「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第300回 未聞の跳躍 今野 和代

2024年03月15日 | 詩客
 遠い昔。

海べにうまれた愚かな思想  なんでもない花
おれたちは流れにさからって進撃する

『谷川雁詩集』(「おれは砲兵」)


革命とは何だ 瑕のあるとびっきりの黄昏
やつらの耳に入った小さな黄金虫
はや労働者の骨が眠る彼方に
ちょっぴり氷蜜のようにあらわれた夕立だ

『谷川雁詩集』(「革命」)


 まだツカミキレナイ遠くを決して手放さないこと。瞬時に、時代のうねりの中にもぐりこむ。そのアクションと戦闘の姿勢を持続させながら、言葉を歩行させる。「谷川雁」という名前か。これが詩なんや。胸とまなこをパチヒラ全開させながら、ワクワク震撼したのを覚えている。イメージと思想の合体。そののびやかで斬新な旋律にイカれた。けれど谷川雁は、はやばやと「わたしの中にあった〈瞬間の王〉は死んだ」と記して言葉をプツンと沈黙の淵に沈めて立ち去っていった。
と。そのとき、え!なんて?なんて言った?「瞬間を培養」!
・・・まず絶望せよ、瞬間を培養せよ、いまはいらだたしい不安定としか感受しえない、不快な風圏とまっこうから対陣して存在せよ。人間の未来の感能的、肉感的、全身快楽の渇望への絶対的志向のために、ナルシシスムの純粋平原へ、おのれの船体を出港させねばならぬ。人間存在の革命的ういういしさを痛恨の罵声あるいは絶望的な忍従をもって鋭く呟き続けなければならぬ時代の流星としてぼくらは生まれているのである。」(「ナルシシスムの復権」《ドラムカン7号》1963」)と。そして冷徹に、「ぼくら」が生まれた時代の絶望の位置を取り出して、それでも颯爽と不敵に自らの存在を前進、出発させようとしている詩人がいた。吉増剛造だ。破壊と生成のもの凄いエネルギーを常にスピンさせて全速力でカオス的世界の核心を鷲掴みにとらえかかろうとしている。途方もないスケールの覚醒したキラキラのミラーボールが、異端を、境界を、狂気を、病を、祝祭を、死を、浮かびあがらせ、出現させた。放埓でみずみずしい身体を言葉の汀にグイッと接近させて、開始されたブリリアントな対陣。

やせこけ ひん曲がった、おれたちの音符
やせこけ ひん曲がった、おれたちの音符
・・・・・
おれの仲間よ
おれたち、仲間たちよ
ついてこい
おれは
やわらかい肉の中から新しい勇気をつかみだしてやる
やわかかい肉のなかからさわやかなみずをつかみだしてやる
・・・・・
なみだの海をひと泳ぎだ
ひたひた、ひたひた、言葉をたたけ
たたいて、割って、あるけよ、あるけ
きりきり踊ってはしれはしれはしれ
おれたちのひんまがった音符に電流を!
でんりゅうだ

                
 第一詩集『出発』の「野良犬」から引いた。萎えて、疲弊して、ひんまがっていく貧しくひよわないのちのリズムを、言葉をたたくことで、破壊し、バリバリ割って、自ら歩き踊り走るという「舞踏」みたいに、アクションを起こすことで、耀かせ、息吹き返せ!と命がけのアジテーションをしている。第二詩集『黄金詩篇』の「死人」の最後2連は幻視の「死人」を歩かせる。


 たいてい夕暮、静かに一人部屋のなかで、せまりくる闇のなかで、私の眼のなかで、死人しびとは歩きはじめる。


死人わたしは未来です」
名状しがたい言葉が聞こえたように感じられた。壊れたような音ではなかった。

『黄金詩篇』(「死人」)


 と。
 「墓所」を失った「人間のようでいて、どこか決定的に変形しているが、抽象ではない。」「漂泊」し「移動」する「死人」をとらえ、「あまり芸術的ではないありかたで…腐臭がするか、…」と自ら幻視した死人を自らの身体に憑かれるように通過させ、死人によって「…私が吐いている。私の腐臭がはずかしい…」という自身の生理実感を現出させた。「死人」のルビの意味が次第に転位し「死人」は「わたし」に変容していく。「」のなかにある「死者」と「死者」のなかにある「」を交差させ、溶けあわせ、「死人わたしは未来です」と宣言する。「」と「死人」を実存の渦巻きにして、未来を見る自在な方法がここにある。

