「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第253回 「何か失われるものがある。」 小峰 慎也

2020年09月09日 | 詩客
 『現代詩手帖』2020年8月は特集「現代詩アンソロジー2000-2009」。
 待望のアンソロジー企画といえる。ぱっと見はあまり魅力的ではない。まず選ばれている篇数が少ない。選者が4人でそれぞれが20年間で20篇ずつというのでは(しかも10年ごとに2号にわけられているのでさらに(他の記事をけずってでも20年通しで1号におさめるべきだった))、選択が限られてしまう。幅を出すために傾向のちがう4人にしているのだろうが、3人にしてそれぞれの選ぶ篇数を多くしたほうが幅は出るのでは? それにこの二段組が中途半端で、リストのしまりをなくしている。まとまることも、見わたすこともできない、羅列に近くなる。投稿欄と同様、三段組にしたほうがいい。座談会でも触れられているが、『現代詩手帖』2003年8月号の「アンソロジー代表詩選1985-2002」の様式を踏まえているのだと思うが、むしろ1994年6月号「現代詩の九十九選」を参考にしたほうがよかったと思う。
 「新鋭詩人2020Profile」のアンケート(『現代詩手帖』2020年6月)で感じたことだが、読まれているものが意外な方向にばらついている。自分が書くものと読むものが一致して、「分断」し、「仮想敵」を設定して自分の「詩」を守る、のような構図はあったのかなかったのかすでに気持ちよく崩れさっているようだ。
 瀬尾育生の発言。「読者に届くかどうかとか、言葉には意味があるっていう、それはその通りだけれども、そこを詩の条件にしたり、終着点にしたりすると、何か失われるものがある。
 このタイミングでのこの発言、今回の場合の小池昌代のような見方(読めるべきだし読まれるべきという主張)に対する、解答の仕方をはっきり示した点で評価できる。このあと、普通いう意味での読める読めないとは別の意味で、山本陽子が大きなコミットをした(藤原安紀子や外山功雄や森本孝徳を読むための補助線として山本陽子を引き合いに出している)と述べたあと、「詩にはコミットメントの問題があるけれども、それは伝達ということとは違うものだ。こういうメッセージを伝えました、という意味の伝達を要求してももともと無理だ、それが全部、どうしてもできなくなってしまったからこそ詩の言葉を選んだ、というところがあるわけですからね。」と続けている。この意見には賛成なのだが、ただ、そのことが不可避としてばかりイメージづけられると、ちょっと困る。「不可避」を救う必要はあると思うが、面白いからそう書いているということが抜け落ちる。あるいは不可避の劣位に置かれる、それは困る。「そこを詩の条件にしたり、終着点にしたりすると、何か失われるものがある。」のである。
 (読まれるべきという意見への対論として、このような論調になるのはわかる。ここでこのような注文をつけるのはいいがかりのようになってしまうが、こうした詩の存在意義みたいなことがいわれるとき、セットのように真剣な態度が組み合わされることに違和感がある。)
 (書いている間に次の号「現代詩アンソロジー2010-2019」が出てしまった。ちょっと唖然としてしまったのだが、1人につき1篇というルールは20年全体を通してではなく、この「分割」されたそれぞれの中だけで適用されるものだったらしい。この限られた篇数しか選ばれていない中に6人もダブって選ばれているのだ(高橋睦郎、和合亮一、杉本真維子、中尾太一、谷川俊太郎、四元康祐)。2010年代、望月遊馬、大江麻衣、井戸川射子、細田傳造ほかよほど入れたほうがいい人がいるにもかかわらず、である。さらに選者の作品が追加枠みたいなところに選ばれている。こんな気持ちわるいかたちで入れなくとも、入れるなら入れるで普通にアンソロジーの中で処理すればいい。アンソロジーの「中」に収録詩人の思潮社本の広告が入っていたり、とか。ほんとうに繰り返し参照される、まともなアンソロジーを作る気があるのだろうか。何か全体にわたってばかばかしい「配慮」がリストを腰砕けにしているとしか思えない。)
 (逆に、たとえば『現代詩手帖』2020年7月号の稲川方人×中尾太一×菊井崇史の「現代詩季評」で取り上げられていた詩集を「リスト」として考えた場合、評者たちとの取り合わせとしても妙をえていた)
 杉本徹の散文「超時空ということ――もうひとつの時制」。けっこうイラっとしたが、ぬけぬけと「詩らしい詩を書きたい」といってしまえていることに、はっとさせるものがある。「詩らしい詩」と「垂直軸」というのがどうもぼくの中では結びつかないのだが。

