あゆみBOOKS仙台一番町店が、いまぼくのなかでアツい。
のっけから極私的な/ローカルな話題で申し訳ないが、少し付き合っていただきたい。あゆみBOOKS仙台一番町店のなにがアツいのかというと、その雑誌コーナーの品揃えの、近隣書店に類を見ないニッチさである。
あゆみBOOKSは1986年設立の、東京・埼玉・宮城に計9店舗を構える書店である。宮城では現在中心市街である仙台・一番町に1店舗(仙台一番町店)があり、立地や営業時間の長さから良好なアクセシビリティを保っている。その仙台一番町店において、ここ数ヶ月のうちに雑誌コーナーに変化が起こった。地方で発行されているミニコミ誌やリトルプレスなど小規模出版の雑誌が、店舗内で非常に目立つコーナーの前面に押し出される形で配置され、売り出されるようになったのである。
首都圏の方には、何を当たり前のことを今更、と思う人もいるかもしれない。また仙台でも、リトルプレスならこれまでもメディアテーク[1]や仙台市内のカフェにたくさん並んでいたじゃないか、と疑問に思う人がいることだろう。ごもっとも。それはその通りだ。しかし考えてみて欲しいのは、ぼくが今挙げている書店が、あくまでも仙台という地方の中心市街にあり、必ずしもアートやカルチャーに浸かっているわけではないライトな読者層が多く訪れる、それほど大型ではない書店なのだという点である。
文化的中心でもある首都圏の大型書店、あるいはカフェやアートスペースといった場所に、アート/カルチャーの小規模出版物が集まるというのは、ある意味で当たり前のことだろう。しかしあゆみBOOKS仙台一番町店は、これまでもアート/カルチャー分野に強い書店であったとはいえ、ライトな層にも対応する必要のある店舗なのであった。その書店が、店舗内でも特に目立つ位置にて、従来の商業出版とは異なる書籍を大きくプッシュし始めた。これは英断であり、そして実は、かなり“うまい”手であったのではないだろうか。
棚の前面にひろく配置されているリトルプレスは、内容はもちろんのこと、従来の雑誌とは異なったデザインとその一風変わった手触りも相まって、実に多くの人を引き止めている。地方の書店チェーンにリトルプレスが多く並ぶようになった出版流通の変化と、それに伴う書物のパラテクストの変化とを思いながら、ぼくもまたあゆみBOOKSに足を止めてしまうのである。
*
今年5月、「第二十四回文学フリマ東京」が開催された。そこで頒布された中家菜津子とカニエ・ナハの二人による作品「鏡花水月」「玉繭の間取り」は、パラテクストによるテクストの変化・深化という点において、非常に興味深い作品であった。

1首目・2首目ともに特徴的なのは、作品全体を覆う花などの幻想的なモチーフと、「乳房」「息」など身体性の強い語の存在であろう。「鏡花水月」全体を通しても、こうした幻想性と身体性の両立は随所に見られる。
また何と言っても注目すべきは、鏡文字というギミックである。本作品ではすべての歌が上の画像のように鏡文字で記載されており、読者はこれらを鏡に映すことでテクストに触れることができるようになる(画像はそれを模したものである。ぜひ本稿読者の皆様もスマートフォンやPCの画面を鏡に映して確認してもらいたい)。テクストが「テクストを鏡に向ける」という普段の読解には登場しない動作を読者に要求しているわけであるが、このことが読者のテクストに対する積極性を高める効果を発揮しているように思われる。
時間に追い立てられて
扉を開ける
乾燥した冬の空気に
閉じ込められた
排ガスのにおいも
星の密度として
駅までの道を急ぐ
踏切で捕まって開いた
ツイッターの画面には
いつの時代か
どこの国か
戦場で死んだ
少女の写真が
恍惚とした顔で
こっちを見ている
ねえ、肉体よりも
傷んでいるのはだれ?
