「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 詩を書く人々、詩も書く人々~文学フリマサークル紹介文から見えるもの~ 久真 八志

2018年07月21日 | 詩客
〈今回の内容〉
・文学フリマのサークル紹介文で計量テキスト分析を行った。
・表現形式として「詩」を取り扱うサークルは全体で二番目に多かった。
・「詩」を扱うサークルは、「小説」「日記・エッセイ」「短歌」「写真」「イラスト」を同時に取り扱っているケースが多かった。
・「詩」とともに「小説」「日記・エッセイ」「短歌」を扱う出店者は、複数人参加が多い可能性が高い総合文芸同人誌の一コンテンツとして「詩」を扱っているものと考えられる。
・「詩」とともに「写真」「イラスト」を扱うのは個人参加が多い可能性が高い。これらは詩と図画の融合作品を取り扱っていると考えられる。
・「詩」のみを取り扱う出店者もおり、その場合は紹介文で「詩人」というアピールをするケースが多いとみられる。


〈1〉
以前から計量テキスト分析を用いて何かを調べるのが好きである。
自由詩評ということで「詩」をキーワードに調査を行うことにした。
対象としたのは文学フリマのサークル紹介文だ。

文学フリマで詩を扱うことをアピールするサークルには、どんな傾向が見出せるだろうか?

計量テキスト分析は、文章を形態素とよばれる語のまとまりに分解し、統計的処理を加えて分析する手法である。大量のデータから大づかみな傾向を見出すのに適している。

サークル紹介文は、出品者が自身の作品や活動内容、あるいは自分自身について他人が理解しやすいようなフレームを与えるものだ。文学フリマの出店者は、エントリー時にWebカタログに掲載するため紹介文の登録を促される。Webカタログは開催に先立って公開され、一般参加者の参考情報となる。内容は出店者が任意に決めるが、通常は一般参加者の興味を引くことを期待して出店者や出品する物についての情報を記入する。


〈2〉
文学フリマWebカタログ」に掲載されている文学フリマ(東京開催)のサークルの紹介文を、第17回(2013年11月)から第27回(2018年5月)まで収集した。収集した紹介文は計7032件であった。

今回の分析では実際に文学フリマを見に行った私の印象と分析結果に乖離があるかも確認しながら進めた。私の行ったことのある会が東京開催のみであるため、対象を東京開催に限定した。

対象データのうち、複数回の出店で全く同内容の紹介文を使用しているケースが見られたため、それら重複分は削除した結果、6644件となった。これをデータセット1とする。
またデータセット1から、紹介文のなかに「詩」という語が含まれるケースを抽出したところ、594件(8.9%)であった(*1)。これをデータセット2とする。

以後の検討はデータセット1および2に対して行う。
計量テキスト分析ツールとしてKhcoderを使用した。形態素解析エンジンとしては「茶筌」を使用した。


〈3〉
まず、文学フリマのなかで詩がどのぐらいの勢力なのか知りたくなった。
文学フリマではサークル登録の際に「小説」や「詩歌」など表現形式を「カテゴリ」として登録するが、複数の形式を扱うサークルなどではいずれかを選ばなくてはならない。実態をより正確に把握するため、カテゴリを集計するのではなく、サークル紹介文の中から表現形式に相当する語を拾い出すことにした。

データセット1から抽出した結果をまとめたのが以下の表である。
「詩」は最多の「小説」に次いで二番目に多いことがわかった(*2)。


[図表1]

「詩」が二番目に多いという結果に少々驚きがあった。全体では評論や書評の方が多い印象であったし、「詩歌」カテゴリに限れば短歌の方が多い気がしていたからだ。
実は、紹介文に「詩」が入っているサークルのうち、「詩歌」カテゴリを選択していたのは半分程度だった。「詩」は登録カテゴリによらず多くのブースで取り扱われている形式なのだ。

