「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第307回 小笠原鳥類の/眼差し 脊椎動物「ジュラ紀には鳥類が分化した」―わがジュラシックパーク(聲℃said Vol.8、所収ライトバース出版) 髙野 尭

2024年09月10日 | 詩客
アマツバメ「空中の飛翔に特化し、」
建物金属を曲げる、写真を撮影するのワニ。
小屋(板)ペンキ
イクチオルニス類「体長約20㎝で小形のカモメに似ている、」
版画を探して、灰色の塩味の写真に、棚で出会う。オルゴール踊る
ウ(鵜)
の眼「鵜や鷹が獲物をあさるときのように、鋭く物を探し出そうとする目つき。」イルカの鼻息は荒い。アメンボの競艇。水面に映るカメラレンズ、それは掃き出せない

 たいてい大人の発話主体には、それぞれの来歴によるか世代的に共有できる経験を元手に、それに伴う物事に対する同志的先入観がこびり付いている。だからそういった意味において詩作は、その詩作主体に纏わりついている世俗的身体を脱いでいく行為にほぼ等しい、といっていいだろう。鳥類さんのエクリチュールもその点はみんなと同じだ、とボクは思う。ただ外界を視る観察主体としてみたときはちょっと違うのではないか。それは何かというと、そもそも観察主体というよりもガラスの受容板としての受容主体、と言ったほうが鳥類さんの場合はもっと適切かもしれないからだ。とにかく反射させるのだ。鳥でも魚でもなんでも。その反射して飛び散って紙に転写された痕跡が詩なのだ、だから詩句の分節化を躊躇うように吃りがちで体言止めが多い、つまりコンテキストに抵抗をかけるから分節度が低い、という鳥類節の仮説を立ててみよう。
 この仮説が基本だとすると、冒頭のお題付き詩群はどう読まれるのだろうか。その問いにこたえる前に、実はこの冒頭詩群の中に偽作が紛れ込んでいる。なぜわかるのかといえば、ボクが(失礼ながら)割り込んでいるからだ。答えは秘密だが。すでにこの作品を既読した方なら即答可能だろう。ヒントは「脊椎動物」だ。
 きっと鳥類さんの眼には無機質で透明な水晶玉が嵌め込まれている。それも輪郭のない透明な水晶玉だろう。たぶんそれは水晶でできたコンタクトレンズかもしれない。それに対してボクの眼は「汚れっちまった」ガラス玉だ。垢まみれがひどくてにっちもさっちもいかない。それはいいとし、もう少し遊ばせていただこう。

トキ「古来この色を「朱鷺(とき)」色と呼んだ.」
恐竜は夕方のものだ。迫力の山々、迫力があるネギ

野鳩「野生のハト」
ヤナーチェクの指揮がうまい。クリスマスはサンタが橇で山を降る降る ヒヨドリ
ミヤコドリ「海岸の干潟などでおもに貝類を食べる」
ムクドリが柿を食べる、オレンジ色のクチバシが、知らないペリカン


 もうお見通しのことと思われるが、鳥類さんを敢えて例えるなら、無垢なる鳥の眼だ。なぜそう思うかといえば、動物は、コンテキストを組めないからだ。言い換えると、記憶をたどって人間模様たっぷりの劇場型ストーリーを作れない、と。むしろ見たそのままをあたりまえに投げ出す。ただ謎のシグナルだけを送る。つまり人間様にわかってしまう紋切型か価値的に斬新な表現は避け、無垢なる眼や耳にだけ通じるように。たとえば「カンガルーからワカサギまで象」「金属とイルカと畳」などの名詞句がそうだ。人間的カテゴリーの破壊といってもいいだろう。

