時評だから最近の話題を、という森川主幹の無言の圧力を感じて、今日というしめきりが近づくにつれて立ち寄った本屋で文芸コーナーをちゃちゃっとサーチしていたのだが子連れでは遅々として任務遂行に至らず。わが愛しの宇都宮市の本屋で詩集を置いてくれているのは、カレー屋モティの隣の落合書店しか、もはや、ない。数年前まではもっとあったので喜んでいたのだったが、気づけば、絶滅していた。たとえると柴犬の散歩風景、あるいは田んぼのメダカくらい、ここにきて激減してしまったのだった。(一方でシラサギは目に見えて増えた。ヒルもふつうにいる。キジに遭遇する機会も増えた。東京でのセミみたいに数十年単位で増えているのじゃないかな。)Amazonで検索すれば詩集だって簡単に買える。しかしこれと決めた目的なく検索することがない。ついでにテレビも12年所有していない(だから旅先でついていると釘づけ)、新聞も目にしない(だから卵だとかワレモノをつつんでいる新聞紙は熟読)。ニュースやテレビ番組、CMはもっぱら人様(患者様)から解釈付きのものを伝聞する。毎日講義いただくので間に合っている。という一人の愛詩家が、時間や労力をかけずにカレー屋のついでに寄った栃木の店頭で、どうにか手に入る新刊詩集がこれであった。大崎清夏『指差すことができない』(青土社、2014年)。趣味で読むものは小学生時から愛読するE.A.Poeの要素(怪奇のみにあらず、幻想のみにあらず、細部のみにあらず、生命のみにあらず、タナトスのみにあらず、科学と疑似科学のはざまのみにあらず…)がないともうまったく受け付けない老境に達してしまったので、宿題のようなこうした機会を与えていただき見聞を広げる次第である。帯に今年の中原中也賞、「平易なことばで織りなされた」と謳われている。
早速。これ「平易なことば」を信じてもし買ってしまったら第一番目の表題作第一文からまったくもってガッカリ、残念、チンプンカンプン。
境界線をきめる協議が
きょうもいたるところにあって
健康には定義がなくなった
吸収してもくるしい
排泄してもくるしい
だからたのしい気持ちで
働くしかなくなった
ポエムと思って買ったら、しょっぱなから「排泄」なんておおよそポエムとほど遠いシモな話題を出されて、ああ、こりゃわかりやすいね、なんて思う読者がいるんだろうか?漢字で書けば統一されるところをわざわざひらがなにしている点などをパッと見、平易、と意訳しているのであろうか。常用する文章では「協議」「排泄」などという難解な単語が漢字であるにも関わらず「きょう」「くるしい」がひらがなになることはない。なんらかの意図があって(縦に読むと「えるしっているか」になるとか)、そうしているのである。「くるしい」「たのしい」に関しては対となる感情表現であるので、意図が汲みやすい。対語をほかと区別することで同列にすることは、こうした感情へ焦点をあてるとともに、対語同士の相反する意味の地をならして、ある程度その間に横たわる境界線を消し去ってしまう作業なのではないか。すなわち「くるしさ」と「たのしさ」との連続性の中で、くるしいはたのしい、たのしいはくるしいのである、と。それゆえ「だから」「たのしい気持ちで働くしかなかった」と繋いでいる。これは大変わかりやすい。平易である。一方でなぜ第二文「きょうもいたるところにあって」をすべてひらがなにしたのか。強調を疑うが強調するような文章でもない。その意図はこの詩を最後まで読んでもはっきりとは同定できない。意味のゆらぎを伴わない表記の変化は、これ、かえって平易ではない。「陽性かくにん!」のようなかわいさ、明るさの演出であろうか。「今日も至る所にあって」にするより空気がほんわかするかもしれない(疑似平易)。事実上のわかりやすさや、理解しやすいまっとうな文章とはまったく異なる。この理解しにくい表記を挿入することで、この文章の群れは、とある一つの出来事の正確な叙述をしているのではないということを読者に伝え、記載内容を一般化し、読者一人一人に解釈の余地を与えることに成功しているだろう。私はむしろ、高血圧の定義が毎年変わる医学の日常をこの文頭でリアルに想起してしまったのだが。去年まで目標値140/80mmHgだったものが、今年から自宅血圧150/90mmHgとなった。本当はくるしいとたのしいの境界線さえ決められない事象の連続性を生きる私たちであるのに、無駄に協議を続け、ありもしない境界線を決めようとするから毎日同じ協議の繰り返しとなってしまうのだ。なるほど滑稽であるよネ、と(著者は滑稽だなんて言ってナイ)。字面そのまま「健康には定義がなくなった」よネ、と。リアルだなあ。
