「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評 第122回 新刊を読みました『指差すことができない』 コマガネトモオ

2014年05月17日 | 詩客
 時評だから最近の話題を、という森川主幹の無言の圧力を感じて、今日というしめきりが近づくにつれて立ち寄った本屋で文芸コーナーをちゃちゃっとサーチしていたのだが子連れでは遅々として任務遂行に至らず。わが愛しの宇都宮市の本屋で詩集を置いてくれているのは、カレー屋モティの隣の落合書店しか、もはや、ない。数年前まではもっとあったので喜んでいたのだったが、気づけば、絶滅していた。たとえると柴犬の散歩風景、あるいは田んぼのメダカくらい、ここにきて激減してしまったのだった。(一方でシラサギは目に見えて増えた。ヒルもふつうにいる。キジに遭遇する機会も増えた。東京でのセミみたいに数十年単位で増えているのじゃないかな。)Amazonで検索すれば詩集だって簡単に買える。しかしこれと決めた目的なく検索することがない。ついでにテレビも12年所有していない(だから旅先でついていると釘づけ)、新聞も目にしない(だから卵だとかワレモノをつつんでいる新聞紙は熟読)。ニュースやテレビ番組、CMはもっぱら人様(患者様)から解釈付きのものを伝聞する。毎日講義いただくので間に合っている。という一人の愛詩家が、時間や労力をかけずにカレー屋のついでに寄った栃木の店頭で、どうにか手に入る新刊詩集がこれであった。大崎清夏『指差すことができない』(青土社、2014年)。趣味で読むものは小学生時から愛読するE.A.Poeの要素(怪奇のみにあらず、幻想のみにあらず、細部のみにあらず、生命のみにあらず、タナトスのみにあらず、科学と疑似科学のはざまのみにあらず…)がないともうまったく受け付けない老境に達してしまったので、宿題のようなこうした機会を与えていただき見聞を広げる次第である。帯に今年の中原中也賞、「平易なことばで織りなされた」と謳われている。
 早速。これ「平易なことば」を信じてもし買ってしまったら第一番目の表題作第一文からまったくもってガッカリ、残念、チンプンカンプン。

 境界線をきめる協議が
 きょうもいたるところにあって 
 健康には定義がなくなった
 吸収してもくるしい
 排泄してもくるしい
 だからたのしい気持ちで
 働くしかなくなった


 ポエムと思って買ったら、しょっぱなから「排泄」なんておおよそポエムとほど遠いシモな話題を出されて、ああ、こりゃわかりやすいね、なんて思う読者がいるんだろうか?漢字で書けば統一されるところをわざわざひらがなにしている点などをパッと見、平易、と意訳しているのであろうか。常用する文章では「協議」「排泄」などという難解な単語が漢字であるにも関わらず「きょう」「くるしい」がひらがなになることはない。なんらかの意図があって(縦に読むと「えるしっているか」になるとか)、そうしているのである。「くるしい」「たのしい」に関しては対となる感情表現であるので、意図が汲みやすい。対語をほかと区別することで同列にすることは、こうした感情へ焦点をあてるとともに、対語同士の相反する意味の地をならして、ある程度その間に横たわる境界線を消し去ってしまう作業なのではないか。すなわち「くるしさ」と「たのしさ」との連続性の中で、くるしいはたのしい、たのしいはくるしいのである、と。それゆえ「だから」「たのしい気持ちで働くしかなかった」と繋いでいる。これは大変わかりやすい。平易である。一方でなぜ第二文「きょうもいたるところにあって」をすべてひらがなにしたのか。強調を疑うが強調するような文章でもない。その意図はこの詩を最後まで読んでもはっきりとは同定できない。意味のゆらぎを伴わない表記の変化は、これ、かえって平易ではない。「陽性かくにん!」のようなかわいさ、明るさの演出であろうか。「今日も至る所にあって」にするより空気がほんわかするかもしれない(疑似平易)。事実上のわかりやすさや、理解しやすいまっとうな文章とはまったく異なる。この理解しにくい表記を挿入することで、この文章の群れは、とある一つの出来事の正確な叙述をしているのではないということを読者に伝え、記載内容を一般化し、読者一人一人に解釈の余地を与えることに成功しているだろう。私はむしろ、高血圧の定義が毎年変わる医学の日常をこの文頭でリアルに想起してしまったのだが。去年まで目標値140/80mmHgだったものが、今年から自宅血圧150/90mmHgとなった。本当はくるしいとたのしいの境界線さえ決められない事象の連続性を生きる私たちであるのに、無駄に協議を続け、ありもしない境界線を決めようとするから毎日同じ協議の繰り返しとなってしまうのだ。なるほど滑稽であるよネ、と(著者は滑稽だなんて言ってナイ)。字面そのまま「健康には定義がなくなった」よネ、と。リアルだなあ。
 冒頭七行を引用したが、この詩の八行目以降もこのような意味のゆらぎを作ったり作らなかったりの絶妙のバランスをとりもちながら、私的経験や女性の生理を匂わせながら、見事に物語を一般化し気持ちを読者に共有させるのである。すごい手腕の書き手であることは間違いない。この書き手が、女流詩人は女の生理を描きこむ、というわかりやすい図式を”使っている”点もまた帯に「平易」と甘い誘い文句が銘打たれた理由であるかもしれない。女性詩とはこういうものだという固定観念は根深い。いまもってそういった枠組を拝借することは詩の解釈の一助となる。これは一つの洗練された手法である。(たとえるなら『魔法少女まどか☆マギカ』での美少女戦闘という設定ほどに、固定された枠組み。)ただこれだけの手腕の書き手が、この分野だけを相手に書き続けるのはちょっともったいないように思ってしまうのだが、しかし、伊藤比呂美選だから、伊藤比呂美氏のカラーが遺憾なく発揮された選抜だから、いいのか。山は動かず。
 以上。詩の謳い文句で、平易だ、難解だっていうくくりには引っ掛かりを感じるものが多い。それ、本当は読んでいないけどね、くらいの感想に感じてしまう。実際読むとこんぐらい平易で、難解だけど?と言いたくなる。へいいだ、なんかいだ、っていう境界線をね、私も。指差すことができない。