 そして今、私は2021年10月刊の吉増剛造の最新の詩集を手にしている。2011年3月11日の東日本大震災で被災した、宮城県石巻市鮎川浜、めぐりの宿さか井206号室に3年の歳月をかけ通い続け、そこで書いた長編詩が収録された詩集『Voix』だ。フランス語「声」の複数名詞。ラテン語、古いギリシァ語に底でつながっている言語でもある「ヴォワ」。ご自分で「最後の詩集」とおっしゃる。静かに泡立つ海の呼吸が伝わってくる感触をともなった質感の漆黒の装丁。とおい宇宙の果てから届いてくる無限の閃光のような深いシルバー色で「Voiⅹ」と置かれた詩人自身の筆による文字が際立つ。「V」はこの世のあらゆる現象、ざわめき、届いてこない言葉、声、おそろしい沈黙すら、キャッチし、とらえようとする幻のレーダみたいにくうに向かって毅然と広がっている。「O」と「i」は地上の存在の生命、精霊が、息づき、揺らいでいるようなヴィヴィッドな動きにみちて。「X」は今にも立ちあげられていく十字架にも、飛翔寸前の飛行機にも、全てを「ノンノーン」と否定し、破壊し、叫ぶ激しいバッテンにも、旅人芭蕉の曾良の、旅人柳田國男の、交差する杖にもおもえて来て不思議な魅力を放つ。
 詩集『Voiⅹ』は、まるで、若き日のランボーが、そのままひょいと、トリ憑イテいるみたいな、これまでいかなる詩人によってもつくりあげられたことのない未知に接近した驚きの一冊だ。
 1871年3月。パリで世界最初の労働者による政権コミューンの樹立が成立し、5月に崩壊した。同じ1871年の5月、17才のランボーは、

 詩人たらんとする者の研鑽の第一歩は、みずからの、まったき認識です。彼は自分の魂を探し、それをよく調べ、試み、学びます。魂を知ったら、それを涵養しなくてはなりません。…(略)
しかし問題は、怪物的な魂をつくることなんです。…(略)
見者ヴォワイヤンにならなくてはならない。みずからを見人ヴォワイアンにしなくてはならない、…
《詩人》は、あらゆる感覚の、長きにわたる、おおがかりな、理性にかなった錯乱によって、みずからを見者にします。
あらゆる形式の愛と、苦痛と、狂気と。詩人は自分自身を探索します。自分のなかにあらゆる毒を汲みつくし、その精髄だけを保つのです。筆舌に尽くしがたい責苦、そこに詩人はあらゆる信念、あらゆる超人的な力を必要とします。そこで詩人は誰にもまして大いなる病者、大いなる罪人、大いなる呪われた者に、―そして至高の《知者》になるのです!なぜなら彼は未知に到達するからです!…(略)
未聞の、名づけえない事どもによって、詩人は跳躍のうちにくたばればよいのです。

(宇佐美斉『ランボー全詩集』ちくま文庫)


 と先輩詩人ポール・デメニーに送っている。そして「私とは一個の他者なのです。」とも。
 自身のなかにもう一人の他者を常に存在させよと。決して同化させることなく、相反し、対立し、対抗してくる他者を、その世界を、注視し、問い、格闘し、その全ての矛盾体、不合理体を自身とせよと。その怪物存在まるごとの自己を抱えながら、常に未聞の創造世界に挑んでいけ。それが詩人の生き方であるとランボーは言う。その「見人ヴォワイアン」のスペルは「voiyan」。うん?何と詩集「Voix」の文字の半分が「Voiyan」と重なっているではないか!

 吉増剛造は、他者としての、死者を、夢に現れてくる柄谷行人を、立ち去っていく夢のなかの入沢康夫を、ベンヤミンを北川透を読んでいて眠りのなかで出あうカフカを、宮澤賢治を、朔太郎を、原民喜を、古井由吉を、セザンヌを、ヴァレリー・アナァナシェフを、西田幾多郎を、芭蕉を、石巻桃浦洞仙寺住職八巻芳榮氏に、堀川正美に、映像作家メカスに、祖母に、大祖母に、智里幸恵の美しいアイヌ語の筆跡に、吉成秀夫氏に、野口順哉さんに応答しながら、自身にたぐりよせながら、にじり寄りながら、彼らのその存在の底、思考を働かせても、思いをめぐらせても眼を凝らしても決してつかみえない、いっそう深いところでかすかに生きて動いているやわらかな根底の軌跡のようなものをつかまえようとしている。
Oh! Mademoisell Kinka!」未生以前の母の化身としての神宿る黄金の島金華山に呼びかける声。幼年期の声の傷を重ねた日和山に、野蒜に、「 ”イ!//え`」「”隅(ア)、ッ、ベ」「」「‘‘」……内なる、つんのめりの声を発しながら「無言語」の速度にすら触れようとしている。

