けれどわたしがX軸の方向から街々へはいってゆく
と 記憶はあたかもY軸の方向から蘇ってくるのであ
った それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたら
なかった忘却といふ手易い未来にしたがふためにわた
しは上昇または下降の方向としてZ軸のほうへ歩み去
ったとひとびとは考へてくれてよい そしてひとびと
がわたしの記憶に悲惨や祝福をみつけようと願ふなら
ば わたしの歩み去ったあとに様々の雲の形態または
建築の影をとどめるがよい
河野聡子の詩集「やねとふね」は、電子書籍である。マイナビeBookが展開するマイナビブックスブログ「日々は紙から飛びだして」(現在はリニューアルされて「ことばのかたち」)に発表された16編の連作を一冊にまとめたのものだ。
「ことばのかたち」では現代詩、短歌、俳句を代表する個性的な作家が作品を連載し、それぞれの連載が数百円という廉価で電子書籍にまとめられKindle等でも読める新しい発表の場だ。縦書きで読めるので作品の世界を大切にしたい読者には電子書籍版を強くお勧めするが、「やねとふね」は現在もブログ形式で無料公開されている。
巻頭詩「亡命者」で設定されている作品の舞台はこうだ。作中のわたしは亡命者として今は、あかるいやねとさかなの国 (この国)にいて、この国はたくさんのふね(飛行船)によって宙に浮いている。亡命する前にいたわたしの国(あの国)では、自分をわたしたちと呼び合い、丘を越えて土の上を歩き小学校に通っていた。けれどもあることをきっかけにわたしたちは別れ、今ももう一人のわたしはあの国にいる。y軸方向の分裂である。
電子書籍版の「まえがき」にはこうある。
たくさんの出来事がインタ ーネットのメディアを通じて伝えられ 、それについてさまざまな立場の人が考え 、書いた文章も 、インタ ーネットの上でみつけることができます 。
(中略)
連作 「やねとふね 」は 、インタ ーネットを通じて得たぼんやりした絵をみながら架空の国を書いてみた結果 、出力されたものです 。もとの絵も書き手もぼんやりしているので 、ぼんやりした話ばかりですが 、宙に浮いているどこかの国のお話として 、読んでいただければ幸いです 。
ぼんやりあることは、この作品の生命線になっている。連作は優れた構成で、一つ一つの詩を章として全体を一つの短編小説のように読むこともできるし、この詩ではデモが、この詩ではブラック企業が扱われているのではないか? と読者が一つの詩の背景にある社会問題を想像して読み解くこともできる。けれども、作者の側から起こっている問題にブラック企業というラベルを張ることは詩作とは逆の行為で、名づけられることで縛られてしまった事象を一度剥がしてぼんやりさせてから、河野氏自身が詩の言語で新しく創出させているのだ。例えばジョージ・オーウェルの小説「動物農場」や「1984」は、具体的な人物や出来事や思想をはっきりと作品の中に当てはめたり、物語を押し出して寓意を強めている。が、この作品では注意深くそれを避け、巧みにぼんやりとさせている。明確なストーリーという地図ではなく、迷路のような詩想の筋書きが読者に言外の空気ごと手渡される。小説とは違う詩の世界の靄である。詩は輪郭線ではなく、靄の濃淡で書かれる。
現代の詩歌に「国」という言葉が使われる時、そこに、アイロニーを感じずにはいられない。
国が 国がとあなたは言うがつづまりは職員Aなり蒼ざめた鳥
という短歌を思い出した。この歌では、国は強大な権力の象徴として表れるが、国という観念は観念であるために具体的な実行者にはなれない。つまりは主語は「国が」ではなく、匿名の一職員であることが鋭い洞察と、鮮やかな反転によって描かれている。
インターネットは情報に様々なベクトルがかかり感情が渦巻く広大なカオスだが、そこから得たインスピレーションをもとに創られた河野氏の「宙に浮いているどこかの国」も現代社会へのアイロ二―に満ちた抽象画のようであり、そこに生きる「わたし」の分裂と再生が大きなテーマになっている。