これらの形式のうち、一つのサークル紹介文内で一緒に登場するものの組み合わせを調べるため、共起ネットワーク図を作成し以下に示した。
共起ネットワークは、ある紹介文内に同時に登場しやすい形式の組み合わせを線でつないだものである。



[図表2]

「詩」に関していえば、ともによく登場する形式は「小説」「エッセイ・日記」「短歌」「イラスト」「写真」であることがわかる。

紹介文にその形式について書かれていても、出品されているのは作品そのものではないかもしれない。ある形式の作品に対する批評や鑑賞文の可能性があるからだ。作品そのものを扱っているか、その批評を扱っているかの度合いは、「評論・批評・書評」とのつながりで判断できるだろう。

例えば「アニメ」「映画」などは文学フリマで作品そのものが出品されることはない。これらと「評論・批評・書評」とのつながりが深い点から、作品ではなくその批評が出品されているとみてよいだろう。「小説」も「評論・批評・書評」と関連が深いため、作品そのものと、既存作品への評の出品が混在している状況といえそうだ。

一方で「詩」と「評論・批評・書評」との関連性は高くないので、文学フリマで詩の批評が取り扱われることは他の形式への批評に比べて相対的に少ない。つまり、詩は作品そのものが出品されているケースが多くを占めると推測できる。


〈4〉
前章では、詩と共に取り扱われやすい表現形式をいくつか見つけることができた。
次に、共に取り扱う形式の違いによって、紹介文中に登場する語の傾向に違いがあるか調べることにした。

データセット2を用い、紹介文中に登場する頻度の高い名詞で対応分析をおこなった。その結果を以下の図に示した。
対応分析とは使われ方の近い語同士を、平面上の近い位置に配置する手法である。距離の近い語のまとまりは、同じ紹介文内で一緒に用いられやすい語のまとまりということになる。



[図表3]

対応分析の結果、「詩」を含む紹介文の内容について、傾向の異なる三つのグループを見つけることができた。

(A)右上。青い丸(丸の作図は筆者)で囲ったゾーン。「小説」「短歌」「エッセイ」が含まれている。
(B)左上。オレンジの丸で囲ったゾーン。「イラスト」「写真」が含まれている。
(C)下。紫の丸で囲ったゾーン。「詩人」という単語を用いる。

一つ目と二つ目の違いについて考察しよう。
詩と共に取り扱われやすい形式は、青のゾーンとオレンジのゾーンに分けられる。注目したいのは「サークル」がA(青)に、「個人」がB(オレンジ)にある点だ。
「個人サークル」という言い方もあるが、基本的に「サークル」を用いる場合は複数人による出店、「個人」を用いる場合は単独での出店と見なしてよいだろう。
個人参加とサークル参加では、共に取り扱いやすい形式が異なるようである。

A(青)はサークル参加の出店者が用いる語群で、「小説」「短歌」「エッセイ」などの他に「評論」といった語もみられる。ここから想像されるのは、複数の参加者によって複数の形式の作品を提供するような形態である。図中の言葉を使えば、”ジャンル”をまたいだ”文芸”誌といった体裁の同人誌だ。

これは、文学フリマに一般参加してブースを回っているときの印象にも合致する。こういった複数の形式を扱う出版物はかなりの数があり、そのなかに詩が含まれていることも珍しくない。

この想像が正しいとして、出店者は詩と他の形式とを併存させることで何らかの効果を狙っているだろうか。今回のデータからそれを推測するのは難しい。思いつく可能性としては、幅広い読者層に文芸誌をアピールしたい場合に、散文(小説、エッセイ、評論)と、韻文(詩や短歌)のどちらの形式も取り揃えていることを示そうとすることが多いかもしれない。

B(オレンジ)は個人参加の出店者が用いる語群で、「イラスト」「写真」と共に使われている。個人の出店者が紹介文に「詩」とともに「イラスト」や「写真」をアピールしている場合、Aと違って一つの作品である可能性が高いだろう。つまり、イラストや写真などの図画と詩とを融合させた作品である。

