水沢なお『美しいからだよ』(思潮社)。
「アイリッド」の冒頭部分。
あの人、ずっとわたしのことを見てる
αがにこにこしている。
私がもし、神様だったら、αのための世界を、もうひとつ造っても良い。
この人が、何で喜ぶのか、考えてもきりがなく、だとしたら自分が神になって、望みをすべて叶えてあげれば良いのだと、思いついたとき、ぞっとするくらい幸福だった、からαはすごい、私を幸せにしてくれる神様のような存在で、でも神様はきっと孤独だから、耐えられない、αが孤独だと思うとやりきれない、だから私がかわりに神様になってあげる、神様になりたい、こんなことばかり考えて、生きていると、あっという間に時間が過ぎてゆく、ことは、怖くはない、むしろ、何よりも意味があるように思う。
「あの人、ずっとわたしのことを見てる」。これはαの発言なのか、地の文の語り手の思ったことなのか。第一連だけではわからない。それに続く文が「αがにこにこしている。」なので、「わたし」のことを見てにこにこしている人がαである、のように思うこともできてしまう。「あの人、ずっとわたしのことを見てる」が二行目にとってどういう関係にあるのか、ということが省略、あるいは書かれていないのだ。
それにつづく箇所で、αのことを「この人」と書いているのも気になる。「あの人」を未解決にしたまま、「この人」ということばを使っているため、不必要な「対照」が生まれるし(「あの人」に対して「この人」がどういう比較対象になっているかがわからない)、あるいは(「あの」から「この」へと移動した)同一の対象? と思うこともこの時点では無理ではない。
「α」という呼称も定位できなさに寄与している。人間なのかそうではない存在なのかわからなくするための記号となっている。
二連目になると、「あの人」は明確に示されるし、「私」とαがそれぞれ交互にかぎかっこを使って会話していると思われるので事態がはっきりしてくる。そうすると、一連目の一行目はおそらくαのせりふということになるが、なぜかぎかっこを使わないのだろう。それなのに、「わたし」と「私」は区別していたのか?と思う(この箇所だけだ)。そのような「ルール」は「作者が決めているだけ」のことだ。その区別が「私」とαの違いを示している、ということが「明らか」ではない。二連目を読んだ時点であとから「そうかな?」と思う程度だ。
「何で喜ぶのか」の「何で」も、「どうして」の意味なのか、「何に対して」なのか、あいまいである。
この一連目の段階での「不要な混線」(?)は、こちらが読めないということなのか、ただ「書けてない」だけ、文章上のルールを身につけていないだけ、ということか?と思わせるところがある。
この詩集全体が、別々の名称で出てきたものも同一でありうるということ、などをさまざまな手を使って実現しているのはわかる。それは、文が指し示す対象の特定できなさ、だとか、二つの発話者が会話しているようにはじまるかぎかっこがときに連続して同じ発話者の発言だと思われたり、だとかといった、文のつらなり、「文章」といった単位でなしとげられている。その、文が足されていくごとに、不確定さが収束せずに「増す」感じにこころよさとはがゆさがある。だが、それには手法ではない範囲のことがふくまれている気がする。
ここには、これまでやられてきたような、「あえて文法上のルールを無視することで新しい表現を開拓する」(書いていてしらじらしくなってくるが)こととはまったく違うことが起こっている。文章上の「基本」のようなものが、最初から共有されてないことによる「次の段階」みたいなことがほの見えているのだ。
マーサ・ナカムラ『雨をよぶ灯台』(思潮社)から、「鯉は船に乗って進む」。
雨が降っている
水しぶきが空気を裂く音と、
車のタイヤに巻かれる音を聞いているうちに、
私は船に乗って進んでいるような気持ちになった。
仏が茶を点てるというので、浅草寺まで見に行った。
雷門の外まで人が溢れている。賽銭箱の前まで回ってみると、
金槌ほどの大きさの仏が、怖い顔の僧侶に守られながら
両肩いっぱいに力をいれて茶を点てている。
寒い日で、仏は映像を映し出す綿入れを着込んでいた。
奇想といってもいいが、どんな種類にも属していない発想だ。そしてその発想をシンプルな言葉で片づけている。出だし、雨を「空気を裂く音」「車のタイヤに巻かれる音」とするだけでも自由だが、「船に乗って進んでいるような気持ちになった」と一気に世界を広場に出す仕方に力みがなく、妙なふくらみの中に入らされてしまったような感がある。船があとの映像の中の豪華客船とつながってもくるのだが、「理屈として」つながっているわけではない。あとで出てくる準備として出された船ではないのだ。あくまでも浮かび方、進み方として、感じられる。ここには、どの方向にでも行ける言葉を見つけてしまったがための「余裕」というか「冗長さ」のようなものがあるが、それこそ、読み手にとっての「ふくらみ」を用意しているものなのだ。
仏が茶を点てる、その綿入れに豪華客船の映像が映る、それぞれがとんでもないながら、やりすぎていない。「この映像を見ているうちに、私は船の売店で食い物を見ていた少女に成り代わって、涙が止まらなくなってしまった。」入れ子になっているものに視線が移ること自体の面白さから、「私」の涙が止まらなくなるという引き受け方で、一気に「話がちがってくる」。奇想ではない「語りの破れ」ともいえるだろうか。突然、加速がついて、隙だらけの場所に出ることができる、それがマーサ・ナカムラの詩の道筋なのだ。次の連の「母の布団に針を撒いた/新しい男の顔が描かれた敷物の上で生活をした/病院の窓ガラスに心臓が映った」は、どういう列挙といったらいいのか、まったくどの方向も向いてない、ということを生かしきったショットの連続、少なくとも、「リズムの発明」だ。
