「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評 第103回 伊武トーマ

2013年08月26日 | 詩客
ヨシフ・ブロツキイ/たなかあきみつ(訳)
 POST AETATEM NOSTRAM
[紀元後] より


ライオンを観衆から隔てる

格子は、鋳鉄の変種で
ジャングルの錯綜を再現する。

苔。金属的な露のしずく。
蓮に巻きつく蔓。
自然は模倣される。

どこをさ迷っているか、密林か
あるいは荒野か
無頓着ではない人だけが
抱きうる愛情をこめて。


( 『Ⅸ 動物園』 /ヨシフ・ブロツキイ POST AETATEM NOSTRAM [紀元後] より)



 私は犬を飼っている。
 名前はシリウス。
6歳の♂。チョコレート色のラブラドール・レトリーバーだ。
 シリウスは散歩で外に出る以外、いつも室内にいて寝起きを共にしている。
毎度の食事もぴたっと脇にいてお座りしている。
シリウスは人間と同じ、我が家では家族の一員だ。
飼っているというより、一緒に暮らしているといった方がいいだろう。

 私がシリウスと戯れているのか?
シリウスの方が私と戯れているのか?

時折わからなくなる。
まるで鏡に映った虚像の自分が実像である自分を差し置いて、鏡の向こうから語りかけて
来るかのような感じだ…。

 それと同じ感覚を数年前の冬の初め、私が住む福島の隣県、宮城県仙台市にある八木山動
物園に行ったときもリアルに覚えた。そのことをベースに以下の詩が生まれた。


 檻

崩れた壁
打ちっ放しのコンクリートの床に
凍りついた肉片

終わりのない始まり
錆びた鉄柵を抜ける風

冬の訪れを告げるひとひらの雪が
檻の中へと迷い込む

鉄柵の向こう
傷だらけのオオカミが背を向け
深い森へと入って行った

私は檻の外にいるのではない
紛れもなく檻の中にいるのだ

外は雪
絶滅したはずの
オオカミの遠吠えがきこえる


(無題(titleless)/伊武トーマ)



 さて、前置きが長くなってしまったが、最初に掲出させていただいた、たなかあきみつ訳
ヨシフ・ブロツキイの長編詩POST AETATEM NOSTRAM [紀元後] より「Ⅸ 動物園」に
ついて。

〈一連目〉
ライオンを観衆から隔てる
 格子は、鋳鉄の変種で
 ジャングルの錯綜を再現する。


 ここでいう“鋳鉄の変種”とは何だろう。
 単純に“ライオンと観客を隔てる”檻を構成する“格子”であるのか。
 それも然り。
 だが、“ジャングルの錯綜を再現する”というのであれば ―― ライオンと対峙している
観衆の方が檻の中にいて、囚われの身であるのではないだろうか。

〈二連目〉
苔。金属的な露のしずく。
 蓮に巻きつく蔓。
 自然は模倣される。


 “自然は模倣される”とはどういうことだろう。
 あたかも鏡に映った自分が、鏡の向こうから語りかけて来る、虚像と実像が逆転した世界
で ―― 囚われの身であるはずものが自由であり、自由であるはずのものが実は囚われの身
である転倒した世界で、“自然は模倣される”のだとしたら ―― 檻の外にいるはずの、観客
であるはずの、私たち人間は、“自然を摸倣しながら”知らぬうちに自ら設えた檻の中へ ―
― 深く、より深く、鋳鉄の格子が張り巡らされた檻の中へと ―― 自身を幽閉しているので
はないだろうか。

〈三連目〉
どこをさ迷っているか、密林か
 あるいは荒野か
 無頓着ではない人だけが
 抱きうる愛情をこめて。


 檻の中にいて、檻の外にいると思い込んでいる私たち。
こんな私たち人間は、一体どこへ行くのだろう?
 どこから来て、どこをさ迷い、果たしてどこへ行くのだろうか?
 すべてが数値とデータに変換された揚句、血を流しても痛まないデジタルの密林か?
 あるいは核と原子力の火で焼き切られ、鏡から抜け出た虚像がさまよう荒野か?