 
 石巻、金華山、日和山、野蒜、門脇、そして 紐育ニューヨーク、ブルックリン、東京、北海道 と歩んでいくこの8篇の詩群。あ。それぞれの詩のタイトルの一行は、詩の一行ともなっていたのだ。八本の「の樹ノ君」の声のポリフォニーになっていたのだ。壮大な本流とも。渦巻きとも。そして、かすかな、かすかな小径とも、呟きともなっていたのだ。沈黙し、脈うち、雲のように湧きあがりながら、この詩集一冊が途方もない一遍の詩として成立していることに息を飲む。
 野口順哉さんへの葉書。

 (この、・・・)書、・・・届きませんよう、、、崖から舞って落ちても行き
ますよう、、、・・・
30 APR 2020


 挿入される日録のなかの「葉書詩」を引く。そのすぐ直前に置かれた日録はこう続けられていく。

29  APR 2020
言葉の尾鰭、……その細部、切れ目、接続部のぼやけにまで届くように、届くように、……、そして”不死の言語„へのを、小径ミチを”夢書き„の小径ミチを、はっきりと通りますよう、、、……”言葉の命の(イト)はわたしのが、……„と聞こえる声が、消えていくところに、ままに。……。


届きませぬように、・・・」と書きだしながらそれでも野口さんにむかって言葉を送っていこうと、その背反していくこころの揺らぎ、たゆたい、ねじれをも「不死の言語」として、細い小径を通っていく命の声として詩に放っていこうとしている。

 アイヌ語「Onna」の内部。7通の「葉書詩」。日々の日録。堀川正美の「木登り魚」。罫線を引き、ペンで筆で鉛筆で、神をつなぐアイヌの祭具イクパスイを使って?,書写された美しい草書、線、文字、波うち走り、凸凹の痛みを放つ平面。戦時中の幼年期の声の傷。『東京物語』の老女の心細さ。そして往還してくる『黄金詩篇』。
蜘蛛や栗鼠の底の言葉でも紡がれた。
 遺書の声 ? え? 遠い果てへの。夢の庭への。「その、島へは、決して、行くコトはない、・・・・浮木フぼくクビを挿して、生涯を送るように、もっと静かで、うつくしいところには、決して行くコトはない。・・・
 誰も知らない 栗鼠の掌の音楽を聴く人よ。あ。いつか昔「KONちゃん、実はね。どんなに仲良くしていても栗鼠はひとりぼっちで暮らす生きものなんだよ」と、天六「ワイルドバンチ」での2011年9月23日の「横断する日」にきてくださった吉増さんが話してくださった。そのやわらかな、ひっそりかんとした吉増さんの声が13年の歳月をツツツッと遡ってやって来た。
詩はとうとう不死の小径ミチを歩き出している

宇宙ノ鉛筆、・・・・・
ノ、隈取くまどりをしている、そ
れがわたくしだ・・・・・
・・・・・(略)
 諦める/こと/諦める/”こと/の/明るみ„


・・・さらに向こう側からやってくる「詩」に、できるかどうかが、わたくしの試練なのだ、・・・・できるのかなあ、・・・眩暈を覚えて、いまにも倒れそうであった

 わたくしのなかをながれる水が、グ
 ラウウンド・ゼロの(鎮魂の)プー
 ルの水にきく、”おまえたち、ここ
 で、何をしてるんだ? „”清瀧のふ
 りをしてさ„と。こたえは、深い、あは
れなものであった、、、、、。


・・・日和山もしなかりせば、・・・。おそらく、わたくしたちの「詩」は、そこに、そこに必死で登ろうと、

 何と孤独な、静謐な、深い響きの、永遠の漂泊の、声!詩集『Voix』の声!
 うん。ウン。遊ぼ! 遊ぼ!
 吉増さーん!

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