いま、言語という名の眠れる虎 ―― その鋭い爪先である“詩人”であるということ
「はじまりのとき、
人間と動物のあいだには、
ちがいはなかった。
その頃はあらゆる生き物が地上に生活していた。
人間は動物に変身したいと思えばできたし、
動物が人間になることもむずかしくはなかった。
たいしたちがいはなかったのだ。
生き物は、ときには動物であったし、
ときには人間であった。
みんなが同じことばを話していた。」
いまはインディアンとはいわない
ネイティブアメリカンという
ニワトリが先か?
タマゴが先か?
人間であるのか?
動物であるのか?
いや
そもそも人間は動物ではなかったか?
もちろん“はじまりのとき”なんて
誰にもわからないだろう
でも、いま、ここに生きている、そのかぎりにおいて
私たちは“はじまりのとき”からずっと
命の火を継いで来ているのだ…。
そして詩人はいつの時代も
樹々の話し声を聴いている
詩人は、声なき声に耳を傾け
見えなければ見えないほど
ますます顕在化する
非在の者たちと語り合っている
どんなときも自然の摂理
変化の痛みとともにあり
生き物はときには動物であり
ときには人間であったあの
“はじまりのとき”
みんなが話していたことばを詩人は
全身全霊で受け止めている…
「その頃は、ことばは魔術であり、
霊は神秘な力を持っていた。
でまかせに発せられたことばが
霊妙な結果を生むことさえあった。」
詩人が
自然の摂理と向き合い
変化の痛みに完膚なきまで身をさらし
全身全霊で受け止めていることばを
ネイティブアメリカンは魔術と呼び
霊として捉える…
このネイティブアメリカンの言葉と
私が最も敬愛する詩人
ヨシフ・ブロツキイの言葉が
鮮やかに共振する
『他の人たちはともかく、
詩人は俗に“詩(ミュ)神(ーズ)の声”と呼ばれるものが
実際には言語の命令であるということを
常に知っているからなのです。
つまり、詩人が言語を
自分の道具にしているわけではありません。
むしろ、言語の方こそが、
自らの存在を存続させるための手段として
詩人を使うのです。』
ネイティブアメリカンのことばは続く
「ことばはたちまちにして生命を得て、
願いを実現するのだった。
願いをことばにするだけでよかったのだ。」
さらに共振が強い共振を呼ぶ
私の全身を“詩神の声”が駆けめぐる
“はじまりのとき”から命とともに
継がれて来た詩人の血が目覚め
ふたたびブロツキイの言葉が
私の胸に深く突き刺さる
『この文章を書いている私もいずれ死ぬでしょうし、
これを読んでいる皆さんもいなくなるでしょう。
しかし、この文章を私が書くために使っている言語、
そしてこれを皆さんが読むために使っている言語は残ります。
それは言語のほうが人間より長生きするから、
という理由のせいだけではありません。
それは、言語のほうが
変化によりよく適応する能力を持っているからでもあります。』
魔術であり
霊であり
口にするだけで
たちまち生命を得て
願いを実現することば…
“はじまりのとき”から
変化の痛み
自然の摂理とともに
森羅万象を貫き
雨を呼び
風を呼び
“言霊”と呼ばれ
畏れられ
敬われていたことば…
常に人間より年長であり
巨大な遠心力を持つ
言語という名の眠れる虎…
その息こそ
“詩神の声”であり
その息こそ
ネイティブアメリカンがいう
“ことば”であり
その息こそ
雨を呼び
風を呼ぶ
“言霊”であり
詩人を
その鋭い爪先として使役する、おお
言語と言う名の眠れる虎よ
本来、無限の誤謬に一つひとつ終止符を打って行くだけの科学を万能と盲信させ、個々人の身体
をターゲットに快適さと快楽を追求する文明。IPS、ヒトゲノム、脳死、臓器移植、クローン…す
べての変化の痛みを払拭し、死さえ克服しようとする文明。その文明に群がり、熾烈な競争を繰り
返す企業。企業が生み出す金に群がる政治。政治が動かす警察、法、国家というシステムによって、
もはや変化の痛みにさらされることもなく、死を受容することもなく、次第に身体の感覚を麻痺さ
せて行く人間…高度にバーチャル化して行く文明とは裏腹にその五感は悉く退化し、樹々の話し声
を聴くことも、声なき声に耳を傾けることも、見えなければ見えないほど顕在化する者たちと語り
合うこともなくなった人間は、核と原子力、自身でも抑止しきれないプロメテウスの火を捨てられ
ずいまや怪物と化し、やがてこの惑星のすべてを破壊し尽くしてしまうだろう…
ニワトリが先か?
