「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評 第92回 詩人という「道化」 小島きみ子

2013年03月22日 | 詩客
 昨年の三月十六日に吉本隆明氏が亡くなってから「親鸞」に関する書をしばらく読んでいた。親鸞の「愚者」という「むなしさ」にはまってしまった。愚者にとって愚はそれ自体であるが、知者にとって(愚)は近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題であるとする。〈知〉にとって、〈無知〉と合一することは、最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無知〉の間に紙一重の〈無知〉を持っている人々は、それ自体の存在であり、浄土の理念によって近づこうとする。(吉本隆明著『最後の親鸞』)
 希望と絶望の光と闇は、表裏一体で存在する。生と死の世界を反転させるものは遠く離れたものではない。この境界を跨いで、幻想と現実を同時に生き、それらの間を自由に往還して、世界の隠れた襞を現象させる、という存在が詩人という「道化」ではないか。

 寂しいことに、この三月十日に文化人類学者の山口昌男氏が亡くなった。日本と世界の危機的状況を仲介する者「トリックスター」はまだ現れていない。翌日は、二年目の3.11を迎えた。日本だけではなくフランスやドイツでも原発廃止への抗議デモがあった。それ以後、西脇順三郎の「イロニイ」ということが少しわかった。釈尊の根本仏教も「一切皆苦」と言っているが、人生は寂しさと苦しみの極みを乗り越えて、生きていくしか生きようがない。もう考えるのは止めましょうよ、という地点にきて、新しい気持ちがやってきた。物を書くことに必要な、「声明」が見えたのだった。
                                       
 それでは、二月初めから三月中旬までに届いた同人誌・個人誌・二人誌で手許にとどめた雑誌について紹介をしたいと思います。届いた、ということで発行が一月の物があるかもしれません。別の場所で紹介した物は割愛しました。雑誌としての形体などを中心に述べていきます。詩を志す者は、いつでも詩の材料を探しているものです。詩を書いても発表する場所がなくては、紙屑でしかありません。詩誌に集うのは、その詩誌の創刊時の思いや、志の継続にあると思うのです。表紙には、強い思い入れが現れるものです。編集発行人の苦労が忍ばれるからです。

