「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 過ぎ去らなくてはならない一段階 古田 嘉彦

2018年11月15日 | 詩客
 芸術が終了するとヘーゲルが言っていると書いてあるものを読み、門外漢ではあるが哲学好きなので、それを確かめるためヘーゲルの「美学講義」(シュナイダー版 寄川条路監訳)を読んだ。以前読んだ「精神現象学」では「宗教」というくくりの中で芸術宗教から啓示宗教へと移っていき、そして絶対知へ至るという流れであったが、この講義では芸術から宗教、宗教から哲学へという構成であった。もともと芸術を宗教的な精神現象としてとらえていたヘーゲルらしい論理展開だ。詩人追放を求めたプラトン以来の思惟の流れも踏まえた議論ではあるが、どうも最初から結論(私はそれには同意できない。)が決まっているのを、力づくの論理で整理しているようにも思えた。門外漢であるがといいつつこんな断定をするのに眉をひそめる方もいるかもしれないが、ひたすらご寛恕をお願いしたい。
 しかしヘーゲルを持ち出したのはこの書の最後にある「・・・芸術という様態が神の最高のあり方ではない、ということがあきらかになる。(中略)こうして、私たちは芸術の領域を巡り終え、さらに宗教に進むことになる。芸術が神の必然的な描写であるように、それはまた、過ぎ去らなくてはならない一段階でもある。」を読みつつ、そこからすぐに立ち去ることができなかったからだ。
 それは20年くらい前にナザレの受胎告知教会を訪れたとき見た、各国の民族衣装を着た聖母子画の印象が残っていたからだ。日本からは和服の聖母子が出ていた。ウェディングドレスのような白いドレスを着たマリアだけの絵もあった。俗悪とまでは言わないが、「聖」には遠い。それを見たとき、神の「私はいつまで『芸術』に耐えなければならないのか」という嘆きが聞こえてくるような気がした。それはまさに「過ぎ去らなくてはならない一段階」に思えたのである。
 それでは「過ぎ去らなくてはならない一段階」にとどまらない詩は可能だろうか。それへの答えを思案していると、それは不可能にしか思えなくなってくる。しかしそれでも人間には書き残さずにはいられないものがある。岩成達也の「みどり、その日々を過ぎて」(2009年)「(いま/ここ)で」(2010年)そして「森へ」(2016年)「風の痕跡」(2017年)を読んでいると、その思惟の流れの中に巻き込まれながらそう思う。それは神の前でうずくまる人間の呻き、叫びである。
 「みどり、その日々を過ぎて」「(いま/ここ)で」は夫人(洗礼名マリア・セシリア)の死によって引き起こされた悲嘆の中のもがきの記録である。「みどり、その日々を過ぎて」や「(いま/ここ)で」の中の「セシリア」は痛ましくて引用できない。
 「(いま/ここ)で」において、岩成は悲嘆の中で自分自身の存在をどう受け止めたらいいのかもがく。私は無から呼び出されたのだとしたら、無とは何か。

セシリア、あなたが召されてから、「ここ」では、もう二年近くの時間が流れました。その間、私はただあなた(の記憶)を通して、闇を、闇の深さだけを凝視みつめて暮らしてきたように思います。(「10-水辺」)

 岩成はそう語り、やがて「なまの闇」という言葉に逢着したりする。

 しかし「森へ」になると次の記述がある。

 三篇の「セシリア」を書いて以降、私のいまある「地平」は常にたえずあの「セシリアの地平」へと戻って行く。あたかもカトリック思考が二千年前に唯一生起したナザレのイエズスという「事実/事態」へと常に戻りつつ展かれてきたいように、私の思考もあれ以降、いつでも、「そのとき」唯一生起した「セシリアの地平」(地平のずれ)」へと戻りつつ展かれていくのだろう。その結果、前に触れたように、私は理解したのだ、認識の枠組みの根拠は一夜にして解体し変容するようなものではない、と。おそらくは、その枠組みの根拠は「私」の内奥部で「私」を突き抜けたところにしかない、と私には思われるから。(「森からの手紙」)