タマゴが先か?
人間であるのか?
動物であるのか?
いや、
そもそも人間は動物ではなかったか?
こんな問いなど無意味な
人間という名の
無痛の怪物ありきの時代…
このいま
言語という名の眠れる虎
その鋭い爪先
“詩人”であるということ ――
最後に『私人』の解説より、印象的な「文学裁判」の一幕を記して締め括ろう。
1963年12月、ブロツキイは定職につかない有害な「徒食者」と逮捕され、レニングラード
(現:サンクトペテルブルク)で裁判にかけられた。以下が、その裁判記録の一節である。
裁判官「いったい、あなたの職業は何なんです?」
ブロツキイ「詩人です。詩人で、翻訳もします」
裁判官「誰があなたを詩人だと認めたんです?誰があなたを詩人の一人に加えたんです?」
ブロツキイ「誰も」(挑発的な態度はなく)「じゃあ、誰がぼくを人間の一人に加えたっていうん
です?」
裁判官「でも、あなたはそれを勉強したんですか?」
ブロツキイ「何を?」
裁判官「詩人になるための勉強ですよ。そういうことを教え、人材を育成する学校に、あなたは
行こうとしなかったでしょう…」
ブロツキイ「考えてもみませんでした…そんなことが教育で得られるだなんて」
裁判官「じゃあ、どうしたら得られると思うんです?」
ブロツキイ「ぼくの考えでは、それは…神に与えられるものです」
「はじまりのとき、
人間と動物のあいだには、
ちがいはなかった。
その頃はあらゆる生き物が地上に生活していた。
人間は動物に変身したいと思えばできたし、
動物が人間になることもむずかしくはなかった。
たいしたちがいはなかったのだ。
生き物は、ときには動物であったし、
ときには人間であった。
みんなが同じことばを話していた。」
(「インディアンの言葉」ミッシェル・ビクマル編/中沢新一訳 紀伊國屋書店)
※以下「 」内、同上の続き
※以下「 」内、同上の続き
いまはインディアンとはいわない
ネイティブアメリカンという
ニワトリが先か?
タマゴが先か?
人間であるのか?
動物であるのか?
いや
そもそも人間は動物ではなかったか?
もちろん“はじまりのとき”なんて
誰にもわからないだろう
でも、いま、ここに生きている、そのかぎりにおいて
私たちは“はじまりのとき”からずっと
命の火を継いで来ているのだ…。
そして詩人はいつの時代も
樹々の話し声を聴いている
詩人は、声なき声に耳を傾け
見えなければ見えないほど
ますます顕在化する
非在の者たちと語り合っている
どんなときも自然の摂理
変化の痛みとともにあり
生き物はときには動物であり
ときには人間であったあの
“はじまりのとき”
みんなが話していたことばを詩人は
全身全霊で受け止めている…
「その頃は、ことばは魔術であり、
霊は神秘な力を持っていた。
でまかせに発せられたことばが
霊妙な結果を生むことさえあった。」
詩人が
自然の摂理と向き合い
変化の痛みに完膚なきまで身をさらし
全身全霊で受け止めていることばを
ネイティブアメリカンは魔術と呼び
霊として捉える…
このネイティブアメリカンの言葉と
私が最も敬愛する詩人
ヨシフ・ブロツキイの言葉が
鮮やかに共振する
『他の人たちはともかく、
詩人は俗に“詩(ミュ)神(ーズ)の声”と呼ばれるものが
実際には言語の命令であるということを
常に知っているからなのです。
つまり、詩人が言語を
自分の道具にしているわけではありません。
むしろ、言語の方こそが、
自らの存在を存続させるための手段として
詩人を使うのです。』
(『私人』ヨシフ・ブロツキイ/沼野充義訳 群像社 ※以下『 』内は引用)
ネイティブアメリカンのことばは続く
「ことばはたちまちにして生命を得て、
