「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第276回 呼びかけ 鈴木 康太

2022年10月05日 | 詩客
「孫が結婚したからね、今度はひ孫をみるのが楽しみなの」
 僕はこの前久しぶりに旅行に出かけたのだが(神奈川県真鶴市)、この言葉はその旅先の酒屋さんで店主=あーちゃん(店主から「私はおばあちゃんだから「あーちゃん」と呼んで!」と言われたのでそうする)が言ったセリフである。話好きのあーちゃんは初めて会った僕に、いろんな話をした。ときどき、会話に興奮したあーちゃんは僕の耳では聞き取れないほどの言葉になっていた。そうして二時間ほど経ったころか、このセリフが耳に入ってきた。
「ひ孫をみるのが楽しみなの、でもこればかりはご縁だからね」
 僕はそうですね……と言った。あーちゃんの言葉にはとても重くて軽いものがあった。別れ際さよならする手のひらは力強く温かかった。どうしてこんなに、人は人を待ちつづけるんだろう。待ちつづけて呼びつづけるんだろう、そう思いながら切なくなった。
 そして誰かに呼びつづけるそんな詩を見つけた。
「あったかくして」というタイトルの、まさに、あーちゃんとの出会いのような詩だ。


あったかくして      向坂くじら


うみちゃん
君の優しい合図で
みなたやすく
液体に戻る
だからぼくだけが
肉のまま
浮かんでいるよう
いっそう冷やされていくようで

それってなに?

向坂くじら『とても小さな理解のための』(しろねこ社・2022年)


 ここまで読んだ読者はいろいろな想像を膨らませることができる。「うみちゃん」という名前がとてもいい。「うみちゃん」とは誰なのか?「ちゃん」と付くから子どもなのかな?「うみちゃん」と「」の関係は?そもそも人なのかな?「いっそう冷えていくようで」?周りは温められたから溶けたのかな?「それってなに?」? 想像力は、このように冒頭のイメージで準備されてつながっていく。
 推理のように読むこともできる。それにしても一筋縄ではいかない。この後の連から「うみちゃん」と「」の会話が長いこと続くのだが、第三者からは話が分かりそうで分からない。当事者にとってもちぐはぐなのかもしれない。←あーちゃんとの会話のよう!
 で、途中、タイトルの言葉が出てくる。


溜まった電気は土に逃がしてね。
あったかくして。あったかくしてね。
エレベーターを使って。桃やお芋や豆腐を食べてね。

うみちゃん
だれに話してるの?

あんまり優しくならないでね。何十年かあとに死んで。
肺の空気を何度も入れ替えして。
ときどき遠くへいってね。
同じような大きさの生き物と眠ってね。

ほんとうに欲しがっているのは
雨?

なに?

なにを話すの?

雨?

雨だよ。

どこに?

唇?

(同上)


……
 ちぐはぐな会話の中に温かみを感じ、ああ二人は寄り添って生きているのだなと読みながら微笑ましくなった。「」と「お芋」と「豆腐」……いい組み合わせですね。
 詩の最後に彼らは、「叉路を別れながら」さよならの挨拶をする。


ふたりは叉路を別れながら
じゃ、
とうもろこしーっ
互いに手を振りあって

とうもろこしーっ
とうもろこしーっ

(同上)


 呼びつづけていたものが、こんなふうにこだまになって相手から返ってくる。ここまでの道のりからこんな結末が現れるだろうか。実際、たぶん、この詩は、小学校の帰宅風景を描写したものだと思う(理由は本文を読んでいただくとわかります)が、帰宅の時間だけではない、なぜかこの詩の最初と最後の間でめちゃくちゃ時間が経ってしまって、大人になってからカラオケ店で、もしくは、日々の生活に苦しみ、やけになって道の真ん中で叫んだり……そんなじたばたの中で言われるようなものでも……あるような気もする。そんな読者への応援歌のような気もして、「あった」まりました。


とうもろこしーっ
とうもろこしーっ

(同上)



 ちなみにとうもろこしは30分以上茹でるとおいしくいただけるそうだ。
 芯からじわじわと甘味成分が粒に伝わって。

 ……
ともかく、あーちゃんの「とうもろこしーっ」がひ孫さんの「とうもろこしーっ」に繋がりますように。また楽しい話ができるといいな……