ときに海沿いの高台に佇つ。必要に駆られてである。波は刻々と色をかえ、澄みきったあさは空の蒼をうつし、薄曇りの日には黒々とした潮 を巻く。見あげれば透明の三角屋根。青く光るバージンロード。全面を透明のガラスで囲まれたチャペルの祭壇からは、眼前の波が手に届きそうな距離に迫り、風のつよい真ふゆには身体ごと呑まれそうな錯覚に陥る。疾風に全身を打たれるたび、肌を刺すつめたさも、潮の香も、かしいだ陽のひかりさえ。吐息のしろさに非力さを視る、この季節にふと。遠い夏の日のまぶしさを想う。
つかの間、凪が舞い降りる瞬間。無意識に欲するのだろうか。手元にある、この『Rurikarakusa』23――手紙のように折りたたまれた、花の名を冠する三名の詩人たちによるうつくしい詩誌を、そっと紐といた日の記憶を乞うように?
父は時々夢の底からやって来て、風の想いを伝えようとする。
〝風〟。それが、ひとの想いそのものを運ぶものであるならば、わたしたちが、ひとり、またひとり、いなくなったとき。透き通る二本のうでをのばすだろうか。生者から死者へ、あるいは死者が死者へと手添えし、生者へと。耳を澄ませてふりむくあなたのもとに、届くよう。
野火止の駅に着いたとき、
気づかぬ花が一つ
籠から車輪の脇にポロリ零れた。
冥土への扉は、ともするとちいさく可憐で、日々をいきる者たちのそばへと静かに、ひらかれているのかもしれない。最終連、「姿を変えた花の母を/ぼくに差し向けてくる」「父」の透明な描写が、淡くいとおしい。
いくつもの白い手が
あらっている さらしている
いくまいもの白い布を
包み 破れ 汚れた布を
二篇目。ここでは静かなる語り口から、一種不穏な映像が浮かぶようである。消してしまいたいのに、消えない痛み。かなしみ。記憶。その手で何をしたの、と突きつけたくなる衝動。あるいは、現代にしてなお繰り返される我々の根源的な〝つみ〟が、問われているのかもしれない。
――あれは何を包んでいたのですか
――ことばだったと思うが
あなたはくちごもる
――それはひびきでしたか、かたちでしたか
だが「わたしの問いに/だれも応えるものはない」。こたえることができない。その輪郭にふれることなどついに、叶わないからであろうか。「手ばかりが/いつまでも白く/せわしなく/とけのこっている」この光景に、救いはあるのか。目をとじてなお、まぶたの裏に蘇る「すみれ色の陰」「藍色の闇」に、我々はきっと何度でも、立ち返ることになる。
帰る時に初めて彼女の手に触れた
手のひらをかざし静かに私に見せた
案外きれいな手だった
と言うか指紋もないくらいつるつるだった
親指を中に入れて曲げ
残った指で親指を閉じ込めていた
そんなに強く握ると痛いよ
そう言うと夫が出てきて
優しそうな声でさようならと言った
三遍目。ぞっとする場面である。「狼」「熊」「蝙蝠」「羊」「馬」「蛙」……。動物になぞらえて描かれる情景、抱く違和感のなかで、唐突に〝ヒト〟である者のもっとも怖ろしい貌が露呈する瞬間が描かれている。たとえ第三者の存在がそばにあろうとも、恐怖で縛られ凍りついた身と心には、言葉など無力なのだ。しかし、知っていれば。知ってさえいれば、沈黙で救いを乞うことも、また乞う者に手を差し伸べることだって、ときにはできるかもしれない。その微かな灯火を、彼女の詩はそっと掲げてくれる。
*
走ろうとした
眠ろうとした
その意識のそとで
美しい 凡て かなしいものは
かわって詩誌『らむねくり』2号より。空白に点在する、作者不明のいくつもの詩句や写真が印象的である。〝名〟に備わってしまうある種の意味や役割を一時だけでもおろすことで、鮮やかにいきてくるからだろうか。
家族写真から
笑顔は消えない
みんな離れても
笑い方は変わらない
五十円玉二枚を取り出した
父のごつごつした手