この国の人々はやねに種をまいている
消毒された肥沃な苗床がみどりの芽に覆われ
強い光を吸いこんでいる
すべての発芽した種を移植する
なにひとつ無駄にしない
誇らしげに人々はやねのしたで涼しく暮らす
この国の土は正常です。
あの国の土とちがって。
すべての生命は平等にその生命をまっとうする
ガーデナーはその手助けをするでしょう
わたしの国の屋根はとても遠くにあったから
わたしはいつも種を足元にまいた。
足のまわりを動物が、害虫が、細菌が、ウイルスが、
やってきては通りすぎた。
雨が降り、陽が照った。
わたしの土は、清浄な土ではなかった。
わたしの土は、きれいな土だった。
靴底の小石や、死んだ動物や、虫や、発酵した枯葉がまじった、
いいにおいのする、おだやかで、ためらいのない土だった。
わたしの国の遠く高い屋根をこえた日から、
わたしはわたしの土から切り離され、
いま、きれいなやねに種をまいている。
水栽培の衛生的な植物工場の白衣を着たガーデナーが目に浮かぶが、清潔で明るいという、普通であれば望ましいとされる形容表現がここでは好悪が逆転し強烈な皮肉になっている。この国の内情はこのように各詩の中で明らかになっていくのだが、詩のタイトルがいずれも人の立場や職業であり、仕事を通して一見美しいこの国の歪みが浮かび上がってゆくのだ。善悪や恐ろしさと美しさを逆転させながら。
静かな幽霊とわたし、わたしとわたし、あなたとわたしの関係性に注意深く読んでいくと最後の詩では、それまでに張られた伏線が美しく回収されながら、しかし、それもやはり小説のようなストーリーの帰着ではなく、まるで靄があつまって翼のかたちを描くようにわたしのこころの統合へと向かう。
望まれているのは、足りないものを補いながら歩いていけるようになること。
さかなが泳ぐほどの可能性がある、うすぐらい雨のなかでは
あなたは大丈夫だ
かれらは何も知ることができないから
あなたが知らなくても、知らないことを忘れて
たぶんわたしが教えてあげられるだろう
正しく言葉にできないことも言葉にする幽霊たちを味方につけて、
わたしは土を掘るが、あなたはまだ深いところにいて、下から掘り、掘りかえしている
下には影と発酵した落ち葉の香りが満ち
あなたが転生した小石、死んだ動物や昆虫たちが
しゃべる魂になってもういちど、あなたが生まれてきたならば
生まれないという意味はこの世界からなくなる
わたしを内包する、いわばメタわたしとでも言うべき存在が、わたしであるあなたへと語りかける。ここでのあなたは分裂しているもう一人のわたしであるが、これまで作品世界を体験してきた読者には、あなたへの語りかけが読者自身への肯定のように詩の靄の作り出す多層空間では何重にも響くのだ。
望まれているのは、足りないものを補いながら歩いていけるようになること。
靄の中のひかりのような一行はわたしとあなた、そしてわたしたち読者に示された穏やかで確かな道だ。
生まれないという意味はこの世界からなくなる。
なんて力強い最終行なのだろう。あなたさえいれば、この世界の全域から生まれないという意味がなくなるのだ。生まれないことは無で、生まれることであなたは、一つの世界を有する。足りないもの補うために私たちは今、「この国」の土を掘り返す時なのだ。
最後にもう一冊、ここでは紹介に留めるが、『やねとふね』を読んで思い出した詩集がある。やはり詩の靄で書かれた存在を問う作品だ。
加藤思何理『すべての詩人は水夫である』(土曜美術社出版)では、表題作になっている詩に、水夫も船も登場しない。被害者も加害者もいない殺人事件現場で拾った父の時計もポケットから消え、父も私も不在なのだ。この詩の存在すら疑いたくなる謎めいた作品に、『すべての詩人は水夫である』という題がつけられている。あなたならどう読むだろうか?