率直に言って、この結果は予想していなかった。しかし思い返してみると、詩を添えた写真集、詩画集、詩付きのポスト”カード”などを文学フリマで見かける機会は少なくない。
Bに属する作者たちは、まず表現したい内容があり、図画や"言葉"の融合をそのための効果的な手段として選択しているように思える。


〈5〉
最後に、C(紫)について考察しよう。
「詩人」という言葉を紹介文に用いる出店者は、詩と共に取り扱われることが多い他の形式に言及しない傾向があるようだ。
データセット2のなかで「詩人」を用いなかったケースと用いたケースとで、「イラスト(画集、絵)」や「写真」など図画に相当する単語を紹介文に用いた件数を比較して示した。
該当数が少ないため統計的な検定は行わないが、「詩人」を用いた例では図画を意味する語が登場する割合が少ないことがわかる。


[図表4]
*イラスト……「イラスト」「絵」「画集」のいずれかを含む
*図画……「写真」「イラスト」「絵」「画集」のいずれかを含む

紹介文に「詩人」という語を用いる出店者は、表現形式として「詩」のみを選択しているか、仮に他の形式を取り扱っている場合でも「詩」のみをアピールする。いずれにせよ、他の形式も共に取り扱う出店者が多い中でこのような紹介文を掲載することは、活動が「詩」に特化していることを強調する。
私の印象としては、文学フリマにおいてこのようなケースは少ない。実際、「詩人」を紹介文に用いた紹介文は41件で、全体の1%にも満たない。

これらの人々が「詩」という表現形式への専門性を強調し、かつ「詩人」を標榜する背景はなんだろう。
もし理由があるとすれば、他の二つのグループと差別化をはかろうとしているのではないか。

詩を取り扱う出店者は、同じ「詩歌」というカテゴリで括られる短歌や俳句よりも競争相手が多い。「詩」を含む紹介文を登録している出店者は、「短歌」のそれと比して1.7倍、「俳句」の7.8倍である。

詩をメインに提供しようとする出店者が自分の作品を手に取ってもらおうと考えたとき、他の形式と組み合わせて価値を付加できる他のグループと同じ方策は採れない。
このような状況で、詩をメインに提供しようとする出店者は、詩の作者としてのアイデンティティを強め、またそれを対外的にアピールする必要性を感じるのではないだろうか。
そのような状況が「詩人」という言葉を選択させるのかもしれない。

*1  「詩」という語が文章中に含まれれば全て対象とした。つまり、「詩人」「詩集」などの語が出てくる場合も含む。
*2 こちらは形態素解析によって文中に単体で「詩」が文章中に出現するケースの集計であり、「詩人」や「詩集」などは含まない。よって「詩的」など詩を扱っているかはっきりしないケースは含まれない。つまり、おおよそは表現形式としての「詩」に言及していると推定できる。

///久真 八志(くま やつし)///
1983年生まれ。
短歌同人誌「かばん」所属。
2013年「相聞の社会性―結婚を接点として」で第31回現代短歌評論賞。
2015年「鯖を買う/妻が好き」で短歌研究新人賞候補作。
短歌評論を中心に短歌、川柳、エッセイその他で活動中。
Twitter&Facebook ID : okirakunakuma
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Blog:https://blogs.yahoo.co.jp/okirakunakuma