 ブロツキイは言う「詩人とは言語が自らを存続させるために使う手段」であると ―― 言
語という名の絶滅寸前のオオカミ ―― いや、すでに絶滅してしまったかも知れぬ言語とい
う名のオオカミ ―― 幻となりつつあるオオカミの遠吠えを継ぎ、その鋭い爪先として使役
される詩人。

それに対し、言語を単なる道具として使う大衆の支配者や大衆の熱烈な幸福の擁護者たち
―― 言語を隷属化し、ディベートの道具として駆使する政治家たち ―― 世界の転倒を加速
させて止まない支配者、擁護者、政治家…それら無頓着な人びと。

 この世界で、無頓着ではない人であるということ。
即ち“詩人であるということ”

抱きうる愛情をこめ、ブロツキイは、“詩人であるということ”を静かに訴え続けている。
そして、私人である詩人、ブロツキイの稀有なまなざし。その時空を超えたまなざしに触
れるほど私の耳に、絶滅したはずのオオカミの遠吠えがこだまする…。

自由詩時評 第102回 移動の時代 田中庸介

2013年08月14日 | 詩客
 六月二日に下北沢のB&Bで、コロラドから来日した旧知のミッシェル・ナカ・ピアスと朗読会をやって、そのときに管啓次郎さんに紹介してもらった永井真理子さんが七月になってFacebookで、誰か緊急にアメリカ詩の翻訳を手伝ってくれませんかというので、すぐに手をあげた。しばらくは要領の得ないやりとりが続いたが、結局送られてきたのは、茨城県の取手市の「拝借景」という施設に滞在している、南カリフォルニアの詩人夫婦がコラボして書いた「真ん中」という詩だった。

「真ん中」は「中心性」の思想のありかを検証しようとして制作されたもので、つねに移り変わる中心部から外向きに書いていくという方法を採用している。制作にあたっては、次のようなルールに従って書いた。まず、フェリッツが四つの段落を書いた。つぎに、ベンがひとつの段落を前に、ひとつの段落を後ろに、ふたつの二段落をその間につけくわえた。このようなやり方で、現在の96頁に到達するまで書きつづけたものである。「真ん中」は、ちりぢりになった小説としても、つながった散文詩としても、自由に読むことができる。

 というのがその梗概であった。私は、96もの断章が連なっているこの詩から、はじめ二つ、真ん中二つ、最後二つを訳出して、彼らのパフォーマンスの道具に使ってもらった。外国人が東京に滞在してすごいペースで書いた詩ということで、いろいろ細かい点は不正確なところもあるけれども、何よりもその勢いと、異文化への向き合いように圧倒された。

《鉄こそは金なり》ということはもちろんだけれど、私はいくつかのコインを、空気の薄い、この金属的な空のかけらの中で身につけている。雲なんかはまったくなく、見やすい感じ。十二ドルもするベリーニ・カクテルが、オートクチュールに身を包んだ生き物の手の中に光っている。
(ベン・シーガル&フェリッツ・ルシア・モリーナ、「真ん中」1頁、冒頭、拙訳)

 
 これは六本木ヒルズの森美術館を訪れたときの描写だということであり、再開発ビルの最上階にあるこの空間の、豪奢で磊落だがどこか空虚な様子をよく描写している。偶然にも、フェリッツは、先日会ったミッシェルがディレクターをしているナローパ大学の出身だということで、フランスのウリポの影響であろうか、あえて方法的な縛りを自分自身で設け、その中に表現を展開しようとするところが共通していると思った。
 パフォーマンスの前日、勤め先の近所のカフェバーにお二人を迎えて話したが、いきなり意気投合して盛り上がり、五時間もしゃべり続けてしまった。ふとんの透明な真空パックにカップルをパックして写真を撮る日本人の写真家、フォトグラファー・ハルにあこがれて東京のポエット・イン・レジデンスに応募したこと、しかし実際にその袋に入れられてみると、パニック障害を起こしてひきつってしまったこと、でもよい写真ができて一生の思い出になり詩集の表紙にも載せたいということ。スタンフォード大学のシャンヌ・ンガイ教授がこのごろ流行させている、「ヘン・カワイイ・オモシロイ」が新しい時代の美学だという主張をどう思うか、などなど――。
 移動の時代なのだ。詩人は、どう思われるかどういうことになるかなどは心配せずに、どんどん移動していけばよいのである。美術家にアトリエを与え、そこで一定期間制作してもらうという「アーチスト・イン・レジデンス」プログラムは各地に定着してきたが、このような「ポエット・イン・レジデンス」も世界各地で盛んになってきた。私たちの街にもどんどん各地から詩人を迎えて、書いて、朗読してもらいたい。とにかく、移動して、人と話すこと。そして書くこと。そこから、なにか新しいものが生まれていくのではないか。今や、そのような希望があきらかに出てきたのである。

