「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 アンソロジーでの出会い 内山 佑樹

2023年11月20日 | 詩客
 近年、書店に足を運ぶと詩のアンソロジーを多く見かける気がする。短歌に関して言えばここ数年、そして今年は特に「短歌ブーム」という言葉を多く聞く。短歌のアンソロジーとしてとりわけ人気のあるものは2015年に刊行された山田航『桜前線開花宣言』(左右社)、2018年は東直子・佐藤弓生他『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房)、2021年は瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』(左右社)あたりだろうか。短いスパンで優れた編者による優れたアンソロジーが相次いて刊行される状況は良いことだと思う。つぶさに確認しているわけではないが、俳句や川柳などについても同じような状況なのではないかと思う。
 アンソロジーはその編集された方針により作りが大きく異なる。『短歌タイムカプセル』は100人以上に渡る現代歌人を五十音にならべそれぞれの代表的な20首および一首鑑賞を付したもの。『桜前線開花宣言』は誕生が1970年代以降である歌人40人をクロニクルに並べ、現代短歌の歴史の一部を垣間見ることができる作りになっている。『はつなつみずうみ分光器』は2000年以降に刊行された歌集55冊をこれもクロニクルに並べ、それぞれの歌集に収められた短歌のいくつかについて鑑賞を付している。
 アンソロジーを読むよろこびには、知らなかった作者や作品を知ること、短歌史を概観できること、自らの実作にあたり新しい挑戦を試みるための呼び水とすることなどがあるように思う。あるいはただなんとなく開いてみてもいつも何かしらの気づきを得ることができる。

 自由詩のアンソロジーとしては近年どのようなものがあるだろうか。私の手もとにあるものは限られているが、2015年刊行の西原大輔編『日本名詞選』(笠間書院)シリーズや、同じ編者による『一冊で読む日本の近代詩500』(笠間書院)などが挙げられるかもしれない。すこし刊年は古いが大岡信編の『現代詩の鑑賞101 新装版』(新書館)なども広く手に取られているようで、鑑賞のために付されたメモは入門者にとって重宝する。
 韓国では2022年にリュ・シファの編、オ・ヨンアの訳による『愛しなさい、一度も傷ついたことがないかのように』というアンソロジーが刊行され、韓国ではよく売れているそうだ。もっとも、これは韓国のアイドルが愛読していたことによる効果も大きいようではある。詩のライト層に向けて編まれたように見え、一種の人生訓や箴言集として受容されるタイプのアンソロジーなのではないかと思う。難解な作品や衒学的なものは排されている。韓国のでは世代を問わず詩を愛する人々が多いという(他の国の人々と比べてみたわけではないからそれが本当なのかはよくわからないけれど)。ただ、実際にドラマでよく詩集が出てきたりするし、詩の朗読会も多く開かれ、詩集をプレゼントすることも珍しいことではないようだから、割とその通りなのかもしれない。
 こういった類の本、つまり比較的容易に解釈を持つことができ、実生活における癒やしになるような作品を収めた本は、もともと詩をよく読む読者であればあまり手に取らないと思う。私はたまたま最近手に入れたのでぱらぱら開いてみることがある。日本の詩としては、短歌も含め吉野弘、石川啄木、浅原才市、星野富弘の作品が掲載されている。

 この本に掲載されている啄木の短歌は以下の一首である。

  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる

石川啄木


 このアンソロジーはひたすらに作品を配していくのみで特に解説やコメントが付されているわけではないのだが、啄木のこの作品については短い解説コメント(解釈)が付されている。

  命を絶とうと海辺に向かったが砂浜で小さな蟹に目を奪われ
  遊んでいるうちに死のうとしていたことを忘れる


 もちろんこの作品は多くの(短歌の)アンソロジーに収録されることも多く、その解釈についても一般的なものが付されているのを目にする機会が多いのだが、このように端的で切実な記載に出会ったのがこのアンソロジーによるものが初めてだったので少しびっくりした。
 この歌は有名なものなので、作品の解釈の音韻やレトリックについても多少は知識を持っているつもりだったのだが。
 よく見かける一般的な鑑賞は以下のようなものが多い。状況が端的に示され、それだけと言われればそれだけのものが多い気がする。

