■まず、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞から話そうか
現代詩時評としては、やはり2016年ノーベル文学賞がアメリカのロックシンガー、ボブ・ディランに授与されたことを取り上げないわけにはいかないだろう。
様々な媒体で取り上げられているボブ・ディランのノーベル文学賞受賞。久々のアメリカからの受賞(数日間連絡が不能。賞を受けるかどうか注目されたが、結局賞を受けると意志表示。しかし授賞式には欠席)。だが、果たしてディランは詩人なのか歌手なのか、あるいはその両方を兼ね備えた存在なのか。また受賞が文学的業績に値するものなのか、というところに焦点が当てられているようだ。
世間の、「受賞が妥当か」という問題はさておき、まずノーベル文学賞なるものがどのような性質をもつものなのかを検証することが必要だろう。当賞が「世界最高レベルの賞」だという認識はすこし足りないのではないかと思うのだ。(あくまで一般的な認識にそって言えば)世界的な権威ある賞には違いないが、もうひとつ「世界に還元すべき賞」だという認識はあまり語られない。ダイナマイトを発明しそれが戦争に使われた反省の念から賞が創設されたという、ノーベルの遺志を再認識すべきではないだろうか。
つまりこういう推理だ。今回のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、シリア内戦をはじめとするアメリカをけん制する意図があったのではないか。周知のようにディランは、60年代のベトナム戦争を批判する反戦フォーク歌手として登場してきた。ノーベル文学賞委員会は、その彼の戦争批判(プロテスト)の歌をもってアメリカ自身や世界を覚醒させたいという意図があった、というと穿ちすぎだろうか。
世界はシリア内戦から拡大した難民問題など、未だ解決できていない難問であふれている。忘れられたかもしれないが昨年(2015)のノーベル文学賞授賞者は、ジャーナリストのスべトラーナ・アレクシェービッチなのだった。彼女は、アフガニスタン紛争やチェルノブイリ惨事を通して、「ソ連崩壊後の個人」を描き出した人。生まれたウクライナ(旧ソ連領)はロシアとヨーロッパ、中東の境辺りの、地政学的にも重要な位置にある国である。アレクシェービッチは、そのウクライナに生れベラルーシに住んでいるが、ヨーロッパに亡命していた時期もあったようだ。
ノーベル文学賞委員会は、ジャーナリストと(移り変わりはあるが)反戦ロック歌手に文学賞を与えることによって、アメリカとロシアという大国間の戦争構造を非難していると考えられなくもない。それがどれだけ有効かは別として、こういった“政治的配慮”は、これが初めてではない。1957年にノーベル文学賞を受賞したフランス領アルジェリア出身の作家アルベール・カミュの時は、1954年から始まったアルジェリア独立運動と関係しているとも言われている。1962年アルジェリア独立は、カミュにとって複雑な立場だったという・・・。(そういえば、先日観た映画『アルジェの戦い』は傑作だった!)
さてボブ・ディランの受賞を文学関係者と音楽関係者とでは当然受け止め方が違う訳だが、それぞれの反応ぶりはどうだろう。「ミュージック・マガジン」誌は、12月号でいち早く「文学としてのボブ・ディラン」を特集した。音楽関係者は総じて、ディランの受賞に讃美の声を上げている、といった風の反応だ。和久井光司という“総合音楽家”は「ディランの歌詞が宗教的な重みをもつようになった・・・」と手放しの誉めようだ。アメリカ文学研究者の堀内正規は、「大衆音楽には見られなかったような高度な隠喩を用いたとか、ハイカルチャーの文学の影響を取り入れたとか、思いがけない語彙で韻を踏みまくるとかということは、いずれもとても興味深い問題ではあるが、必ずしも決定的な要素であるわけではない。むしろボブ・ディランが「ライク・ア・ローリング・ストーン」で“How does it feel?”とあの声で問いかけるとき、他の何語にも翻訳不可能な“feel”を、聴く者すべての脳の中に永遠に残すあのやり方は、どう考えても、言葉そのものの力の発現であるという点で、〈詩〉そのものに他ならない。」(p47)というところが妥当な評価だという気がする。
また、「週刊金曜日」は11月18日号で「ボブ・ディラン」を特集し、ディランの信奉者である、シンガーソングライターの友部正人と、同じく中川五郎の対談を組んでいる。中川は「文学とは紙の上の表現であって音や演奏や声とは関係ないと考えている人たちが多いんですよ。でも、古代ギリシャの吟遊詩人、ホメーロスを持ち出すまでもなく、文学の最初の形態は文字よりも声で伝えられていました。」とこれもまともな文学観とディランの評価を語っている。