①柵no.314.(詩画工房・700円)三月号で終刊になりました。月刊誌でしたが、廃刊の理由は、同人の激減による経営悪化で、第三種郵便の認可が下りなくなったということもありました。石原武氏らの散文が充実していました。
②孔雀船vol.81(望月苑巳・700円)執筆者三六人。109P.特集はパク・ミサンの韓国詩をハン・ソンレ氏が翻訳。ゲストと同人の詩。とくに注目は、孔雀画廊のエッチングです。見開き二P.ですがとても素敵です。小柳玲子さんの「絵に住む日々」の散文と写真はとても興味深いものでした。
③鹿首3号(小林弘明)特集は「変わる時間」。詩と歌と句と美術の総合誌で「鹿首」。表紙画の美しさに見惚れた。高柳蕗子さんが〈時間)の背後霊、を書いている。時間論ではなく、歌に詠まれた時間を読み解いていく。万葉集の1-25の天武天皇の長歌を紹介している。時の流れの絶え間なさを、雨と雪の降るようすでうたう。流れている水の流れに時間も流れて、水音だけが聞こえてくる。水音、癒しの音の水音を見つけたいと思う。
④詩誌侃々 2013no.19(田島安江)同人の詩作品のほかに、田島安江さんのエッセイ「詩を読む19」は、膵臓癌で亡くなった関西の詩人・島田陽子さんの『森へ』と「わたしが失ったのは」の作品解説。普通の親しさの間柄で、別な詩人の癌闘病詩を読んで、再読しての解説。詩は、思いもよらぬ方向から再びやってきて人の心を抉っていくものだと思う。この散文を読んで私も島田陽子という詩人を考え直した。それは、当然ながら、明るさのなかに暗く重く痛く潜んで、詩人を闇に連れ去った病と言葉との関係についてだった。写真でマップを載せないとその「かたち」がわからないかもしれない。
⑤Furoru創刊号(フロルベリチェリ社)定型封筒80円で送付できて、気持ちよく掌に乗る月間の二人誌です。「フロル」創刊号から3月の3号まで順調な発行です。創刊号では、紺野ともさんが「環」、「NOJESS」、川口晴美さんが「こゆびの思いで」を書いている。二つ折の紙片は、あいさつ文と紺野さんの「現代詩赤文字系」という付録の文章がとてもおもしろく、第3回の「胸キュンがほしい!」の後半も、女性として「ずっとかわいくいたい」層は確実に広がっている。は、そうさせている社会の広がりがあるとして考えると、文化と商品がジェンダーにもたらすものの影響力は恐怖だと感じる。
⑥黄薔薇197号(高田千尋・500円)奥付まで64ページ。表紙の写真がいつも美しい。永瀬清子さんが創刊した詩誌。永瀬さん亡き後197号まで継続されているのは、「永瀬さんの理想と詩を慕っているからだ」と後書きにある。二五人の同人のうち、この号に参加された方が亡くなって次号は追悼号。大勢の同人の方を纏めていくのは、たいへんなことです。ところで、永瀬清子という詩人の個別の作品は読み知っていたが、詩集を読んではいなかったので、1990年思潮社発行の現代詩文庫『永瀬清子詩集)』を読んでみた。飯島耕一の解説に共感した。「村にて」という作品に触れて、「永瀬清子は美しい風景も、美しい労働も、他者(共同体)と分かち合いたいという強い願いを持っており、それのみたされない時、限りない失意を覚えるのである」と述べている。同人誌を発行してそれが長く継続しているのは「他者(共同体)と分かち 合いたいという強い願い」かもしれないと思った。
⑦ぱぴるす102号(頼圭二郎・400円)パソコン印刷で中綴じ本。22ページ。椎野満代さん、岩井昭さん等七人の詩誌。岩井昭さんの「なみきくん」にノスタルジイを感じた。
⑧現代詩図鑑 第11巻・第1号 2013年冬号(ダニエル社・真神博・700円)110ページ。この詩誌は同人誌ではなく、季刊でその都度の会費制による発行。今回の参加者は、二八名。巻頭の書評は海埜今日子さん。榎本櫻湖さんの作品「それを指でたどって」は、行替えや、文頭の文字下げもなく四角の箱型文字の模様で始まり終わる。北欧と思われる風景から。フィヨルドの北端から川を溯って国境を跨ぐと、つまりその辺りの地図を眺めていて、で一行目が始まる散文詩で、今まで見知っている櫻湖さんとは違っていて、静かな内面に向かいつつある言葉のエネルギーとこの地図旅行による詩法が、果たす言葉の行方を想像した。今度は何をしようとしていますか、櫻湖さん。次の散文詩は倉田良成さんの「三叉路」。倉田さんの散文詩も書き出しの行頭が一文字下げで、あとは行替え無しで一気に最終行まで突き進む。こちらは、自分が見知った中華街の雑踏のなかの、三叉路までの意識を飛ばして行く歩行。現実にその場所を歩いているわけではなく意識が流動する。三叉路を中心に巡る意識。戻れない現実の自分の恐怖が最後に現れる。この二つの散文詩のおもしろさは、経験のない想像の地への意識のめぐらし方、経験して知っている地への意識の流れ。最後には、「ここ」へ意識を戻して来なくてはならないのですが、後者の方が難しいのです。
⑨まどえふ 第20号(水出みどり)14ページ。女性六人の詩誌。巻頭作品は、橋場仁奈さんの「ぼうし」。面白い作品なのだけれども行間と文字間が空きすぎていて、とても読みづらいと感じる。行分け詩だとあまり気にならないが、散文詩だと間延びして、文字が飛び散っていくと感じたがどうでしょうか。 
⑩折々の no.28(松尾静明)一四人の同人中、男性が二名。全員が行分けの詩を書く。後半に「連弾」という小文のページがある。松尾静明さんが、詩人が書いた短冊について書かれているのが興味深い。
⑪花 第56号(中野区 菊田守700円)四三人の同人という大所帯。白い表紙に「花」の文字のシンプルさ。一段組と二段組を用いて後書きまで76ページ。
⑫Hotel第2章no.31(hotelの会500円)一四人の同人。奥付まで34ページ。福田拓也さんの「列島がなおかつ波にさらされる岩場として・・・・・・」に注目した。海埜今日子さんの柴田千晶詩集への書評に共感をもって読んだ。
⑬独合点第115号(金井雄二 200円)「水にうつる雲」という散文を金井さんが書いている。相模川のウォーキングコースについて。阿部昭の小説「水にうつる雲」という小説の舞台と同じ場所であるということで、小説の内容とウォーキングが重なっていく。川べりの散歩は「詩想」が生まれる場所です。
⑭すぴんくすvol18.(海埜今日子 250円)12ページ。ゲストの田野倉康一さんの「生き急ぐ死者たち」の最終行おやすみ こどもたち だか らもう おとうさんは帰らない は、私も眠っている子どもたちにそう言って消えていくだろう、と思った。海埜今日子さんが後書で「幼年 ホテル」という言葉を使っている。詩情に満ちていて詩が生まれる「幼年ホテル」だ。誰もがそんなホテルに憧れる。
⑮Down Beat no.2(柴田千晶 500円)七人の同人。柴田千晶さんの「あした葉クッキー」がおもしろい。閉めきったままの雨戸が一気に開け られ、死体はようやく春の死者となる。というところ。日本のもう一つの現実。人間の関係が壊れたのです。関係を拒否する人もいるので複 雑な現代社会です。
⑯ぶーわー30号(近藤久也)オレンジ色のA4の色画紙を二つ折りにした個人誌。ゲストは蜂飼耳さん。近藤さんと一篇ずつの詩。裏表紙に、中沢新一の「アースダイバー」についての二三行の散文は狭いスペースによく纏まっています。無駄のない紙面の使い方でした。

