最近詩と哲学に関する文章を読んでいて、引用されている開高健の「哲学は理性で書かれた詩である。」を読み、哲学については半可通でしかない私であるが、それは違うのではないかと思った。
哲学は哲学であるである限り整合性、一般性を考慮しつつ構成されるものだと思う。それが次々と組み替えられていくにしても、そのような志向がなければ、そもそも哲学である必要は無いし、我々が哲学に惹かれ続けるのは、それがそのような思惟だからである。
それに対し詩は、「その状態(詩的状態:引用者注)は完全に不規則で、恒常でなく、意志によらず、脆弱であって、そしてわれわれはこれを偶有的に獲るとともに失う(後略)」(ポール・ヴァレリー『詩話』佐藤正彰訳)のである。
ドウールーズ・ガタリは『哲学とは何か』で、「芸術の合成=創作平面と哲学の内在平面は、一方に属する部分面が他方に属する存在態によって(略)占拠されてしまうほどに、互いの中に滑り込むことができる。」(財津理訳)と書いたが、その例としてあげたマラルメの「イジチュール」は「詩」として成功した作品の例にならない。翻訳(西脇順三郎訳『エロディアード』、柏倉康夫訳『牧神の午後』等)でも分かる成功したマラルメの詩作品にある「詩」は、正にヴァレリーが語る「詩」であるが、『イジチュール』を例にされても、あまり説得力は無い。
また「学」は必ず方法を考えるが、方法によって詩に近付くことはできない。『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』を書き「方法」について深く考えるところがあったヴァレリーだからこそ、当初は方法によって意志的に詩に近づくことを考えてはいたものの、やがてその困難を告白することになったのだと思う。
『哲学とは何か』では、科学、哲学、芸術の三つの面はそれぞれの仕方でカオスと戦うのであるが、それらの接合として「脳」があると論じている。野村喜和夫の詩集『よろこべ 午後も 脳だ』は、その「脳」を意識しているのであろう。その中の「正午(よろこべ午後も脳だ)」は次のような作品だ。
きみって
字と絵と
マル
詩へ めざめさせ レア 麗 ぬっ 美っ
ぷ 柄 地MID
これは当然ながら脳の中そのものということではなく、やはり作られたものである。しかしこれが刺激となって何か動きだすのを待つということなのであろう。ジョイスの『フィネガンズウェイク』よりはこちらの方が作りものらしさが少ない。このやり方の場合、この作品のような充分な長さが脳の中らしさを作るために必要になる。勿論意味によって関連づけられないが、これらの脳の中に散在するたくさんの言葉、あるいは言葉の断片を読者が意識に沈めていった時、そこに何かいきいきとした動きが始まることかどうかを試みているのだと思う。いずれにしても、決め手は魅惑として現れる謎の密度だと思うが。
脳の状態を作品化するというよりは、読者の意識に言葉を放りこんで、それが刺激となって動き出すものを呼びだそうとするのであれば、短さによって言葉の浸透圧を高めた俳句の方が可能性があるかもしれない。俳句は詩のように脳そのものを感じさせるには短か過ぎるが、長さゆえに濁っていくリスク、刺激が薄れていくリスクから逃れられる。
ともあれ、どのような理性を通ってもここから哲学には行きつかないだろうと思う。
哲学は哲学であるである限り整合性、一般性を考慮しつつ構成されるものだと思う。それが次々と組み替えられていくにしても、そのような志向がなければ、そもそも哲学である必要は無いし、我々が哲学に惹かれ続けるのは、それがそのような思惟だからである。
それに対し詩は、「その状態(詩的状態:引用者注)は完全に不規則で、恒常でなく、意志によらず、脆弱であって、そしてわれわれはこれを偶有的に獲るとともに失う(後略)」(ポール・ヴァレリー『詩話』佐藤正彰訳)のである。
ドウールーズ・ガタリは『哲学とは何か』で、「芸術の合成=創作平面と哲学の内在平面は、一方に属する部分面が他方に属する存在態によって(略)占拠されてしまうほどに、互いの中に滑り込むことができる。」(財津理訳)と書いたが、その例としてあげたマラルメの「イジチュール」は「詩」として成功した作品の例にならない。翻訳(西脇順三郎訳『エロディアード』、柏倉康夫訳『牧神の午後』等)でも分かる成功したマラルメの詩作品にある「詩」は、正にヴァレリーが語る「詩」であるが、『イジチュール』を例にされても、あまり説得力は無い。
また「学」は必ず方法を考えるが、方法によって詩に近付くことはできない。『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』を書き「方法」について深く考えるところがあったヴァレリーだからこそ、当初は方法によって意志的に詩に近づくことを考えてはいたものの、やがてその困難を告白することになったのだと思う。
『哲学とは何か』では、科学、哲学、芸術の三つの面はそれぞれの仕方でカオスと戦うのであるが、それらの接合として「脳」があると論じている。野村喜和夫の詩集『よろこべ 午後も 脳だ』は、その「脳」を意識しているのであろう。その中の「正午(よろこべ午後も脳だ)」は次のような作品だ。
きみって
字と絵と
マル
詩へ めざめさせ レア 麗 ぬっ 美っ
ぷ 柄 地MID
これは当然ながら脳の中そのものということではなく、やはり作られたものである。しかしこれが刺激となって何か動きだすのを待つということなのであろう。ジョイスの『フィネガンズウェイク』よりはこちらの方が作りものらしさが少ない。このやり方の場合、この作品のような充分な長さが脳の中らしさを作るために必要になる。勿論意味によって関連づけられないが、これらの脳の中に散在するたくさんの言葉、あるいは言葉の断片を読者が意識に沈めていった時、そこに何かいきいきとした動きが始まることかどうかを試みているのだと思う。いずれにしても、決め手は魅惑として現れる謎の密度だと思うが。
脳の状態を作品化するというよりは、読者の意識に言葉を放りこんで、それが刺激となって動き出すものを呼びだそうとするのであれば、短さによって言葉の浸透圧を高めた俳句の方が可能性があるかもしれない。俳句は詩のように脳そのものを感じさせるには短か過ぎるが、長さゆえに濁っていくリスク、刺激が薄れていくリスクから逃れられる。
ともあれ、どのような理性を通ってもここから哲学には行きつかないだろうと思う。