとりの子供がいまだに棲んでいる。ずーっとずっと遊んでいたい。面白いことをさがしていたい。みつけたら飽きるまで離れない。時には体当たりする。触る。ピョンと遠ざかる。離れる。おっかなびっくり近づく。息をのむ。また、後ずさりする。生まれたばかりのやわらかなものに、にじり寄りたい。初めての衝撃にポカンとする。聞き耳をたてる。空想と冒険、混乱と安寧、不安が、好奇心が、不思議が、問いが、慄きが、身体じゅうを野放図に巡っていた。
 ところが、いつだったろう。「言葉なんかおぼえるんじゃあなかった/言葉のない世界/意味が意味にならない世界に生きてたら/どんなによかったか(田村隆一「帰途」)」詩の人の呟きにギクリとした。その人の「涙の中に立ちどまる(同)」、そのために、言葉をひきよせようする私が。その人の「血のなかに(同)」帰っていくことが、私の「血のなかに(同)」帰っていくことに繋がる。そうおもい始めている私がいた。でも、それはどんなふうにして可能なのだろう。考えあぐねた。すると。「全てを経験せよ(ライナー・マリア・リルケ)」地鳴りのような声がした。「美も恐怖も君のなかで生き続けさせるんだ(同)」しきりに声がした。「絶望が最後ではない(同)」呻きのような声。その先に続いているもの……? 灯っているもの……?それは何。それをつかみたいばっかりに。詩を、言葉を、引っかきまわし続けているのかもしれない。
 それにしても、世界は、この世は、手ごわい。いつも。今も。私は、行ったり来たり。つんのめったまま息をしてる。
 今回、「詩時評を」と森川雅美さんから声をかけていただいた。
 ウンウン唸りながら、「現代詩手帖」12月号のアンケートでは、今年印象に残った詩集として『HANAJI 花児 1984-2019』山本育夫・『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです』藤井貞和・『獄門歌』添田聲・『綵歌』河津聖恵・『黯らかな静寂、すべて一滴の光』奥間埜乃の5冊を選び、短いコメントを添えた。
 ここ「詩客」では、その後に出会い、またもや、グラグラ私の内側を揺らしに来た詩、刺激を受け、ポカリと脳天に如意棒が撃ち込まれた詩、そんな詩を取りあげてみたい。

 「あとがき」から、今年7月8日に狙撃され死亡した安部元総理の、7月22日の「国葬」の予定日に合わせて朗読会が計画され、それを機に編まれた詩集とある。青木由弥子詩集『空を、押し返す』(私家版)の巻頭詩「ペレ・アイホヌア」は何と22ページ7パートで構成されている。「いがみあい、大地を掘り崩す」ものたち達に向けた、ハワイ島の火山と炎と稲妻の女神ペレの怒りの声で始まる。ペレの激しい内奥、愛しいものとの訣別、受胎した子への、その異形の子に突き放すように母なる思いを託す。母ペレの暴なる過剰と孤独と悲哀が、フォークロア―的にワイルドに、物語性をたっぷり孕みながら展開していく。最後の7は見事な予兆と余韻と問いを宙ずらせて終幕に突入した。痛苦の「」に耐えながら泳ぐペレの子。教室で「肌を刺す水から守られた場所で」学んでいる「私たち」。鱗が生えそろうのを待ちきれず外へでていった者が、赤剥けの肌をさらしながら再び帰って来て教壇の前に立つ。窓の向こうに「本物の鱗」をもつ自由な影の存在を放った。その美しい「」は、自身と共に成長し、二度と抜けることなく、削ぎ落すと人を刺し、鎧うと邪気を遮るという。それはこの困難な世界を果敢にあい渡っていく生きものの叡智としなやかで強靭な生命力の喩なのだろう。

暗い眼窩のような
はめ殺しの教室の窓から
硫酸銅よりも青い海が見える
本物の鱗で身を守りながら
海を自在に泳ぎ回る者の影が
時に銀色にひるがえる

またベルが鳴った
肌を刺す水から守られた場所で
私たちは今日も鱗の本を開く


 小島きみ子『空と大地の眼で織られた布(テキスト)――愛と希望のmethod――』(阿吽塾) に注目した。「現代詩書下ろし一詩篇による詩集―懐紙シリ―ズ第七詩集」限定250部とあり、詩集の編みかたへの独自性が際立っている。それぞれタイトルが付けられた17の詩群から成る。この作品に流れている、高質な、澄んだ張りつめた空気感はどこから来るのだろう。こどものわたしとかれの家。月見草。野薔薇。白鷺。電線。ドストエフスキーの言葉。イェイツの思念。リルケのなかのヴァレリー。ヴァレリーのなかのボードレール、ランボー、ユイスマン、マラルメ。そこからヴァレリーの方法論が語られていく。フォーレの「レクエイム二短調」、子を失ったロドリーゴ夫人への慰めが溶かされている「アランフェス協奏曲 第二楽章」の旋律。母とわたし。小鳥の月子。葉と花びらの月子。ママン。……。あ。この詩集は精霊の物語なのだ。この幻想譚の仮構を通して、「わたしを生んだ(母)を他者として捉える空間」をつくりだす、わたしのなかの(インナーチャイルド)を見つけるわたしの再生の詩だ。

そらぞらしいこの世のことなど
何も見えないほどに天上はまぶしい
視えない天上 それこそが本物の地獄であるのだと
背筋に冷たい指文字が走るのです

(「八 丘の上の黄昏時が寂しく悲しいのは」)


また逢うことができたのですね
わたしがわたしの(インナーチャイルド)を見つけ出したときは
(わたし)を棄てるとき
丘の上の母の部屋で
わたしはわたしのほんとうの愛と希望を獲得した

(「十七 空と大地の眼で織られた布―愛と希望のmethod―」)


 もう一篇、青木佐知子詩集『官界の行方』(澪標)から。
きょうは自分の身体を溶かしていくことをやってみましょう/……//首無し人間になっているはずなのに/わたしの目玉はぐりぐり/……どす黒いひかりを放ちながら/溶けたかどうかを確かめに巡回している……//腰も 溶けて いきます 太腿も 溶けて いきます/導師(どうし)の柔らかな声調(トーン)を辷って/脚先へ先回り/両おやゆびの爪の留まり/ここまで溶かすつもりだろ さあ来い//構える目玉へ//応挙の幽霊/どろろろろ/溶かしきれない/鉛色の粘体/身体のここかしこに/とり憑いて(「官界の行方」)」  
 導師の声に導かれ、意識を働かせ、どんどん身体を溶かしていく。けれど、目玉だけは、その状況をクールに巡回しながらチェックしている。ブラックユーモアに満ちたこのしたたかさ。縦横無碍な反抗。目覚めて先回りして、「さあ来い」と溶けることも、溶けないことも、二重の世界にはみ出していく。溶かしきれない不明なものを、自身の身体でキャッチしている。この自由さ。この剽軽な逞しさ。もらおっと !