ヨシフ・ブロツキイ/たなかあきみつ(訳)
POST AETATEM NOSTRAM [紀元後] より
ライオンを観衆から隔てる
格子は、鋳鉄の変種で
ジャングルの錯綜を再現する。
苔。金属的な露のしずく。
蓮に巻きつく蔓。
自然は模倣される。
どこをさ迷っているか、密林か
あるいは荒野か
無頓着ではない人だけが
抱きうる愛情をこめて。
私は犬を飼っている。
名前はシリウス。
6歳の♂。チョコレート色のラブラドール・レトリーバーだ。
シリウスは散歩で外に出る以外、いつも室内にいて寝起きを共にしている。
毎度の食事もぴたっと脇にいてお座りしている。
シリウスは人間と同じ、我が家では家族の一員だ。
飼っているというより、一緒に暮らしているといった方がいいだろう。
私がシリウスと戯れているのか?
シリウスの方が私と戯れているのか?
時折わからなくなる。
まるで鏡に映った虚像の自分が実像である自分を差し置いて、鏡の向こうから語りかけて
来るかのような感じだ…。
それと同じ感覚を数年前の冬の初め、私が住む福島の隣県、宮城県仙台市にある八木山動
物園に行ったときもリアルに覚えた。そのことをベースに以下の詩が生まれた。
檻
崩れた壁
打ちっ放しのコンクリートの床に
凍りついた肉片
終わりのない始まり
錆びた鉄柵を抜ける風
冬の訪れを告げるひとひらの雪が
檻の中へと迷い込む
鉄柵の向こう
傷だらけのオオカミが背を向け
深い森へと入って行った
私は檻の外にいるのではない
紛れもなく檻の中にいるのだ
外は雪
絶滅したはずの
オオカミの遠吠えがきこえる
さて、前置きが長くなってしまったが、最初に掲出させていただいた、たなかあきみつ訳
ヨシフ・ブロツキイの長編詩POST AETATEM NOSTRAM [紀元後] より「Ⅸ 動物園」に
ついて。
〈一連目〉
「ライオンを観衆から隔てる
格子は、鋳鉄の変種で
ジャングルの錯綜を再現する。」
ここでいう“鋳鉄の変種”とは何だろう。
単純に“ライオンと観客を隔てる”檻を構成する“格子”であるのか。
それも然り。
だが、“ジャングルの錯綜を再現する”というのであれば ―― ライオンと対峙している
観衆の方が檻の中にいて、囚われの身であるのではないだろうか。
〈二連目〉
「苔。金属的な露のしずく。
蓮に巻きつく蔓。
自然は模倣される。」
“自然は模倣される”とはどういうことだろう。
あたかも鏡に映った自分が、鏡の向こうから語りかけて来る、虚像と実像が逆転した世界
で ―― 囚われの身であるはずものが自由であり、自由であるはずのものが実は囚われの身
である転倒した世界で、“自然は模倣される”のだとしたら ―― 檻の外にいるはずの、観客
であるはずの、私たち人間は、“自然を摸倣しながら”知らぬうちに自ら設えた檻の中へ ―
― 深く、より深く、鋳鉄の格子が張り巡らされた檻の中へと ―― 自身を幽閉しているので
はないだろうか。
〈三連目〉
「どこをさ迷っているか、密林か
あるいは荒野か
無頓着ではない人だけが
抱きうる愛情をこめて。」
檻の中にいて、檻の外にいると思い込んでいる私たち。
こんな私たち人間は、一体どこへ行くのだろう?
どこから来て、どこをさ迷い、果たしてどこへ行くのだろうか?
すべてが数値とデータに変換された揚句、血を流しても痛まないデジタルの密林か?
あるいは核と原子力の火で焼き切られ、鏡から抜け出た虚像がさまよう荒野か?
ブロツキイは言う「詩人とは言語が自らを存続させるために使う手段」であると ―― 言
語という名の絶滅寸前のオオカミ ―― いや、すでに絶滅してしまったかも知れぬ言語とい
う名のオオカミ ―― 幻となりつつあるオオカミの遠吠えを継ぎ、その鋭い爪先として使役
される詩人。
それに対し、言語を単なる道具として使う大衆の支配者や大衆の熱烈な幸福の擁護者たち
―― 言語を隷属化し、ディベートの道具として駆使する政治家たち ―― 世界の転倒を加速
させて止まない支配者、擁護者、政治家…それら無頓着な人びと。
この世界で、無頓着ではない人であるということ。
即ち“詩人であるということ”
抱きうる愛情をこめ、ブロツキイは、“詩人であるということ”を静かに訴え続けている。
そして、私人である詩人、ブロツキイの稀有なまなざし。その時空を超えたまなざしに触
れるほど私の耳に、絶滅したはずのオオカミの遠吠えがこだまする…。
POST AETATEM NOSTRAM [紀元後] より
ライオンを観衆から隔てる
格子は、鋳鉄の変種で
ジャングルの錯綜を再現する。
苔。金属的な露のしずく。
蓮に巻きつく蔓。
自然は模倣される。
どこをさ迷っているか、密林か
あるいは荒野か
無頓着ではない人だけが
抱きうる愛情をこめて。
( 『Ⅸ 動物園』 /ヨシフ・ブロツキイ POST AETATEM NOSTRAM [紀元後] より)
私は犬を飼っている。
名前はシリウス。
6歳の♂。チョコレート色のラブラドール・レトリーバーだ。
シリウスは散歩で外に出る以外、いつも室内にいて寝起きを共にしている。
毎度の食事もぴたっと脇にいてお座りしている。
シリウスは人間と同じ、我が家では家族の一員だ。
飼っているというより、一緒に暮らしているといった方がいいだろう。
私がシリウスと戯れているのか?