自由詩時評第225回 「夏が過ぎると、詩集の収穫。もうすぐ実りの、秋ですね」 タケイ・リエ

2018年07月21日 | 詩客




 詩集の出版ラッシュ時期は、夏から秋にかけてであり、世に出される多くの詩集が、この時期に出来上がってきます。この猛暑のさなか、詩人と編集者との打ち合わせが今日もどこかで行われているのですが、ほとんどの詩集は自費出版です。詩人が詩集をつくることは、とても大きな買い物であり、一世一代の覚悟が必要なのです。どんな詩集になってゆくのか、数カ月間、試行錯誤することになります。この暑さの中で、です。考えるだけで、額から汗が噴きだし、手に汗がたまってきます。
 猛暑の夏。この「夏」という漢字一文字を目にした瞬間に、たとえば、焼けた砂浜、水をたたえたプール、履き潰したゴムサンダル、熟したスイカの色、ぱちぱち燃える線香花火など、さまざまなものが浮かんでくるとしたら、それは「夏」という言葉から喚起される、人それぞれのイメージ、懐かしい記憶が呼びおこされるからでしょう。アルゼンチンの作家ボルヘスは、「言葉は、共有する記憶を表す記号なのです」と言い残しましたが、その「記号」を一冊の詩集のなかに、どれほどちりばめられるのか、表現できるのか考えながら、詩集は編まれてゆくものだと思います。

 今年度の中原中也賞を受賞した、マーサ・ナカムラの「狸の匣」(思潮社)は、日本昔話にも再三登場する「狸」を大胆に起用することで、読み手を「ふん、狸か…」と油断させておいて、ずるりと引きこみ、さらに、小さいおじいさん、天狗、石など、読み手の想像力を掻きたてる素材を、そこかしこにチラリチラリと散りばめ、民話のムードをモワモワと醸しています。この詩集の詩の多くは、少女とその家族の物語なのですが、もしかしたら読者は、そのことに気づかないまま「不思議な詩集だった…」と、読み終えるかもしれません。猛烈な少女(それも保育園児です!)が登場する「おふとん」の冒頭をみてみましょう。
愛子が目蓋の中を駆け回っている内に、闇は薄れていった。障子が乳白色の光を透かしている。飛蚊がゆっくりと落下していく。/ 隣に父がいない。無造作に置かれた青い枕に手を伸ばすと、薄地のパジャマが布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。掛け布団が、ふうん、と生臭いため息をついた。」この後の展開(愛子に舌を引きずり出され、破壊される父親)を予感させるにじゅうぶんな、不穏に満ちた描写に、ぞくぞくしてきます。この「おふとん」の後日譚として読むことも可能である「筑波山口のひとり相撲」においても、完璧ではない、愚かな両親の姿をマーサ・ナカムラはじんわりと変容させてゆきます。「父は天狗で/母は人間の女だったので/夜な夜な家の階段を昇ってくる何百もの蝋燭を消さねばならなかった。」家族同士の戦いは、ときに時空を歪めるほどの醜さで噴出しますが、その様子を、現実を超えた霊異な物語に仕立てています。やがて少女は、家庭から少しずつ離れてゆき、無事に社会に出るのですが、予想どおり、というか、当然のことながら苦労します。日々の淀みが重なってゆく様子を描いた「会社員は光をのみこむ」という詩篇では、詩の真ん中あたりまで、日常の風景と疲弊の呼吸に満ちているのに、走行中の車のダッシュボードの上で「とおりゃんせ」を歌う虎が登場したとたんに(この展開もほかの詩篇と同様に唐突です)空気は一変し、かつて桂歌丸が司会を務めた「笑点」を彷彿とさせる、大衆の笑いに包まれた喜劇の場面に変わります。友人の笑い声が響き、この会社員が「もう事故で死んでも構わない」と考えることも、まるでごく自然なことに思われてきます。この怪奇現象も、日々の垢にまみれた疲弊が、生み出しているわけで、いままで誰にも言えなかったことも、時空の中にどろりと溶けているあの愛も、この憎しみも、筆一本の力で面白く、愛おしいものに姿を変える。それがマーサ・ナカムラの詩の大きな魅力であり、魔法だと言えるでしょう。

