「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第288回 辻󠄀綾乃 第一詩集『青白い月』(北方新社)に寄せて~触れられぬ痛みとうつくしさに 紫衣

2023年09月11日 | 詩客
どの夜へ、届けにゆくのだろう。青い闇。しろい月のひかり。透明な空のした。波うつやわらかな髪をゆらし、抱えきれないほどいっぱいに咲きこぼれた花束を胸に、煌めく星のしずくを音もなく踏みしめながら、ひとりの少女は。散りばめられた宝石のような花野の、道なきみちを—―。

  *

一冊の詩集を手にしている。遠く離れた北国から贈られてきたそれは、およそ十余年の時を経て編まれた息づかい、と直筆で添えられている。著者は辻󠄀綾乃。東もなによる静謐な装丁画に彩られ。気づけば蝉の声は消え、素肌に落ちる夕刻のひかりが心なしかあかくに沁みて。
風の匂いがかわる。
予感がする。
〝北国の秋は本当に短いのです〞彼女の手で綴られている。気づいていたのかもしれない。本当はずっと前から。まぶたも灼かれそうにつよい白昼の光は、わたしの目には少し、まぶしすぎるから。

 泣かないと
 だめになるな
 という瞬間が
 あって
 
 黙々と
 泣いて
 みる
             (七頁)

 ぱちくりして
 目を乾かして
 自分を哀れんで

 泣いてどうなることはない。
  (八頁)

そう溢しながらも、(今にも/降りそうな/雲に向かって)涙は頬をつたう。黙し、うつむき、天を仰ぎながらも彼女は、(だれも/わるくないときの/いごこちのはがゆさ)(ただしさが/なにか/わからないこと)(しあわせのなかの/たくさんのかなしみ)を声なき声として呑む。幾度となくそう、つめたい月のひかりを欲した夜は、ひとしれず、泣いてしまいたかったのかもしれない。

 おしあわせに、と言った
 この口も
 捨ててしまいたかった
     (四頁)
 
たった一言でも、くちに出来さえすれば、救われそうなものを。(容赦ない日常)(ゆく宛のない歩み)に身を浸す彼女には(星々の慰めも/あらゆる類の優しさも/敵わない)。

 バウムクウヘンを食べながら 泣いた
 二日間 動いてない口は
 ボロボロと塊をこぼした
    (二九頁)

呼吸さえままならなくなった者にとって、ときに平凡にいきることほど難しいことはない。それはもう、ほとんど根源的ないたみとかなしみでもあるのかもしれない。くちに含めど、舌のうえで甘く溶けゆくはずのそれは、咀嚼されることなく嚥下されるでもなく、ボロボロとただ、かたく閉ざされた唇から溢れ落ちる。くだかれた石のように。

 どんよりした天気だった
 空が赤く染みた
 何度も何度も何度も
 刺した
 何度も何度も何度も
 聞こえるうめき声
 次第に薄れていった
 白い百合が揺れていた
     (三五頁)

空の赤。揺れる白い百合の花。ふいに不穏な映像美を想わす幕あけのここで、初めてわたしたちは「うめき声」を聴く。誰の声か。「きみ」の声か。何度も何度も刺しつづける姿に重ねあわせるように、「私」は「雪だるま」をつくる(愛でるように)(手を繋いで)。それでも〝ゆき〞は、やがては淡く消え失せてしまうものである。つみも、傷みも。記憶も、哀しみも。何度繰り返せどみつめる己が手から滑り落ちるように、跡形も残さない。それほどの深みが、死のうつくしさと儚さにかさねられている。
だが脆くこわれそうな彼女の呼吸とて、かなしみに留まり続けはしない。ゆきどけの朝。今しも泣きぬれそうな空のした。透明な闇夜にだけ息づくひとすじの祈りがあることを、彼女はしっている。ぎりぎりのところで持ち堪え、「銀色の轍」に生まれる気配。そこからこぼれてくる詩があることを。

 食虫植物も彼も私も
 知覚する世界は違うけれど
 同じ空間で肩を寄せ合っている
 (四七頁)
 
 レース越しのやわらかな木漏れ日が
 白い百合を活けた花瓶に満ちる
 聖母、がいるとすれば
 深まる秋の乳白色の
 この光はきっと
 そのひとの眼差しだろう
    (四七頁)

 真っ暗な
 玄関から
 鍵を開ける
 音がして
 ただいまが聞こえる
      (六二頁)

 春を待つ
 街の砂糖漬けが
 除雪車の
 排気ガスに
 溶けだしてゆく
        (六六頁)

 灰色が溶けた
 街の片隅に
 もうすぐ
 蕾が色づく
          (六八頁)
 
 これを
 食べ終えたら
 わたしたち
 永遠の一粒になって
 風に浚われ
 どこか遠い場所へ
 運ばれてゆく
         (七四頁)

作中に点在する煙草、洗剤、炊飯、玄関—―ふたりの暮らしに瑞々しい「セロリ」から流れだす「死の匂い」。身を浸す日常の風景と(風に浚われ/どこか遠い場所へ運ばれてゆく)この透明感。
幽かに疼く発語の萌芽。まばゆい地上にふるひかり。
それは〝他者〞の顕れゆえか。「沸き立つ感情はない」といい、過去の記憶もまた何を訴えるでもない。いたいけな旭光への希求が、まばたく瞳に嬉しい。
巻末には「ひとりぽっちのあなたの隣に静かに座っているような詩を書きたい」としるされ、その祈りと願いが、そのまま彼女の詩人としての佇まいとなっている。

  *

……ちゃん。綾乃ちゃん。祈りの声が聴こえる。呼びたかった。ずっと長いこと呼べずにいた、その名をひとりくちにして。
そっと 本をとじる。
遠く去りゆく誰かのためいきを聴いた気がして、ふりむく。
傷ついた脚も、傷んだゆびさきも。いまなら、きっと。ひとしれずふゆに咲く雪の花のように可憐なこの詩集そのものが、詩人・辻󠄀綾乃によって束ねられた、うつくしい星屑の花束であることをしったから。
しろい頬。くちづけするように、しずかに瞳をとじて。月のひかりを透かした艶やかなソバージュの横髪に凍える息をひそめながら。透明なかなしみのなかに凛とした光を携えていきる少女の眼差しが溢れ、触れられぬ痛みとうつくしさにふと、泣きそうになる。

ひとり、またひとり。今宵も凍えて黙する誰かのもとへと、届けられることだろう。花束を抱きすくめ、道なきみちをゆく少女の、まぶたがうっすらときりひらかれる、夜あけのときを、待っている—―。

※赤字は、本書からの引用による。