  東の海に小さい島がある。その磯の白い砂浜に私はいる。
  泣きながら蟹とたわむれているのだ。


 先程挙げたような「死のうとしていた」という切実な解釈が研究によるものなのか独自の解釈によるものなのかは不明だが、実際に調べてみるとこの歌は北海道から上京し創作に悩んでいた時期のものであるから、ちょっと詳しい書籍を当たってみれば実際にそういう解釈が適当であるということもあり得るかもしれない。
 作品の解釈はその方法論、思想によっても大きく変わる。韓国で発売されたこの本はとりわけ人生の試練のとき、迷ったときの癒やしやヒントを与えることを主眼において編まれているから、すこし強引にも見えるけれど正確さをすこし欠いても、強く読者に届くようにこのような解釈としたのかもしれない。
 ある種の中立性や客観性に留意しながら編まれたアンソロジーは読む楽しみを味わうのにも、実作の糧とするのにも大変重宝する。しかし、こういったライト層に向けて刊行されたアンソロジーで、その本のテーマや編者の主張にしたがって(多少強引な解釈を伴い)組み込まれ作品を読み、そこに掲載された理由を考え、新たな気づきを得られることもまたアンソロジーの楽しみ方なのかと思う。
(了)


 このアンソロジーはひたすらに作品を配していくのみで特に解説やコメントが付されているわけではないのだが、啄木のこの作品については短い解説コメント(解釈)が付されている。