 魔法使いマーサ・ナカムラの詩を読むときに使う神経とは、まったく別の脳の部分を使って読む詩集について、次に、書きます。批評家である若松英輔の詩集「見えない涙」(亜紀書房)みなさん、もう、お読みになったでしょうか。私はようやく手にとって読み終えました。これまで何度も何度も手にとってきたものの、今はまだ読むときではないと思っているうちに、一年過ぎてしまい、そのあいだに、次々と新しい著書を世に出す、強いバイタリティとは真逆の、この詩集の中におさめられた、やさしすぎるほどやさしいことばに、現代詩を読んできた読者は戸惑うのではないでしょうか。批評家として人前で話す著者の、語りのやわらかさと濃縮された一言(アフォリズムと言ってもよい)を、交互に放ってゆく様子をテレビあるいは講演で目にし、耳にしたことがあれば、この詩集の情熱と素直さに、「これは詩なのだろうか・・・」と悩むかもしれません。もっともはげしく燃えていると感じた詩篇を全文引用します。



   邂逅

 人は
 さっき
 会ったばかりの人とでも
 喜びあえる
 だが
 悲しみは違う
 大切な人とは深く
 悲しみを分かち合うとよい

 別れとは
 真に出会った者にだけ
 起こりえる
 稀なる出来事
 相手を喪うとき
 たえがたい痛みを
 背負わねばならないことを
 今を いつくしみながら
 幾度でも
 語り合うのがよい

 身が砕けそうになるほど
 悲しまなくてはならない人に
 めぐりあう
 これ以上のよろこびを おまえは
 いったい
 どこに探そうというのか



 人生半分以上も過ぎると、何年も、何十年も、愛憎を重ねた人たちと、死に別れることもしだいに増えてゆきます。若松英輔の詩は、身近な人の死に対峙し、悲しみつくした心から、しぼりだすようにして書かれたもので、いわゆる現代詩とはまったく違う色を帯びています。言葉のイメージに、突飛さも奇抜さもなく、まっすぐに線を引かれたような、これらの詩を、私たちはどのように読めば味わえるのでしょうか。納得できるのでしょうか。マーサ・ナカムラの詩との違いについて、考えます。若松英輔の詩は、書き手の力や熱が直に伝わってくるようです。(あるいはまったく力も熱も感じない、という感じ方もあるかもしれません)「相手を喪うとき/たえがたい痛みを/背負わねばならないことを」読み手自身が「感じたことがあるかどうか」も詩の味わいに影響するでしょう。それはつまり「身が砕けそうになるほど悲しまなくてはならない人に」めぐり合った者が感じる苦しみであり、その苦しみを背負ったことがあるかどうか、ということです。出会った人たちは、いずれ死にます。ひとつの例外もなく死にます。私たちはふだん、そのことを意識せずに出会いを繰り返し、生きています。若松英輔にとっての「人との出会い」というのは、この詩を読むと、たいへんに深い意味があり、また、純粋なものであるということがわかってきます。このことを自然に納得し、共感する読者には、腹の底から「沁みてくる」と感じられるのだと思います。

 以上の二冊、どちらの詩集も「これだけは、どうしても言わねばならない」という声なき声を、たしかに背負っています。作者自身の声よりも、より大きく聞こえるそれらの声の正体は、何者なのでしょうか。誰なのでしょうか。詩を書くということは、業の深いことで、明るく振る舞っているかのように見える詩であっても、そこには人が、何人もの人が、すっぽりと埋まってしまうほどの、深い業が隠れているものです。詩には、さまざまな種類があって、韻律を楽しむ詩、頭で読んで楽しむ詩、頭ではなくこころ、たましいで読む詩、いくつかに分類されると思いますが、どのような種類の詩であっても、読み手の心を動かしたならば、その詩は「力を持っている」と言ってよいでしょう。人が人として成長してゆく過程で、獲得できる経験も感情も、人によってそれぞれで、30歳のときに読んで良いとは思わなかった、心が動かなかった詩を60歳になって、あらためてもう一度読んでみて、初めてわかった、よいと思った、ということもあるでしょう。詩集には、細く長く読まれるだけの力が備わっているはずで、一時期の流行り、みんなが読んでいるから読んでおく、売れているから読んでおく、といった読まれ方とは、ほとんど縁のないことは、さびしいことではなく、実は幸せなことなのだと思います。