「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評 第137回 多層の詩の靄~河野聡子 やねとふねを読む 中家菜津子 

2014年12月25日 | 詩客
けれどわたしがX軸の方向から街々へはいってゆく
と 記憶はあたかもY軸の方向から蘇ってくるのであ
った それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたら
なかった忘却といふ手易い未来にしたがふためにわた
しは上昇または下降の方向としてZ軸のほうへ歩み去
ったとひとびとは考へてくれてよい そしてひとびと
がわたしの記憶に悲惨や祝福をみつけようと願ふなら
ば わたしの歩み去ったあとに様々の雲の形態または
建築の影をとどめるがよい

吉本隆明『固有詩との対話』より


 河野聡子の詩集「やねとふね」は、電子書籍である。マイナビeBookが展開するマイナビブックスブログ「日々は紙から飛びだして」(現在はリニューアルされて「ことばのかたち」)に発表された16編の連作を一冊にまとめたのものだ。
 「ことばのかたち」では現代詩、短歌、俳句を代表する個性的な作家が作品を連載し、それぞれの連載が数百円という廉価で電子書籍にまとめられKindle等でも読める新しい発表の場だ。縦書きで読めるので作品の世界を大切にしたい読者には電子書籍版を強くお勧めするが、「やねとふね」は現在もブログ形式で無料公開されている。

 巻頭詩「亡命者」で設定されている作品の舞台はこうだ。作中のわたしは亡命者として今は、あかるいやねとさかなの国 (この国)にいて、この国はたくさんのふね(飛行船)によって宙に浮いている。亡命する前にいたわたしの国(あの国)では、自分をわたしたちと呼び合い、丘を越えて土の上を歩き小学校に通っていた。けれどもあることをきっかけにわたしたちは別れ、今ももう一人のわたしはあの国にいる。y軸方向の分裂である。

 電子書籍版の「まえがき」にはこうある。

 たくさんの出来事がインタ ーネットのメディアを通じて伝えられ 、それについてさまざまな立場の人が考え 、書いた文章も 、インタ ーネットの上でみつけることができます 。
(中略)
 連作 「やねとふね 」は 、インタ ーネットを通じて得たぼんやりした絵をみながら架空の国を書いてみた結果 、出力されたものです 。もとの絵も書き手もぼんやりしているので 、ぼんやりした話ばかりですが 、宙に浮いているどこかの国のお話として 、読んでいただければ幸いです 。


 ぼんやりあることは、この作品の生命線になっている。連作は優れた構成で、一つ一つの詩を章として全体を一つの短編小説のように読むこともできるし、この詩ではデモが、この詩ではブラック企業が扱われているのではないか? と読者が一つの詩の背景にある社会問題を想像して読み解くこともできる。けれども、作者の側から起こっている問題にブラック企業というラベルを張ることは詩作とは逆の行為で、名づけられることで縛られてしまった事象を一度剥がしてぼんやりさせてから、河野氏自身が詩の言語で新しく創出させているのだ。例えばジョージ・オーウェルの小説「動物農場」や「1984」は、具体的な人物や出来事や思想をはっきりと作品の中に当てはめたり、物語を押し出して寓意を強めている。が、この作品では注意深くそれを避け、巧みにぼんやりとさせている。明確なストーリーという地図ではなく、迷路のような詩想の筋書きが読者に言外の空気ごと手渡される。小説とは違う詩の世界の靄である。詩は輪郭線ではなく、靄の濃淡で書かれる。

 現代の詩歌に「国」という言葉が使われる時、そこに、アイロニーを感じずにはいられない。

国が 国がとあなたは言うがつづまりは職員Aなり蒼ざめた鳥  
加藤治郎 『しんきろう』


 という短歌を思い出した。この歌では、国は強大な権力の象徴として表れるが、国という観念は観念であるために具体的な実行者にはなれない。つまりは主語は「国が」ではなく、匿名の一職員であることが鋭い洞察と、鮮やかな反転によって描かれている。
 インターネットは情報に様々なベクトルがかかり感情が渦巻く広大なカオスだが、そこから得たインスピレーションをもとに創られた河野氏の「宙に浮いているどこかの国」も現代社会へのアイロ二―に満ちた抽象画のようであり、そこに生きる「わたし」の分裂と再生が大きなテーマになっている。