 さて、ちょっと、いや大幅に横道に逸れて連想が飛躍してしまうボクの直観、というかあくまでも一つの仮説なのだが、これはかつてヴァレリーの青年期に起こった既成の価値観の変更を促すような脳内現象(ジェノヴァの危機)に少し似ている、とボクは勝手に思っている。だが音楽性の面は別としてもヴァレリーの精神は、鳥類さんには似合わないだろう。なぜならヴァレリーさんには、知的上昇志向が強い面があったし、外部セカイを別次元で認識するために既成の観念的形而上学的世界とは違った、あるいは批判的とも取れる地中海的個性の局(極)限化といってもいいパースペクテイヴがあったから。それに加え表象意識に濃淡をつける知性も働いていた。つまり既成の概念や偶像として崇められた権威を認めない態度だ。彼が崇敬したダ・ヴィンチのようにだ。しかもヴァレリーは個性の精神活動として自我の能動性を極限まで追い詰め、受動的感性を更新する知性の無限運動に拘泥し、いわゆる人口に膾炙した「詩が言葉に人智が及ぶ限りの工夫を凝らすこと」(吉田健一)のマエストロでもあった。
 一方鳥類さんの思考にはむしろ知性的な意味の挙動や現世的な統制、あるいは詩の修辞的現在を無化しようとさえするメタ知性が働いている。マラルメがコトバの音楽性を志向し現実的対象を隠蔽した曖昧性ともいえそうなのだが、平明な難解さと笑いが際立っている、とボクは思う。変な言い方になったが、とまれ両者に共通しているのは物事を知覚する上での世界の現れ方・現象に対する認識の「革命的転換」を秘かに狙っているということだ。停滞した固定観念やマスメデイアによって誘導されがちな現実意識を異化するコトバを紡いだ先達、鳥類さんの敬愛する吉岡実がちょっと頭を掠めてもくる。    
 話を元に戻そう。おわかりの通り鳥類さんのコトバは人間の認識とはズレた鳥の眼を通して幻覚する鳥類という主体の反映なのだ。鳥レンズを通して脳内に写像された外部世界はいったん人間の言葉に翻訳されるが、アウトプットの際には鳥語の断片的なアナーキー状態のまま非人間的笑劇に変換されるのだ。だから表出されたコトバの波なりに、メタファーの類似的関係性をさぐっても無駄だと思う。というのも極私的な換喩に頼りながら暗喩的な知力の強制を免れているからだ。コトバはアウトプットされたとたん独立した小宇宙のように前後左右とは無関係に浮遊し始める、そのままそこにありつついつのまにか逃げ去っているだけなのだ、なんの因果もなく。(ゲンジツニオビエテノコトカモシレナイガ)。これがひとつ詩の極私的感性を担保していると思う。レトリカルな抒情や叙事性を一切拒んだ詩の境地だ、とも言えようか。とはいえ、読み手の側に作品を見て味わう受容基準なるものがあるとすれば、どのような解釈を試みようがそれは個人的に自由だし、また自足的に味わい寛げるのであれば他言は要しないだろう。そのように詩は開かれている。
 どうやらボクが割り込ませていただいたコトバの断片にはなんらかの意図(下心)が働いてしまっているのだ。思いついた通り放り出しているつもりでいても、センテンス間に連辞的なひねりを加味してもいる。それに対して鳥類さんの詩句は図鑑類をデータベースとしながらその図鑑的な説明文は肩越しに躱し、たぶんこれは憶測の閾を出ないのだが、生き物の種をシュルレアリスムの自動筆記風に実践していると思わせる気配もある。出たとこ勝負ってところか。それはワンショットワンショットの積み重ねであり、眼に一瞬映ったイメージ(ユーレイ)や鳥類さん固有の連想的な外部セカイは、無意識のイメージである鳥(動物等)の環世界(フォン・ユクキュル)に変換され、そのままの知覚印象(幻覚)を日本語に投企しているのだ。あたかも幽霊のように。だからこそ鳥の眼なのだが。覚醒的な思考を停止させているといってもいいだろう。前言の答えになっていないかもしれないが。このスピリットの穏やかさ、それに偶さか現れる突飛な幽霊のような飛来物が
 鳥でもありウキウキさせる詩の壺でもある。
 竟に多元的な世界の多様性をじぶんの内部セカイにそっと浮かべ、個性を追い詰め極度な純粋化を志向する霊魂のようなコトバたちがピン止めされている。自己を旧秩序(流行りの詩作手法のパラダイム)から守る内的な島に住まわせながら、それは小さなものたちを抱きいれる。類や種に束ねられない動物たちのそれぞれの個性に眼差しを向ける。ヴァレリーのように俗のヒューマニズムを排したイメージに転換させる新鮮な感覚の方法、と同時的に物事を等価に見るコトバの無差別性の観点を主軸とした詩法である、またあるいは詩の修辞的な価値を解体し、「鳥類」というフィクショナルな発話主体から呟かれる動物化したうねりのコンテキストに、自律的な生き物たちを乗せることでそれは、室内楽が奏でられるように生成されるのだ。もちろん偶さかぷすっと弾ける泡のような呟きが詩人の生声とも取れる「鳥になってテーブル思う」などの述部が詩人主体を微妙に露呈させ、それが吐息として透かしみえてくることからも、詩は詩の潜在性(シニフィアンとして現前していないポエージーの裏声)として対話的に活性化される。というのは、どこからか脳髄に過る他者の虚構的な声を形象化させることをプロソポペイアだとするなら、詩の静謐な躍動を鼓舞する一般的な修辞的文彩とそれを無意識下で対立させることで、この動物等に託したプロソポペイアとしての比喩形象を生成変化させ鳥類節を実現させている。だからこそ、詩は純粋な意識の流れ(他者存在を想定した内言)を目指し、直観的に水晶のようで清澄なのだ、と言ってしまってもよいのだろうか。

自由詩時評第307回 「火」と「詩」の神話~藤井貞和詩集『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』を読む  森川 雅美

2024年08月17日 | 詩客
 藤井貞和新詩集、『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社)の、表題にもなったうえ冒頭に置かれた、集中の白眉ともいえる詩「火 三篇」は、「火」の起源から語られる。幾層もの語りを孕み、「火」をより原初に遡り、さらに現在につなぐ詩だ。

第一篇「よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。……」では、「(少数民族ヤク―トの神話より)」火の起源が語られる。ヤクートは現在のシベリア地方の永久凍土に位置する、ロシア連邦サハ共和国を中心に居住する、三六万人ほどの少数民族であり、ヤクート語とも呼ばれるサハ語を公用言語とする。サハ語はトルコからモンゴル高原にかけてのツングース諸語の古型を残し、その神話もアジアの古い語りを残すといわれる。書き出しに、「アル・イオト〈火の神霊〉が去っていった日のことを思い出そう。」と、神の名が呼ばれた後に、現在に近い過去の語りがなされ、次の行ではさらに古い「大過去」ともいえる神話的な時間が語られる。この語りの筋は、藤井が繰り返し論じている、より深い時間性を語る「助動辞」をいかに現代語として表現するかの、苦心の跡ともいえるかもしれない。次の連では「アル・イオトの火は、」と、最初にまた神の名が反復され、次のように続く。