自由詩時評第290回 「残酷な月」 今野 和代

2023年11月14日 | 詩客
 2013年初音ミク主演の人間不在のボーカロイドオペラ「THE END」、2022年ドバイでの現地のオーケストラと電子音楽とアンドロイドと僧侶たちの声明によるアンドロイドオペラ「MIRROR」、今年6月にはパリのシャトレ座でドバイ公演での楽曲に更に新曲を追加した最新「MIRROR」を発表した音楽家の渋谷慶一郎氏と、人工生命研究者池上高志氏のコラボレーションの話をキャッチした。チャットGPTを搭載した2台の最新アンドロイドのオルタ3とオルタ4による世界初演の対話劇「IDEA―愛と存在をめぐる対話 渋谷慶一郎+池上高志」を100席限定で開催するというのだ。21世紀金沢美術館で、10月から来年3月17日まで開催されている展覧会「DHP(デジタル・トランスフォーメーシォン・プラネット)―次のインターフェースへ」は、アーテイスト、建築家、科学者、プログラマーたちが集まり、はりめぐらされた見えないネットワークやAIによるテクノロジーと生物との関係をこれからどんなふうにつくっていくのか、衣食住という暮らしを含めたビジョンをどういうかたちで提案していけるのか、という問いかけと可能性を追求していくというコンセプトがかかげられた。その特別企画としてのイベントだ。10月中旬、21世紀金沢美術館館内にあるシアター21の会場に駆けつけた。
 プラトンの著書と、20世紀にプラトン批判を展開したオーストリア出身でイギリスの哲学者カール・ポパーの著作『開かれた社会とその敵』を学習したオルタ3とオルタ4が対話を重ねていく。対話は英語。自らの存在とは何か、人間とアンドロイドの関係、結局アンドロイドを作ったのは人間であること、アンドロイドたちが自身の限界を認識するという発言をかろうじて聞き取る。対話はおもったよりも短時間で終了。興味をひいたのはアンドロイドオルタ3とオルタ4の顔と手の表情だった。互いの発言を集中して聴きいっているかのように瞬きをし、俯く伏し目がちのオルタたち。2台ともまるで相手の言葉を自身の内部にひきよせ思考するかのような表情をみせた。渋谷慶一郎氏によるピアノとエレクトロニクスの即興演奏をうけてオルタ4が、即興で歌いはじめるシーンには息をのんだ。両手をしなやかに動かし、頭を静かに揺らしながら歌う。ただその声は、ピアノや電子音楽から表現される繊細な、時には激しく荒々しい、時には透きとおっていくようなはかなさとはほど遠い、無機的な揺れ幅の少ないものだった。ベンヤミンが複製技術の発展による、「今」「ここにある」という一回性の「空間と時間からなる一つの奇妙な織物」「どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れ」である「アウラ」の消失を論じたが、オルタ4の歌にもその「アウラ」は、はぎ取られ、表現の奥行きは感じられなかった。人間の声にはオルタたちはまだ追いつけていないなと、なぜか安堵しながら会場を後にした。
 それにしても、現在の情報工学、数学や科学分野での最先端の成果である電子知能AIの研究は、これからも凄まじい勢いで進んでいくだろう。より良い国家とは何か、最善の魂とは何かを思索し続けたソクラテスの弟子プラトンが遥か遠い紀元前の時を抜けて、現代にふらっと遊びに来たら人間のこれらの進歩に腰を抜かして驚くだろう。そしてそれと同時に、国家と国家による戦争、衝突、殺戮が21世紀の今においてもなお延々と続けられ、子供や無辜の人達が犠牲になって死んでいく現代の悲惨を目の当たりにして、人間の知と魂の停滞と後退に嘆きかなしむにちがいない。
 第一次世界大戦後の世界の荒廃と夥しい死への考察と解明を、「四月は残酷極まる月だ」の1行から開始し、「聖杯伝説」やフレーザーの『金枝篇』を含むおびただしい引用を挿入しながらヨーロッパの近代に体当たりで格闘し、詩作したエリオットの長編詩「荒地」。この1行がスタカットとなって私の胸の戸を叩きに来る。10月も11月も、来る月も来る月も「残酷極まる」憎しみの連鎖が世界を覆っている。
 そんな今、「イリプス」の同人で、生まれも育ちも仙台の詩人竹内英典さんが、今年10月に詩集『伝記』(思潮社)を上梓された。その詩世界は一筋の光になって、混乱し疲弊し、のたうちまわり、堂々巡りする私の内部を揺らし、照らしに来た。1972年に刊行された藤井貞和第一詩集『地名は地面に帰れ』の「余剰価値」のなかに置かれた「挫滅につながれた伝記」という詩行。そして2006年に刊行された倉橋健一第7詩集『化身』の「草原にて」のなかの「ひとりの若者は遠ざかり」から「俊敏果敢な一頭の草食有蹄獣を/来る日も/来る日も/思い続けたのだった」「この二人の詩人の詩行が、人間の「歴史」のありよう示してくれている」と受けとめ、50数年の歳月を抱え込みながら、「歯ぎしり」を繰りかえしながら、「名づけるごとに深まる/混沌のことば」と対峙しつづけた真摯な詩人の、強靭でしなやかな姿勢が浮かびあがってきた。巻頭の詩「伝記1」と2章巻頭の「伝記2」そして巻末の「荒野」の作品群は、この世界で、やはり詩のひととして生きようとする、生きようとし続ける、呼吸のような、喘ぎのような思考のリズムと、胸の底に流れ続ける決して涸れることのない、深い清冽な地下水脈の青のような瑞々しさを放って詩集のなかで息づいている。

伝記1

一九七〇年代のはじめ、一人の詩人が書き置いた

「学説史は以下の判断をなしたか
生まれてこなかったそいつのかわりに
伝記が生まれたこと
挫滅につながれた伝記が生まれたこと*1」

風が来る

ひとの手の
始まりの時から
穏やかさを装って
やって来る

現在いま
悲鳴を抑え
叫びを抑え
鳴っている
風は
知り得ぬこと*2を
透明にし
なされなかったこと
思考されなかったこと
すべてを此処に運び
とどめ
開かれなかったままの世界
見棄てられたままの一行の
甦りの時に出会うはずだった人を
待ち
やがて
(来なかったのは あの ひとか
あの きみか あの ぼくか)
現在いまを霧消し
零までも運び去る

挫滅につながれた伝記が
風ごとに
姿を変えて席捲し
何とも知れない未来に向かって*3
過ぎると
またたく間に現れ広がりつづける
欠如を
影にされた階段のひとが起ちあがり
わたり始める

欠如を歩むこと
欠如が生む侮蔑の夜に
目をこらし
その
そこにあるかもしれない
あのものの名を呼ぶための
(あらたな)ことばを
風が覆う僅かなひかりのしたで
語る
せめてもの
ときを と