願いを実現するのだった。
願いをことばにするだけでよかったのだ。」
さらに共振が強い共振を呼ぶ
私の全身を“詩神の声”が駆けめぐる
“はじまりのとき”から命とともに
継がれて来た詩人の血が目覚め
ふたたびブロツキイの言葉が
私の胸に深く突き刺さる
『この文章を書いている私もいずれ死ぬでしょうし、
これを読んでいる皆さんもいなくなるでしょう。
しかし、この文章を私が書くために使っている言語、
そしてこれを皆さんが読むために使っている言語は残ります。
それは言語のほうが人間より長生きするから、
という理由のせいだけではありません。
それは、言語のほうが
変化によりよく適応する能力を持っているからでもあります。』
魔術であり
霊であり
口にするだけで
たちまち生命を得て
願いを実現することば…
“はじまりのとき”から
変化の痛み
自然の摂理とともに
森羅万象を貫き
雨を呼び
風を呼び
“言霊”と呼ばれ
畏れられ
敬われていたことば…
常に人間より年長であり
巨大な遠心力を持つ
言語という名の眠れる虎…
その息こそ
“詩神の声”であり
その息こそ
ネイティブアメリカンがいう
“ことば”であり
その息こそ
雨を呼び
風を呼ぶ
“言霊”であり
詩人を
その鋭い爪先として使役する、おお
言語と言う名の眠れる虎よ
本来、無限の誤謬に一つひとつ終止符を打って行くだけの科学を万能と盲信させ、個々人の身体
をターゲットに快適さと快楽を追求する文明。IPS、ヒトゲノム、脳死、臓器移植、クローン…す
べての変化の痛みを払拭し、死さえ克服しようとする文明。その文明に群がり、熾烈な競争を繰り
返す企業。企業が生み出す金に群がる政治。政治が動かす警察、法、国家というシステムによって、
もはや変化の痛みにさらされることもなく、死を受容することもなく、次第に身体の感覚を麻痺さ
せて行く人間…高度にバーチャル化して行く文明とは裏腹にその五感は悉く退化し、樹々の話し声
を聴くことも、声なき声に耳を傾けることも、見えなければ見えないほど顕在化する者たちと語り
合うこともなくなった人間は、核と原子力、自身でも抑止しきれないプロメテウスの火を捨てられ
ずいまや怪物と化し、やがてこの惑星のすべてを破壊し尽くしてしまうだろう…
ニワトリが先か?
タマゴが先か?
人間であるのか?
動物であるのか?
いや、
そもそも人間は動物ではなかったか?
こんな問いなど無意味な
人間という名の
無痛の怪物ありきの時代…
このいま
言語という名の眠れる虎
その鋭い爪先
“詩人”であるということ ――
最後に『私人』の解説より、印象的な「文学裁判」の一幕を記して締め括ろう。
1963年12月、ブロツキイは定職につかない有害な「徒食者」と逮捕され、レニングラード
(現:サンクトペテルブルク)で裁判にかけられた。以下が、その裁判記録の一節である。
裁判官「いったい、あなたの職業は何なんです?」
ブロツキイ「詩人です。詩人で、翻訳もします」
裁判官「誰があなたを詩人だと認めたんです?誰があなたを詩人の一人に加えたんです?」
ブロツキイ「誰も」(挑発的な態度はなく)「じゃあ、誰がぼくを人間の一人に加えたっていうん
です?」
裁判官「でも、あなたはそれを勉強したんですか?」
ブロツキイ「何を?」
裁判官「詩人になるための勉強ですよ。そういうことを教え、人材を育成する学校に、あなたは
行こうとしなかったでしょう…」
ブロツキイ「考えてもみませんでした…そんなことが教育で得られるだなんて」
裁判官「じゃあ、どうしたら得られると思うんです?」
ブロツキイ「ぼくの考えでは、それは…神に与えられるものです」
(2013年6月27日)