僕らの星は腐った
無花果のように
(中略)
「門出」は「玉繭の間取り」のなかの1篇である[3]。「玉繭の間取り」収録の4篇には、ひらくと「飛び出す絵本」のようにテクストの書かれた紙片が立体的に配置される仕掛けが施されている。テクストの配置はそれぞれ異なっていて、「門出」では紙面中央にアーチ状に詩が浮かび上がり、その両サイドを短歌の書かれた紙片が壁のように囲うという配置がなされている。読者はこの立体的なテクストの配置を、文字通り様々な角度からみることになる。紙片には明確な読解の順序が指定されていないこともあるため、読者はある意味で自分自身の手でテクストを組み合わせ構築していくこととなる。
テクストにおいて目立つのは、「開く」という動作と、その動作によって現れる世界に対する視線だ。「門出」のなかでは、「扉を開ける」「踏切に捕まって開いた」という動作が提示されているが、これによって自分の外にひろがる世界や他者の存在が引き出されていく。「玉繭の間取り」――「玉繭」と「間取り」、どちらもとじられた世界である――というタイトルは非常に限定された世界を表現しており、そこに整理されたテクストはより開かれた世界を希求するものとなっているのではないか。
テクストの主体が行っている「開く」という動作、あるいは世界を覗く行為は、読者に求められる行為とも重なってくる。読者はテクストという世界をひらくことで、テクストの世界を覗く。特に「玉繭の間取り」においては、読者はテクストを様々な方向から見る必要があるなど、従来のテクストよりもずっと意識的に世界を覗くことになる。ここにおいて、テクストの主体とテクストの読者は、通常の読書体験よりも強く結びつくことになる。パラテクストの力により、読者はテクストの主体の行為を疑似体験することになるのである。
*
地方の書店にまでリトルプレスや自主制作の書籍が並び、普段イベントなどに足を運ばない人も小規模出版の作品を気軽に手に取ることができる――書籍の流通形態の変化により、そうした未来が少しずつ訪れているようにも思う。こうした動きは、詩歌の書籍にとって追い風となるのではないか。
一般的に詩歌の書籍は商業的な成功を目指しにくく、自費出版による少部数での刊行が主である。その状況は今後も続くだろう。しかし現在では出版流通の変化に伴い、小規模出版の書籍でも書店で扱われることが多くなった。ネットでの販売も一般的になり、個人でのショップ開設なども以前と比べてずっと気軽なものになった。インターネットやSNSによって価値観を共有する人たちの共同体が拡大し、情報共有がされやすくなったことで、たとえ一般的に見て大きな動きではなくとも全国規模でそれなりの人数が動くということも珍しくはなくなった。商業的成功とは呼べなくとも、コミュニティにとってある程度の需要があるのであれば、それなりに流通・販売することができるようになったのである。ここにおいて詩歌の書籍は、たとえば同人誌ベースで刊行しながらも商業誌的流通を図るということなども現実的に可能となっており、以前よりも格段に書籍を流通・拡散させやすくなっている。
同人誌ベースでの制作が可能であるということは、少部数であるかわりに商業誌など大量生産ではなかなか実現が難しいデザイン・装幀などが施しやすいということでもある。これは、詩歌の書籍にとってはメリットでもある。ビジネスにならないのであればはじめから商業的成功は目指さず、少部数で制作する。かわりに、少しでも詩歌に興味を持つ人であれば確実に手に取りたいと思うような、魅力的な書籍になるように内容を煮詰めていく。そもそも多いわけではない一般層を取り込むことを目標にするよりも、コミュニティに確実に受け入れられるように書籍を作り込んでいく。出版流通形態の変化が、書籍自体??そのテクストやパラテクストの在り様を変化させていくのである。
少部数ながら卓越した内容とデザイン・装幀で手に取る読者を魅了する。今回取り上げた「鏡花水月」「玉繭の間取り」のどちらの作品も、手の込んだパラテクストとテクストとが共鳴しあい読者を作品世界に没頭させる効果を挙げているが、こうした作品が今後はより求められることになるのではないだろうか。そしてもしかしたら、そのような魅力ある小規模出版の作品がコミュニティづたいにひろがり、地方の書店で買い求められることで、いつかコミュニティの外にまで流通することが起こりうるのではないだろうか。
テクストとパラテクスト、同人と商業、装幀と流通。世界の内と外とをつなぐような動きが、いま起こりつつあるように思う。
註
[1]正式名称は「せんだいメディアテーク」。仙台市民図書館やギャラリー、カフェ、ショップ「KANEIRI Museum Shop 6」などからなる施設であり、仙台の文化的中心のひとつ。Webサイト:http://www.smt.jp/