自由詩時評 第104回 詩を書く〈情熱〉を燃やし続ける 網谷厚子

2013年08月13日 | 詩客
1 現代詩はどこへ?

 最近の現代詩批評『現代詩八つの研究 余白の詩学』(葛綿正一著・翰林書房・2013年1月25日発行)には、次のように書かれている。

 よく知られているように、「一つの民族の血と土に根ざしていない詩は、ことごとく無力な修辞にすぎない」と江藤淳「日本の詩はどこにあるか」は述べている(『奴隷の思想を排す』文芸春秋社、一九五八年)。近代詩には血と土が必要だということであろう。その意味で、詩人のイマジネーションには必ずネーションが潜んでいる。しかし、現代詩はもはや血も土も必要とはしていないのである(「詩人は母国語によってしか詩を書くことはできない」というのは江藤淳の西脇順三郎に対する反発であろう)。近代詩が国民統合に向けて統一的なヴェクトルを働かせるのに対して、現代詩においてはむしろ離散的なヴェクトルが働いている。もっとも、近代詩も現代詩もともにモダン・ポエトリーと翻訳できるので、両者はモダンの二つの側面というべきかもしれない。近代詩も国民国家の外に出れば、現代詩として機能しうるからである。
 では、国民国家の遠近法に収まることのない現代詩はどのように読み解くべきか。
重要なのは声の共同体に回収されることのない文字の戯れを徹底して読み解くことであろう。そのとき必要となるのがジャック・デリダの著書である。詩人はもはや何者かの代表ではないし象徴でもないが、その単独性において普遍的に交通するように思われる。(11頁)※青字網谷。

 葛綿氏は研究者であり、詩人ではないので、「読み解く」方向で論じられている。私たち詩人は、「使えるものはなんでも使う」貪欲さで、〈先祖返り〉でも、効果があると判断す
れば意識的にやってのけてしまう。
 詩作は近代国家の発展と違って、〈直線的〉に発展し、〈後戻り〉しないということは決してない。ご飯がおいしいなら〈土鍋回帰〉もする。まだ解決されていない〈土俗的〉な課題なら、まだまだ何編か書くこともできるかもしれない。ひょっとしたらそれで一冊の詩集が出せるかもしれない。〈古ぼけていない〉〈手垢がついていない〉ものを、発掘できたら、〈金鉱〉をあてたような〈高揚感〉にだってひたれる。
 詩人の〈狡猾〉で〈執念深い〉眼差しは、常に〈獲物〉を狙っているのではないだろうか。現代詩の方向性は、個々の〈貪欲〉で〈疲れを知らない〉〈年齢不詳〉の旅人である詩人が、担っているとも言えるかもしれない。〈悪意〉に満ちた批評で、道半ばで(私が処女詩集を出してから36年が経ったが、まだ頑張れる)倒れないように、〈創作の泉〉を枯らさないように、心身共に〈健やかに〉書き続けていけたらと自分自身も切に願う。
 
2 現代詩の多様性 

              干し首

                            岡島 弘子

  無音の部屋で干し首になる

  こわれたアンプをなおして
  半日
  口をむすんで配線をつなぎかえる
  混乱した社会情勢はおさまらない
  つけかえるたびスイッチを押してみるが
  スピーカーからは音のひとつもこぼれてこない