石と石をたたき合わすだけだし、(略)教えます。
どんな捧げ物も最初、火に捧げるのでした、こうしてわれわれは、火を知るのです、 食物の一掬いをアル・イオトに捧げるのでした。


 このように過去形の語尾と現在形の語尾を交差させることで、時間の混乱が起こり過去の時間の語りが現前する。しかも、語られるのは「火の原点神話」ともいえる内容だ。その後には、神との約束を守らなかったため燃やされた家が語られるが、「食物の一掬い」を捧げた者だけが救われ、起源神話の時代は終わる。この一連の神話には、「地球環境問題」や「原発」に繋がる、神あるいは自然への畏敬を失った後の人類の寓話も読み取れる。そして、その時の神の言葉が、「よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。見ていなさい、何かが起きるから!

 第二篇「隣国に走り火さすな」では大きく飛んで、近代の詩歌の時間が、三つの夢として語られる。与謝野晶子の「隣国に走り火さすな鎮まれと山を拝(をろが)む山禰宜(ねぎ)たちよ」という短歌と、北村透谷の「あなたは一国家を、叙事詩のなかに沈ませる巫覡(ふげき)になります」という言葉が引用される。どちらも、「禰宜」「巫覡」と神に近い者の意識を孕む。さらに、「詩人も、歌人も、そのようにして、/われわれのもとから去ってゆくのです」「あなたもまた、一国家を叙事詩のなかに沈ませる巫覡になると書いて、(略)いなくなる。」と、「詩人(歌人)自身を捧げる行為」を印象させる言葉が語られる。それぞれが以下のような言葉で終わる。

さいごに語る神話を終える。

と、そこから途切れる明け方です。


 ここでは近代に神話の時間の語りが挿入され、より「終わり」のイメージが強調される。しかも、間に挟まれる二つ目の夢は、「にわ〈土間〉のかまど(竈)を壊す」からはじまり、まさに第一篇の後日バージョンともいえる、神話性を帯びている。「祈りを捧げることを忘れ」「土地の神は去り、鍋が割られる。」など、明らかに第一篇との親和がある。「その古い神話が終る。」は、第一篇だけでなく初めの夢にも続く。しかし、ここで語られるのはあくまで夢であり、語りは神話の世界ではなく、神への畏敬を失った現実の世界だ。「スープのすこしを、地面へこぼすと、もう地面はひらかれることがない」のだ。そして、火の神の遺言はまた、「よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。  見ていなさい、きっと何かが起きるから!

 第三篇「小さな火」は二つの短い詩から成り、より現在に近い、一九八〇年代の作者も生きた時間が語られ、「友」と称される似せ絵のような詩人のイメージもあり、より作者に近い。「よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。」は、繰り返されないが、遠い神話の記憶として基底に響いている。代わりに、「冷たい火が燃えている、純水のなかで。/なぜ人は詩を書くのでしょう。」「いま書きつけている小さな火でも詩だっていうこと」と、「」と「」のイメージが重ねられる。もちろん詩人は現在、神話時代からあまりに遠い。神に助けられた者の末裔として、「食物の一掬い」を捧げることもできず、自らをも焼く冷たく小さな燔祭の火を灯す、ささやかな抵抗が詩を書くことだとでもいうように、詩の語りはなされる。「火 三篇」は以下のきわめて現在に近い声で終わる。

それから書いたよな、全身をこめて、
でも一つだけ知らないこと。 滅ぶ時に、
それでも小さな火を捧げる時間があるかどう
か、です。 どうか、
小さな火を捧げます、時間よ許せ。


 語りは作者にも近い、現在を生きる詩人の声であり、詩を書くことは、神に「食物の一掬い」を捧げる原初的な行為と同じ位置に置かれる。詩人はまさに「食物の一掬い」として、自らを捧げものにするかのように語られ、第二篇の神の口寄せをする「巫覡」とも重なる。『湾岸戦争論』(一九九四年河出書房新社)の「戦争と詩とは両立できない。(中略)詩は欲望の根源に向かう情動をやめられない以上、戦争によって死ぬ。それがこわいなら、詩人は戦争へのNOを言い続けるしかない。(「真情を恐れず」)」という言葉を思い出す。語りは「何かが起きる」という戦闘状態を予想される神の声に対して、「小さな火を捧げます」というささやかながら抵抗を試みている。「よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。見ていなさい、何かが起きるから!」という神の警告があったとしても、「滅ぶ時」まで、自らを焼きもする火を捧げる行為として、詩は抵抗を続けるのだ。
 そして、このような意志は、『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』の詩の語りの全体を貫いている。『湾岸戦争論』には、「貧しくとも詩の言葉を通じて、また批評の言説を先立てた真のモラルの問題として古典から現代までの文学を「語り直す」ことをし続け(「湾岸戦争論」)」という言葉もある。まさにこの「語り直し」を実践した。過去から現在の語りが未来を問う、稀有な一冊だ。