自由詩時評 第91回 「現代詩手帖」2013年1月号 小峰 慎也

2013年03月08日 | 詩客
この時評の担当、今回で2年の任期が切れて、最後になる。
この時評をやることで、自分が読者として変化していったのを実感した。時評では取り上げることができなかったもの、たとえば、暁方ミセイ『ウイルスちゃん』などを一年以上かけてわりとまともに読んだことで、いままで読みとれなかったものに反応することができるようになった気がしている。勘違いかもしれないが。
しかし、一読者としての資格に欠ける、いやこのままでは、一生だめだろうという気がぬぐえない。ひとがまだ何もいってない作品に関して、読んで何かを思う。その「思う」ということができないでいるのだ。度合いの問題かも知れないが、ひとが何かいったことに「影響」を受けすぎる。ひとが何かいった作品にしか、「反応」できない。

今回は、「現代詩手帖」2013年1月号の詩作品にすべてコメントをつける。


2012年12月26日
中村稔「私は物言うのを止めねばならぬ」。
表題のリフレインを「反語」と受け取らないと、あまりにひどい気がするが、反語であったとしても、そこまでたいしたことはいえていない気がします。
自分が立派な場所にいる、という自覚をどう処理するか。

2013年1月4日
長谷川龍生「胞(え)衣(な)と空間線量」。
読ませる。濃い表現。具象を追及するとこうなるか。いいと思う。
詩を読みとけば「答え」があらわれる、という前の段階の、表現でいえているものを作っている。
抽象と具象のからみあい。「頭脳」の反省のかたわら、「音」もとらえる。

平林敏彦「荒野へ」。
落ちついた表現で、不満はないが、うまい感想が思いつかない。
現状認識の表現。なにかの期待にこたえようとしていないところがよさでもあり、それ以上にならない原因でもあるか。

岡井隆「レクイエムの夜まで」。
日記の形式で書いているのに、表現がかたいんですよね。
普通の人が書く「日記」に負けている。
むしろ「小さ子の神」が邪魔な気がするのですが。

御庄博実「ある少女の死――追憶」。
これでは、「意見」として力を持たない。
だれかがいっていること、一般的にいわれていることを繰り返しているだけになってしまう。60年安保から何も動いていないのは、書き手だという構造になっている。