■作家、詩人たち
翻って、紙媒体で文学活動をしてきた作家、詩人の反応はどうか。ツイートされた中から拾ってみると、英作家のサルマン・ラディッシュは「オルフェウス(ギリシャ神話の吟遊詩人)からファイズ(パキスタンの詩人)まで、歌と詩は密接な関わりを持ってきた。ディランは吟遊詩人の伝統の優れた継承者だ。素晴らしい選択だ」と好意的だ。スコットランドの作家、アーヴィン・ウエルシュは「私はディランのファンだ。だがこれは、年寄りで訳の分からないことを早口にしゃべっているヒッピーたちの腐りかけの前立腺からもぎ取られた浅はかな懐古趣味の賞だ」。今さら受賞なんて笑っちゃうぜ、とノーベル文学賞そのものに異議申し立てをしているようだ。ホラー小説で知られる作家のスティーブ・キングは「ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したことに興奮している。不道徳で悲しいこの時期に素晴らしく、かつ良いことだ」と常識的な反応ぶりだ。
文学者とりわけ詩人たちの反応はどうだろうか。拾おうとしてみたが、あまり詩人たちの声は聞こえてこない。その中で、詩人・作家の松浦寿輝は、「文学の領域はどんどん広がるべきだし、小説や詩と限定するのは文学概念を貧しくするだけだから、広がるのはいいことだと思います」と伝え聞く。こちらは好意的だが、ほかの詩人たちはけっこう辛辣な意見もあるようだ。
今さら述べるまでもないが、ノーベル文学賞委員会の授賞理由は「(ディランが)アメリカの輝かしい楽曲の伝統の中で新しい詩的表現を生み出してきたこと」である。つまり、ディランの詞や唄のなかの「詩=ポエジー」を評価した、ということなのだ。あるいは「伝統」と「詩的創造」の融合が評価されたということだろう。アメリカの歌、とりわけ、ジャズやフォーク、ブルース、ゴスペル、黒人霊歌にまで遡る唄の系譜が、ディランの詞のなかに詠みこまれているということか。詞のなかに含まれる俗語や隠語、あるいは彼独特の嗄れ声までが文学性に富んでいると評価されたとみていいいのだろうか。それなら他の歌い手、(生きていればだが)よく言われるジョン・レノンが受賞していてもおかしくはなかった・・・という理屈にもなる。ま、答えは風のなか・・・?
■詩の世界の潮の分け目か
とはいうものの大きな視点で捉えれば、このボブ・ディランの文学賞受賞は詩の世界の、潮の分け目になるような予感がする。いや、潮の分け目のなかに、ボブ・ディランの文学賞が象徴的にはまり込んだ、というべきだろう。これもよく言われるように、詩とは古来、口から口へ伝えられてきた口承(口誦)文学である。「詩」は古くは「詞」であって、書き言葉文化は口誦の肉声というものを消してしまった歴史がある。ディランの受賞は、文字のなかに隠された肉声の復活をも意図していたと言うと深謀遠慮すぎるだろうか。
詩の朗読という行為が、ここ何年かに亘って盛んに繰り返され、日本だけでなく世界中でなされている背景にはこの「肉声」というものが文字の裏に隠され、それも文学だと言う暗黙の了解があるのかもしれない。またそれは文字の原初性への復権であるともいえるし、長く続いてきた黙読文化がもたらした価値観の反転であるのかもしれない。そうした“先祖がえり”をしながら我々の文化は繰り返されてきたのだが、いままたその蘇生をすることで詩はあらたな価値を見出したのだと思いたい。
かつて、アフリカ系の女性詩人の朗読をユーチューブで見たことがある。彼女の朗読スタイルは独特で、台本も見ず大きなジェスチャーを交えながら怒鳴るように朗読していたのが非常に印象的だった。日本人は台本を見ながら朗読することが一般的だが、外国人はパフォーマンスというか、ジェスチャーの大きい方が受けは良いようだ。
詩が、文字文化の黙読を受け入れ発達してきたのは活字文化の影響下だ。詩人たちは、詩を書くこと、読むことで表現してきた。いままた、朗読という表現が再び脚光をあびてきたのは、詩人たちが積極的に朗読行為に参加してきたためだ。これが詩と声の融合の表れと見るべきか。詩と詞が、ディランに象徴されるように、詩と声は新たな展開・融合として流れの本流に立ち現れて来る予感がするのである。この傾向をもつ優れた詩の書き手は多いが、特に日本の詩人では伊藤比呂美あたりは名実ともに筆頭だろう。ドイツ在住の多和田葉子もやはり詩を、文字のなかに肉声を取り入れた表現を展開している一人だ。
ディランが評価された「伝統」とは、過去から伝わり、また現在から遡及できる機能である。我々は大きな文化表現の流れのなかで、自分たちを過去・未来と繋がる表現者として認識すべきだろう。
