「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 「器」~海野剛第一詩集『ぼくはそこに』を読む 叶 裕

2023年07月20日 | 詩客
 詩人海野剛に初めて会ったのは、甲府の山梨県立文学館ホールで行われた詩人和合亮一氏のイベント会場であった。最後の質問コーナーに真っ先に手を挙げ、まっすぐに和合氏を見つめながら熱心に質問をしていた詩人が海野氏であった。
 なんだか面白え兄ちゃんだなと思ってすぐに声を掛け「あんちゃん、『里』で俳句やらねえか?」なんてナンパして、さぞびっくりした事だろう。そんな彼の第一詩集『ぼくはそこに』が出版されたのだ。

「白」
憂色の土をまさぐり
葱は直線を意志していた

逆扱きにひらいたその白は
ぼくにつよい眩暈を浴びせた
 
 どんなに白く映るものでも
 絵の具の白はめったに使うべきではない
 
 〈告白〉や〈白状〉にせよ
 いったいだれが かの白きあかるさを表すものか
  
 人は白など持ちえない
 白は人を焦がしつつ それほどまでに遠ざかる

青空よりたちかえり
もういちど差し迎えると
それはきびしく拒んで在った

ぼくにあって 白は問えない色だった

空の青さえ畏ろしく
ぼくの位置をにわかに冷やした


 読後おもわず「ああ、これは詩だ」と口にする。
 当たり前だと思うかもしれないが、これが本音である。ぼくは海野の詩が上面でない事をこの目で確認した。
 最近、たて続けにベテラン詩人諸氏の声を聞く機会があったが、曰く今の詩人は頭でモノを考え、肉体性を伴って居ないから言葉が軽く人に伝わらない。いまだに中也や茨木のり子、谷川俊太郎のイメージから脱却できないのは残念でならないなどと、それぞれほぼ同じ事を述べ、そして嘆いていた。

 ぼくは詩人森川雅美率いる俳句・短歌・詩の三詩型交流を目指す詩歌梁山泊「詩客」に参加して久しく、比較的若い人の詩を読む機会に恵まれているが、たしかに彼らの詩にはナタのように骨を断つ剣呑な重さは無く、どちらかと言えばライトバースの空間で浮遊するような、洗練ともまた違うフラジャイルな空気感を帯びている。彼らの作品から過去の名詩のような読む者の人生を脱臼させてしまうようなパワーを感じないのは、もしかしたら彼らが自らの人生の全体重を詩に乗せることを怖がっているからなんじゃないか? などと考えたりもしているのだ。
 詩は肥大化した大脳皮質を持て余すぼくら人類の言葉を収める強靭で広大な器であることは『ギルガメシュ叙事詩』が、『イーリアス』が、『詩経』が既にして証明している。それを知ってか知らずか今の詩人は「詩」という器を信じていない、ぼくはそんな印象を持っている。しかし海野の詩からは彼の体重をたしかに感じられることが嬉しく思ったのだ。
 詩人海野剛よ、詩壇やメディアに惑わされることなく、もっと手を汚し、腰を曲げ、土に膝を突き、唸り、顔を顰めながらもっともっと詩に体重を乗せろ。詩が悲鳴を上げるくらい酷使しろ。

 献呈してくれてありがとう。ぼくはこの詩集を真っ黒になるまで読もう。

里俳句会・塵風・屍派 叶裕

海野剛 第一詩集 ぼくはそこに https://amzn.asia/d/gccxsFN

自由詩時評第286回 閉じたまぶたの暗闇に~桑田今日子詩集『ヘビと隊長』を読んで 黒田 ナオ

2023年07月10日 | 詩客
 どこか寂しい。その寂しさは多分、わたしの年齢的なものなのだろうと思う。
 日常の中にときどき、きらっと光るものがある。そこに懐かしさと嬉しさと、すぐに消えてしまうだろう儚さを感じてしまうのは、やっぱりきっと年齢的なものなのだ。
 いろいろな人やものや出来事が現れて。若かった頃は、それらがどんどん大きく膨らんで、きらめきを増すと思っていた。どんどんどんどんいいものがやって来る、と信じて疑わなかった。
 でも、今は違う気がする。どんなに素敵な人やものや出来事も、夕焼けみたいにいつかは消え去ってしまい、いずれ一人残されてしまう。そういうどうしようもなさを、楽しい物語にして見せてもらった気がする。
 桑田今日子さんの詩集「ヘビと隊長」(詩遊社)を読んだ。
     