谷川俊太郎「朕」。
やるなあといった感じ。
皇帝でもあり、「朕」、「私」、「僕」でもあり、無名の詩人でもあり、谷川俊太郎でもあり。
重なっている、確とはつかまえられない。
この重なっている視点がそれぞれに批評しあっているという構造。
天皇への当てこすりや自身の気取った生活、超越する視点はないから、「風刺」が陥りがちな「寓話」を脱している。
通俗への通路。軽さ。形式。
それに自分も入れちゃっているわけで、だから、ただの「遊び」「テクニック」からも脱していますね。
それで最後に「詩作」を断念して「自伝」を書きはじめているといって、詩も批評している。これはやられましたね。

嶋岡晨「大いなるヴァギナへの祈り」。
母とか、こういうかたちでとらえることにのれない。
大仰な表現。意外と何をいっているかわからない気もします。

石牟礼道子「夢や あわれ」。
墓を見つけて「ドベ」をぬぐって、「宝暦」があらわれるところはいいと思う。ただ、「夢や あわれ」でまとめるのはどうか。

新川和江「水、眠りの中の…」。
黒馬のイメージは鮮烈。
ただ、2連目「湿原には」からあと、2連目の終わりまでが「説明」に感じる。けちをつけるほどではないんでしょうか。3連目も、「結局そういうことか」という感じ。

新藤凉子「すでに星なのだから」。
「わたし」を語らずに、昔のことを書く。だとしたら、最後から2連目はいらないのでは。全体にことばがばらけて、印象のまとまりが悪い。

高橋睦郎「愛餐」。
グロテスクですね。しかし発想はよくあるような感じか。
長さはいい。

井川博年「サスペンス・ドラマ」。
いいですね。
奥さんがサスペンス・ドラマを見てるってことを書く、それ自体が「発見」になっている。
詩の中のひとこまだったらありうるかもしれないけど、それを中心に書いているところがいい。

川上明日夫「雨の階」。
これ、いいです。
何かよくわかってないんですが、風通しがよく、なぞもある。
死にかけている、ということなんでしょうが。

粕谷栄市「ほたる―小詩集」。
いまいち。
「世界の構造」などにある、こんなこと思いつかない、こんなことを詩で書けるのかという、ほんとうに「世界の構造」にふれてしまっているあの、変な感じがありませんね。
夢にしないほうがいいと思う。

天沢退二郎「旧新橋駅の怪事件 資料集」。
楽しんで読んだが、それ以上の感じではない気がする。
なにか少し変えれば急によくなる気がするのだけど、そのポイントが見出せない。
もっさりしているということか。

吉増剛造「わが鼓動――Patrick Chamoiseau氏の書く手に捧げる」。
タイトルからして正確に引用できない。
吉増剛造の、この形式の「開発」には敬意を表するとして。意外に読みやすいんですね。何でも入る。
個々の作品としては感想を出しにくい。
「捧げる」的なこういうのが多い気がしますね。
それが吉増剛造の生活になっているのでしょうが。


2013年1月17日
北川透「笑うマネキンたち―六片」。
こうしてほかの作品のなかでみてみると、「答え」に到達しまいとする点において、北川透の詩には、頑迷なまでの潔さを感じる。
いつも判断に迷うが、散見される、ことばの感度の古さは、北川透の詩にとって、欠点ではないのかもしれない。

藤井貞和「鰭の尾の火の粉」。
作品として面白いかといわれると、それほど面白くはない。
そういうこととは別の次元、「こういうことをやっている」ということに力点が移っている気もするが、そうとばかりはわりきれない。
むずかしいことをやっていながら、まったく知的圧迫を感じさせない。
滑稽さとやっぱり大真面目であることの同居。

佐々木幹郎「防潮堤」。
わるくない気がする。
震災だからどうのこうのという以前に、いつもどこかで具体的な何かを見つけている人の視線がある。
ただ、「いい」かいわれると、積極的には支持できない。
最後のかっこの注記は不要。