この国の人々はやねに種をまいている
消毒された肥沃な苗床がみどりの芽に覆われ
強い光を吸いこんでいる
すべての発芽した種を移植する
なにひとつ無駄にしない
誇らしげに人々はやねのしたで涼しく暮らす
この国の土は正常です。
あの国の土とちがって。
すべての生命は平等にその生命をまっとうする
ガーデナーはその手助けをするでしょう

わたしの国の屋根はとても遠くにあったから
わたしはいつも種を足元にまいた。
足のまわりを動物が、害虫が、細菌が、ウイルスが、
やってきては通りすぎた。
雨が降り、陽が照った。
わたしの土は、清浄な土ではなかった。
わたしの土は、きれいな土だった。
靴底の小石や、死んだ動物や、虫や、発酵した枯葉がまじった、
いいにおいのする、おだやかで、ためらいのない土だった。
わたしの国の遠く高い屋根をこえた日から、
わたしはわたしの土から切り離され、
いま、きれいなやねに種をまいている。

「やねとふね ガーデナー」より



 水栽培の衛生的な植物工場の白衣を着たガーデナーが目に浮かぶが、清潔で明るいという、普通であれば望ましいとされる形容表現がここでは好悪が逆転し強烈な皮肉になっている。この国の内情はこのように各詩の中で明らかになっていくのだが、詩のタイトルがいずれも人の立場や職業であり、仕事を通して一見美しいこの国の歪みが浮かび上がってゆくのだ。善悪や恐ろしさと美しさを逆転させながら。

  静かな幽霊とわたし、わたしとわたし、あなたとわたしの関係性に注意深く読んでいくと最後の詩では、それまでに張られた伏線が美しく回収されながら、しかし、それもやはり小説のようなストーリーの帰着ではなく、まるで靄があつまって翼のかたちを描くようにわたしのこころの統合へと向かう。


望まれているのは、足りないものを補いながら歩いていけるようになること。

さかなが泳ぐほどの可能性がある、うすぐらい雨のなかでは
あなたは大丈夫だ
かれらは何も知ることができないから
あなたが知らなくても、知らないことを忘れて
たぶんわたしが教えてあげられるだろう
正しく言葉にできないことも言葉にする幽霊たちを味方につけて、
わたしは土を掘るが、あなたはまだ深いところにいて、下から掘り、掘りかえしている
下には影と発酵した落ち葉の香りが満ち
あなたが転生した小石、死んだ動物や昆虫たちが
しゃべる魂になってもういちど、あなたが生まれてきたならば
生まれないという意味はこの世界からなくなる

やねとふね「いまわたしはあかるいやねとさかなの国にいる」 より


 わたしを内包する、いわばメタわたしとでも言うべき存在が、わたしであるあなたへと語りかける。ここでのあなたは分裂しているもう一人のわたしであるが、これまで作品世界を体験してきた読者には、あなたへの語りかけが読者自身への肯定のように詩の靄の作り出す多層空間では何重にも響くのだ。

望まれているのは、足りないものを補いながら歩いていけるようになること。

 靄の中のひかりのような一行はわたしとあなた、そしてわたしたち読者に示された穏やかで確かな道だ。

生まれないという意味はこの世界からなくなる。

 なんて力強い最終行なのだろう。あなたさえいれば、この世界の全域から生まれないという意味がなくなるのだ。生まれないことは無で、生まれることであなたは、一つの世界を有する。足りないもの補うために私たちは今、「この国」の土を掘り返す時なのだ。

 最後にもう一冊、ここでは紹介に留めるが、『やねとふね』を読んで思い出した詩集がある。やはり詩の靄で書かれた存在を問う作品だ。
加藤思何理『すべての詩人は水夫である』(土曜美術社出版)では、表題作になっている詩に、水夫も船も登場しない。被害者も加害者もいない殺人事件現場で拾った父の時計もポケットから消え、父も私も不在なのだ。この詩の存在すら疑いたくなる謎めいた作品に、『すべての詩人は水夫である』という題がつけられている。あなたならどう読むだろうか?