*1 藤井貞和『地名は地面へ帰れ』(一九七二)所収「余剰価値」Ⅲ 
*2 「知り得ぬことのほかは偽りである」(同書所収「てがみ・かがみ」より)
*3 原民喜『心願の国』(一九五一)


 1969年1月東大闘争。1970年3月よど号ハイジャック事件。11月三島割腹自殺。1971年1月アポロ14号月面着陸。南ベトナム軍ラオス侵攻。バングラデシュ独立宣言。ジョンレノン「イマジン」の歌。1972年2月浅間山荘事件。4月川端康成自死。5月沖縄返還。5月テルアビブ空港乱射事件。続くベトナム戦争の泥沼化。そんな状況のなかで1972年6月永井出版企画から刊行されたのが藤井貞和の第一詩集『地名は地面に帰れ』だ。「伝記1」は、この藤井貞和詩集の「余剰価値」「てがみ・かがみ」のなかの詩行と、原民喜『心願』からのフレーズ「何とも知れない未来に向かって」が引用されている。原民喜は広島の原爆投下時を克明に記した『夏の花』の作家。1951年自死してしまうのだが。彼のみた夢の再現と死んだ妻の記憶、少年時の蟻をつぶした光景と原爆の広島の地獄とがリンクし、滅んでいった街と死んだ母と姉が脳裏に現れ、再び夢の光景へと自身の内部のつぶやきへと円環していく珠玉の散文詩のような遺稿だ。民喜が最後に残した「心願の国」から取られたこのフレーズを含む前後はこう書かれている。

……(略)……だが、僕にはよくわからない。…………僕のこの世でなしとげなかった無数のものが、僕のなかに鬱積して爆発するのだろうか。それとも、あの原爆の朝の一瞬の記憶が、今になって僕に飛びかかってくるのだろうか。僕にはよくわからない。僕は広島の惨劇のなかでは、精神に何の異状もなかったとおもふ。だが、あの時の衝撃が、僕や僕と同じ被害者たちを、いつか発狂ささうと、つねにどこかから覘つてゐるのであらうか。
 ふと僕はねむれない寝床で地球を想像する。……(略)……この世はいったいどうなるのだらうか。人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来に向かって…………。
 …(略)…
我々の心を痛め、我々の咽喉を締めつける一切の悲惨をみせつけられてゐるにもかかはらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのない本能を持ってゐる。(パスカル)
 ……(略)……


 「伝記1」はこれら三つの作品のフレーズが布置されることによって、否が応にも遭遇し、立ちあわされ、時には強要され、滅ぼされていく、それぞれの時代の一筋縄ではいかない手強い歴史や現実の暴に、強いられ、投げ出されてある人間の内部世界の欠如と不安、そしてその現実に拮抗しようとする静かな発条のような詩世界を引っぱり出した。詩中の「風」は自然の、生命の喩だろうか。
 あるいは、ひとり、ひとりの人間がひきうける、それぞれ固有の時間が紡ぐ生そのもの、その物語そのものを表しているのかもしれない。「そこにあるかもしれない/あのものの名」とは何なのだろう。
 神の名? この生をこの世に送り出しこの世の痛みを与えてくれた母の名? 時代と刺しちがえ新しい突端を切り拓こうとしたひとの名?  「最も良き人々人は帰ってこなかった」そんな慎ましく毅然とやさしくあっちへ歩いていった死者たちそのひとりひとりの名前だろうか。

怠惰ではない/子守唄ではない/絶対ではない/相対ではない/ただそこにそのようにあるだけの/優しいことばよ/小さなこえは/地をはなれ/雲にのり/うたをしり//たむろすることばたちが/地の底で目をひらき/わきあがる風が つよく/地表をうちつづけるだろう
(「国語『伝記』補遺」)


無力な/ぼくの言語野/食べられても食べられても と/名づけられてしまった/若者への/その地にあるひとへの/何処にもなかったことばは ないのか
(「伝記Ⅱ」)

 来る日も、来る日も「際限なく/救けなく/人間が斃されていく」残酷な月。
 わたしのちっぽけな「言語野」に今日も降ってくるこどもたちの叫び声、悲鳴。
 「地にあるひとへ」届いていく、繫がっていける、かすかなひかりのことばをひっぱり出さねば……。
 もういちど竹内英典詩集『伝記』のページを開いた。