2013年1月19日
荒川洋治「プラトン」。
これは何度も読み返しました。禁欲的。調子に乗って書かない。
調子に乗って書けば、「傑作」が書けるが、その場かぎりのもの、それをつづければ、一生、前より小さいサイズの「傑作」を書きつづけるしかない、とでもいいたげです(ぼくの「自覚」が反映したいいかたですが)。
一方、「現代詩年鑑2013」に載っていた「外灯」という作品、非常によかったのですが、いまの荒川洋治の、「調子に乗って書いた」ピーク的な作品のように思えました。
おさえるということをまずやっている。
『実視連星』のころからはじまっている、抑えとそれにともなって出てきているやはり荒川洋治しか書いていないということばの使いかた。
調子に乗っているところは、「校庭」の会話のところくらいか。長さがあるので、もたないと思ったのでしょうか。
これだけおさえて、ことばもわからないように書いていくと、まさに「現代詩」になりかねないのですが、ぜんぜん異質のものになっている。
「彼としても/目をこすっていた」とか「激しいことが指に起こるとき/校庭の/火蓋は切られる」とか、なにかほんとうにくやしい。
直喩に、ほとんど意味をなさないようなものを使うのは、ここのところよくやっていますね。
「白王伝」の三行目「無計画な心」というような、前後とつなげないで、ことばを置く程度にとどめて書く、というのは最近やりはじめたのでしょうか。
一回読んだだけのときは、地味かなと思ったけど、いいですね。
けれんみを抑えているときの荒川洋治のよさ。


2013年1月25日
吉田文憲「人語ではない、(夜の)」。
「行」とか「空白」とか何十年いいつづけるのか。
けど、この詩、そこまでつまらなくない気もしてきて困りました。
なにか人のことばでないようなものがきこえたか、感じたかした。
書いているときなどにそれは起こった。
だから、外のことばなのか自分のことばなのか、それが何なのかよくわからない、けど何かは感じている、それを表現している。
それ自体はめあたらしいものではない気もしますが、「うまくやっている」。
けど、結局、なんだかそう感じている人がかっこいいものに演出されてしまう。
この「詩人」のパターンをやられると閉口してしまう。
いままで忌避してきた吉田文憲をはじめてまともに読みました。

瀬尾育生「過越」。
長さがいい。
「~よ。」という呼びかけは、どうも好きになれない。
いいたいことがあるようなかたちに思えます。
「その人」って誰(何)なのかという気持ちを誘うように書かれている。
答えはわからないし、わかったほうがいいような書かれかたでもない。
読者の気持ちがそこで少しかき乱されればいい。
その感じの一定の気持ちよさ。

稲川方人「はなぎれのうた」。
また「~よ」という呼びかけですね。
3人連続、使っちゃいけないわけではないけど、なにか同じような精神構造なのかなとも思ってしまう。
ずいぶん主張があるみたいですね。固定された主張といいますか。
ある種類のかっこよさそうなことばが「使われている」こと以上のことが感じられない。
ひらめきもなぞもない。
文字のポイントを落としているのもいやらしい。


2013年2月5日
福間健二「みずうみ」。
みずうみをめぐる、パティ・スミスをめぐる、ロレンスをめぐる、リアーナとレディ・ガガをめぐる、焦点がいくつもある。
それらの焦点がどんな動きをしたがっているか。
一つの詩作品の、その先の話なのか。
1で作品としては完結しているところで、その先、どう動くか。
2、ことばを置いてみるということ。行と行の関係を弱くする。それだけで何かをいいえている箇所を減らす。
3で散文的な書き方。事実のよさ。1、2でことばとしてどこかへいったものを引き戻す。
そこまで来たら、4でどこへ行くのか。「歯車」を見つける。

池井昌樹「侏儒の人 他三篇」。
「草を踏む」がいいです。
「いつだったかな/おまえとは/このよのくさをふみしめた/ことがあったな」。
どういうつもりで書いているのでしょうか。
無理にでもうたをやることで、ことばのリズムを固定してしまうことで、自由であることがえがいている「同じ軌道」を避ける。

井坂洋子「息の真向かい」。
どこに力を入れれば、こういうことになるのか。
あきらかにたとえば『GIGI』のころと違う印象(最近読む機会があった)。
どこへ運ばれるかわからない感じが、奔放さや恣意性にいかない場所でこらえるというか。
「誰の子で 誰の母だろう」、これだけ取り出すと、そこまでの発見ではないように思われるのに、この詩のなかで、書かれ、それも二度書かれているのを読むと、はっとさせられる。

伊藤比呂美「むき身とヒーラー」。
表面的。
伊藤比呂美の、小説におぼえる不満と同じものを感じる。
あることがらに対しての反応が自分に起こったとして、それをすぐ放出してしまいすぎている感。うすい。