自由詩時評 第121回 佐峰存 

2014年05月04日 | 詩客
 都市が光っている。言葉が光っている。世界は事物で満ちている。世界は言葉で満ちている。事物と言葉のどちらが先にくるのだろう。語尾を飾る“デアル”は事物と言い、“ヨウダ”は言葉と言い、一向に緊張は解けない。
 そんな世界に私達は住んでいるものだから、事物と言葉の軋みに巣食う“詩”はなくならない。詩人の指から言葉によって編まれると同時に、言葉でないあらゆる表現の核にも潜んでいる。互いに出くわすと共鳴したり反発したり、一先ず何かが起きる。その“ナニカ”が起きる瞬間は見過ごせない。
 現在、詩の言葉と言葉以外の表現形態の関わり合い方を模索する幾つかの取り組みが行われている。今回は視覚的な表現―写真と版画―との接触について書いていきたい。

***

 五感の中でも視覚は特に“詩”で満ちている。目に飛び込んでくる光景にはぎっしりと情報が詰め込まれていて、分子のように熱と共に犇めき合っている。こうした混沌とした全体の中で時折、流星のように“詩”の筋が走る。それは啓示、解読し得ないメッセージのようでもある。それを言葉の網で引っ張り出したのが現代詩、瞬間的な形状のままで捉えたのが写真ではないだろうか、と呟いてみる。
 詩の言葉と写真の関係性の探求というと、私には真っ先に北爪満喜氏の取り組みが思い浮かぶ。前橋を中心とした氏の“ビジュアル・ポエジー”展示に私も幾度か訪れる機会があり、その度に、私自身の詩や表現全般に対する認識を深める事が出来たと思う。
 写真は世界の姿を平面に落とし込む。写真に引き込まれた事物の色や形は、世界に実在し続ける事物とは別の生を歩む。写真の枠内の事物の姿には同じ方向を向いた“声”がある。受け手の中でその声は、受け手自身の声として凝固し、内側から力強く押してくる。
 ひらかれるように変色していく空と影となった人工物。凍りながらも灼熱を通り抜け、無音の中に振動する。光景は意識の中で染物のように色をひたすら強めていく。ここに吹いている風はどこから来る風か。写真の声は囁くように、丁寧に聞いてくる。
 北爪氏の写真作品に添えられている詩の言葉。写真の声を拡声器のように大きくするのではなく、独立した別の声として、写真の声と重ね合わせられている。重なった声が共に示す方向。それは、それぞれが単独で示していた方向と比べ、より“普遍的な”方向と言えるかも知れない。一枚の写真と一篇の詩の言葉が共通で持ち合わせた一筋の流線が、表現形態の差異を貫通していく。閉じていた、それぞれの領分を跨ぎ、光が滑る。
 北爪氏の写真作品および添えられた詩の言葉には、独特の、代えがたい“奥行き”を感じる。写真の平面に寧ろ“終わりの見えない彼方”がある。言葉という鏡と写真という鏡を向かい合わせた時にひらかれる“遠く”に向かって道が伸びる。
 詩の言葉と写真のそれぞれの波音が交じり合う際の協和音と不協和音。それは音楽のように静謐な、濾過された空間での企図された接触ではなく、様々な意識や生活の集合―言わば雑踏―の中での、偶発的でありつつも縁を伴う接触に思われる。受け手はある種の“確信”を持ちながら、鏡の狭間に自ら迷い込む。そのような吸引力を詩の言葉と写真の間に感じつつ、北爪氏の次の作品を頭に思い浮かべた。