 それらの本には、配偶者の死という自分を破壊しそうになる事実から、長いもがきの末に生死を超えた洞見へと達していく過程が、克明に記録されている。

 勿論、あなたはセシリアという名前をもってはいるだろう。だが、私があなたと話をしているとき、私が話をしているのはセシリアではなくて、たとえいまはここにいないとしても、「あなた」以外の誰とでもない。
 中略
 いずれにしてもまだよくは判らないのだが、私はあなたという堰にぶつかって私となり、あなたも私という堰にぶつかり、「それ」という堰を越えることであなたとなる。そして、私達は、この堰の根拠を「あの方」を除いてはどこにも求めることができないと、薄々は感じているのだ。・・・・ 
(「続・森から戻って」)

 このようにセシリアとの対面は「あの方」、イエス・キリストとの出会いという生の根本的な事実の中で整理されていく。しかし岩成の拭いてもにじみでてくる血のような問にきれいに答える解答、人間の言葉による解答が与えられるわけではない。
 やがて神父との対話で岩成にとって衝撃的な理解を与えられ、岩成は「」というものを縮減させていくことを考えるようになる。そして更に神学の世界をめぐるのであるが、巻末に置かれた2編の詩の内の「夢の岬」で、彼は答えを出し切れないことを次のように嘆く。

夥しい炸裂の痕跡 渦巻き漂う数知れぬ船の破片
死者達の声なき呻き・・・なべて 鈍痛と非収束


 非収束に苦しみ、岩成はこのあと更に「風の痕跡」という小さな本を書く。
 しかし生身の人間との深い交わりと死別という出来事を出発点とする思惟の葛藤が、一般性を求める哲学、神学の言葉で整理されつくして終わるのでないとしても、それは当然かもしれない。やがて岩成の心を埋めていくのは、木々、森である。「森へ」の本文の終わりを読むと、「みどり、その日々を過ぎて」から読み続けてきた者には、ある感慨を禁じ得ない。ここに至ってやっと長い喪が明けたのを感じるのだ。「喪」と書いたが、キリスト教に「喪」という考え方は無い。信仰者にとって死は天国への凱旋だからだ。聖書にも遺族に対し、信仰の無いもののように悲しまないでほしいと奨める言葉がある。しかし信仰の恵みをいただくのにも、やはり時間が必要なのだと思う。
「(いま/ここ)で」から岩成にとって木の存在がだんだん大きくなってきていたのであるが、今やセシリアにまつわる嘆きは過ぎ去り、岩成の前には「私の深みに「内在」し、同時にはるかな高みに私を「超越」していた」ところの森がある。その森に岩成は語りかける。その言葉には深い慰めがある。

 森よ 殆ど消えかけている心と体で 躓きながら お前の小径を辿る私を 常に深く慰めてくれたお前 あの「聖なる空地」で跪く私に 地下水脈の微かな気配 また 様々な葉裏の 彼方からの木漏れ日にような遠い気配を 届けてくれた私の森