現代詩時評としては、やはり2016年ノーベル文学賞がアメリカのロックシンガー、ボブ・ディランに授与されたことを取り上げないわけにはいかないだろう。
様々な媒体で取り上げられているボブ・ディランのノーベル文学賞受賞。久々のアメリカからの受賞(数日間連絡が不能。賞を受けるかどうか注目されたが、結局賞を受けると意志表示。しかし授賞式には欠席)。だが、果たしてディランは詩人なのか歌手なのか、あるいはその両方を兼ね備えた存在なのか。また受賞が文学的業績に値するものなのか、というところに焦点が当てられているようだ。
世間の、「受賞が妥当か」という問題はさておき、まずノーベル文学賞なるものがどのような性質をもつものなのかを検証することが必要だろう。当賞が「世界最高レベルの賞」だという認識はすこし足りないのではないかと思うのだ。(あくまで一般的な認識にそって言えば)世界的な権威ある賞には違いないが、もうひとつ「世界に還元すべき賞」だという認識はあまり語られない。ダイナマイトを発明しそれが戦争に使われた反省の念から賞が創設されたという、ノーベルの遺志を再認識すべきではないだろうか。
つまりこういう推理だ。今回のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、シリア内戦をはじめとするアメリカをけん制する意図があったのではないか。周知のようにディランは、60年代のベトナム戦争を批判する反戦フォーク歌手として登場してきた。ノーベル文学賞委員会は、その彼の戦争批判(プロテスト)の歌をもってアメリカ自身や世界を覚醒させたいという意図があった、というと穿ちすぎだろうか。
世界はシリア内戦から拡大した難民問題など、未だ解決できていない難問であふれている。忘れられたかもしれないが昨年(2015)のノーベル文学賞授賞者は、ジャーナリストのスべトラーナ・アレクシェービッチなのだった。彼女は、アフガニスタン紛争やチェルノブイリ惨事を通して、「ソ連崩壊後の個人」を描き出した人。生まれたウクライナ(旧ソ連領)はロシアとヨーロッパ、中東の境辺りの、地政学的にも重要な位置にある国である。アレクシェービッチは、そのウクライナに生れベラルーシに住んでいるが、ヨーロッパに亡命していた時期もあったようだ。
ノーベル文学賞委員会は、ジャーナリストと(移り変わりはあるが)反戦ロック歌手に文学賞を与えることによって、アメリカとロシアという大国間の戦争構造を非難していると考えられなくもない。それがどれだけ有効かは別として、こういった“政治的配慮”は、これが初めてではない。1957年にノーベル文学賞を受賞したフランス領アルジェリア出身の作家アルベール・カミュの時は、1954年から始まったアルジェリア独立運動と関係しているとも言われている。1962年アルジェリア独立は、カミュにとって複雑な立場だったという・・・。(そういえば、先日観た映画『アルジェの戦い』は傑作だった!)
さてボブ・ディランの受賞を文学関係者と音楽関係者とでは当然受け止め方が違う訳だが、それぞれの反応ぶりはどうだろう。「ミュージック・マガジン」誌は、12月号でいち早く「文学としてのボブ・ディラン」を特集した。音楽関係者は総じて、ディランの受賞に讃美の声を上げている、といった風の反応だ。和久井光司という“総合音楽家”は「ディランの歌詞が宗教的な重みをもつようになった・・・」と手放しの誉めようだ。アメリカ文学研究者の堀内正規は、「大衆音楽には見られなかったような高度な隠喩を用いたとか、ハイカルチャーの文学の影響を取り入れたとか、思いがけない語彙で韻を踏みまくるとかということは、いずれもとても興味深い問題ではあるが、必ずしも決定的な要素であるわけではない。むしろボブ・ディランが「ライク・ア・ローリング・ストーン」で“How does it feel?”とあの声で問いかけるとき、他の何語にも翻訳不可能な“feel”を、聴く者すべての脳の中に永遠に残すあのやり方は、どう考えても、言葉そのものの力の発現であるという点で、〈詩〉そのものに他ならない。」(p47)というところが妥当な評価だという気がする。
また、「週刊金曜日」は11月18日号で「ボブ・ディラン」を特集し、ディランの信奉者である、シンガーソングライターの友部正人と、同じく中川五郎の対談を組んでいる。中川は「文学とは紙の上の表現であって音や演奏や声とは関係ないと考えている人たちが多いんですよ。でも、古代ギリシャの吟遊詩人、ホメーロスを持ち出すまでもなく、文学の最初の形態は文字よりも声で伝えられていました。」とこれもまともな文学観とディランの評価を語っている。