  干し首がさらに水分をうしない
  ひびわれかわくころ まず
  自分自身の配線をチェックしようとおもいつき
  目 鼻 唇 耳をつけなおす
  スイッチオン
  と
  沈黙していたスピーカーから
  はじめの音がこぼれる

  ♪甲斐の山々 日に映えて
   われ出陣に憂いなし♪

  髪の毛の五線譜に音符を飾る
  唇は全音符
  耳は大きくひらき
  メロディのベールにつつまれる
  こめかみの血管は
  宇宙のリズムをきざみはじめる
  目は閉じて
  内なる銀河を透視する

                  
(『ほしくび』思潮社・2013年5月31日発行)
 
 
 アマゾン上流の部族は、昔、死後も蒸気となって存続する霊を信じて「干し首」を作ったという。かつて日本の各地でも「土葬」があった。「干し首」は、乾燥している分、〈生々しさ〉が薄れているような気がする。どこか〈ユーモラス〉でもあり、生きることの〈悲しさ〉も漂わせている。
〈生きながら〉少しずつ〈干し首〉になっていくからには、外界の騒がしさや〈記憶〉にこびりついたものを発散したい欲求からは無縁ではいられない。〈無防備〉に観念しきった存在は、限りなく〈宇宙の鼓動〉と一体化していく。
詩は〈国境〉をやすやすと越え、詩人の〈想像の翼〉は、〈宇宙〉へとはばたく。私は学生にいつも「小さくまとまるな、かっ飛ばせ」と〈檄〉を飛ばしている。誰に気兼ねして生きる人生なのか。もちろん〈公序良俗〉〈法令〉の踏み板から落ちない範囲で。
現代詩は、ますます〈多様化〉していくと考えられる。わたしはかつて『詩的言語論―JAPANポエムの向かう道』(国文社・2012年12月1日発行)で、次のように書いたことがある。

①〈老いる〉こと、あるいはその不安、病気
 〈死ぬこと〉あるいはその不安、家族の〈死〉
②看護する日々
③一人この世に残されて生きる日々
④望郷
⑤追憶
⑥自然礼賛

こうしたテーマの詩に出会うことが多くなり、全国総老齢化が始まったかという印象を持つ瞬間もあるようになった。書くことがなくなり、身の回りに目がいくようになったということもあるだろうし、自らにとって真に切実なことだからということもあるだろう。しかし、どうしてこれを私たちに差し出す必要があったのか、その〈必然性〉がわからないものもある。私自身も人に迷惑をかけているのだが、詩を読むことは人の大切な時間をいただくことでもある。
 夥しく言葉を紡ぎ出す仕業によって、心の内を外に出し、あるいは整理し、新たな〈一歩〉を歩き出す弾みになるかもしれない。言葉が出ることは、出すべき内容を持っているということでもある。
 それが、〈文学的〉に価値のあるものに高めてからでなければ、公表する意味がないのではないだろうか。
(55頁~57頁)

問題は〈垂れ流し〉〈愚痴〉と誹られないように、〈文学的〉に高める必要があるということである。
岡島弘子の「干し首」の「身体」繋がりで、岩佐なをの詩を挙げたい。


           「狩り」がえし
                           岩佐 なを

  「拳狩り」があって
  はずされたこぶしは首ヶ淵に
  みんな放りこまれた
  虐げられたこぶしはそれぞれ底で
  グッと握ったりパッと開いたり
  ゆびをわなわなさせたりしている
  クヤシイのさ。
  ハズサレてさ。
  いつかときが満ちこぶしが解かれて
  てのひらになったとき
  つぎつぎと握手をもとめあって
  そこにまたてのひらがかぶさりかぶさり
  うりゃうりゃ
  どでかいこぶしの団子と化して
  淵からとびだしていくのさ。
  さんじょう、岩石入道っ。
  むかしむかし
  「平手狩り」があったときは
  ひらては捨てられ田畑のこやしにされた
  しかし逆に土の養分をたくわえた
  てやゆびはたくましく育って
  ついには泥をぬぐってとびだして
  御××や御××の(*初出では「御代官や御大尽の」)
  クビをグシグシ絞めたものだったぎゃあ
  ひらて打ちではあまかろう
  手首から先だけでも
  語るべき歴史があったのさ。
  てのひらをゆるく開けば
  蓮華にもにているし
  爪のはえた指があれば
  ヤツラの目はツツケル
  遠方で口笛が鳴り狼煙があがり
  手だけでなく足も集まる   
 