自由詩評 輝きの後ろに 依光陽子

2014年12月01日 | 詩客
 「俳句は上から下へ言葉に添ってゾロゾロと読み下すものではなく、一句の上下同時に眼にはめ込まれるようにうけとられるものである。俳句一行のこの棒は、私には眼玉の直径となり得るギリギリの長さのように思われてならない。眼玉の直径は、一つの世界の直径であり、直径はその世界を決めるものである。一つの世界の重圧のかかる一行は当然、強固な、いつまでも終らない能力をもった言葉であらねばならない」(「言葉の現れるとき」)と、先達、飯島晴子は述べた。このたびいろいろな詩を読みながら私は気がつくとこの言葉を思い出していた。詩は、言葉の配置や余白で緻密に構成されているから、全体で捉えるのが本意なのだろうが、俳人である私はつい部分に目が行ってしまう。そして、部分あるいは行が統合して発生する吸引力の有無によって一篇の詩を好ましいか好ましくないか振り分けてしまう。相も変わらず、詩の良し悪しを判断する力はない。ただ、詩にかける作者の想いは迫力となってドスンと私を揺さぶる。私はその「詩的体験」を求めているのだ。

 私は句会などで度々「俳句は意味じゃない」と言う。逆に「意味がわからない」といって退けることもある。相矛盾した自分の物言いに立ち止まってみると、それはゴダールの言葉を借りれば「努めて物事を見ること。努めて物事を想像すること。前者は“目を開けて見よ”、後者は“目を閉じよ”ということ」だろう。詩を読むときも、自分で自分の作り出した世界に酔っているような、意味で終わっている詩にはあまり魅力を感じない。詩は「意味として捉えること以上の」ものであり、むしろそこにこそ詩の本質があるとも思うからだ。言葉から意味を剥がすことは困難だが、詩も俳句も、意味の後ろ側にあるもの、見えているものの後ろ側に確かに存在している何かを表そうとする試みにおいて、短歌よりもより近いと言えなくはないか。
 

     たくさん
     さんらん
     している

     光もないのに勝手な手口で影と化した者たちが、口をあけて笑っている。あり
     ふれた光景だ。影はいつからか、当たり前に射し込んで、照らすように匿す。
     転倒するときにそこへ至る足どりを思う、そしてなにかへの途上で、立ち上が
     り過つ。また過つ。遂に喪われるなにかから、影が射し込んで染め上げる。ヒ
     トガタのそれは、次つぎと現れてはたくさんでかたまって、哄笑する磁場とな
     る。都市の熱っぽいコンクリートの重なり合うそこに、否そこここに、何故か
     「おまえ」を卑屈にさせるような笑い声が満ちているのを、うまくやり過ごし、
     しかし白昼、「おまえ」の背中はもろくも影と崩れる。

小林坩堝「或る空白」より


 「おまえ」が私のことだと悟った刹那、影に、照らすように匿された私は、都市の熱っぽいコンクリートの重なり合うそこ(不特定のどこにでもある日常行き来する場)、また途上(人生の)で哄笑する影たちをうまくやり過ごし、逃れたはずの白昼に崩れる。私はバラバラになり欠片になる。しかし見上げれば、崩れずに依然ヒトガタである私が直立している。脆くも崩れる私は何者なのか。たくさんさんらんしているのは影か私の欠片か。ピーラーで皮を剥かれた馬鈴薯のような寒さだ。ああ、この感覚は痛いほどだ。

    いざ消滅へと抹消へと向かうひとりきりの行進に、最早凶器すらその必然性を
    欠き、血しぶきすら意味なく、行為の為の行為すら為されず、希望も絶望も
    追いつかない。
    死者ははじめ数字として並べられ、改めて明示され、名指され、焼尽の果てに、
    また数字へと戻る。
    血は理由にはならなかった、目的にもなり損なった。そのことを悟って自ら縊死
    する路を選ぶとき、圧倒的な空白が、その肉体を抱きとめるだろう。血まなこ
    で這いずりまわったその肉体は
    「きわめて健全であり健康である」。