平田俊子「東/京/駅」。
乱暴にいえば、年齢を重ねた人がおちいる典型的な落とし穴に落ちている気がする。
「中国語で「イチョウ」は「鴨脚」」なんていう、「教養」を、発見と勘違い、典型的な感慨をなぞる。

秋亜綺羅「青少年のためのだからスマホが!」。
風通しがよく、自由ですね。
いろいろなものが入って、いいえてもいる。
ことばえらびの点でちょっと古臭い感じがしてしまう。
しかしそういうことを問題にするとむずかしいですね(自省が、つい起こってしまう)。
はずかしいことばを書いてしまうことって、どう気をつければいいのだろう。

松浦寿輝「against/touch」。
「きみ」って誰なんだろう。
もう、こういう「きみ」のつかいかたは、ずるいと思えてしまう。

城戸朱理「凍った空」。
きれいに書いているというくらいしか感想がない。
おわりの一行「かなしみが積って 空となる。」がどうもいまいちな気が。


2013年2月7日
野村喜和夫「中也ベース3篇」。
最後の「朝鮮女」の、「そこへ埃がすこし舞ってさ/朝鮮について俺なにか考えなくちゃ」というフレーズはいい。
軽い気持ちから出てきた、おかしなことば。
中原中也を立てようとすると、無駄が多くなる気がする。

高貝弘也「しろい橋場の靈、河口で」。
余白の取りかたが、誌面で窮屈になっているか。
いやこれぐらいでもいい気もする。
最後の「――いっそのこと、産みちらしたい!」が強烈。
文章になりきらない場所での勝負。
その場所をどれだけ微妙にふるわせるかということか。

小池昌代「山の民子の唄」。
山の民子というのがおちょくっていますね。
どうとらえていいのかよくわからない作品。
物語になるのをうまくこばんでいる。
というより、そこからはみだす気分を書いたものか。
最後の「山の民子の地味な/唄」がいい。

四元康祐「消言」。
谷川俊太郎っぽいところがある。
といってみて、それがどういうことなのか。
ことばに無駄なはたらきを期待しない。効果と急所の意識。
ことばを消すということを、ことばできっちりやるということ。
未練がない。


2013年2月9日
和合亮一「馥郁たる火を」。
「笑うなら笑えばよい」というようなひらきなおりの、反射でものをいってしまう場所を成り立たせる。
「犬を抱いたまま行方不明になった/弟と雉子を探してくれ」とか
「人工衛星の内部はどうせインド洋だ」とかいう表現は、無関係ではない。

蜂飼耳「ゆえに、そこにそらの」。
意味はよくわかっていません。
「よい子」の面が出すぎているか。
テーマに停滞、こだわる。
三連目のはじめの転調をつくろうとしているようなあたりに、いやなものを感じる。
「こういけばいいんでしょ?」というような。
よくあるパターンですが。

日和聡子「ル短調」。
現代詩に対する距離のとりかた。
軽蔑といったらいいすぎか。
いいですね。
何もこめようとしない。
そして(いままでの日和の作品とはことなる)ことばの調子・リズムでつくられている「感興」。ただし、だとしたら、このタイトルはどうなのか。

田原「かならず」。
これは、ストレートに、本気と受け取っていいのでしょうか。

廿楽順治詩・宇田川新聞版画「鉄塔王国の恐怖」最終回。
この連載のページを開くといつもぎょっとします。
なんだかんだいって結局たのしめる。
「それでいったい/何がおわるんだと思う?/おわるものはいつだって決まってる/ひとのいちにちさ」
「わたしたちはこれから先/(このおおきなまるのなかで)/まだずっと生きていかねばなりません」など、「決まっている」部分がかならずあるんですね。
娯楽になっていて何がだめなのかというような姿勢。


2013年2月10日
岸田将幸「N・Tに掲げる」。
本音と娯楽性が適度に配合されている楽しい詩。
最初の作品の、第一連は、「夢のうちで、」と最後の一行をとってしまえばいいのにと思う。
行が長くなっている周辺に、硬直が見られるが、それもリズムとしてとらえれば、そこまで気にならない。
けど「きみの苦悩はもっと深かった」でしめるのはどうか。