 それはなおも「過ぎ去らなくてはならない一段階」ではあるかもしれないが・・・

自由詩時評第228回 「豆塚エリと実存性の復権」(二) 平川 綾真智

2018年11月12日 | 詩客
 豆塚エリ氏は愛媛県で生まれた後に、家族が移り住んだ大分県で多くの本に囲まれながら育った。小学生時代はファンタジー小説を好み、とりわけ『ハリー・ポッター』シリーズや『ダレン・シャン』シリーズを夢中になって読んだ。少年少女向けの世界文学全集も熱心に読み、その書物との営みの中で歴史的教訓や格言などを無意識の内に吸収していった。もちろん漫画も大好きだった。はじめは小学館発行の月刊少女漫画雑誌『ちゃお』を、続いて集英社発行の月刊少女漫画雑誌『りぼん』を夢中に読むようになり、それが毎月の楽しみであった。少女漫画は現実世界で立脚していく感受性に磨きをかけ、台詞などの文章改行が余白を体感で覚えさせてくれた。やがて学年を重ねていくにつれ読書の方向性は幅を持っていくようになりだし、次第に氏は伝記小説なども多く読むようになっていく。現在の氏の作品に通奏低音として流れている倫理観は、この頃に触れた伝記の人物像などを起点として育まれていったと思われる。学校生活は充実しており、学問や友人関係など様々なことが自分自身の可能性を教えてくれて多くのことに積極的に励んだ。授業や宿題で課される美術や作文なども大好きで、いつも楽しんで取り組んでいった。氏にとって芸術や創作表現という営為は、この頃から変わらず能動的に自己を没入できる愛すべきものだったのである。そして中学校に入学してからは、吹奏楽部に所属しトロンボーンを高らかに奏でた。様々な領域の芸術に触れながら、氏は思春期を豊穣なものとしていったのだ。
 豆塚氏が現代詩創作と出会ったのは、多感な時の流れと共に迎えていく高校生活の中でのことだ。溢れ出る好奇心のままに美術部へと入部した直後、仲の良い友人から文芸部への兼部の勧誘を受けたことが最初のきっかけだった。文芸創作に関しての興味はその時、非常に些細なものでしかなかったが最終的にはノリで兼部入部することを決めた。「受験の際に何か有利に働くことがあるかもしれない」と考えたことも決断に至った理由の一つであった。そのため最初の頃、文芸部での活動は氏にとって創作に専心するというよりも人間関係を大切にし皆での楽しさを優先していく場に過ぎなかった。しかし、その姿勢は直ぐに一変することとなった。他校も参加する合評会へと詩作品を創作して参加した際に、講師の先生から苛烈な酷評を受けたのである。作品に対して非常に厳しい意見が発せられている間中、今まで味わったことがない感情に支配されていることが分かった。会が終わってからも、とにかく悔しくて堪らなかった。その時「詩」を提出し臨んだことに深い意味は持っていなかったのだが、合評会を経て気が付くと氏の生来からの負けん気は自己を創作への姿勢も含め包括的に見つめ直していた。いつの間にか、そこには現代詩創作と真に対峙している自分自身の姿があった。まさに詩人「豆塚エリ」が萌芽した瞬間であった。次こそは合評会で良い評価を得たい、そして少しでも良い詩を創り上げたい、そう決意し自己と向き合っていくと幼少期から共に過ごしてきた本や今まで触れてきた芸術領域の作品たちと感性が合致し呼応していくことが分かった。文芸部でも部長を務めるようになって、新たに触れていく文学作品や日常の営為へも創作者として臨むようになり、いよいよ氏は詩人としての道を歩み始めたのである。
  *
 それは高校二年生の時だった。氏は人生が変わらざるを得ない出来事に遭遇してしまう。頚椎を損傷し、生死を彷徨うこととなったのだ。運び込まれた治療室の中で、意識の混濁した状態が長く続いた。病室のベッドに移されてからも常に明晰夢を見ているような様態となり、目を覚ますたび何か別の場所にいるような錯覚に陥ったりもした。常に焦って出口を、ずっと探していて取り戻したいのにはぐらかされたりするような混交の中に取り残されていた。次第に意識が鮮明となって来た後も、医者から今までとは異なる生活を余儀なくされることや車椅子ユーザーとなるであろうことを説明されてしまうなど、怒涛の日々が続いていった。そんな満身創痍ともいえる凄絶な状態にある中で、氏を支えたものは、やはり文学作品の存在であった。看病しに来た当時の恋人が毎日、小説家の小川洋子氏の短編集『海』をベッドに横たわる氏へと朗読してくれたのだ。『海』は豆塚氏が高校の図書室で、たまたま借りて来ていた本の一冊に過ぎなかったが、小川洋子氏の欠損を静謐に描いていく不可思議な世界観は様々な感情と共に在る氏を包摂し捉えていった。病院の作業療法の一環として行う現代詩創作も、これまでとこれからを結び付け他の何にも代えがたい氏の支柱となっていき生きる原動力となっていったのだ。