[2]中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(装幀)「玉繭の間取り」所収。
[3]「玉繭の間取り」には、このほかに「Living Room」「Dining Kitchen」「Library」が納められる。4篇は「びーぐる」31号~34号が初出である。
参考文献
中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(著者/装幀)「鏡花水月」
中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(装幀)「玉繭の間取り」
のっけから極私的な/ローカルな話題で申し訳ないが、少し付き合っていただきたい。あゆみBOOKS仙台一番町店のなにがアツいのかというと、その雑誌コーナーの品揃えの、近隣書店に類を見ないニッチさである。
あゆみBOOKSは1986年設立の、東京・埼玉・宮城に計9店舗を構える書店である。宮城では現在中心市街である仙台・一番町に1店舗(仙台一番町店)があり、立地や営業時間の長さから良好なアクセシビリティを保っている。その仙台一番町店において、ここ数ヶ月のうちに雑誌コーナーに変化が起こった。地方で発行されているミニコミ誌やリトルプレスなど小規模出版の雑誌が、店舗内で非常に目立つコーナーの前面に押し出される形で配置され、売り出されるようになったのである。
首都圏の方には、何を当たり前のことを今更、と思う人もいるかもしれない。また仙台でも、リトルプレスならこれまでもメディアテーク[1]や仙台市内のカフェにたくさん並んでいたじゃないか、と疑問に思う人がいることだろう。ごもっとも。それはその通りだ。しかし考えてみて欲しいのは、ぼくが今挙げている書店が、あくまでも仙台という地方の中心市街にあり、必ずしもアートやカルチャーに浸かっているわけではないライトな読者層が多く訪れる、それほど大型ではない書店なのだという点である。
文化的中心でもある首都圏の大型書店、あるいはカフェやアートスペースといった場所に、アート/カルチャーの小規模出版物が集まるというのは、ある意味で当たり前のことだろう。しかしあゆみBOOKS仙台一番町店は、これまでもアート/カルチャー分野に強い書店であったとはいえ、ライトな層にも対応する必要のある店舗なのであった。その書店が、店舗内でも特に目立つ位置にて、従来の商業出版とは異なる書籍を大きくプッシュし始めた。これは英断であり、そして実は、かなり“うまい”手であったのではないだろうか。
棚の前面にひろく配置されているリトルプレスは、内容はもちろんのこと、従来の雑誌とは異なったデザインとその一風変わった手触りも相まって、実に多くの人を引き止めている。地方の書店チェーンにリトルプレスが多く並ぶようになった出版流通の変化と、それに伴う書物のパラテクストの変化とを思いながら、ぼくもまたあゆみBOOKSに足を止めてしまうのである。
*
今年5月、「第二十四回文学フリマ東京」が開催された。そこで頒布された中家菜津子とカニエ・ナハの二人による作品「鏡花水月」「玉繭の間取り」は、パラテクストによるテクストの変化・深化という点において、非常に興味深い作品であった。

さくらばな
敷きつめられた浮土 を
踏むと気怠い乳房のおもみ
かなざわを産土 と呼ぶ
その息は
花びらすこし遠くへはこぶ
敷きつめられた
踏むと気怠い乳房のおもみ
かなざわを
その息は
花びらすこし遠くへはこぶ
中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(著者/装幀)「鏡花水月」
1首目・2首目ともに特徴的なのは、作品全体を覆う花などの幻想的なモチーフと、「乳房」「息」など身体性の強い語の存在であろう。「鏡花水月」全体を通しても、こうした幻想性と身体性の両立は随所に見られる。
また何と言っても注目すべきは、鏡文字というギミックである。本作品ではすべての歌が上の画像のように鏡文字で記載されており、読者はこれらを鏡に映すことでテクストに触れることができるようになる(画像はそれを模したものである。ぜひ本稿読者の皆様もスマートフォンやPCの画面を鏡に映して確認してもらいたい)。テクストが「テクストを鏡に向ける」という普段の読解には登場しない動作を読者に要求しているわけであるが、このことが読者のテクストに対する積極性を高める効果を発揮しているように思われる。
時間に追い立てられて
扉を開ける
乾燥した冬の空気に
閉じ込められた
排ガスのにおいも
星の密度として
駅までの道を急ぐ
踏切で捕まって開いた
ツイッターの画面には
いつの時代か
どこの国か
戦場で死んだ
少女の写真が
恍惚とした顔で
こっちを見ている
ねえ、肉体よりも
傷んでいるのはだれ?