  瞬く

寝っ転がって見上げる
窓の向こうの星からも
誰かこっちを見ている

堂々巡りの軌道に乗り上げ
山積みの問題を腕枕にして
こっちを見上げている
はるか彼方の誰か

あぶったスルメみたいな宇宙人が
体をくねらせながら呟く
こっちもあっぷっぷですう
少し笑える

よく見ると
ほら、あの星もその星も
ふるふるふるふる
微妙に揺れている
どこもあっぷっぷですう

ため息は夜空に吸い込まれ
閉じたまぶたの暗闇を
無数の星が流れてくる


 主人公の(多分)女は、寝っ転がっている。わたしにもそういう時がある。堂々巡りの毎日、山積みの問題、そこで四苦八苦している自分をぽ~んと放り出して、もうやけくそで夜空を見上げてみれば、そこにはまるで鏡みたいに、自分と同じように四苦八苦している宇宙人がいる。そして向こうも、はるか彼方から、こっちを見ているようだ。
 その宇宙人というのがまた、「あぶったスルメみたい」というのも生活感たっぷりで可笑しい。どこにでもいそうな宇宙人なのだ。宇宙人は変てこりんに体をくねらせがらながら、「こっちもあっぷっぷですう」なんて、そのへんによくいるおじさんみたいな言葉を呟いている。そういう姿をまた、寝っ転がったままの女が、くすりと笑いながら見ているのだ。
「あああ、もう仕方ないもんね」というため息まじりの声が聞こえてくる。
 よく見ると、ほら、あっちにもこっちにも、同じような宇宙人がいて、あっちからもこっちからも「あっぷっぷですう」なんて気の抜けた声が聞こえてくる。
 「ああ、もうどうにでもなれぇ」と女も宇宙人と一緒に、体をくねくねさせているうちに、いつの間にか、「(女の)閉じたまぶたの暗闇を/無数の星が流れてくる」のだった。
 ああ良かった良かった、なんて、詩を読んでいるわたしまでもが、一緒になって救われる。本当に良かった。宇宙人と一緒にくねくねしながら詩を読んで。どうもありがとう、とまぶたを閉じたまま寝転がっている女にも声をかけたくなり、ついでに宇宙人たちのことも、ぎゅっと抱きしめてあげたくなった。
 
この詩集の最後に書かれた、「あとがき」も素敵だと思う。

詩を読んだり書いたりすることは、
私のちっぽけな人生を味わい深く
させ、想像力を広げ、自分を取り
巻くモノクロの世界に彩りと輝き
を与えてくれます。 

(「あとがき」より)


 生年月日を見ると、桑田今日子さんは、わたしより二歳年下で、ほとんど同級生である。その同級生に近い女友達と、初夏の一日、どこか海に近い喫茶店でクリームソーダを注文して、運ばれてきたソーダ水をうっとり眺めながら、「ホントにきれいだよね」と一緒に喜んでいるみたいな気がした。

大切なものが
窓の向こうにあった
その日、人生ではじめて
自分に自分が降り注いできた
最初は自信なさげに
でもどうにもこらえられない
まっさらな雪花が
わくわくわくわく
まだ柔らかい地面に着地していった

(「窓の雪」より)


 自分に自分が降り注ぐって、なんて素敵で適切な表現なんだろう。
 この「窓の雪」という詩のなかでは、授業中に窓の外で、ちらほらと初雪が舞い始めて、生徒たちはみんな窓の外ばかり眺めていている。先生は叫ぶ。「雪なんて珍しくないぞ。はい、黒板を見てっ。」ところがそんな先生に対して主人公の少女は、「授業なんて珍しくないぞ」と心の中で叫び返す。
 今日子さんにとって詩を書くことはきっと、窓の外にちらほら舞い始めた初雪を見るみたいに、わくわくすることなのだろう。心の奥にまだたっぷり残されているふわふわと柔らかいもの、それらをもう一度、発見するような楽しい作業なのかもしれない。
 わたしもまた、そんな風に詩を書いていきたいと、改めて感じた。