「アイリッド」の冒頭部分。
あの人、ずっとわたしのことを見てる
αがにこにこしている。
私がもし、神様だったら、αのための世界を、もうひとつ造っても良い。
この人が、何で喜ぶのか、考えてもきりがなく、だとしたら自分が神になって、望みをすべて叶えてあげれば良いのだと、思いついたとき、ぞっとするくらい幸福だった、からαはすごい、私を幸せにしてくれる神様のような存在で、でも神様はきっと孤独だから、耐えられない、αが孤独だと思うとやりきれない、だから私がかわりに神様になってあげる、神様になりたい、こんなことばかり考えて、生きていると、あっという間に時間が過ぎてゆく、ことは、怖くはない、むしろ、何よりも意味があるように思う。
「あの人、ずっとわたしのことを見てる」。これはαの発言なのか、地の文の語り手の思ったことなのか。第一連だけではわからない。それに続く文が「αがにこにこしている。」なので、「わたし」のことを見てにこにこしている人がαである、のように思うこともできてしまう。「あの人、ずっとわたしのことを見てる」が二行目にとってどういう関係にあるのか、ということが省略、あるいは書かれていないのだ。
それにつづく箇所で、αのことを「この人」と書いているのも気になる。「あの人」を未解決にしたまま、「この人」ということばを使っているため、不必要な「対照」が生まれるし(「あの人」に対して「この人」がどういう比較対象になっているかがわからない)、あるいは(「あの」から「この」へと移動した)同一の対象? と思うこともこの時点では無理ではない。
「α」という呼称も定位できなさに寄与している。人間なのかそうではない存在なのかわからなくするための記号となっている。
二連目になると、「あの人」は明確に示されるし、「私」とαがそれぞれ交互にかぎかっこを使って会話していると思われるので事態がはっきりしてくる。そうすると、一連目の一行目はおそらくαのせりふということになるが、なぜかぎかっこを使わないのだろう。それなのに、「わたし」と「私」は区別していたのか?と思う(この箇所だけだ)。そのような「ルール」は「作者が決めているだけ」のことだ。その区別が「私」とαの違いを示している、ということが「明らか」ではない。二連目を読んだ時点であとから「そうかな?」と思う程度だ。
「何で喜ぶのか」の「何で」も、「どうして」の意味なのか、「何に対して」なのか、あいまいである。
この一連目の段階での「不要な混線」(?)は、こちらが読めないということなのか、ただ「書けてない」だけ、文章上のルールを身につけていないだけ、ということか?と思わせるところがある。
この詩集全体が、別々の名称で出てきたものも同一でありうるということ、などをさまざまな手を使って実現しているのはわかる。それは、文が指し示す対象の特定できなさ、だとか、二つの発話者が会話しているようにはじまるかぎかっこがときに連続して同じ発話者の発言だと思われたり、だとかといった、文のつらなり、「文章」といった単位でなしとげられている。その、文が足されていくごとに、不確定さが収束せずに「増す」感じにこころよさとはがゆさがある。だが、それには手法ではない範囲のことがふくまれている気がする。
ここには、これまでやられてきたような、「あえて文法上のルールを無視することで新しい表現を開拓する」(書いていてしらじらしくなってくるが)こととはまったく違うことが起こっている。文章上の「基本」のようなものが、最初から共有されてないことによる「次の段階」みたいなことがほの見えているのだ。
マーサ・ナカムラ『雨をよぶ灯台』(思潮社)から、「鯉は船に乗って進む」。
雨が降っている
水しぶきが空気を裂く音と、
車のタイヤに巻かれる音を聞いているうちに、
私は船に乗って進んでいるような気持ちになった。
仏が茶を点てるというので、浅草寺まで見に行った。
雷門の外まで人が溢れている。賽銭箱の前まで回ってみると、
金槌ほどの大きさの仏が、怖い顔の僧侶に守られながら
両肩いっぱいに力をいれて茶を点てている。
寒い日で、仏は映像を映し出す綿入れを着込んでいた。
(冒頭2連。ルビは省略した)
奇想といってもいいが、どんな種類にも属していない発想だ。そしてその発想をシンプルな言葉で片づけている。出だし、雨を「空気を裂く音」「車のタイヤに巻かれる音」とするだけでも自由だが、「船に乗って進んでいるような気持ちになった」と一気に世界を広場に出す仕方に力みがなく、妙なふくらみの中に入らされてしまったような感がある。船があとの映像の中の豪華客船とつながってもくるのだが、「理屈として」つながっているわけではない。あとで出てくる準備として出された船ではないのだ。あくまでも浮かび方、進み方として、感じられる。ここには、どの方向にでも行ける言葉を見つけてしまったがための「余裕」というか「冗長さ」のようなものがあるが、それこそ、読み手にとっての「ふくらみ」を用意しているものなのだ。
仏が茶を点てる、その綿入れに豪華客船の映像が映る、それぞれがとんでもないながら、やりすぎていない。「この映像を見ているうちに、私は船の売店で食い物を見ていた少女に成り代わって、涙が止まらなくなってしまった。」入れ子になっているものに視線が移ること自体の面白さから、「私」の涙が止まらなくなるという引き受け方で、一気に「話がちがってくる」。奇想ではない「語りの破れ」ともいえるだろうか。突然、加速がついて、隙だらけの場所に出ることができる、それがマーサ・ナカムラの詩の道筋なのだ。次の連の「母の布団に針を撒いた/新しい男の顔が描かれた敷物の上で生活をした/病院の窓ガラスに心臓が映った」は、どういう列挙といったらいいのか、まったくどの方向も向いてない、ということを生かしきったショットの連続、少なくとも、「リズムの発明」だ。