先日、大阪の葉ね文庫という詩歌界隈の集まる本屋さんに仕事帰りによりました。くたくたの状態で店に入ると店主の池上さんと、詩人の池田彩乃さんがいました。
音楽を止めてイヤホンを外すと、さっきまで聴いていた音楽とは全く別の歌が口をついて出ることがある。
これはその時、池田さんにいただいた最新のフリーペーパー『この星紀行』に載っている「野の歌」という詩の冒頭の一節です。
分かるなあ、と思い安心して詩の世界に感覚を預けることができて。身体のなかを巡っているものたち(ここでの場合は歌)にはときに理屈じゃあない動きをする時があるなあ、なんて考えてしまいます。
いくつもの歌が口からこぼれ、ぐるぐると循環する中で、歌は風のかたちになりやがて池田さんの詩は世界と融和します。
ある歌のサビを歌い、歌いやめ、また別の歌をはじめから歌い出すことを繰り返していると、さわさわと体の中に風が通う。
なんなんでしょうこの心地よさは。
様々な歌が音楽が身体に入ってきて、渦巻くようにずっと自分の中に留まっていて。ふとしたきっかけ、というほどでもない気持ちの緩みのような、何かのはずみのような、軽やかさで風のように自分の中に通っていく。もちろん風は風としてひとところに留まるなんてことはなく、私という身体を起点としてゆるやかに世界に向かっていく動きのベクトルが生まれます。
それは風という当たり前にそこにある自然さで、問いかけのように読者に届きます。
「とても、いい歌なのですよ」
それはこの詩の佳境で出てくる、カギカッコに囲われた、なんだか悪目立ちするような、それだけの強い主張なのだと言わんばかりの言葉です。
この詩が広く届けばいいな、と思います。風のように。広く、すっと沁みてくる。一節一節ではなく、全体を読んでいただいて。
自分の中にある理屈じゃない部分を外に開いていくような気持ち良さと、外に開けて行って確かにある私のかけがえのなさが木漏れ日のように静かに、でも確かに光っています。
余談ですが、僕が葉ね文庫に入った時、思わず「友達がいない……」と呟いてしまった時に池田さんは「友達になろう〜」と両手を広げてくださいました。ご機嫌な方でこの詩の風のような軽やかさと懐の広い方なのかなあなんて思います。評というよりはエッセイっぽくなってしまいました。
音楽を止めてイヤホンを外すと、さっきまで聴いていた音楽とは全く別の歌が口をついて出ることがある。
これはその時、池田さんにいただいた最新のフリーペーパー『この星紀行』に載っている「野の歌」という詩の冒頭の一節です。
分かるなあ、と思い安心して詩の世界に感覚を預けることができて。身体のなかを巡っているものたち(ここでの場合は歌)にはときに理屈じゃあない動きをする時があるなあ、なんて考えてしまいます。
いくつもの歌が口からこぼれ、ぐるぐると循環する中で、歌は風のかたちになりやがて池田さんの詩は世界と融和します。
ある歌のサビを歌い、歌いやめ、また別の歌をはじめから歌い出すことを繰り返していると、さわさわと体の中に風が通う。
なんなんでしょうこの心地よさは。
様々な歌が音楽が身体に入ってきて、渦巻くようにずっと自分の中に留まっていて。ふとしたきっかけ、というほどでもない気持ちの緩みのような、何かのはずみのような、軽やかさで風のように自分の中に通っていく。もちろん風は風としてひとところに留まるなんてことはなく、私という身体を起点としてゆるやかに世界に向かっていく動きのベクトルが生まれます。
それは風という当たり前にそこにある自然さで、問いかけのように読者に届きます。
「とても、いい歌なのですよ」
それはこの詩の佳境で出てくる、カギカッコに囲われた、なんだか悪目立ちするような、それだけの強い主張なのだと言わんばかりの言葉です。
この詩が広く届けばいいな、と思います。風のように。広く、すっと沁みてくる。一節一節ではなく、全体を読んでいただいて。
自分の中にある理屈じゃない部分を外に開いていくような気持ち良さと、外に開けて行って確かにある私のかけがえのなさが木漏れ日のように静かに、でも確かに光っています。
余談ですが、僕が葉ね文庫に入った時、思わず「友達がいない……」と呟いてしまった時に池田さんは「友達になろう〜」と両手を広げてくださいました。ご機嫌な方でこの詩の風のような軽やかさと懐の広い方なのかなあなんて思います。評というよりはエッセイっぽくなってしまいました。