 秋山基夫『シリウス文書』(思潮社)。
 どうとらえたらいいか、謎の詩集である。仕掛け、ルールがあるのがわかるのに、それがどういうルールなのかわからない。
 たとえば、最初の「マンダラ」という作品は、はっきりしたルールのわからないまま、行の長さが微妙にそろえられている。行がそろえられているというか、かたちが作られている。かと思うと、かたちが作られていないパートもある。そして一行が一文で終わっている場合が多いが、すべてそれではない。そして書かれている内容も、各パートの中のさらにアスタリスクで区切られている4行ごとのかたまりで区切れている場合もあるし、内容的につながりがある場合もある。規則が読めないのだ。一つは、「切れる」ということが頻繁に起こることで、断片の集積になりながら、ある程度の規則的なかたちを持つことで、断片の持つ、バラバラ性のようなところへは行かずに、切れていながらまとまっている、ということになっている。あとがきによると、この作品は、美術作品の一部として当初は書かれたものらしい。その文脈でどう働いていたかわからないが、多くの見えない部分がこの作品には発生することになった。そしてそのことは、この詩集全体にいえることなのだ。このわからない規則が「詩を書く」といったときの「盲点」をうまく働かせることになっている。

自由詩時評第254回 詩と場所 藤井 貞和

2020年09月03日 | 詩客
 『僕の一〇〇〇と一つの夜』(私家版、加藤典洋 2019・11)を受けとって、思いが去来して止まない。『現代詩手帖』誌での連載に接したときには何も事情を知ることがなかった(典洋さんは病み、亡くなる)。若き日々に小説家だったし、詩も書いていた青年だったと、私のなかでは記憶する。

  引き出し
 今日/朝起きたら/引き出しが開いていた//僕に何かを教えるように/三つ並んだなか/真ん中の二つ目が開いていて/日の光を受けていた//中には知らないものもあった/僕が以前入れた/ちびたエンピツは/赤い色が/褪せていた/妻が入れた裁縫道具の紅い函は/今日も鮮やか//引き出しは/きっと誰かが用事があって/開けたのだ//そして用事が終わったあと/閉め忘れたのだ/それで引き出しは/夜の間中/開いていた//何時間ものあいだ/これまでにない/経験をしていた


 引き出しの経験か、僕の経験か、おそらく「経験」であること自体の詩。

  僕の本質
 ……君の本質はそれ/小説を書いたこと/でもその後書きつげなかったこと//そのことから多くのものが生まれ/死んだとある女神の身体から五穀の作物が生えでたように/しかし君の本質はそのこと……