初出「成城寺小屋講座 25号」(2022年12月)


自由詩評「凧をつなぐ」 高田 祥聖

2024年07月21日 | 詩客
 さて、困った。自由詩時評として、何を書けばいいのかまったく見当もつかない。

 というのも、わたしは日頃俳句に軸足を置いていて、自由詩というものにはまったくの門外漢なのである。詩歌梁山泊主催の詩歌トライアスロンの鼎立部門で奨励賞をいただき、自由詩を四編ほど書く機会をいただいたのだが、恥ずかしながらそれらも自由詩もどきのようなもので、なにをもって自由詩というのかもよくわからないまま今に至っている。

 初めて読んだ詩はなんだったか。金子みすゞか、雨ニモ負ケズか。
 久しぶりに実家に帰ったときに捨てずにあった国語の教科書をぱらぱらめくってみたのだが、吉野弘の「夕焼け」がとても良くて、学生時代の自分も同様に、むしろ今以上に過敏に反応したんだっけかと思い出そうとしてみたりした。

 最近読んだ詩集は佐藤文香氏の『渡す手』。氏の俳句のファンであるわたしは、発売直後、いそいそと新宿の紀伊国屋までサイン入りの詩集を買いに行った。句集で見たことのある言葉の雰囲気にふへえとなり、中原中也賞受賞後の書評を読んで改めて読み返してなるほどふむふむと唸ってみたりした。

 とまあ、こんなところであろうか。わたしの門外漢ぶりを知っていただいたところで、門外漢なりに考えたことを書いていきたいと思う。

 門外漢であるわたしであるが、積極的に読みたいと思ったのが現代詩手帖五月号。特集は、パレスチナ詩アンソロジー。リフアト・アルアイールの「わたしが死ななければならないのなら」という詩に関して俳人の神野紗希氏が言及している呟きをX(旧Twitter)で読んで、わたしも読んでみたいと思った次第である。

 リフアト・アルアライール。
 一九七九年生まれ。詩人・作家・活動家。ガザ・イスラームの大学で世界文学と文芸創作を教えた。ガザを代表する詩人のひとりであり、若い作家たちの精神的支柱であった。We are not numbers(わたしたちは数ではない)の共同設立者。ガザのつぎの世代のための公共圏をつくることに尽力した。パレスチナの公地で、世代をこえて受け継がれる物語の可能性を信じた。二〇二三年十二月六日、イスラエル軍の爆撃の標的となり、殺害された。(現代詩手帖五月号より抜粋)

わたしが 死ななければならないのなら
あなたは、生きなくてはならない

わたしの物語を語り
わたしの持ちものを売り
ひと切れの布と
糸を少し買って、


(つくってほしい 白く尾の長いものを)


 「わたしが死ななければならないのなら」から冒頭の一部を引かせていただいた。
 いったいどのような心持ちで、書いたのだろうか。
 作者が亡くなられたいまとなっては遺言のようにも読める言葉。否、すべての祈りには遺言のエッセンスがあるのかもしれないとさえ思わされる言葉。脈々と受け継いできた物語を語り継ぐことは、わたしたち自身をも物語化させていき、語り継ぐことで人の営みは続いていく。

 この詩を読んで、わたしはある俳句を思い出した。
 
地に下りて凧に魂なかりけり 久保田九品太

 凧は春の季語。
 凧揚げはヨーロッパでも中国でも古くから行われており、日本には中国から伝来したとか。本来は子どもの遊びではなく、部落と部落の競技になっているところもあり、埼玉、静岡、新潟、長崎の大凧競技はとくに有名。春の広い空の下の凧揚げは、するのも見るのも気持ちがいい。

 掲句は、地に下りた凧には魂がないのだという。
 春の空を悠々と風に吹かれていてこその凧である、と。

 ジェノサイドの犠牲となった詩人から託された凧を、手放しては、地に落としてはならない。

 もうすぐ八月になる。
 十二ヶ月はそれぞれ季語とされており、俳都松山が監修している俳句ポスト365では、八月という季語を次のように書いている。

 八月(初秋/時候)
 陰暦の八月のこと。陰暦ではほぼ七月に当たる。八月七、八日頃が立秋。暑さの盛りでありつつも、どこかしら秋の気配を感じる頃。夏休み、花火大会などの楽しく華やかな行事がある一方、原爆忌・終戦記念日、盆の行事などがあり、微妙な陰影をまとった季語といえる。


 と。
 愛媛新聞に八月という季語を用いた句を載せたいただいたことがある。そのときの拙句と、神野紗希氏にいただいた選評を紹介させてほしい。

生きづらさとは八月のブックカバー 髙田祥聖

 ブックカバーをかけて隠せば、何を読んでいるかは知られない。戦争の記憶の濃い八月、かつて自由な思想を制限された苦しい時代があった。また、夏休みの八月はひととき学校や社会から解放され、人の目を気にしないで済む時間でもある。八月のブックカバーから、過去の、現代の、さまざまな生きづらさを思う