忘れられるわけがなかった
山田彩緒、山田真佐明。ふたりの詩人による作品群の、穏やかな共鳴。確かなるまなざし。すべてが曖昧に溶けゆく黄昏時を想わす光景の、記憶と夢想が入り交じる呼吸のなかで、「弟」「妹」「お姉ちゃん」「私」「あなた」「息子」「父」「家族」「一族」――語り手に向けられた彼らのいたいけな優しさに、ふれると胸がしめつけられる。いつ、うしなうかもわからない、こわれそうな時間 のいとおしさを意識下に眠らせて。
俺の前を醜い色と形の鳥やらねずみが行ったり来たり、凝視して睨みつけてやれば、俺の前から足早に立ち去ってゆく。
時間。その概念からはなたれた空間に、更にあざやかな〝絵〟を描いて魅せるのが、ゲスト枠に飾られた桜木利春の散文詩であろう。時空間の曖昧さ、乱歩のように移動する都市模様。一見忌み嫌われるものたちと「俺」との対峙。「ふたたび会うことはないだろう、お前」の存在。「しかし今、その情景はすべて、鮮明さを欠いている」。
視界から色が消え、時間軸を失い、何処で生き、彷徨っているかさえわからない、現代の我々の姿を象徴するかのような語り手の不安。それらをひた隠すかのごとく逼迫した息遣いのさきに、突如として切りひらかれる光景。
風がやさしく手を差し伸べ、彼らの歌と躍りを後押しする。泉は煌めき、清浄の潤いを、渇いた者たちの喉に恵んでやる。そのほとりに、お前がいる。
「光彩」「草木」「花」「鳥たち」「歌声」「風」「泉」「煌めき」――ダンテの煉獄をも想わす記憶の断片。
しかし、それもまた一瞬のゆめかと想わせられる。
俺は歩き出す、煤煙に曇った街の道、薄暗い冬の夕暮れの街の道、忘れたわけではないが、ただぼんやりとしている。
ふたたびの不穏。「過去」か「未来」か「現在」か。灰色の世界で、何処へ向かうのかも定かでなく、誰かのゆめのなかを生き、眠りにつくことでまた別の誰かのいきる世界をうみ出しているかのような、終わりなき昏い円環を、遠くたずさえて。
つかの間、凪が舞い降りる瞬間。無意識に欲するのだろうか。手元にある、この『Rurikarakusa』23――手紙のように折りたたまれた、花の名を冠する三名の詩人たちによるうつくしい詩誌を、そっと紐といた日の記憶を乞うように?
父は時々夢の底からやって来て、風の想いを伝えようとする。
(花潜幸「夏の窓を開く頃」)
〝風〟。それが、ひとの想いそのものを運ぶものであるならば、わたしたちが、ひとり、またひとり、いなくなったとき。透き通る二本のうでをのばすだろうか。生者から死者へ、あるいは死者が死者へと手添えし、生者へと。耳を澄ませてふりむくあなたのもとに、届くよう。
野火止の駅に着いたとき、
気づかぬ花が一つ
籠から車輪の脇にポロリ零れた。
(花潜幸「夏の窓を開く頃」)
冥土への扉は、ともするとちいさく可憐で、日々をいきる者たちのそばへと静かに、ひらかれているのかもしれない。最終連、「姿を変えた花の母を/ぼくに差し向けてくる」「父」の透明な描写が、淡くいとおしい。
いくつもの白い手が
あらっている さらしている
いくまいもの白い布を
包み 破れ 汚れた布を
(青木由弥子「あらう」)
二篇目。ここでは静かなる語り口から、一種不穏な映像が浮かぶようである。消してしまいたいのに、消えない痛み。かなしみ。記憶。その手で何をしたの、と突きつけたくなる衝動。あるいは、現代にしてなお繰り返される我々の根源的な〝つみ〟が、問われているのかもしれない。
――あれは何を包んでいたのですか
――ことばだったと思うが
あなたはくちごもる
――それはひびきでしたか、かたちでしたか
(青木由弥子「あらう」)