シリウスの方が私と戯れているのか?
時折わからなくなる。
まるで鏡に映った虚像の自分が実像である自分を差し置いて、鏡の向こうから語りかけて
来るかのような感じだ…。
それと同じ感覚を数年前の冬の初め、私が住む福島の隣県、宮城県仙台市にある八木山動
物園に行ったときもリアルに覚えた。そのことをベースに以下の詩が生まれた。
檻
崩れた壁
打ちっ放しのコンクリートの床に
凍りついた肉片
終わりのない始まり
錆びた鉄柵を抜ける風
冬の訪れを告げるひとひらの雪が
檻の中へと迷い込む
鉄柵の向こう
傷だらけのオオカミが背を向け
深い森へと入って行った
私は檻の外にいるのではない
紛れもなく檻の中にいるのだ
外は雪
絶滅したはずの
オオカミの遠吠えがきこえる
(無題(titleless)/伊武トーマ)
さて、前置きが長くなってしまったが、最初に掲出させていただいた、たなかあきみつ訳
ヨシフ・ブロツキイの長編詩POST AETATEM NOSTRAM [紀元後] より「Ⅸ 動物園」に
ついて。
〈一連目〉
「ライオンを観衆から隔てる
格子は、鋳鉄の変種で
ジャングルの錯綜を再現する。」
ここでいう“鋳鉄の変種”とは何だろう。
単純に“ライオンと観客を隔てる”檻を構成する“格子”であるのか。
それも然り。
だが、“ジャングルの錯綜を再現する”というのであれば ―― ライオンと対峙している
観衆の方が檻の中にいて、囚われの身であるのではないだろうか。
〈二連目〉
「苔。金属的な露のしずく。
蓮に巻きつく蔓。
自然は模倣される。」
“自然は模倣される”とはどういうことだろう。
あたかも鏡に映った自分が、鏡の向こうから語りかけて来る、虚像と実像が逆転した世界
で ―― 囚われの身であるはずものが自由であり、自由であるはずのものが実は囚われの身
である転倒した世界で、“自然は模倣される”のだとしたら ―― 檻の外にいるはずの、観客
であるはずの、私たち人間は、“自然を摸倣しながら”知らぬうちに自ら設えた檻の中へ ―
― 深く、より深く、鋳鉄の格子が張り巡らされた檻の中へと ―― 自身を幽閉しているので
はないだろうか。
〈三連目〉
「どこをさ迷っているか、密林か
あるいは荒野か
無頓着ではない人だけが
抱きうる愛情をこめて。」
檻の中にいて、檻の外にいると思い込んでいる私たち。
こんな私たち人間は、一体どこへ行くのだろう?
どこから来て、どこをさ迷い、果たしてどこへ行くのだろうか?
すべてが数値とデータに変換された揚句、血を流しても痛まないデジタルの密林か?
あるいは核と原子力の火で焼き切られ、鏡から抜け出た虚像がさまよう荒野か?
ブロツキイは言う「詩人とは言語が自らを存続させるために使う手段」であると ―― 言
語という名の絶滅寸前のオオカミ ―― いや、すでに絶滅してしまったかも知れぬ言語とい
う名のオオカミ ―― 幻となりつつあるオオカミの遠吠えを継ぎ、その鋭い爪先として使役
される詩人。
それに対し、言語を単なる道具として使う大衆の支配者や大衆の熱烈な幸福の擁護者たち
―― 言語を隷属化し、ディベートの道具として駆使する政治家たち ―― 世界の転倒を加速
させて止まない支配者、擁護者、政治家…それら無頓着な人びと。
この世界で、無頓着ではない人であるということ。
即ち“詩人であるということ”
抱きうる愛情をこめ、ブロツキイは、“詩人であるということ”を静かに訴え続けている。
そして、私人である詩人、ブロツキイの稀有なまなざし。その時空を超えたまなざしに触
れるほど私の耳に、絶滅したはずのオオカミの遠吠えがこだまする…。