同上

 
 この部分を読みながら、最近観たゴダール監督の映画『アワーミュージック』を思い出していた。映画の主人公オルガはロシア出身ユダヤ系フランス人女性で、平和のための自死を考え続けている女子学生である。そのオルガが「イスラエルの人が平和のために一緒に死んでくれればうれしい」と、たてこもった映画館で、バッグから本を取り出そうとしたときにテロリストと間違えられて射殺される。死の前に語った「生にも死にも無関心でこそ、完全な自由になれる。それが目標よ」という言葉。オルガにとって血は理由にはならず、目的にもなり損なって、結局自死ではなく他者によって死に至った。そして天国に赴くとき、まさに「圧倒的な空白」に「抱き留められ」、「きわめて健全であり健康」な姿を見せるのだ。
 現代を生きる行為は看破された。もう少しワタクシに引きつけるならば、表現者であることの「ひとりきりの行進」も、希望も絶望も追いつかないままの不確実さを常に曳きずりながら、書き続け、表現しつづける行為だ。たとえ「数字」で置き換えられてしまう終焉に向かうのが必然だとしても、小林は「きわめて健全で健康」なのだと大肯定で受けとめる。


    未明、
    無数の暮らしが、
    影とかたまるその時間に、
    ハッハッハッ
    散歩する者ども、
    暗いほうを暗いほうを
    目指して。

同上

 
 喜びも憤りも不安も、日常に均されていく。「その時間」、普段の暮らしを送るノーバディな私は、TVのバラエティ番組を見ては爆笑し、遠い土地での戦争のニュースを歎き、ゲーム農園の麦を刈り取りながら鉢植えの植物を枯らす。警鐘は鳴り続けているのだ。ハッハッハッ、このままでいくはずかない。動き出せ。
 ところでこの詩のモチーフは次の詩に通じるものがある。黒田喜夫の「爬行のとき」の断片を拾う。

    十月は生まれて死につつある
    おれは死から生まれつつある
    このときおれは自由になる
    あまりにも言葉も絶望も息絶え
    さけびが残る
    おれは夢のなにものも生まず
    さけびは街と群集を生む
    朝の底しれない口から吐き出された人たちが
    背姿から背姿へかさなってゆくと
    おれは押さえがたい嘔吐の躰をまげ
    人たちの足もとにながいさけびを生む
    硬変した日常と武器と
    肝臓をともに

黒田喜夫「爬行のとき」より


 底知れない口から吐き出された人たちは、生者か死者か。小林の詩において勝手な手口で影と化した者のようでもであり、同時に影に匿される者でもある。自由とさけびと嘔吐の循環の中に「おれ」は在りつづける。「おれ」は群集を生み、その姿を見て嘔吐の躰を曲げ叫ぶ。自己は他己に、他己は自己となりうることの戦慄。

 小林と黒田。生きている、生きてきた時代もまったく違うこの二人に通底しているものは何だろう。
 次の黒田の言葉が端的に示していよう。

<ひとつの心が世界、周囲、自然と親和した心境をなし、その心境をもとに、世界、周囲、自然との間の感情のやりとりを生花やボンサイを作るように詩の形にして満足するというようなことは、そこではもうできないのである>
<詩をかく自分に、その時の自分の全状況の全衝迫を、全部ぶちこまなければおさまらない>
<「私」も「意味」も、詩に駆られ生きられている動機にとっては、最低でも再帰的であり形成的であり、それが生きつつ生きられるところに現出されるものだろう。逐語の意味は全体の生きられる文脈とリズムの中の機能を通って極限化、超意味化、あるいは反立化される。その行為作用の言葉を生きること。近代以降の個人が述べがたいことを述べようとして、個の証明を(言葉の窮極性を)背理的にも共世界的・共人間的な振幅において求めようとせざるを得ない詩という行為の、それは内実の一片であると思う>

黒田喜夫『人はなぜ詩に囚われるか』


 生花や盆栽を軽んじている物言いは少々乱暴だが、物書きとしての宿命を受け入れた詩人の矜持と迫力が伝わってくる。俳人の中で俳句を書きつづけるという宿命を引き受ける覚悟を持った者はどれだけいるだろう。あまり多くないのではないだろうか。まあそれはさておき、詩という器は、黒田の言う「全状況の全衝迫を全部ぶちこむ」 だけの度量があると思う。 自由だ。自由だからこそ作者の意図を読み切ることも難しい。普段、極小の詩型の中で格闘している私が詩を読むとき、その自由さに絡めとられて、まるで迷宮に迷い込んでしまったように足が竦み、すごすごと引き返してしまうのはそのせいだろう。

