『現代詩手帖』2020年8月は特集「現代詩アンソロジー2000-2009」。
待望のアンソロジー企画といえる。ぱっと見はあまり魅力的ではない。まず選ばれている篇数が少ない。選者が4人でそれぞれが20年間で20篇ずつというのでは(しかも10年ごとに2号にわけられているのでさらに(他の記事をけずってでも20年通しで1号におさめるべきだった))、選択が限られてしまう。幅を出すために傾向のちがう4人にしているのだろうが、3人にしてそれぞれの選ぶ篇数を多くしたほうが幅は出るのでは? それにこの二段組が中途半端で、リストのしまりをなくしている。まとまることも、見わたすこともできない、羅列に近くなる。投稿欄と同様、三段組にしたほうがいい。座談会でも触れられているが、『現代詩手帖』2003年8月号の「アンソロジー代表詩選1985-2002」の様式を踏まえているのだと思うが、むしろ1994年6月号「現代詩の九十九選」を参考にしたほうがよかったと思う。
「新鋭詩人2020Profile」のアンケート(『現代詩手帖』2020年6月)で感じたことだが、読まれているものが意外な方向にばらついている。自分が書くものと読むものが一致して、「分断」し、「仮想敵」を設定して自分の「詩」を守る、のような構図はあったのかなかったのかすでに気持ちよく崩れさっているようだ。
瀬尾育生の発言。「読者に届くかどうかとか、言葉には意味があるっていう、それはその通りだけれども、そこを詩の条件にしたり、終着点にしたりすると、何か失われるものがある。」
このタイミングでのこの発言、今回の場合の小池昌代のような見方(読めるべきだし読まれるべきという主張)に対する、解答の仕方をはっきり示した点で評価できる。このあと、普通いう意味での読める読めないとは別の意味で、山本陽子が大きなコミットをした(藤原安紀子や外山功雄や森本孝徳を読むための補助線として山本陽子を引き合いに出している)と述べたあと、「詩にはコミットメントの問題があるけれども、それは伝達ということとは違うものだ。こういうメッセージを伝えました、という意味の伝達を要求してももともと無理だ、それが全部、どうしてもできなくなってしまったからこそ詩の言葉を選んだ、というところがあるわけですからね。」と続けている。この意見には賛成なのだが、ただ、そのことが不可避としてばかりイメージづけられると、ちょっと困る。「不可避」を救う必要はあると思うが、面白いからそう書いているということが抜け落ちる。あるいは不可避の劣位に置かれる、それは困る。「そこを詩の条件にしたり、終着点にしたりすると、何か失われるものがある。」のである。
(読まれるべきという意見への対論として、このような論調になるのはわかる。ここでこのような注文をつけるのはいいがかりのようになってしまうが、こうした詩の存在意義みたいなことがいわれるとき、セットのように真剣な態度が組み合わされることに違和感がある。)
(書いている間に次の号「現代詩アンソロジー2010-2019」が出てしまった。ちょっと唖然としてしまったのだが、1人につき1篇というルールは20年全体を通してではなく、この「分割」されたそれぞれの中だけで適用されるものだったらしい。この限られた篇数しか選ばれていない中に6人もダブって選ばれているのだ(高橋睦郎、和合亮一、杉本真維子、中尾太一、谷川俊太郎、四元康祐)。2010年代、望月遊馬、大江麻衣、井戸川射子、細田傳造ほかよほど入れたほうがいい人がいるにもかかわらず、である。さらに選者の作品が追加枠みたいなところに選ばれている。こんな気持ちわるいかたちで入れなくとも、入れるなら入れるで普通にアンソロジーの中で処理すればいい。アンソロジーの「中」に収録詩人の思潮社本の広告が入っていたり、とか。ほんとうに繰り返し参照される、まともなアンソロジーを作る気があるのだろうか。何か全体にわたってばかばかしい「配慮」がリストを腰砕けにしているとしか思えない。)
(逆に、たとえば『現代詩手帖』2020年7月号の稲川方人×中尾太一×菊井崇史の「現代詩季評」で取り上げられていた詩集を「リスト」として考えた場合、評者たちとの取り合わせとしても妙をえていた)
杉本徹の散文「超時空ということ――もうひとつの時制」。けっこうイラっとしたが、ぬけぬけと「詩らしい詩を書きたい」といってしまえていることに、はっとさせるものがある。「詩らしい詩」と「垂直軸」というのがどうもぼくの中では結びつかないのだが。
秋山基夫『シリウス文書』(思潮社)。
どうとらえたらいいか、謎の詩集である。仕掛け、ルールがあるのがわかるのに、それがどういうルールなのかわからない。
たとえば、最初の「マンダラ」という作品は、はっきりしたルールのわからないまま、行の長さが微妙にそろえられている。行がそろえられているというか、かたちが作られている。かと思うと、かたちが作られていないパートもある。そして一行が一文で終わっている場合が多いが、すべてそれではない。そして書かれている内容も、各パートの中のさらにアスタリスクで区切られている4行ごとのかたまりで区切れている場合もあるし、内容的につながりがある場合もある。規則が読めないのだ。一つは、「切れる」ということが頻繁に起こることで、断片の集積になりながら、ある程度の規則的なかたちを持つことで、断片の持つ、バラバラ性のようなところへは行かずに、切れていながらまとまっている、ということになっている。あとがきによると、この作品は、美術作品の一部として当初は書かれたものらしい。その文脈でどう働いていたかわからないが、多くの見えない部分がこの作品には発生することになった。そしてそのことは、この詩集全体にいえることなのだ。このわからない規則が「詩を書く」といったときの「盲点」をうまく働かせることになっている。