 池袋の大手本屋ジュンク堂へと向かう道。すれ違ったひとが買ったばかりであろう本を持っていた。本には書店のブックカバーがされ、それはすでに汗で滲んでいた。ああ、カバーをされて本も暑かろうに。そう思ったことをきっかけにして詠んだ句である。

 本を汚したくない。何を読んでいるか知られたくない。
 ブックカバーをする理由は様々であるが、いつか未来にもっと別の理由でブックカバーをしなければいけない日が来るのだろうか。これからのホロコーストの如何によっては、九月、十月の本意か変わってしまう日が来るのだろうか。

 変わることがあってはならない。絶対に。

自由詩時評第305回 自由詩の自由──散文詩・連詩・共同詩 寺道 亮信

2024年07月17日 | 詩客
完璧に文明化した世界には、散文以外の芸術はないのではなかろうか。
(ベルナルド・ソアレス「不穏の書」)


 散文に手を付けること、はなぜこんなにもおっくうなのか。それは最後まで言葉を継げるかという不安であって、注目された人前で発言するときの恐怖と同じである。散文を意味するproseは、「まっすぐ(進む話)」を語源とする。一方の韻文(verse)の身元は畑の畝(で向きを変えること)である。畝を左から右へと作れば、次は右から左へ畝を作る。畝、うねうね、その回帰しながら進んでいく足取りが韻文である。
いま、詩を書く人のモチベーションはなんなのだろう。これまでずっと詩を書いてきた人であれば、詩を書き続けるしか仕方ないのはわかる。しかし、いわば詩の世界に新規参入しようとする人たち──自分も含め──の動機は謎である。『現代詩手帖』の新人投稿欄には、いったい誰があんなにも投稿しているのか。個人的な動機について言えば、それは詩を書くいうことが異常な事態であるから、ということに尽きる。

 『現代詩手帖』の最新号、7月号の特集は散文詩である。前回僕が担当した時評では、「散文化、ナラティブ化、平準化が進む現代詩の世界」という野村喜和夫の言を引いたが、当の野村が戦後散文詩のアンソロジーを編むことになった。冒頭には粕谷栄市のインタビューが掲載され、その話しぶりがこれだけ読みやすくまとめられている編集者の手さばきに感嘆した。家業のお茶屋を継ぎ、仕事をしながら詩を書いていた粕谷の「お茶屋ってのは詩と似ているところがあって、お茶が見える、見えないって言うんだけど、お茶が見えれば食っていけるんですよ。問屋の仕事はとくにそう。いい茶を安く買って、高く売ればいい。商売はみんなそうでしょう。お茶のよしあしがわかればいい。」という発言は金言だろう。詩を書くためには、詩を読めなければいけない。逆に言えば、詩が読めさえすれば詩は書けるはずである。それで詩が書けないなら、実は詩が読めていない。素手で哲学書が読めないのと同じで、詩集を読むのにも鍛錬が必要である。これはあくまで、制度としての詩についてであるが。
 そんな粕谷は、散文詩について尋ねられると「散文を行分けにしている詩があまりに多すぎる」とテンプレ的にぼやいてみせるが、その直後の「逆に言えば、散文詩でも行分けにしたら詩になるっていう散文詩を書けばいいわけですよ」は一考の価値がある。ただ、散文を行分けにするという操作じたいが行分け詩の構成要件なのであって、両者の互換性については疑問が残る。このような、散文詩と行分け詩の関係を問うた実作として、野村の詩集『薄明のサウダージ』(書肆山田、2019年)をヒントにしてもいいだろう。冒頭に収められた12篇の連作「薄明のサウダージ」は全て行分けで書かれているが、巻末にはそれらを一篇一篇、散文詩の形式に変形した「薄明のサウダージ異文状片」という連作が載っている。これはある種の自己翻訳の営みであるといってもいい。行分け詩から散文詩へ、散文詩から行分け詩へ。その閾のまたぎ方の一例として検討するべきである。
 遡れば1922年、北原白秋が民衆詩派に対し彼らの散文的な行分け詩を散文の形に書き直して提示することで、そもそも詩として成立していないことを暴き立てたという事件は、しかし行分け詩に不可欠な恣意を看過していることになる。文学者の坪井秀人は『声の祝祭』(名古屋大学出版会、1997年)でいみじくも述べている。

仮に散文で書いたら詩でなくなってしまうような改行詩であっても、改行した形式のものと散文で書き改められたものとでは別物の作品なのであって、詩の内質が改行を必然たらしめると言うよりは、改行そのものが字句やレトリックと等価値に詩の内質に介入してそれを変質させると考えたほうがいい。〈改行〉とは言葉の流れが自然に孕む拍節などではなく、きわめて恣意的な操作であるはずだからである

 音声的韻律の乏しい日本語という言語において、詩を構成するリズムとは聴覚的なものだけではない。意味の余白、呼吸の余白が詩を構成するのは当然そうだが、あくまで物理的な、視覚的な余白を外して考えることは不可能である。

