「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評 第105回 近澤有孝『指を焼く』、峯澤典子『ひかりの途上で』から 高塚謙太郎

2013年09月13日 | 詩客
 静かで、そして美しい詩集を二冊ほど読んだ。読んだ、という報告を兼ねて、その美しさの一端を紹介しておくことで時評に代えたい。
 一冊目は近澤有孝『指を焼く』(ふたば工房)にしよう。


馬鈴薯の芽をむしり
昔の恋を想いながら 新タマネギを
スライスする包丁が踊る やはり
こだわりがあるんだ


 「カレーライスを作る」という詩の冒頭である。「こだわり」とはそれに続く、


牛肉はやっぱり安物に限る


 のことだが、ただ、詩篇はまだ続いている。


そいつをたっぷりの大蒜で炒めながら
先週 三十七歳で死んだ友だちのことを想う
(きょうぼくは誰の一日を生きたのだろう)
窓の外では他人の太陽が焦げついている


 ここまで読み進めたとき、はたして「こだわり」がどこへ向かっている言葉だったのか、途端に不安になる。もちろん「牛肉」は「安物」がいいのだ、という「こだわり」は消えない。しかし、亡くなった「友だち」へのある種の「こだわり」がその「こだわり」の網目にそって縫いこまれていく。そのとき「焦げついている」のは何だったのか(一応「他人の太陽」とは書かれているが)、詩篇を読んだ私たちはずっとためらい続けることになる。


さて水が
濡れているか乾いているかは
いたむ指さきに
訊ねなければならぬ
わたしの命は
凪いでいるか耐えてはいないか
草の葉の裏側に
しゃがみこんで割れた
いもうとに朽ちたひかりを挿し
こんでこれは問うてみたい
もえる藁
いつまでも裂けつづける魚
とあかるい乳房


 「水の由来」という詩篇の冒頭部である。頭六行に書かれてある実存風の疑問符が立っている場所が「草の葉の裏側」であると同時に、「草の葉の裏側に/しゃがみこんで割れた/いもうとに朽ちたひかりを挿し」つつ問われている、というトリッキーな書法が鮮やかだが、そんなことよりも注意を引くのが「いもうと」の登場だろう。「もえる藁」、「裂けつづける魚」、「あかるい乳房」となって具体的に描写される「いもうと」とはいったい何なのだろうか。後の方で、「とまどう一行 がここにある」と書かれてしまうような事態をどのように考えればいいのだろうか。と、そのように問うことがそもそも「水の由来」をたどることと同義になるとしたら、詩篇として幸せな振れ幅を持っていると考えてよいのではないか。

 峯澤典子『ひかりの途上で』(七月堂)を二冊目として提出する。


いまにも降りだしそうな
はつ、ゆきに耳を澄ます
ひとつ
また ひとつ
どこかでいきものが
息をひきとる 純粋なおとが
聞こえてくる
(中略)
森のけものは思う
ことしのゆきが降れば
あとは
何も聞こえなくていい
何も見えなくていい

ふかく めしいて
みみはなは落ち
くちは月のための
花入れとなり
やっと
誰にも読まれない
冬の暦になるのだ と


 「はつ、ゆき」という詩篇の一部である。書かれてある事態はだいたい掴めそうだ。しかもそれが充分に美しい。詮索するとこの詩篇の書き手の個人的かつ深刻なある事態がうっすらと透けてみえ、それがまた詩篇を下支えしているのは間違いない。だが、その類いの下支えを抜きにしてもこの詩篇は美しい。それは、詩篇を貫く「はつ、ゆき」や「」がしっかりと縁語(是非詩集で確認してほしい)で調えられていて、しかしながら複雑な構造もしっかりと保たれているからだ。これは驚きで、それを美しいと言う。「はつ、ゆき」が「初雪」もしくは「はつゆき」と書かれなかったのはなぜか、という素朴な疑問も、「はつ(果つ)」「ゆき(逝き)」と勘ぐってみると案外氷解するのかもしれない。

 個人としての書き手のある深刻な事態、という探りを入れてみたが、次に引用しておいた詩篇などはもっとそれ(もちろん先のとは別の事態のことである)が如実である。如実ではあるが、しかしその背景を下支えにして読まれることの効果よりも、私たちはそこをかすめた詩篇の言葉を眺める態度を大切する方が、詩が読めると思う。すると、別の事態を受けているはずの「はつ、ゆき」と並べたときに連作として読めてしまうはずだ。


月満ちるのを待たずに
夕刻と闇のあわいに溶けていった
ちいさな子の指さきもまた
ゆきどけの音に初めてひらかれる
揺れやすいひとえだの
雪柳でありえたのかもしれない

(「途上」から)



どんなに白さを増しても
粉雪にまざるのは
許されないひとの息の
はるかむこうに
疑問詞を決して持たない
懐かしい花のうたが
映っては 消えてゆく
過ぎたことも
まだ見ぬことも
すべては
降りしきる雪のなかで
可憐な花影が
震えている間の出来事でしかない

(「途上」から)


 「雪柳」や「粉雪」が哀切において言葉として表象されているわけだが、それらの「花影」が一つの(それは個人としての書き手にとって決定的な)「出来事」として眺められる景色は静かだ。