僕らの星は腐った
無花果のように
(中略)
白に白ふきとるときの
哀しみに
眼の奥で降る
あわいはつゆき
唐草の絡まる
岩波文庫から
生まれた風が
空気に混じる
(後略)
哀しみに
眼の奥で降る
あわいはつゆき
唐草の絡まる
岩波文庫から
生まれた風が
空気に混じる
(後略)
中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(装幀)「門出」[2]
「門出」は「玉繭の間取り」のなかの1篇である[3]。「玉繭の間取り」収録の4篇には、ひらくと「飛び出す絵本」のようにテクストの書かれた紙片が立体的に配置される仕掛けが施されている。テクストの配置はそれぞれ異なっていて、「門出」では紙面中央にアーチ状に詩が浮かび上がり、その両サイドを短歌の書かれた紙片が壁のように囲うという配置がなされている。読者はこの立体的なテクストの配置を、文字通り様々な角度からみることになる。紙片には明確な読解の順序が指定されていないこともあるため、読者はある意味で自分自身の手でテクストを組み合わせ構築していくこととなる。
テクストにおいて目立つのは、「開く」という動作と、その動作によって現れる世界に対する視線だ。「門出」のなかでは、「扉を開ける」「踏切に捕まって開いた」という動作が提示されているが、これによって自分の外にひろがる世界や他者の存在が引き出されていく。「玉繭の間取り」――「玉繭」と「間取り」、どちらもとじられた世界である――というタイトルは非常に限定された世界を表現しており、そこに整理されたテクストはより開かれた世界を希求するものとなっているのではないか。
テクストの主体が行っている「開く」という動作、あるいは世界を覗く行為は、読者に求められる行為とも重なってくる。読者はテクストという世界をひらくことで、テクストの世界を覗く。特に「玉繭の間取り」においては、読者はテクストを様々な方向から見る必要があるなど、従来のテクストよりもずっと意識的に世界を覗くことになる。ここにおいて、テクストの主体とテクストの読者は、通常の読書体験よりも強く結びつくことになる。パラテクストの力により、読者はテクストの主体の行為を疑似体験することになるのである。
*
地方の書店にまでリトルプレスや自主制作の書籍が並び、普段イベントなどに足を運ばない人も小規模出版の作品を気軽に手に取ることができる――書籍の流通形態の変化により、そうした未来が少しずつ訪れているようにも思う。こうした動きは、詩歌の書籍にとって追い風となるのではないか。
一般的に詩歌の書籍は商業的な成功を目指しにくく、自費出版による少部数での刊行が主である。その状況は今後も続くだろう。しかし現在では出版流通の変化に伴い、小規模出版の書籍でも書店で扱われることが多くなった。ネットでの販売も一般的になり、個人でのショップ開設なども以前と比べてずっと気軽なものになった。インターネットやSNSによって価値観を共有する人たちの共同体が拡大し、情報共有がされやすくなったことで、たとえ一般的に見て大きな動きではなくとも全国規模でそれなりの人数が動くということも珍しくはなくなった。商業的成功とは呼べなくとも、コミュニティにとってある程度の需要があるのであれば、それなりに流通・販売することができるようになったのである。ここにおいて詩歌の書籍は、たとえば同人誌ベースで刊行しながらも商業誌的流通を図るということなども現実的に可能となっており、以前よりも格段に書籍を流通・拡散させやすくなっている。
同人誌ベースでの制作が可能であるということは、少部数であるかわりに商業誌など大量生産ではなかなか実現が難しいデザイン・装幀などが施しやすいということでもある。これは、詩歌の書籍にとってはメリットでもある。ビジネスにならないのであればはじめから商業的成功は目指さず、少部数で制作する。かわりに、少しでも詩歌に興味を持つ人であれば確実に手に取りたいと思うような、魅力的な書籍になるように内容を煮詰めていく。そもそも多いわけではない一般層を取り込むことを目標にするよりも、コミュニティに確実に受け入れられるように書籍を作り込んでいく。出版流通形態の変化が、書籍自体??そのテクストやパラテクストの在り様を変化させていくのである。
少部数ながら卓越した内容とデザイン・装幀で手に取る読者を魅了する。今回取り上げた「鏡花水月」「玉繭の間取り」のどちらの作品も、手の込んだパラテクストとテクストとが共鳴しあい読者を作品世界に没頭させる効果を挙げているが、こうした作品が今後はより求められることになるのではないだろうか。そしてもしかしたら、そのような魅力ある小規模出版の作品がコミュニティづたいにひろがり、地方の書店で買い求められることで、いつかコミュニティの外にまで流通することが起こりうるのではないだろうか。
テクストとパラテクスト、同人と商業、装幀と流通。世界の内と外とをつなぐような動きが、いま起こりつつあるように思う。
註
[1]正式名称は「せんだいメディアテーク」。仙台市民図書館やギャラリー、カフェ、ショップ「KANEIRI Museum Shop 6」などからなる施設であり、仙台の文化的中心のひとつ。Webサイト:http://www.smt.jp/
[2]中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(装幀)「玉繭の間取り」所収。
[3]「玉繭の間取り」には、このほかに「Living Room」「Dining Kitchen」「Library」が納められる。4篇は「びーぐる」31号~34号が初出である。
参考文献
中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(著者/装幀)「鏡花水月」
中家菜津子(著者)/カニエ・ナハ(装幀)「玉繭の間取り」