と 記憶はあたかもY軸の方向から蘇ってくるのであ
った それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたら
なかった忘却といふ手易い未来にしたがふためにわた
しは上昇または下降の方向としてZ軸のほうへ歩み去
ったとひとびとは考へてくれてよい そしてひとびと
がわたしの記憶に悲惨や祝福をみつけようと願ふなら
ば わたしの歩み去ったあとに様々の雲の形態または
建築の影をとどめるがよい
吉本隆明『固有詩との対話』より
河野聡子の詩集「やねとふね」は、電子書籍である。マイナビeBookが展開するマイナビブックスブログ「日々は紙から飛びだして」(現在はリニューアルされて「ことばのかたち」)に発表された16編の連作を一冊にまとめたのものだ。
「ことばのかたち」では現代詩、短歌、俳句を代表する個性的な作家が作品を連載し、それぞれの連載が数百円という廉価で電子書籍にまとめられKindle等でも読める新しい発表の場だ。縦書きで読めるので作品の世界を大切にしたい読者には電子書籍版を強くお勧めするが、「やねとふね」は現在もブログ形式で無料公開されている。
巻頭詩「亡命者」で設定されている作品の舞台はこうだ。作中のわたしは亡命者として今は、あかるいやねとさかなの国 (この国)にいて、この国はたくさんのふね(飛行船)によって宙に浮いている。亡命する前にいたわたしの国(あの国)では、自分をわたしたちと呼び合い、丘を越えて土の上を歩き小学校に通っていた。けれどもあることをきっかけにわたしたちは別れ、今ももう一人のわたしはあの国にいる。y軸方向の分裂である。
電子書籍版の「まえがき」にはこうある。
たくさんの出来事がインタ ーネットのメディアを通じて伝えられ 、それについてさまざまな立場の人が考え 、書いた文章も 、インタ ーネットの上でみつけることができます 。
(中略)
連作 「やねとふね 」は 、インタ ーネットを通じて得たぼんやりした絵をみながら架空の国を書いてみた結果 、出力されたものです 。もとの絵も書き手もぼんやりしているので 、ぼんやりした話ばかりですが 、宙に浮いているどこかの国のお話として 、読んでいただければ幸いです 。
ぼんやりあることは、この作品の生命線になっている。連作は優れた構成で、一つ一つの詩を章として全体を一つの短編小説のように読むこともできるし、この詩ではデモが、この詩ではブラック企業が扱われているのではないか? と読者が一つの詩の背景にある社会問題を想像して読み解くこともできる。けれども、作者の側から起こっている問題にブラック企業というラベルを張ることは詩作とは逆の行為で、名づけられることで縛られてしまった事象を一度剥がしてぼんやりさせてから、河野氏自身が詩の言語で新しく創出させているのだ。例えばジョージ・オーウェルの小説「動物農場」や「1984」は、具体的な人物や出来事や思想をはっきりと作品の中に当てはめたり、物語を押し出して寓意を強めている。が、この作品では注意深くそれを避け、巧みにぼんやりとさせている。明確なストーリーという地図ではなく、迷路のような詩想の筋書きが読者に言外の空気ごと手渡される。小説とは違う詩の世界の靄である。詩は輪郭線ではなく、靄の濃淡で書かれる。
現代の詩歌に「国」という言葉が使われる時、そこに、アイロニーを感じずにはいられない。
国が 国がとあなたは言うがつづまりは職員Aなり蒼ざめた鳥
加藤治郎 『しんきろう』
という短歌を思い出した。この歌では、国は強大な権力の象徴として表れるが、国という観念は観念であるために具体的な実行者にはなれない。つまりは主語は「国が」ではなく、匿名の一職員であることが鋭い洞察と、鮮やかな反転によって描かれている。
インターネットは情報に様々なベクトルがかかり感情が渦巻く広大なカオスだが、そこから得たインスピレーションをもとに創られた河野氏の「宙に浮いているどこかの国」も現代社会へのアイロ二―に満ちた抽象画のようであり、そこに生きる「わたし」の分裂と再生が大きなテーマになっている。