 今号の『現代詩手帖』に不満を漏らせば、散文詩に関する文学史的な論考が手薄だったことである。実作者の思考は正しく、様々な示唆を与えてくれるが、少なくとも西洋詩の論考を一つは用意してほしかった。この欠如を補うものとして、「ポエジーという理念をプローザ〔散文〕として把握するという構想が、ロマン主義の全芸術哲学を規定している」と分析したヴァルター・ベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』、彼の「散文のイデア」という用語を引き受けたジョルジョ・アガンベンの『散文のイデア』や、研究書の近刊ではノヴァーリスやシュレーゲル兄弟を論じた、田端信廣『哲学的思惟と詩的思惟のインターフェイス』(晃洋書房、2022年)を挙げておこう。
 そしてポピュラー音楽を題材にした対談「ソングの歌詞は文学である」や、詩人に歌人と俳人を招いた座談会「言葉の中の私性」が物語るように、今号の特集には現代詩固有の領土(の喪失)への危機感が貫かれている(もっともこれは「自由詩」が「~からの自由(消極的自由)」である限り必要な点検なのであって、今号に限った話ではない)。野村は「詩のひとつの生き延びの道」として近年の散文詩の傾向について語るが、無理に生き延びさせる必要はなく、亜散文が亜散文なのであれば、詩的なるものの位置が変容しただけのことである。口語自由詩を終わらせるために詩を書く、という発想も必要ではないだろうか。現代詩はいつまで現代詩のままなのだろうか。本特集の名前は「散文詩の自由」であった。それは「自由詩の自由」に包摂されるものなのか、あるいは逆に排除するものなのか。

渡辺八畳が主宰する詩誌「BONE」vol.3(2022年)の特集は、「読点、と句点。」だった。ここで渡辺は詩における句読点の重要性を見直すべく、具体的なフィールドワークを行っている。『現代詩手帖』『詩と思想』がそれぞれ年末年始に組む、1年間の代表詩篇をまとめた企画の最新2年分を対象として、読点、句点、全角スペース(合わせて「約物」)の有無を調べるという確かな研究だ。それぞれの詩を行分け詩と散文詩にも分類し、各約物の有無と合わせて15パターンに分類し集計している。調査結果は詩誌を見てほしいが、散文詩を考えるにあたって外せない形式面の研究であり、非常に意義深い。
 また、特別企画「シロテン、で詩を書いてみた(※「、」は読点のシロ抜き)」は、かつて(欧文におけるセミコロンのように)句点と読点の中間として使われたシロテンを復古し詩作に活用するという企画であり、(西洋詩の)翻訳を考える上でも重要な視座を提示している。

 いま、散文のジャンルでは日記が流行を見せている。古典を想起すれば日記と名のつくものが文学たりうることに大して驚く必要はないのだが、他者への公開を前提として日記を書き始めたらば、それはもう日記ではなく随想、エッセイと名指せるものなのではないか(しかしそう単純な話ではない、というよりそう単純な話にしたくない)。「ただ書く」ということを可能にするための装置として、日記という名称があり、システムがあるのかもしれない。僕の感覚としては、日記とは自炊に非常に近いものだと思う。自炊した料理を写真に撮って、ネットにあげること。日記を公開すること。公開を前提とするからこそ、栄養摂取や備忘録という有用性を超えた、凝った作品が生まれる。
「ただ書く」を可能にすること。

それまで手段であったものを目的化することは創造的な戦略である。(「予報」)

 TOLTAの共同詩の実践は、それを可能にする一つの方法である。TOLTAの詩集『この宇宙以外の場所』(TOLTA、2018年)は19篇の詩を収めているが、そのどれもがメンバーの「誰かひとり」が作ったものではない。まずGoogleのスプレッドシートを共有して、メンバーの4人がそれぞれ好きなときに、用意されたマスの好きな位置にただ書きたい言葉を書く、「マスを埋める」。最終的にはそれらのマスを並び替えて詩の体裁を整え、タイトルを付けていくのだが、こうしてできあがった詩篇はどれも散文詩である、という形式上の特徴がある。というか、TOLTA自身は詩であると名乗っているのだが、これが散文詩であるのかもわからない。タイトルを有する端的な散文(特定のジャンルへの分類が不可能な)でしかないという可能性もある。
 この詩集の判型は15センチ四方の正方形で、紙も薄くとても軽い。とてもパラパラとめくれて、いたって普通の散文の文体は読むのに労を要さず、ゆっくり読んでも30分あれば通読できてしまう。書かれているのはどれもとりとめない日常のことや生活のアイデアで、特に意味のない情報として目に入ってくる。ちょうど車窓の風景を眺めているような感覚である。風景に意味を見出そうとすればかなり可能であるが、別にそのために見ているというのではなく、単に電車に乗っていて、他の行為をするより楽だからそうしている。席に座る以外の他の行為をしていなければ自然とそうなる。この詩集もそのように読めてしまう。でも、それだけなのになんだかおもしろい。もともとのマスに書かれた一つ一つの断片と、その恣意的な並び変えによる再構成によるものでしかない。が、それだけのことがわざわざ紙に印刷され、本の形を成しているということがすでにおもしろい。
 おそらくこれが散文の形でなく、それぞれの一文が行分けに書かれていたらあまりおもしろくない、読むに堪えないものになるのではないだろうか。ここに散文という表記のシステム、視覚的な作用の妙がある。

とんかつは平野でありキャベツはその背後にそびえる山脈である。よってとんかつの下にキャベツを敷くものは風景に対するセンスがない。(「予報」)