中尾太一「MからFへの手紙(抄)」。
わかってほしい合図の集まり。

水無田気流「でぃすぷれい」。
神話と現代世界の接続でしょうか。
ずっと通じるかもしれないことばといましか通じないことばが、ひらがなでならされている。

三角みづ紀「終焉♯30」。
これでいいと思えるもの。
ねらって書けるものではない。
あえて注文をつけるとすれば、最後の二行が微妙か。
いや、こういう詩はこういうふうに終わらせるしかないとも思えるが、そこをつきやぶりたい気も。

最果タヒ「正しい私」。
ある設定された人物の感情をとおして、普遍的な感情に届こうとしているようにみえるが、ちょっとこの作品は、設定自体が、なぞり、かな。
好調なときの最果タヒではない気がする。
最後の「すばらしい未来に生まれてよかったです的な、いい日ね。」はいい。

文月悠光「好き勝手」。
理屈になりすぎ。
自意識がわるい方向に出ている。


2013年2月15日
文月悠光「好き勝手」を簡単に片づけすぎたかもしれませんね。
1連目が理屈っぽいのでうーんと思ってしまいました。
氷柱、これはなんでしょうか。
すんなりと解読できないものもきちっと混ざっている。
「明るくなるんでしょうか、家庭。/軽くなるんでしょうか、お尻。」などの、リズムもいい。

森本孝徳「弦巻」。
面白いですね。
一読したときは、古臭い感じがしたのですが、読み返してみたら、ことばのよじれさせかたに工夫があって、たのしめるようになっている。
これをいちいちやっていくのは、そうとう力が必要なのではないでしょうか。
ひとつの美意識に向かっていくような、退屈さから脱している。

浪玲遥明「夜景」。
受ける印象は悪くないのですが。
この内容だったら、もう少しことばを減らしても成立する気がする。
これはこれでいいのでしょうか。
最後の「夜景 僕は走りだしていた。」のところの字空きが気になるか。

谷口哲郎「三つのポテンツ(闇とひかりの衝突)をくぐり抜ける試み」。
「諸層Ⅱ」の部分、文字づかいなどに工夫はあるが、散文型饒舌体の上滑りが感じられる。水位が変わらないままことばだけが多いとやはり退屈。
「諸層Ⅲ」はたのしめたが、〈む〉とか〈とき〉という話題にのれない。

藤本哲明「ビデオ・イン・アメリカ(二)」。
最初の、普通の散文を行わけしただけと感じられる部分がいい。
しかし、なんでそのあとにビデオ・イン・アメリカの説明を入れたりするのか。
そのあとも説明癖をひきずっている。


2013年2月23日
小川裕志「ガラス張り(ひとつの、そして無数の謎(エニグマ))」。
ほとんど隙がない。
実力を感じる。
的確なことばの配置。
どこか既視感がまじるところが弱い。

小川裕志「二幅対(ディプティック)(夏炉冬扇)」。
やはり実力を感じる。
隙のない書きかたではあるが、決まってもいない。
70年代の荒川洋治、平出隆などを連想させるフレーズがある。
「みずからの喪に服したまま」「その青春をおえた」もののことばか。

堀之内有華「真空サイコリズム」。
世界(幼い日?)の喪失の表現としてうまくできているといっていいのでしょうか。
「血糊」+「うがい」もまじる。
不必要に意味がとりにくいところがある。
ほかの詩に感じない何かを感じた気がしたのですが、読み返しているうちにわからなくなってきました。
かたちをつくらないところがいいか。

草野理恵子「傾斜地」。
この手のおどろおどろしさは、いまどういうふうに成立するでしょうか。
表現にほころびが見受けられる。
「豊満な乳首」とか、書くのは自由かもしれないが、間違って使ってしまった感。
「崇拝される者となる」とか。自分のなかでは納得があるのだろうけど。

照井知二「夜行」。
長いのが多いので、短いのを読むとほっとしますね。
なかなかこれも時代錯誤的ですが、時代設定自体を古く定めているということですか。
「らしさ」でかわしすぎている感じがする。
なにかをさぐりさぐり書いている点に好感。