詩人海野剛に初めて会ったのは、甲府の山梨県立文学館ホールで行われた詩人和合亮一氏のイベント会場であった。最後の質問コーナーに真っ先に手を挙げ、まっすぐに和合氏を見つめながら熱心に質問をしていた詩人が海野氏であった。
なんだか面白え兄ちゃんだなと思ってすぐに声を掛け「あんちゃん、『里』で俳句やらねえか?」なんてナンパして、さぞびっくりした事だろう。そんな彼の第一詩集『ぼくはそこに』が出版されたのだ。
「白」
憂色の土をまさぐり
葱は直線を意志していた
逆扱きにひらいたその白は
ぼくにつよい眩暈を浴びせた
どんなに白く映るものでも
絵の具の白はめったに使うべきではない
〈告白〉や〈白状〉にせよ
いったいだれが かの白きあかるさを表すものか
人は白など持ちえない
白は人を焦がしつつ それほどまでに遠ざかる
青空よりたちかえり
もういちど差し迎えると
それはきびしく拒んで在った
ぼくにあって 白は問えない色だった
空の青さえ畏ろしく
ぼくの位置をにわかに冷やした
読後おもわず「ああ、これは詩だ」と口にする。
当たり前だと思うかもしれないが、これが本音である。ぼくは海野の詩が上面でない事をこの目で確認した。
最近、たて続けにベテラン詩人諸氏の声を聞く機会があったが、曰く今の詩人は頭でモノを考え、肉体性を伴って居ないから言葉が軽く人に伝わらない。いまだに中也や茨木のり子、谷川俊太郎のイメージから脱却できないのは残念でならないなどと、それぞれほぼ同じ事を述べ、そして嘆いていた。
ぼくは詩人森川雅美率いる俳句・短歌・詩の三詩型交流を目指す詩歌梁山泊「詩客」に参加して久しく、比較的若い人の詩を読む機会に恵まれているが、たしかに彼らの詩にはナタのように骨を断つ剣呑な重さは無く、どちらかと言えばライトバースの空間で浮遊するような、洗練ともまた違うフラジャイルな空気感を帯びている。彼らの作品から過去の名詩のような読む者の人生を脱臼させてしまうようなパワーを感じないのは、もしかしたら彼らが自らの人生の全体重を詩に乗せることを怖がっているからなんじゃないか? などと考えたりもしているのだ。
詩は肥大化した大脳皮質を持て余すぼくら人類の言葉を収める強靭で広大な器であることは『ギルガメシュ叙事詩』が、『イーリアス』が、『詩経』が既にして証明している。それを知ってか知らずか今の詩人は「詩」という器を信じていない、ぼくはそんな印象を持っている。しかし海野の詩からは彼の体重をたしかに感じられることが嬉しく思ったのだ。
詩人海野剛よ、詩壇やメディアに惑わされることなく、もっと手を汚し、腰を曲げ、土に膝を突き、唸り、顔を顰めながらもっともっと詩に体重を乗せろ。詩が悲鳴を上げるくらい酷使しろ。
献呈してくれてありがとう。ぼくはこの詩集を真っ黒になるまで読もう。
里俳句会・塵風・屍派 叶裕
海野剛 第一詩集 ぼくはそこに https://amzn.asia/d/gccxsFN
なんだか面白え兄ちゃんだなと思ってすぐに声を掛け「あんちゃん、『里』で俳句やらねえか?」なんてナンパして、さぞびっくりした事だろう。そんな彼の第一詩集『ぼくはそこに』が出版されたのだ。
「白」
憂色の土をまさぐり
葱は直線を意志していた
逆扱きにひらいたその白は
ぼくにつよい眩暈を浴びせた
どんなに白く映るものでも
絵の具の白はめったに使うべきではない
〈告白〉や〈白状〉にせよ
いったいだれが かの白きあかるさを表すものか
人は白など持ちえない
白は人を焦がしつつ それほどまでに遠ざかる
青空よりたちかえり
もういちど差し迎えると
それはきびしく拒んで在った
ぼくにあって 白は問えない色だった
空の青さえ畏ろしく
ぼくの位置をにわかに冷やした
読後おもわず「ああ、これは詩だ」と口にする。
当たり前だと思うかもしれないが、これが本音である。ぼくは海野の詩が上面でない事をこの目で確認した。
最近、たて続けにベテラン詩人諸氏の声を聞く機会があったが、曰く今の詩人は頭でモノを考え、肉体性を伴って居ないから言葉が軽く人に伝わらない。いまだに中也や茨木のり子、谷川俊太郎のイメージから脱却できないのは残念でならないなどと、それぞれほぼ同じ事を述べ、そして嘆いていた。
ぼくは詩人森川雅美率いる俳句・短歌・詩の三詩型交流を目指す詩歌梁山泊「詩客」に参加して久しく、比較的若い人の詩を読む機会に恵まれているが、たしかに彼らの詩にはナタのように骨を断つ剣呑な重さは無く、どちらかと言えばライトバースの空間で浮遊するような、洗練ともまた違うフラジャイルな空気感を帯びている。彼らの作品から過去の名詩のような読む者の人生を脱臼させてしまうようなパワーを感じないのは、もしかしたら彼らが自らの人生の全体重を詩に乗せることを怖がっているからなんじゃないか? などと考えたりもしているのだ。
詩は肥大化した大脳皮質を持て余すぼくら人類の言葉を収める強靭で広大な器であることは『ギルガメシュ叙事詩』が、『イーリアス』が、『詩経』が既にして証明している。それを知ってか知らずか今の詩人は「詩」という器を信じていない、ぼくはそんな印象を持っている。しかし海野の詩からは彼の体重をたしかに感じられることが嬉しく思ったのだ。
詩人海野剛よ、詩壇やメディアに惑わされることなく、もっと手を汚し、腰を曲げ、土に膝を突き、唸り、顔を顰めながらもっともっと詩に体重を乗せろ。詩が悲鳴を上げるくらい酷使しろ。
献呈してくれてありがとう。ぼくはこの詩集を真っ黒になるまで読もう。
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