 たとえばこのような文章は、どこにも発表する場がなかったはずである。いまでこそツイッターなどがあるが、仮にこれを(詩人が)そのままツイートしても、せいぜい「いいね」が数件つくくらいだろう。というより、「マスを埋める」というパフォーマンスを通してしか、生まれえなかった詩行なのではないだろうか。それくらいこの詩行は新鮮であり、凡庸(common、すなわち、伝達可能な共有物として開かれているということ)である。方法の発明が新たな詩句を開発する。

 別のかたちの共同詩の事例として、詩誌『透けやすい』3号に触れておきたい。著者である「透けやすい人々」は、「インカレポエトリ」をきっかけに集った20代の若い詩人たちである。メンバー7人中、6人が「インカレポエトリ叢書」から詩集を出しており、精力的に活動している。今号の目玉が、「一緒に聞いてください」と題した共同詩の制作である。メンバーが3人ずつに分かれて2つのチームを結成し、「何かを一緒に聞く」をお題として一篇の詩を制作するという内容だ。両チームの制作過程については詳しい説明が載っているので本誌を実際に読んでみてほしい。結果として、Aチームは「世界パチンコ」、Bチームは「無題」という詩を提出した。前者のタイトルも詩じたいに対してというより、共同詩の方法に付けられたネーミングであって、実質両チームとも特別の題をつけなかったということになる。詩のタイトルをみんなで考えるのは本当に難しいことだと想像する。というのも、タイトルこそ最も詩人の「趣味」が出てしまうものだからだ。
 どちらの作品もそれじたいおもしろく、制作方法もオリジナルなものであったが、いちど他者が生み出した詩行に介入することの難しさを感じた。特にAチームに関しては「この詩は誰っぽい」という話で盛り上がるなど、「誰が何をどうしたか」という点が(方法上の問題から)ことさらに意識されていた。結果として、両チームとも「共同で詩を作る」こと以上に、「聞く」を起点に詩を作るという、聴覚と視覚、音と意味の関係という詩の原理的な問いを強く引き受けているように感じた。そうであれば共同で詩を作ることの意義は、結局は個人では(詩人としての自我によって)なかなか気が進まない詩の書き方を、みんなでやるという名目のもとで実行可能にすることにあるのかもしれない。今後も共同詩の挑戦に期待したい。(煎じ詰めれば「企画(プロジェクト)とは何か」という問いは、現代の哲学が取り組んでいる課題であるし、ユーチューバーが日々示してくれるものでもある。)
 余談だが、チームに分かれてお題に即した詩を作るというのは、かつてテレビ番組「SMAP×SMAP」の名物コーナーだった「BISTRO SMAP」を連想させた。番組では中居正広以外の4人がペアに分かれ、ゲストの注文に応じて料理を提供する。最後にゲストはどちらのペアが上だったかを判定しなければならないのだが(私の母親は、キムタクがいる方のペアの勝率があからさまに高いことを批判していた)、「透けやすい」についても今号は企画に参加しなかった川上雨季に票を投じてほしかったと思わなくもない。大きく性質の異なる二つの詩に対してそれを行うことは、困難を極めること必定だろうが。

 普段使わない詩の筋肉を使うための方法として、連詩もありうる。1999年に大岡信が創設した「しずおか連詩」は、2009年から野村喜和夫が捌き手を引き継ぎ、今に至るまで静岡県の支援のもとに毎年開催されている。共同で詩を書くという点は共同詩と共通するものの、しずおか連詩では連歌・連句の伝統的なスタイルを受け継ぎ、他者の詩行に直接介入することはない。あくまでそれぞれの書き手が、それまでの詩行を引き継ぎ、書き足していくという流れで詩は紡がれる。その作品集(2005年以降のアーカイブ)として、『しずおか連詩 言葉の収穫祭』(左右社)が昨年12月に刊行されたことは、ここに書き添えておくのが適切だろう。

自由詩時評第304回 田中さとみさんの個人誌「Hector」(小鳥書房発行)より~『草達磨と残雪』って、いったい何? 髙野 尭

2024年06月07日 | 詩客
 まずそれは、「紙縒」に″ミイラ″という魔法のルビが振られ、その捩じられた白い細身の姿容が見たこともない異次元の擬態として名付けられることによって、読み手をいきなり架空セカイへ垂直的に連れ去る。メタバース擬きで吃音調に滑り出す「言の劇」の真昼間に放り込まれた読み手は眼を晦まされ、と同時にフェーリックな言の幕が開ける。

紙縒をハサンだ ハズレ の暦も う誰も
住んではなイ ナイ ハナ レ がありまし た

(冒頭一聯目)