この国の人々はやねに種をまいている
消毒された肥沃な苗床がみどりの芽に覆われ
強い光を吸いこんでいる
すべての発芽した種を移植する
なにひとつ無駄にしない
誇らしげに人々はやねのしたで涼しく暮らす
この国の土は正常です。
あの国の土とちがって。
すべての生命は平等にその生命をまっとうする
ガーデナーはその手助けをするでしょう
わたしの国の屋根はとても遠くにあったから
わたしはいつも種を足元にまいた。
足のまわりを動物が、害虫が、細菌が、ウイルスが、
やってきては通りすぎた。
雨が降り、陽が照った。
わたしの土は、清浄な土ではなかった。
わたしの土は、きれいな土だった。
靴底の小石や、死んだ動物や、虫や、発酵した枯葉がまじった、
いいにおいのする、おだやかで、ためらいのない土だった。
わたしの国の遠く高い屋根をこえた日から、
わたしはわたしの土から切り離され、
いま、きれいなやねに種をまいている。
「やねとふね ガーデナー」より
水栽培の衛生的な植物工場の白衣を着たガーデナーが目に浮かぶが、清潔で明るいという、普通であれば望ましいとされる形容表現がここでは好悪が逆転し強烈な皮肉になっている。この国の内情はこのように各詩の中で明らかになっていくのだが、詩のタイトルがいずれも人の立場や職業であり、仕事を通して一見美しいこの国の歪みが浮かび上がってゆくのだ。善悪や恐ろしさと美しさを逆転させながら。
静かな幽霊とわたし、わたしとわたし、あなたとわたしの関係性に注意深く読んでいくと最後の詩では、それまでに張られた伏線が美しく回収されながら、しかし、それもやはり小説のようなストーリーの帰着ではなく、まるで靄があつまって翼のかたちを描くようにわたしのこころの統合へと向かう。
望まれているのは、足りないものを補いながら歩いていけるようになること。
さかなが泳ぐほどの可能性がある、うすぐらい雨のなかでは
あなたは大丈夫だ
かれらは何も知ることができないから
あなたが知らなくても、知らないことを忘れて
たぶんわたしが教えてあげられるだろう
正しく言葉にできないことも言葉にする幽霊たちを味方につけて、
わたしは土を掘るが、あなたはまだ深いところにいて、下から掘り、掘りかえしている
下には影と発酵した落ち葉の香りが満ち
あなたが転生した小石、死んだ動物や昆虫たちが
しゃべる魂になってもういちど、あなたが生まれてきたならば
生まれないという意味はこの世界からなくなる
やねとふね「いまわたしはあかるいやねとさかなの国にいる」 より
わたしを内包する、いわばメタわたしとでも言うべき存在が、わたしであるあなたへと語りかける。ここでのあなたは分裂しているもう一人のわたしであるが、これまで作品世界を体験してきた読者には、あなたへの語りかけが読者自身への肯定のように詩の靄の作り出す多層空間では何重にも響くのだ。
望まれているのは、足りないものを補いながら歩いていけるようになること。
靄の中のひかりのような一行はわたしとあなた、そしてわたしたち読者に示された穏やかで確かな道だ。
生まれないという意味はこの世界からなくなる。
なんて力強い最終行なのだろう。あなたさえいれば、この世界の全域から生まれないという意味がなくなるのだ。生まれないことは無で、生まれることであなたは、一つの世界を有する。足りないもの補うために私たちは今、「この国」の土を掘り返す時なのだ。
最後にもう一冊、ここでは紹介に留めるが、『やねとふね』を読んで思い出した詩集がある。やはり詩の靄で書かれた存在を問う作品だ。
加藤思何理『すべての詩人は水夫である』(土曜美術社出版)では、表題作になっている詩に、水夫も船も登場しない。被害者も加害者もいない殺人事件現場で拾った父の時計もポケットから消え、父も私も不在なのだ。この詩の存在すら疑いたくなる謎めいた作品に、『すべての詩人は水夫である』という題がつけられている。あなたならどう読むだろうか?