草の茎に雨の 雫が 光って/かすかに揺れていた/もっとよく 雫を 見たい// … //この目の奥の雫も/あの草の雫のように/目の奥で/目の奥のなにもかも映し込んでいるのかも知れない//やりきれないことをきりりと包んで/きりりと/表面張力で/いま見上げた空なんかも 映して
「表面張力、並べて」(抜粋)、『飛手の空、透ける街』



 詩の言葉と版画の関わり合いも面白い。横浜在住の詩人を中心としたユニット「Down Beat」の取り組みを通じて、その瞬間を見る事が出来た。今鹿仙氏、小川三郎氏、金井雄二氏、柴田千晶氏、廿楽順治氏、徳弘康代氏、中島悦子氏の七名で構成された同ユニットは定期的に詩と様々な表現形態やテーマを掛け合わせ、黄金町の古本屋で朗読会を実施している。朗読会と連動する形で詩誌『Down Beat』を発行している。
 昨年11月に行われた版画家・宇田川新聞氏の作品とのコラボレーション。スライドに映し出される氏の版画作品と共に、それに呼応して編まれた詩が朗読されていく。愛嬌のある版画を紐解くように、言葉が指を伸ばす。それぞれの詩人の声と共に、環状線のように“文脈”が広がっていく。その広がりは立体的だ。風船のような、空のような結晶。フラクタルの端を拡大すると際限なく形状が湧いてくるように、新しい表現が登場しては迫ってくる。
 例えば、犬の版画。本を両手(両足というべきか)で開いて読み込んでいる。本の表紙には、“たのしい人間語”とある。その姿から引き出された、小川三郎氏の詩の一部を抜粋する。

人の言葉を覚えたければ/まずは犬に聞けばいい。//犬はずっと人間と/一緒に住んでいたものだから//人の言葉をよく知っている。それに犬は勤勉だから/言葉の意味まで/よく分かっている。//私が言葉を知っているのも/犬に教えてもらったからで/少しけもの臭くはあるが/よい言葉づかいをしていると/たいそう褒められることが多い。
「言葉のはなし」(抜粋)、『Down Beat No.4』



 この詩は、人間以外の生物と言葉以外の表現形態を経由しつつ、“人間の言葉”の本質見据えている(因みに作品の終盤で書き手は、自らは“犬”にはならない意思を明確に打ち出している)。宇田川氏の版画の切り立った岩場のような明快な線と色、微笑ましい題材は一種のカモフラージュで、目を凝らすと、発見されるのを待っていたかのような深みが口を開けている。詩の言葉は、奥へ奥へと照らしていく灯火だ。

***

 ここでもう一度、“事物と言葉のどちらが先にくるのだろう”と問うてみる。この問いは、周知の通り、詩人のみならず、先鋭の哲学者や言語学者が延々と議論を続けている問いで、いつか決着が付くような性質のものでもないだろう。
 ただ、写真や版画などの視覚的な表現と詩の言葉の関わり合いを目の当たりにする事で、その問いを全身で受け止める事は出来る。問いが私達の中でひらいた穴倉で風が吹き荒れている。そこは私達の認識の中心であって、時間の中心でもある。そんな“地点”にまさに今、我が身が置かれている、この身体が浮かんでいる、そんな心持ちにさせてくれる。そのような瞬間の只中に立ち尽くす実感が忘れられなくて、私はこうした取り組みの現場に足繁く通ってしまうのかも知れない。