 さて、俳句を書く私と、こうして詩を読む私と、働く私と、日常些事に振り回される私は、時代の危うさに少なからず怯えながら、崩れてバラバラになる寸前で自分をかろうじて保っている。私だけではない、きっとそういう人は今の社会には少なくないはずだ。

   正気ではないぼくたちの未来なら明日燃えていく人たちの言の葉もれて
   失うは安らぎでありいくつもの足に踏まれバラバラの破片になって
   バラバラの眼が見つづけるバラバラの掌つかむバラバラの語りかけても
   バラバラを許しはしない正しいといういつわりにせめてもの否を記せよと
   死んでいく人であるなら爪立てる道のはざまに正気ではないぼくたちの
   冷えていく体の内に傷付いたままにとどまりまだ沁みる過度の汚染が
   眩むまま迷宮になりバラバラの足首いたみバラバラの水の反射に
   バラバラの土地を辿ればバラバラの沈黙の果てバラバラに眼が溢れだし
   沈みいく片側からへ棒状になる背中へと誰ひとり結べはしない
   言葉すら踏みにじられる正気ではないぼくたちの日日の手が忘却されて
   ざらついた舌の面に切り結ぶ間合をとれば一面は荒れ果てていく
   バラバラのぱらのいあにもバラバラの天国かさねバラバラの腹が痛んで
   バラバラの念仏のあとバラバラへ水が満ちいく常ならぬ唾を吐きつけ
   いつまでも呟いている心臓が破裂していく磨滅する足裏のために
   正気ではないぼくたちのおとがいの崩れるままにただよいは漠とはじまり
   見えぬうち熱狂は去る遠景に侵食するバラバラの巻頭言が
   バラバラの末端としてバラバラの胴であるならバラバラの夕暮れになる
   バラバラを天国に置く問い詰める喉元までも虚になる終の棲家の
   ひきつれた笑いにも似る死にかけの腕を伸ばせば正気ではないぼくたちの
   土すらも失われいく明暗のしずくに濡れていつまでも叫びは止まず
   くぐつにもなる昼下がりバラバラの殺意にまでもバラバラの靴音までも
   バラバラの隔絶までもバラバラの予感にまでもバラバラに末端となる
   引き続く空蝉としてまだ消えぬ月影を追いいつまでも諍いつづき
   人たちの怒りは止まず正気ではないぼくたちの体温は安定せずに
   冷えていく掌こすりひび割れた空見あげれば突然の遠雷ひびき
   バラバラの声が落下しバラバラの火が燃え上がりバラバラの流血つづき
   バラバラの地軸が揺らぐバラバラへ靴音しるし片言のことばつぶやく
   吹きすぎる風に切られて空気すら波紋になるひと粒の毒が目に落ち
   正気ではないぼくたちのまだ見ない地形をたどる手に掴まれる

森川雅美「日録」(三詩型融合作品)


 身体中の穴という穴から一気に噴き出したような言葉、言葉。森川は夕暮れも殺意も予感も地軸も、私たちに関わる全てがバラバラだと言う。主語である「バラバラ」と状態を表す「バラバラ」、「正気ではないぼくたち」の連続によって、どこで切れても、逆にどこまで続けて読んでも意味を崩さず、かえってその重複が、反復運動が、リズムとスピードを増しながら、いくつものシーンが私を連射する。一行ごとに短い息をつく他は、意味に立ち止まることも許されない。連射された私は正気を剥ぎ取られ、そして未だ見ぬ地形をたどる手に掴まれるのだ。そうだ元々私はバラバラだったじゃないか。バラバラな世界にバラバラを保って生きているじゃないか。これがいつわりのない時代の姿だ。

  この詩、自由律短歌と詩を圧縮して詩化した新しい試みとして、地に限りなく近い言葉の曠野となった。私はこの詩篇の傍らで、静かな一つの石でいるしかない。しかしこの眩暈のような脈略は、全体の空間を感じさせることなしに否応なく読み手を突き動かしてゆく。まるで、かたまって降る音階のように。