だが「わたしの問いに/だれも応えるものはない」。こたえることができない。その輪郭にふれることなどついに、叶わないからであろうか。「手ばかりが/いつまでも白く/せわしなく/とけのこっている」この光景に、救いはあるのか。目をとじてなお、まぶたの裏に蘇る「すみれ色の陰」「藍色の闇」に、我々はきっと何度でも、立ち返ることになる。
帰る時に初めて彼女の手に触れた
手のひらをかざし静かに私に見せた
案外きれいな手だった
と言うか指紋もないくらいつるつるだった
親指を中に入れて曲げ
残った指で親指を閉じ込めていた
そんなに強く握ると痛いよ
そう言うと夫が出てきて
優しそうな声でさようならと言った
(草野理恵子「シグナル・フォー・ヘルプ」)
三遍目。ぞっとする場面である。「狼」「熊」「蝙蝠」「羊」「馬」「蛙」……。動物になぞらえて描かれる情景、抱く違和感のなかで、唐突に〝ヒト〟である者のもっとも怖ろしい貌が露呈する瞬間が描かれている。たとえ第三者の存在がそばにあろうとも、恐怖で縛られ凍りついた身と心には、言葉など無力なのだ。しかし、知っていれば。知ってさえいれば、沈黙で救いを乞うことも、また乞う者に手を差し伸べることだって、ときにはできるかもしれない。その微かな灯火を、彼女の詩はそっと掲げてくれる。
*
走ろうとした
眠ろうとした
その意識のそとで
(無名 p.3)
美しい 凡て かなしいものは
(無名 p.25)
かわって詩誌『らむねくり』2号より。空白に点在する、作者不明のいくつもの詩句や写真が印象的である。〝名〟に備わってしまうある種の意味や役割を一時だけでもおろすことで、鮮やかにいきてくるからだろうか。
家族写真から
笑顔は消えない
みんな離れても
笑い方は変わらない
(山田彩緒「とんぼ」)
五十円玉二枚を取り出した
父のごつごつした手
忘れられるわけがなかった
(山田真佐明「百円」)
山田彩緒、山田真佐明。ふたりの詩人による作品群の、穏やかな共鳴。確かなるまなざし。すべてが曖昧に溶けゆく黄昏時を想わす光景の、記憶と夢想が入り交じる呼吸のなかで、「弟」「妹」「お姉ちゃん」「私」「あなた」「息子」「父」「家族」「一族」――語り手に向けられた彼らのいたいけな優しさに、ふれると胸がしめつけられる。いつ、うしなうかもわからない、こわれそうな
俺の前を醜い色と形の鳥やらねずみが行ったり来たり、凝視して睨みつけてやれば、俺の前から足早に立ち去ってゆく。
(桜木利春「不確実な風景、過ぎ去る者、街の夢」)
時間。その概念からはなたれた空間に、更にあざやかな〝絵〟を描いて魅せるのが、ゲスト枠に飾られた桜木利春の散文詩であろう。時空間の曖昧さ、乱歩のように移動する都市模様。一見忌み嫌われるものたちと「俺」との対峙。「ふたたび会うことはないだろう、お前」の存在。「しかし今、その情景はすべて、鮮明さを欠いている」。
視界から色が消え、時間軸を失い、何処で生き、彷徨っているかさえわからない、現代の我々の姿を象徴するかのような語り手の不安。それらをひた隠すかのごとく逼迫した息遣いのさきに、突如として切りひらかれる光景。
風がやさしく手を差し伸べ、彼らの歌と躍りを後押しする。泉は煌めき、清浄の潤いを、渇いた者たちの喉に恵んでやる。そのほとりに、お前がいる。
(桜木利春「不確実な風景、過ぎ去る者、街の夢」)
「光彩」「草木」「花」「鳥たち」「歌声」「風」「泉」「煌めき」――ダンテの煉獄をも想わす記憶の断片。
しかし、それもまた一瞬のゆめかと想わせられる。
俺は歩き出す、煤煙に曇った街の道、薄暗い冬の夕暮れの街の道、忘れたわけではないが、ただぼんやりとしている。
(桜木利春「不確実な風景、過ぎ去る者、街の夢」)
ふたたびの不穏。「過去」か「未来」か「現在」か。灰色の世界で、何処へ向かうのかも定かでなく、誰かのゆめのなかを生き、眠りにつくことでまた別の誰かのいきる世界をうみ出しているかのような、終わりなき昏い円環を、遠くたずさえて。