 リハビリ施設へと移ってからは、だんだんと氏が自分自身の力で出来ることが増えていった。本を自分で読むという行為にも、これまでとは少し異なった意味合いが生まれ読書は氏にとって更なる輝きを持った営為となっていった。現代詩創作も新たな段階へと進んでいく。この頃から氏は、難解性を排除した言葉で綴られた詩作品を志向し始めたのである。理学療法士さんが聞かせてくれたバンドTHE BULE HEARTSの音楽に衝撃を受けたことが、変移のきっかけであった。心に直接、響いてくる音楽と歌詞は氏を鼓舞していき言葉の力強さというものを再認識させていったのである。「現代詩創作という営為は、自分という存在への問いを言語の真っ直ぐな強度を知ってこそ成していけるのかもしれない」と、それぞれの楽曲を通して氏は思ったのである。そうしてリハビリ生活は、様々な幅を持った詩の創出と共に過ぎていった。自分に密接に関わっている一つひとつの詩作品は、宝物だった。やがて氏は、自分の詩を多くの人に読んでもらいたい、詩で生きていきたい、自分の詩で生計を立てていきたい、と強く思うようになっていった。自分の詩を販売し、生活している日々を想像しながら創作に励んでいく時間が長くなっていった。いつか詩集を出したいという思いが日増しに伸び上がっていくのが分かった。現在に続く豆塚氏の確固たる意志の根幹は、この頃に育まれていく夢と共に出来上がっていったのである。
 十八歳となり、リハビリ施設から出て自分の力で暮らしを始めた豆塚氏は様々な人との縁の中で日々を豊かなものにしていった。そして自主制作で待望の詩集『AM05:30』を発行する。初版に百部刷った『AM05:30』は様々な人々との縁の中で評判を呼んでいき、すぐさま何度も版を重ねるという異例の事態となった。そのまま次の詩集製作も続けて行い、ひたすらに氏は突き進んでいった。どうやったら読んでもらえるか、そして買ってもらえるかを考える日々が続くこととなった。さまざまな即売会に出て実際に手売りをしていく日々が始まった。とにかく必死だった。しかし売れた瞬間や感想をもらった時の喜びは、この上なく極上のものであり自分自身を鼓舞していった。読んでもらい買ってもらうこと、書き続けていくことは、そのまま生きることだった。文学で生計を立てていこうという決意は「こんぺき出版」を立ち上げた際、いよいよ頑強なものとなった。
 詩人として道を歩きいていく中で、これまでの文学観を変革していく一冊の本にも出会った。小川洋子氏の小説『ホテル・アイリス』が、それだ。喫茶店のマスターから小川洋子氏の小説を薦められ、古本屋さんなどで買い求め読み続けていく中で『ホテル・アイリス』は取り分け光を放って氏に迫って来たのである。小川洋子氏の独特の欠損との愛が、守られた空間での話ではなく白日の下へと晒されてしまう本作の暴力的とも言える内容と、それでも静かで乱れることのない筆圧が自身の魂と呼応したのだ。実は、幼少期から豆塚氏は、他者と自己との距離感に酷く苦しみ続けていた。常に人からどのように見られているか、という意識を持っていて全くもって気を抜くことが出来なかったのである。ずっと正しく強く自分は存在していなければならないと気を張っていて、その思いが呪いのように自己へと絡みついていたのだ。車椅子ユーザーとなってからは、その思いが更に強固なものとならざるを得ず、息苦しく作用しつつあった。しかし『ホテル・アイリス』には自己の生き方へと直接的に訴えかけてくる力動が存在していた。静謐さから一括りには出来ない人間関係の中で描き出されていく暴力的秘密と快楽が、逆説的に他者との境界や守ってくれる存在の尊さと安堵を浮き立たせ学び取らせていったのである。