 「笑」「吐」「崩」「影」「血」「水」

 最後にもう一度黒田の詩を引く。

    濁った河を見ていた
    荒々しい水音を聴いていた
    金色の
    腐った嘔吐のあとが洗われた

    またとない岸だ
    泥酔の無慈悲な純粋さだ

    丸太のように飛びこめば
    よいのだと思った

黒田喜夫「河」


 さて今回は三人の詩人の作品を見てきた。黒田喜夫については図書館に所蔵されているが、小林坩堝と森川雅美については、詩人の知人がいないため詩集を読む手だてがないまま今日に至っている。あいかわらず短詩型同士の壁それは厚く、風通しが悪い(同じ詩型内でも風通しがいいとは言えないが)。しかしそれぞれが全く別物で、それぞれに盛り込める内容が異なり、それぞれに魅力があることは疑う余地はない。私は前回より少しでも詩に近づけただろうか。近づけたとしたらとてもいい気分だ。

     私はバラバラじゃない。やるべきことをやっている。
 映画 <巨匠ニコラス・レイ教授の「映画の授業」>より


自由詩時評 第136回 十年後にやってくることが今年起きたり…… 藤井貞和 

2014年12月01日 | 詩客
 戦災の焼夷弾。のがれて落ち延びた家を六十九年ぶりに訪れるという詩を、鈴木志郎康さんがさとう三千魚さんのサイト(浜風文庫)に見せる(11月27日)。「その家の中で九歳の記憶を歩き回った。」――
  ……
  「六畳と八畳が続いて床の間があって、
  縁側の突き当たりが便所でしょう」と家の外から声を掛けると、
  「そうです、そうです。その通りです」と藤田さん。
  戦前の焼ける前のわたしが育った家と全く同じだ。
  その八畳の間に風邪を引いて寝ている子供のわたしが
  母がリンゴを擦って持ってきてくれるのを今か今かと
  待っていた、母を待っていた
  その家じゃないですか。……

 東京大空襲の翌朝に、焼けなかった一軒家に九歳の志郎康さんたちは辿り着く。

 私は一枚のプリント(A3) に、「詩学」という講座の途上、いま生まれつつある現代詩にふれようとして、①~④までは載せられるスペースで、コピーしたのを貼り付けてゆく。①石牟礼道子「幻のえにし」(『祖(おや)さまの草の色』、思潮社)が右上で、あと②季村敏夫「膝で歩く」(表題作、同)、③榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(表題詩、同)、④一方井亜稀「mirror」(『白日窓』、同)を、下辺、左上、左辺と、レイアウトして一枚に収める。
①(石牟礼)……
  おん身の勤行(ごんぎよう)に殉ずるにあらず
  ひとえにわたくしのかなしみに殉ずるにあれば
  道行(みちゆき)のえにしはまぼろし深くして一期の闇のなかなりし
  ひともわれもいのちの臨終(いまわ) かくばかりかなしきゆえに けむり
  立つ雪炎(せつえん)の海をゆくごとくなれど
 
  われより深く死なんとする鳥の眸(め)に遭えり
  はたまたその海の割るるときあらわれて
  地(つち)の低きところを這う虫に逢えるなり
  この虫の死にざまに添わんとするときようやくにして われもまたにんげんのいちいんなりしや

③(榎本)……
  にぎやかな祝祭が衛星中継によってその腥みとともにテーブルのうえへと――飴いろのニスが剥げ  かけて、エボラ出血熟の流行をくいとめることもできない歯痒さがオリーヴの樹につぎつぎ実ってい  くのを、脾睨する――、とどけられたのだったが、半島の端を摘まもうと指がまがるにつれ、斜面をこ  ろがる円盤状の性玩具が音をたてて蠢きはじめるようすに――潰れてひしゃげた老眼鏡から竹がな  んぼんも生えてくることがいやだった、……


