「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第217回 個人の記憶と集合的な記憶 須永 紀子

2017年11月12日 | 詩客
 池田善昭さんと福岡伸一さんの対話集『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅』(明石書店)を読んでいる。福岡さんによるプロローグに興味深いことが書かれていた。

 わたしたちの身体はたえまのない合成と分解のさなかにあり、一年もたてば物質的にはすっかり別人となっているのだが、その中で記憶だけが保たれている。細胞の中身が入れ替わっても、細胞と細胞の繋がり(神経回路)が保たれれば記憶は保存されうる。

 この話に興味を持った小説家のカズオ・イシグロは「記憶は死に対する部分的な勝利といえますね」と言ったそうである。
 今年度のノーベル文学賞受賞者であるカズオ・イシグロは「記憶」をテーマに作品を発表してきた。個人の記憶と国家の「歴史」の記憶、そのずれから発生するさまざまな問題を一貫して描いている。イシグロの小説を追いかけるように読んできた者の一人として、作家の苦闘が評価されたことをうれしく思う。
 表現者にとって記憶は重要なモチーフの一つである。記憶をそのまま書いても作品にはならない。現在の何かが過去とつながらなければ記憶は引きだされない。

 そもそも記憶とは何か。今年八月に記憶と脳の関係、記憶のメカニズムの詳細を明らかにする論文(byニック・ストックトン)が発表された。研究結果によると、記憶は脳に蓄積されるのではなく、脳が記憶そのものであり、脳細胞やシナプス(神経活動に関わる接合部位とその構造)などが時間を理解しているという。ヒトは記憶を再構成する際、匂いや色などを思いだし、それらに対して抱いたあらゆる感情を追体験する。脳はミリ秒単位の印象をかき集め、つなぎあわせてモザイクをつくりだす。その能力があらゆる記憶の基礎である。つまり脳は記憶でできていて、記憶はつねに脳をつくり替えているというのである。

 岩成達也さんの『風の痕跡』(書肆山田)は今年わたしが読みえたなかで最も感銘を受けた詩集。個人の記憶が呼びおこされ、深い知性と知識がそれに細部を付けていく。たとえば「ペタンク」は異国の村でセシリアという女性と歩いたことを思いだしている詩。「そのあと私達は土産物屋へ寄ったのか、昼食をどこでとったのか、いまでは何一つ覚えてはいない。だけれども、あの日あのとき私達は倖せだった。」確かなことはそれだけなのだが、散歩の途中に見た海や風、天候が呼びだされている。記憶は少しずつ更新されたものであるだろう。記憶は細胞の死に勝利したものという説が腑に落ちるようだ。また個人的な死の場面にあっては怖れを緩和してくれるものではないだろうか。

 殊に「優子の庭」に惹かれた。森のなかにある姪の家で食事をする場面からはじまるが、記憶をたどるように展開され、後日姪から送られた写真集を見て、さらに記憶を遡る。詩のなかにゆったりと時間が流れ、記憶が再生される。写真集を見た「私」は、優子が撮影したときに集中したのは鳥や樹の枝など「明確な実体もの」だと思うのだが、

 私の場合には、妙な言い方になるがそれらは一種の把手、全画面を引き起す把手なのだ。把手を握ることによって、その奥の全画面の「空間」がここへと引き起され、把手を越えて前景化する。(そしておそらくは、前景化した後は、その把手は砕かれて前景の中に埋没する。)

 ことばでしか表現できないイメージだと思う。この「把手」の動きは映像では表現することが困難であるような気がする。
 さらに『青のパティニール』という本を紹介し、忘れられた最初の風景画家といわれるパティニールの絵画について語られている。そのなかで「把手」が「主題」を意味することが読者に知らされる。詩人の鋭い感性と確かなまなざしから生まれた豊かな詩である。

 一方、大きな話題になった河津聖恵さんの『夏の花』(思潮社)は個人的な体験ではなく、集合的な体験の記憶にスイッチを合わせている詩集。福島、広島、沖縄を訪ね、そこに咲く花に思いを託すように書かれている。これはとても果敢な挑戦だと思う。3.11以後に書き継がれたと記されているから、明確な意図をもって、多くのひとが犠牲になった地を訪れたと推察できる。
 詩集のタイトルは原民喜の『夏の花』から取られている。自身の広島での被爆体験を元に書かれた小説。表題作にはそこからの引用が組みこまれ、力作になっている(この詩については別のところで書いたので省略します)。

 また、「月桃」は沖縄を舞台に、太平洋戦争末期の沖縄戦で恋人を戦地に送り自決した女性をモチーフにした詩。「私の‶本土″が花の‶沖縄″に照らされる/心はすでにうじがわき/血しぶきに暗く濡れ/すべらかな日常の下方ではわれしらず/私もまた沖縄の骨を踏んでいた」。「」が詩の主体であり、話者だと思われるのだが、最後は

  愛そのものとして生きた魂の花房は
  いま風に揺れ 私たちの思いに揺れ
  ふるえる平和を底から抱きしめようと
  純白に輝きはじめる
  花明かりはほろびない
  どんな闇にも 花は花の魂を奪わせないと


 悲劇の舞台になった土地に咲く花を讃えるように結ばれる。随筆家の岡部伊都子さんのエッセイが引用されている。岡部さんの面影からイメージしたという「花の島」という詩もある。どちらも「私」の意 識は途中で消えてしまっている。「私」の思念はどこへ降りたったのだろう。集合的な記憶に寄りそって詩を書く難しさを感じた。

 話は飛ぶが、アメリカでは9.11の後、同時多発テロの体験を描いた小説が次々と刊行された。話題になったのは大きな物語ではなく、小さな物語、個人のその後を追いかけるストーリーの小説だった。なかでもドン・デリーロの『墜ちてゆく男』(上岡伸雄訳・新潮社)は優れた作品であると思う。
 小説と詩はちがうけれど、詩において集合的記憶をモチーフにする場合も、大きな物語ではなく、小さな物語の小さな声がどこまで届くかという試みの方が有効なのではないかと思うのだが、どうだろうか。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 自由詩評 絶景は時空を超え... | トップ | 自由詩評 ニーチェの自由詩... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

詩客」カテゴリの最新記事