車椅子ユーザーとなってからの欠損や過去の人との距離感に臆病だった欠損が、小川洋子氏の世界観とリンクしていき自己存在を含めた氏の文学世界を変革していったのである。病院で朗読された『海』と『ホテル・アイリス』の二度の「小川洋子体験」は、豆塚氏の文学を成して生きていくという覚悟を決定的なものとし、導いていった。やがて夢と生活を見つめ求めて進んでいく中で、氏は小説の領域へも進出して行き始めたのである。早急な評価など要らないと思い、豆塚氏は拡げた領域の中でも自分が信じた作品創作を変わらず続けていった。良い作品を追究して具現化していさえすれば、いつか必ず誰かが気づいてくれると確信していたのである。どんなに評価されるまでの時間が掛かろうとも生計を立てるに値する作品創作への思いは曲げるつもりが無かったのだ。しかし氏は驚くべきほど早い段階から評価に恵まれることとなった。前述したように小説創作に踏み出し二作品目の『いつだって溺れるのは』で、いきなり本格的な文壇デビューを果たすこととなったのだ。「第三十二回太宰治賞」の一次選考に残ったことを知った時は、評価を気にしないと思っていたはずなのに、やはり驚愕するほどの喜びが胸に去来してくることを感じた。作品創作に対しての自信も湧いて来た。必死だった状態から少しだけ冷静になり、展望も見え始めて来た。真っ暗闇の中を漕ぎ出して行ったボートの上で北斗七星を見つけたような、自分の道のりへの目印を遂に見つけることが出来た思いだった。しかし最終候補に残ったことを知った時には自身の確固とした指針を再確認しながらも、さすがに一瞬ポカンとしてしまうような状態へと到ってしまった。そして、そこから目まぐるしく状況は動いていく。NHKから仕事依頼が来て媒体を超えた活動をするようになり、詩作品にも多大な注目が集まって結果が出ていったのだ。怒涛のような展開だった。けれども豆塚氏は、これまでの道程を決して忘れることなく詩人としての矜持も変わることが無かった。他媒体でも仕事をし領域の異なる創作者たちの仕事を舞台裏から見ていくことは、積極的に姿勢を学び取っていく一助となった。それらは詩人としての自分自身へとフィードバックされ作品創造の世界を更に豊穣なものと進化させていった。豆塚氏の消費されることのない人間存在を拠点とする作品世界は、この媒体を攪拌する高速情報社会の結節点に参加していくことで逆説的に復権していく実存の獲得を果たしたと言えるだろう。
  *
 機械同士の相互による介在が情報とイメージを現出させていく現代社会にあり放送媒体に通じて自己自身も現代詩のアイコンとなっている氏は、それでも紙媒体という古くからの共同体に根差す核心メディアを愛し作品と共に世界の在り方を再提示し続けている。客観的な拘束を解きほぐしていく怜悧な繊細さで血潮を描き出す姿勢は、この時代における文藝領域で一線を画す白熱を脈打つことに成功したと断言できる。『片隅04』(伽鹿社・二○一七年四月二十三日発行)で発表された短篇小説『ドールハウス』は、虚飾なく差し出された汚濁と醜悪さえをも受諾していく透徹な眼差しの精髄だ。自明的理解の経験と意識的還元との葛藤を回避することなしに認識が、支柱を水準とする主題化の中で見事に炙り出されていく。《社会から存在を抹消されたとして、私は痛くもかゆくもなかった。最初から私は生きていなかったのだから。しかし医者の前で出来ない小躍りはすべきではないくらいの常識は持ち合わせていたので、私は神妙な面持ちで緩む口を隠すように俯いた。医者はショックで声も出ないものと思ったらしい。私と視線を合わせるようにしゃがみ、同情を示すように私の肩を優しく叩いた。私は笑いを堪えて唇を噛んだ。医者の目には涙さえ浮かび、可笑しみのあまり私の目にも涙が浮かんできた》。この濁点を綴り切るからこそ氏の世界は美を惜しみなく獲得出来るのだ。傑出した美が特に輝く『詩と思想二〇一八年四月号』(土曜美術社出版販売)に発表された詩作品『まばたき』は意識と無意識に刷り込まれた人間の濁点へ向かい合い、共同体の中での拒めぬ不透明性で攪乱された生命現象を対象化した傑作だ。分節化された外界への絶望に発光を表す能動的な意志が、肉体を持ち言語の血脈を暴き出していく。