 現代詩年鑑(『現代詩手帖』12月号)の「展望」稿のために、約25冊を読んだところで、力尽きたのが11月9日の午前。そのあと読み続けはして、10数冊かに感心したあたりで、じっさいに年鑑を手にしてみると(26日)、「展望」群が(私のを除き)よく書かれていて、「詩のコモン」阿部嘉昭、「いのちを整えることば」谷内修三、「鳥たちが言葉の稜線を越えるとき」鈴村和成、……と順に読んでいって、何が起きたのだろう、批評的読みの熱い集積が続く。取り上げる詩集も互いにかさなりあう感がある。多くのひとが、今年、真剣に詩に向き合った結果、批評者たちにはみな筆圧つよく、何ものかの攻勢に対して抵抗を試みたかのように見られる。何が起きた。阿部の「換喩」はあたらしい詩学だ。
 一方で、やや予想された、これまであったヘイトスピーチ系言説(とは変な言い方。)が、姿を消しながら一部にのこる。
 この二年、三年と、歴史の混乱が起きているのだ。十年後にやってくることが今年起きたり、以前に起きていたことがこれからを約束したりする。詩に限らない混乱だとしても、褶曲地帯をねじ切るようにして詩の断層がつっ走る。逆断層的に乗り上げてくる。十年かけて、そのあとに書かれる詩が、いま書かれてしまったり、その逆、遠い復活が過去という貴重な闇から呼び起こされたり、という混雑は、もしかして今年の「豊饒さ」を印象づける。歴史は百年という単位で大きく繰り返される、とすると、二〇二四年が「シュルレアリスム宣言」から一世紀ということになるけれども、十年早くアヴァンギャルドがやってくる感じ。再びの「第一次世界大戦」だけはしっかり今年やってきたように思われる。
④(一方井)
  ……
  ほしいものはありますか.
  (電話線が廊下へと延びて)
  ほしいものはありません
  (断ち切られたコードをつなぐ術を探して)
  ほしかったものはありますか
  (かつて在ったものたちが空へ土へ回収されて)
  ほしかったものはありません
  (残されたものは振り切られた手を眺めるよりなくて)
  給水ポンプが転がる
  がらんどう
  の部屋で
  血が巡っている
  ……

 これはたぶん「3・11」以前に書かれた作品なのに、だれもそれを信じられないだろうし、信じなくてよい。アヴァンギャルドというより、「3・11」との接点をきちんと履歴し、時代を刻みいれて、いまが本当は引き返し不可能な歴史であることを教える。

⑤「無間密林」(カニエ・ナハ、『“MU”』)
  (ゆめのなかでな、モーがな、
  あのかわべりでな、
  からだまっかにしてな、
  ちぃ、ながしとるみたいでな、
  うらめしそうな、めェ、してな、
  こっちを、じィ、とな、みとってな、
  水がほしいってな、そうしゃべってな、
  ……

 詩のあたらしい民俗学のようで、早く来過ぎた将来像はしかしかならずしも見通しが明るくない。
 ②(季村)はつまずき階段からころがり落ちるその瞬間にも、「どうする、これから」「ひきかえせるのか」。ころがりおちるのを、ひきかえせるすべはない、その「瞬間」に石原吉郎を想う。後記と言える箇所に、「石原吉郎の「土地」「膝」。姿勢といえば、背骨を真っ直ぐにしなければいけないとおもい、アンガラ河のほとりで猿のようにすわりこんでいたことが原点に近い位置だ」……と書き込まれる。ころんでもただでは起きない、とはこのことか。
 それにしても、いまというときを置き去りにして、詩の書き手が十年先へ行ってしまうと、あとはどういうことになるのだろう。そういう問題ではないか。十年後へ向けて、書き続けるしかない書き手には、いまという不意の置き去りに堪えなければならない。杉本徹詩集『ルウ、ルウ』(思潮社)については、鈴村の適切な批評語があるからよい。杉本真維子詩集『据花』(同)は十年後の「成熟」をよしとするか、それをも拒否し通せるか、なかなかつらい「いま」の見えなさだと考えさせる。
⑥ 空に七つの月があったころ
  海に住む竜が一つを口にして
  あまりの美味しさに次々と飲み込み
  世界は暗くなりました。

  ……(須永紀子「丘陵」『森の明るみ』、思潮社)
 さいごの月を村中のひとが太鼓を鳴らしてまもったという神話。

 『明日戦争がはじまる』(宮尾節子、思潮社)は、年鑑およびあとがきによれば、ネットを通してたいへん評判になったという。そういうことを知らないままに私は手にする。書き手の力量を「詩の被災」へむけてしっかり綴ると、これは著者そのひとの宣言である。時間のかなたから今年を振り返るとき、清冽な印象とともに想起される一冊となることだろう。
 根本昌幸『荒(あら)野(の)に立ちて――わが浪江町』(コールサック社)は、無雑作に奏でる調べが揺曳する。無雑作のようでベテランの書き手とはこうあるべきか。厚めの『ふくしまという名の舟にのって』(木村孝夫、竹林館)も、風圧に堪えて生まれた。