 「誰も住んではなイハナレ」はローマ時代の僧院のような造りをしている。読者を架空の天上セカイへ連れ去る虚構の主体は、そのハナレが置かれた敷地内を遊歩し始める。牧草のにおいが立ち込める中庭では「草達磨」が説法をしている。「……水盤の千利休を傾けた 黒いガーターベルトの霰」。不思議な感覚だけを残す。何かの描写だと思わせながら「水盤の千利休」「黒いガーターベルトの霰」はイメージ化を宙吊りにされたまま、なんの脈絡もなく接合されたコトバの置物のように横たえられる。これら「水盤」「千利休」それから「黒いガーターベルト」と「」などの異物間では、この世のものではないという接続上の摩擦が起こり、その衝突を天上的にスパークさせる。コトバが潜在的に孕む非存在性―その虚構ソンザイの閃光がそこで一瞬奔るさまが、ボクには幻視幻視ミエる、のだ。シュルレアリスム風にコトバの生成変化を狙っての措辞にはちがいないが、それは「田中さとみ」という詩人主体に備わる属性(趣味・嗜好)を露呈させる素振でもあり、また非現実的なコトバのタッグを組ませる、夢幻的であると共に詩人の生を剝きだしに見せるかのような、現実否定のマジックだ。
 シュルレアリスムの新奇な手法の中で、この作品が映し出す、現実にはない未知なる写像を特異な表現領域に変容させている方法がここに二つある、とボクは観る。一つは遠い者(語差)同士を接合しレアなシンタックスを創る。もう一つは「ディペイズマン」という日常的な使用(その土地その土地で慣れた意味が通じる使い方)から全く別の土地へ移植し同じく異化効果(無意味)を得る方法である。先に指摘した「水盤の千の利休」や「草達磨が説法している鞭の牧草…」などがそうだ。プロソポペイア(活喩法)でもある。
 少し整理して読んでみよう。冒頭では例の「紙縒」、それに空間描写する「ハナレ」「コリント」「アトリウム」という異質な組み合わせを為す語群が醸す、結ばれうる非経験的なイメージのセカイが一旦中断されるのだが。ここでちょっとだけ俯瞰の目線に退き覗いてみよう。するとありきたりではあるが、和洋の古代が折衷された現代日本のどこか、遊園地だとかオシャレな公園とか、ありそうな「どこか」に似てくるのではないか。さらにはなんと「かけがえのない日々ということをあなたは忘れている」という天からの声が聞こえてくるのだ。ボクは、この声は田中さとみの地声である、と言ってみたい。中尾太一さん流に言うと「主体の無償性」の声だ。詩的イメージとは、生成される未知なるイメージそれ自体の反響を越えて、自分がすでに生きられた様々な現実の経験へと連れ戻す機能をも果たすのだとも言いたくなる。数ある脳内シナプスの結び目をシャッフルさせるかのように、(今を楽しめ)とも読み替えられる田中の地声がイメージのセカイに亀裂を入れ割り込んでくるのだ。
 さて垂直的な天上セカイへ戻ろう。すでにこの世ではない。なぜなら「鞭 の牧草のにおい」をあえてメタファーのように読み、また「水盤の千の利休」をメトニミーとして読みあてるにせよ、これら異化効果を放つ奇形のシニフィアンには意味づけられるシニフィエが欠落した表面だけが剥きだされているからだ。むしろこの修辞的文彩によって立ち上がってくる異化効果を引き受けるのは、ただ謎のXのみだ。こうして和洋折衷的現実セカイからこの世ではない可塑的な現実セカイに変容した虚構的形象は、空を起点としながら火や水が、バシュラールの空間の詩学で演じられるように空中戦を擬態しつつ「羽状縫い」という天使擬きの姿態で舞う。竟に言語の牢獄ともいうべき規範性に抗いつつもやむなく統べられる「垂直」に新しく産出される詩語たちの絆は、果たしてもろくも儚い断片として中空に彷徨い、最後は地上に撒布され舞い降りることしか叶わないのだ。
 こうして第四セカイとも呼びたくなる言語的空虚を産み落とした主、つまり謎めいた地上の天使は、次に「采女」のペルソナに変態し再登場を遂げる。しかし妙なことにこの「采女」は、ひたすら瞑想(迷走)に耽り続けると和服姿らしい「采女」の紬の着物が静かに呼吸し始め、ストローで「」の字を描きながら吸われる茶に見立てられたカフェラテの表面には映えた疑似宇宙が想起される。
 
たねもしかけもありません

 こう嘯いたあと、名古屋帯がしめられた人形の写実的な描写に転換され、ふたたび「なべづるの」「玉簾の領域」という謎の呪文によって我に返るのは硬派な萌えキャラの人形ではなく、幻詩界に浸りきった「采女」ご本人なのだ。だが幻戯の肯定命題「たねもしかけもあります。」という呪文が唱えられると再帰的に古代ローマの場面が立ち上がってくる。
 ここから田中劇場はペルソナの交代劇を演出しながらリアルに真剣味がましてくるのだ。
 冒頭詩篇の最後では

あるいはまた、途切れることなくその軌跡を想い出す。

 これもまた詩人主体の断片的詩句への愛着を語る、いかにも正直な告白は、先述された幻視セカイを入れ子状にしまう述部だということに気づかされる。こうして田中の分身らしい「采女」やまたそれを取り巻く夢幻体験が詩人の白昼夢のように分身された「采女」を媒介しつつ外部セカイを構築する構造的魔法が露呈し始める。確信犯の所業と言っていいだろう。だが妄想体験をここまで様々なキャラに自己投影させつつ無意味な謎のセカイへ読み手を誘う手付には感服せざるをえない。なぜならこの「セカイ」というデーターベースの設定では、どこかにありそうなあるXの潜在性が仄めかされているからだ。