(『海町』思潮社・2013年5月31日発行)

   
 歴史的に見れば、民衆による〈蜂起〉は数多く起こっている。振り上げた〈拳〉を高く高くと歌ったのはCHAGE and ASKAであった(「YAH YAH YAH」)。沖縄では、何万という〈拳〉が、近くは「屈辱の日」に上げられた。これはさすがに「拳狩り」にはあっていない。同じ国民に〈拳〉を振り上げるのは悲しい。
 現代詩のテーマには、こうした激しい〈怒り〉〈憎しみ〉〈悲しみ〉もある。〈平和ボケ〉は妄想であることがすでに明らかな現代日本に生きて、〈不安〉〈危機意識〉もテーマとなり得るだろう。しかし、いつ飛んでくるかわからない〈核爆弾〉の〈恐怖〉は、現実的すぎて詩にならないのではないだろうか。
 現代の溢れる情報は、私たちに〈過剰〉なイメージを喚起させずにはおかない。何気なく見る天気予報も、「世界の天気」を詳細に伝える。

               世界の天気
                            塚本 敏雄

  ダイニングのテレビから
  天気予報が
  途切れ途切れに聞こえてくる

   「……の影響で今夜半に向けて
     ……から……にかけての広い範囲で
     大気の状態が不安定になる見込みで」

  とたんに
  地球の大気が不安的になる映像が部屋中に広がって
  おさまりがつかなくなる
  中近東やアフリカや
  アメリカ ヨーロッパ オセアニア
  あるいは アジア全域の
  大気が不安定になり
  国境や大陸を越えて
  地球上のあらゆる気流が流れ始める

  (中略)

  パナマ ウラジオストック ベルファスト
  ブエノスアイレス ミュンヘン ヨハネスブルク
  ウェリントン コタキナバル ヤンゴン

  世界の天気を告げるウェブサイトに
  実際に載っている都市ばかりだ
  だが こうして都市名を挙げていくと
  血の臭いのしない都市などないことに驚く
  要所には市が立ち
  交通が生まれる
  異界の人々が交わる
  そして
  生者と死者も挨拶をかわす
  死者を慰撫するための物語も
  商人の荷台で揺れる

  リオデジャネイロの時計は朝の9時を刻み
  ロンドンは午後1時 ドバイは夕暮れの午後4時
  ベルリン、午後2時 ニューヨーク、午前8時
  シアトルは薄明の午前5時 ハノイ、午後7時
  東京は午後9時 風がしだいに強まっている
  夜半には雨になるだろう
         
(『見晴らしのいいところまで』書肆山田・2013年7月30日発行)
      

 日常をやすやすと浸食していく〈情報〉の罠にかかり、〈無防備〉な私たちの想像力は、限りなく膨らんでいく。考えてみれば、「世界の天気」は、大きな地球を取り巻く、一続きのものである。それを〈伝える〉ために、便宜上〈刻んでいる〉のは、国境であり、大都市であるにすぎない。その〈小区分〉が、またさらなる〈想像力〉を駆り立てる。自宅のリビングにいながら、〈世界旅行〉をしているようなものである。
 私たちの世界は、〈ヴァーチャル化〉が加速し、居ながらにして〈世界旅行〉をした気分になれる日も近いという。そうなれば、〈詩人の想像力〉など、たいしたものではなくなる危険性がある。しかし、〈言語化〉することは、〈ヴァーチャル化〉〈省力化〉はできない。
 古代からの〈叡知〉を結集して、常に〈捨て身〉で、書き続けなければならないだろう。テーマはまだまだたくさんある。それを発掘することもまた、求められているような気がする。