■作家、詩人たち
翻って、紙媒体で文学活動をしてきた作家、詩人の反応はどうか。ツイートされた中から拾ってみると、英作家のサルマン・ラディッシュは「オルフェウス(ギリシャ神話の吟遊詩人)からファイズ(パキスタンの詩人)まで、歌と詩は密接な関わりを持ってきた。ディランは吟遊詩人の伝統の優れた継承者だ。素晴らしい選択だ」と好意的だ。スコットランドの作家、アーヴィン・ウエルシュは「私はディランのファンだ。だがこれは、年寄りで訳の分からないことを早口にしゃべっているヒッピーたちの腐りかけの前立腺からもぎ取られた浅はかな懐古趣味の賞だ」。今さら受賞なんて笑っちゃうぜ、とノーベル文学賞そのものに異議申し立てをしているようだ。ホラー小説で知られる作家のスティーブ・キングは「ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したことに興奮している。不道徳で悲しいこの時期に素晴らしく、かつ良いことだ」と常識的な反応ぶりだ。
文学者とりわけ詩人たちの反応はどうだろうか。拾おうとしてみたが、あまり詩人たちの声は聞こえてこない。その中で、詩人・作家の松浦寿輝は、「文学の領域はどんどん広がるべきだし、小説や詩と限定するのは文学概念を貧しくするだけだから、広がるのはいいことだと思います」と伝え聞く。こちらは好意的だが、ほかの詩人たちはけっこう辛辣な意見もあるようだ。
今さら述べるまでもないが、ノーベル文学賞委員会の授賞理由は「(ディランが)アメリカの輝かしい楽曲の伝統の中で新しい詩的表現を生み出してきたこと」である。つまり、ディランの詞や唄のなかの「詩=ポエジー」を評価した、ということなのだ。あるいは「伝統」と「詩的創造」の融合が評価されたということだろう。アメリカの歌、とりわけ、ジャズやフォーク、ブルース、ゴスペル、黒人霊歌にまで遡る唄の系譜が、ディランの詞のなかに詠みこまれているということか。詞のなかに含まれる俗語や隠語、あるいは彼独特の嗄れ声までが文学性に富んでいると評価されたとみていいいのだろうか。それなら他の歌い手、(生きていればだが)よく言われるジョン・レノンが受賞していてもおかしくはなかった・・・という理屈にもなる。ま、答えは風のなか・・・?
■詩の世界の潮の分け目か
とはいうものの大きな視点で捉えれば、このボブ・ディランの文学賞受賞は詩の世界の、潮の分け目になるような予感がする。いや、潮の分け目のなかに、ボブ・ディランの文学賞が象徴的にはまり込んだ、というべきだろう。これもよく言われるように、詩とは古来、口から口へ伝えられてきた口承(口誦)文学である。「詩」は古くは「詞」であって、書き言葉文化は口誦の肉声というものを消してしまった歴史がある。ディランの受賞は、文字のなかに隠された肉声の復活をも意図していたと言うと深謀遠慮すぎるだろうか。
詩の朗読という行為が、ここ何年かに亘って盛んに繰り返され、日本だけでなく世界中でなされている背景にはこの「肉声」というものが文字の裏に隠され、それも文学だと言う暗黙の了解があるのかもしれない。またそれは文字の原初性への復権であるともいえるし、長く続いてきた黙読文化がもたらした価値観の反転であるのかもしれない。そうした“先祖がえり”をしながら我々の文化は繰り返されてきたのだが、いままたその蘇生をすることで詩はあらたな価値を見出したのだと思いたい。
かつて、アフリカ系の女性詩人の朗読をユーチューブで見たことがある。彼女の朗読スタイルは独特で、台本も見ず大きなジェスチャーを交えながら怒鳴るように朗読していたのが非常に印象的だった。日本人は台本を見ながら朗読することが一般的だが、外国人はパフォーマンスというか、ジェスチャーの大きい方が受けは良いようだ。
詩が、文字文化の黙読を受け入れ発達してきたのは活字文化の影響下だ。詩人たちは、詩を書くこと、読むことで表現してきた。いままた、朗読という表現が再び脚光をあびてきたのは、詩人たちが積極的に朗読行為に参加してきたためだ。これが詩と声の融合の表れと見るべきか。詩と詞が、ディランに象徴されるように、詩と声は新たな展開・融合として流れの本流に立ち現れて来る予感がするのである。この傾向をもつ優れた詩の書き手は多いが、特に日本の詩人では伊藤比呂美あたりは名実ともに筆頭だろう。ドイツ在住の多和田葉子もやはり詩を、文字のなかに肉声を取り入れた表現を展開している一人だ。
ディランが評価された「伝統」とは、過去から伝わり、また現在から遡及できる機能である。我々は大きな文化表現の流れのなかで、自分たちを過去・未来と繋がる表現者として認識すべきだろう。