 瞼。月の
 海水に浸った
 ショーツとシミーズ。
 春の繭、ミルクパンに
 恋する卵。

 殺すことに慣れていたから、
 あなたが好きな私を
 まだ好きでいてくれたことさえ
 忘れて 浸水、ふやけていた
 温室の孔雀がふるえた

 髪の分け目 シャンプーのミントの香りは霧散して
 あなたの指が頭皮にふれて
 少しだけ
 爪を立て
 青い翅がちらばる
 薪が音を立てる

 雨に打たれて、低体温症で
 墜落した手紙 車に轢かれて、
 息絶えて、そのまま
 仕方なかったよね
 飛べない夜だったんんだ
 
 気づけば白い部屋、白いドレス、
 あのとき、
 インクが飛び散っていたら?
 ねっとりと指に絡まっていたら?
 
 下着からはまだ、海水が滴り、
 死のにおいを纏わせている

(『まばたき』全文)


 認識とは、その背後にある社会的存在と結びつけられ相対化されていくものである。そして各々の観点で固有認識における一面性から全体的観点へと相関させていく繰り返しにより、人間は生命を超えた背理へと無限に接近することが出来る。《まばたき》の中で一つひとつの動作に明滅していく事物の集積は切り離そうとも、自身を苦しめてしまうほどに形作られた命題への付与を持たざるを得ない。主体自己は静かに本質的付与の中で視点の変化を見つけていき《殺すことに慣れていた》のに《まだ好きでいてくれたこと》への気付きと忘却とを同時に行う思弁へと掴まれていく。けれども生活の中で客体を思い出すとき《好き》でいてくれるのは、あくまでも《あなたが好きな私》であったのだと相関が炙出してしまうのだ。時間と共に変化した自分は、その中で残忍に浮かび上がり映し出されてしまうのだ。意識の真理は、主体形成を巡る社会的共同体と歴史的時間をも包んで《死のにおい》を粘液と共に晒し出すのだ。まばたきしていく瞬間に発露するのは、純粋思弁で迂回する血脈に満ちた愛に他ならないのだ。
 日本の現代文学の流れは豆塚氏の登場により大きく変わった。既に無効化されていたはずの文字が、氏の純度の高い鋭意に律する麗しい作品の一つひとつでは、肉体の拍動を確かなまでに打っているのだ。今や社会では人々の周囲に見出される環境と社会生活が、近傍からのデジタル・サインや標識データを手掛かりに営まれることが普通となっている。人間の対応は電子化された技術へと委ねられてしまい、あがこうとも高速情報化の中で無効化の烙印を押された「文字」が大量流通していくツール化図像となり拡散している。豆塚氏の作品とは、真正なる文字の奪還だ。作者自身を磁場化してしまう稀有な感性と創作への覚悟が、それを可能としたのだ。シミュレーション世界の中で各媒体へと通じていくからこそ地域共同体の歴史的拍動をも産み直していく氏は、燦然と輝きを放つ実存性をハイブリット社会に復権させたのだ。これから豆塚氏が、後世の文学藝術までも牽引していくことは疑いようもない。

  ■参考文献:
  『グラモフォン・フィルム・タイプライター 上』 
  著:フリードリヒ・キットラー、
  訳:石光泰夫/石光輝子 
  (ちくま学芸文庫、二〇〇六年)
  『現象学的社会学の応用』
  著:P・L・バーガー、監修:中野卓、
  訳:桜井厚
  (御茶の水書房、一九八〇年