 「僕の本質」のほうは『大きな字で書くこと』(同、岩波書店)から。
 初期にかれが書いていたはずの詩がいま見つからない。ノートを見せてくれただけだったのだろう。『犯罪』1(1970・9、構造社)に小説「水蝋樹」を書いた。東大文学集団や、文学研究会や、『変蝕』もあり、典洋さんは1966年ごろ、大学闘争のはじまる前夜的状況での入学で、文学青年どうし、グラウンド地下のカフェーや、どこでもかしこでもわれわれは会い、60年代後半の闘争期には、文学、哲学、歴史、状況のさなかだった。無着色のヘルメットをちょんと頭に乗せたデモ姿を見たことがある。ノンセクト・ラディカルという名の颯爽とした初登場である。
 70年代80年代か、国会図書館で、「これから渡米するんだ」という典洋さんにばったり会った(実際にはカナダだった)。立ち話だったけれど、文学は続けながら何かの研究で日本を離れるということだった。このたび『9条入門』(2019・4、創元社)を目にして、ああ何十年もまえに議論したことを忘却のかなたから思い起こすと、この本は、現代へ向けての、そのころ抱えた議論へのはるかな「回答」だ。5年の年差があり、私のほうは上からの知ったかぶりで、かれにとっては初陣で、戦後や文学を論じつつ、私は三田文学に出入りし、かれは早稻田文学、思想の科学へというように分かれた。
 湾岸論争では私を名指しで「藤井はまちがっている、でもそれを藤井に説明するのはむずかしい」と書いていた。その言い方を痛いほどわかる。『9条入門』で典洋さんが「特別の戦争放棄」について生涯かけて研究し、わたしは「ただの戦争放棄」へ行く(『非戦へ』2017・11、編集室水平線)。加藤が「特別の戦争放棄」を強調しているように見えるのは、私の思いなし半分だとしても、かれの生涯掛けての回答なのだと分かって熱くなる。327ぺ「君たちこそが……最先端に立つのだ」とは、私も戦後の先生方から二言めに言われてきた言だ。マッカーサーの受け売りを先生は言ってた。マッカーサーがダレスに敗れるプロセスなど、小学生のわれわれは新聞で一生懸命だった。
 ところがその加藤典洋が、『9条入門』のさいごのさいごで「ただの戦争放棄」でよいのだ、と言ってくれたように読み取れる。かれが考え続けてきたことを『9条入門』という読みやすい本で次代へ受け渡そうとする意志を読みとりたい。私も、というか、この夏(8月)はコロナ禍と、熱中症気味とを押して、やっておかなければならないことがある、と思った。大きく三分類してみた。古びた書をひっぱりだし、古書サイトを利用しながら、向き合ってみた。この三分類がなされず、混乱し混同されてあるところに、この国の論客たちの右往左往があると知られる。論客たちへ、いとおしさが募ってくる。
 第一の分類は、古くクラウゼヴィッツ『戦争論』から、ロジェ・カイヨワ(西谷修さんによる新刊『ロジェ・カイヨワ 戦争論』〈100分de名著〉NHKテキストがある)まで、戦略や戦術論に始まり戦争を論じるというタイプで、人類にとり戦争が不可避であることを前提にした、哲学的考察や文学は多い。でも、もう、カイヨワや、ましてバタイユにしろ、その他、どこか「戦争」にうっとりする感じで、3000年このかた、宗教家の論客にしても、うっかり羽目をはずした議論は多い。
 第二に最もたいせつな、戦争体験者たち(戦場での兵士、空襲、本土〈沖縄〉決戦、銃後や幼児体験など)による記録や記憶、文学、映画、アートなどであり、多く結語として戦争忌避や厭戦を訴え、それは時につよい反戦の訴えになる。第九条改憲に反対する立場の方たちの根拠ともなり、それはそれで了解できるとしても、加藤の『敗戦後論』(よく読まれた)はけっしてそれではない。
 ここに第三の、第一や第二とは別個に、非戦や不戦を起点とする(詩で言えば「荒地」派から生じる戦後詩を起点とする)視界があることを提案したい。この第三の領域について、第一の戦争論からは、「不戦会議や軍縮の協議がしばしばおこなわれたにもかかわらず、不調に終わった」とか、「かえって大戦をもたらすことになった」などと、二、三行で片づけられるにしろ、日ロ戦争下の(日本での)非戦論など、読み直されてよい。
 世代的論客の責任として、第一の領域にこだわり続けた終世でありながら、典洋さんは第三の領域をはるかに遠望していた。わが時評としてはここに新刊『オレの東大物語』(集英社、2020・9)を取り上げているつもり。「オレ」は山形弁の自称。
 『非戦へ』を刊行の直後、新刊書店にイェール大学法学部の先生二人による『逆転の大戦争史』(邦題、文藝春秋)を見いだして私は仰天した。戦争が「掠奪、虐殺、凌辱」からなるものであったこと、忘れられているが「パリ不戦条約」はその旧い秩序を解体する世界の分水嶺であったと論じる。私の論じる趣旨に大きく、まったくと言ってよいほどかさなる。
 去年の一〇月、鮎川信夫の出身地、石徹白(いとしろ、岐阜・福井の県境)に向かうべく、田口麻奈さん(『〈空白〉の根底――鮎川信夫と日本戦後詩』〈思潮社〉著者)らと郡上八幡を訪問した際に、案内の方が一軒の町家を指さして、「あれが平野三郎の旧家」と言われ、これにもびっくりした。幣原喜重郎から憲法第九条成立の経緯を聞きただす平野三郎文書の書き手である。推測ながら、パリ不戦には欧米在任中や外務省のいくたりもの外交官の影の尽力があって、調印、批准に漕ぎつけたろう。幣原もその一人、関係者ではなかったか。
 文書つながりで、秋山基夫『シリウス文書』(思潮社、2020・6)の巻末を引いておきたくなった。

 歴史の一回性がひとびとに与えている困難の大きなものは記憶の不確かさだろう。戦争被害の悲惨や自然災害の痛苦の実情が時間と共に忘れられていくのを、それらを体験した人は困惑と怒りと絶望の中で思い知っている。歴史の同時代を生きる者は時間の経過とともに過去の時代においていかれる。これを克服する方法があるか。祖型か一回性か、様式か記録か、依拠すべき何かが求められるだろう。あるいは空間の交換、あるいは時間の複数化、表現する者はその方法を案出しなければならない。

 「空間の交換」とは何かな、ふと立ち止まる。