待望のアンソロジー企画といえる。ぱっと見はあまり魅力的ではない。まず選ばれている篇数が少ない。選者が4人でそれぞれが20年間で20篇ずつというのでは(しかも10年ごとに2号にわけられているのでさらに(他の記事をけずってでも20年通しで1号におさめるべきだった))、選択が限られてしまう。幅を出すために傾向のちがう4人にしているのだろうが、3人にしてそれぞれの選ぶ篇数を多くしたほうが幅は出るのでは? それにこの二段組が中途半端で、リストのしまりをなくしている。まとまることも、見わたすこともできない、羅列に近くなる。投稿欄と同様、三段組にしたほうがいい。座談会でも触れられているが、『現代詩手帖』2003年8月号の「アンソロジー代表詩選1985-2002」の様式を踏まえているのだと思うが、むしろ1994年6月号「現代詩の九十九選」を参考にしたほうがよかったと思う。
「新鋭詩人2020Profile」のアンケート(『現代詩手帖』2020年6月)で感じたことだが、読まれているものが意外な方向にばらついている。自分が書くものと読むものが一致して、「分断」し、「仮想敵」を設定して自分の「詩」を守る、のような構図はあったのかなかったのかすでに気持ちよく崩れさっているようだ。
瀬尾育生の発言。「読者に届くかどうかとか、言葉には意味があるっていう、それはその通りだけれども、そこを詩の条件にしたり、終着点にしたりすると、何か失われるものがある。」
このタイミングでのこの発言、今回の場合の小池昌代のような見方(読めるべきだし読まれるべきという主張)に対する、解答の仕方をはっきり示した点で評価できる。このあと、普通いう意味での読める読めないとは別の意味で、山本陽子が大きなコミットをした(藤原安紀子や外山功雄や森本孝徳を読むための補助線として山本陽子を引き合いに出している)と述べたあと、「詩にはコミットメントの問題があるけれども、それは伝達ということとは違うものだ。こういうメッセージを伝えました、という意味の伝達を要求してももともと無理だ、それが全部、どうしてもできなくなってしまったからこそ詩の言葉を選んだ、というところがあるわけですからね。」と続けている。この意見には賛成なのだが、ただ、そのことが不可避としてばかりイメージづけられると、ちょっと困る。「不可避」を救う必要はあると思うが、面白いからそう書いているということが抜け落ちる。あるいは不可避の劣位に置かれる、それは困る。「そこを詩の条件にしたり、終着点にしたりすると、何か失われるものがある。」のである。
(読まれるべきという意見への対論として、このような論調になるのはわかる。ここでこのような注文をつけるのはいいがかりのようになってしまうが、こうした詩の存在意義みたいなことがいわれるとき、セットのように真剣な態度が組み合わされることに違和感がある。)
(書いている間に次の号「現代詩アンソロジー2010-2019」が出てしまった。ちょっと唖然としてしまったのだが、1人につき1篇というルールは20年全体を通してではなく、この「分割」されたそれぞれの中だけで適用されるものだったらしい。この限られた篇数しか選ばれていない中に6人もダブって選ばれているのだ(高橋睦郎、和合亮一、杉本真維子、中尾太一、谷川俊太郎、四元康祐)。2010年代、望月遊馬、大江麻衣、井戸川射子、細田傳造ほかよほど入れたほうがいい人がいるにもかかわらず、である。さらに選者の作品が追加枠みたいなところに選ばれている。こんな気持ちわるいかたちで入れなくとも、入れるなら入れるで普通にアンソロジーの中で処理すればいい。アンソロジーの「中」に収録詩人の思潮社本の広告が入っていたり、とか。ほんとうに繰り返し参照される、まともなアンソロジーを作る気があるのだろうか。何か全体にわたってばかばかしい「配慮」がリストを腰砕けにしているとしか思えない。)
(逆に、たとえば『現代詩手帖』2020年7月号の稲川方人×中尾太一×菊井崇史の「現代詩季評」で取り上げられていた詩集を「リスト」として考えた場合、評者たちとの取り合わせとしても妙をえていた)
杉本徹の散文「超時空ということ――もうひとつの時制」。けっこうイラっとしたが、ぬけぬけと「詩らしい詩を書きたい」といってしまえていることに、はっとさせるものがある。「詩らしい詩」と「垂直軸」というのがどうもぼくの中では結びつかないのだが。
秋山基夫『シリウス文書』(思潮社)。
どうとらえたらいいか、謎の詩集である。仕掛け、ルールがあるのがわかるのに、それがどういうルールなのかわからない。
たとえば、最初の「マンダラ」という作品は、はっきりしたルールのわからないまま、行の長さが微妙にそろえられている。行がそろえられているというか、かたちが作られている。かと思うと、かたちが作られていないパートもある。そして一行が一文で終わっている場合が多いが、すべてそれではない。そして書かれている内容も、各パートの中のさらにアスタリスクで区切られている4行ごとのかたまりで区切れている場合もあるし、内容的につながりがある場合もある。規則が読めないのだ。一つは、「切れる」ということが頻繁に起こることで、断片の集積になりながら、ある程度の規則的なかたちを持つことで、断片の持つ、バラバラ性のようなところへは行かずに、切れていながらまとまっている、ということになっている。あとがきによると、この作品は、美術作品の一部として当初は書かれたものらしい。その文脈でどう働いていたかわからないが、多くの見えない部分がこの作品には発生することになった。そしてそのことは、この詩集全体にいえることなのだ。このわからない規則が「詩を書く」といったときの「盲点」をうまく働かせることになっている。