冒頭七行を引用したが、この詩の八行目以降もこのような意味のゆらぎを作ったり作らなかったりの絶妙のバランスをとりもちながら、私的経験や女性の生理を匂わせながら、見事に物語を一般化し気持ちを読者に共有させるのである。すごい手腕の書き手であることは間違いない。この書き手が、女流詩人は女の生理を描きこむ、というわかりやすい図式を”使っている”点もまた帯に「平易」と甘い誘い文句が銘打たれた理由であるかもしれない。女性詩とはこういうものだという固定観念は根深い。いまもってそういった枠組を拝借することは詩の解釈の一助となる。これは一つの洗練された手法である。(たとえるなら『魔法少女まどか☆マギカ』での美少女戦闘という設定ほどに、固定された枠組み。)ただこれだけの手腕の書き手が、この分野だけを相手に書き続けるのはちょっともったいないように思ってしまうのだが、しかし、伊藤比呂美選だから、伊藤比呂美氏のカラーが遺憾なく発揮された選抜だから、いいのか。山は動かず。
以上。詩の謳い文句で、平易だ、難解だっていうくくりには引っ掛かりを感じるものが多い。それ、本当は読んでいないけどね、くらいの感想に感じてしまう。実際読むとこんぐらい平易で、難解だけど?と言いたくなる。へいいだ、なんかいだ、っていう境界線をね、私も。指差すことができない。
早速。これ「平易なことば」を信じてもし買ってしまったら第一番目の表題作第一文からまったくもってガッカリ、残念、チンプンカンプン。
境界線をきめる協議が
きょうもいたるところにあって
健康には定義がなくなった
吸収してもくるしい
排泄してもくるしい
だからたのしい気持ちで
働くしかなくなった
ポエムと思って買ったら、しょっぱなから「排泄」なんておおよそポエムとほど遠いシモな話題を出されて、ああ、こりゃわかりやすいね、なんて思う読者がいるんだろうか?漢字で書けば統一されるところをわざわざひらがなにしている点などをパッと見、平易、と意訳しているのであろうか。常用する文章では「協議」「排泄」などという難解な単語が漢字であるにも関わらず「きょう」「くるしい」がひらがなになることはない。なんらかの意図があって(縦に読むと「えるしっているか」になるとか)、そうしているのである。「くるしい」「たのしい」に関しては対となる感情表現であるので、意図が汲みやすい。対語をほかと区別することで同列にすることは、こうした感情へ焦点をあてるとともに、対語同士の相反する意味の地をならして、ある程度その間に横たわる境界線を消し去ってしまう作業なのではないか。すなわち「くるしさ」と「たのしさ」との連続性の中で、くるしいはたのしい、たのしいはくるしいのである、と。それゆえ「だから」「たのしい気持ちで働くしかなかった」と繋いでいる。これは大変わかりやすい。平易である。一方でなぜ第二文「きょうもいたるところにあって」をすべてひらがなにしたのか。強調を疑うが強調するような文章でもない。その意図はこの詩を最後まで読んでもはっきりとは同定できない。意味のゆらぎを伴わない表記の変化は、これ、かえって平易ではない。「陽性かくにん!」のようなかわいさ、明るさの演出であろうか。「今日も至る所にあって」にするより空気がほんわかするかもしれない(疑似平易)。事実上のわかりやすさや、理解しやすいまっとうな文章とはまったく異なる。この理解しにくい表記を挿入することで、この文章の群れは、とある一つの出来事の正確な叙述をしているのではないということを読者に伝え、記載内容を一般化し、読者一人一人に解釈の余地を与えることに成功しているだろう。私はむしろ、高血圧の定義が毎年変わる医学の日常をこの文頭でリアルに想起してしまったのだが。去年まで目標値140/80mmHgだったものが、今年から自宅血圧150/90mmHgとなった。本当はくるしいとたのしいの境界線さえ決められない事象の連続性を生きる私たちであるのに、無駄に協議を続け、ありもしない境界線を決めようとするから毎日同じ協議の繰り返しとなってしまうのだ。なるほど滑稽であるよネ、と(著者は滑稽だなんて言ってナイ)。字面そのまま「健康には定義がなくなった」よネ、と。リアルだなあ。
冒頭七行を引用したが、この詩の八行目以降もこのような意味のゆらぎを作ったり作らなかったりの絶妙のバランスをとりもちながら、私的経験や女性の生理を匂わせながら、見事に物語を一般化し気持ちを読者に共有させるのである。すごい手腕の書き手であることは間違いない。この書き手が、女流詩人は女の生理を描きこむ、というわかりやすい図式を”使っている”点もまた帯に「平易」と甘い誘い文句が銘打たれた理由であるかもしれない。女性詩とはこういうものだという固定観念は根深い。いまもってそういった枠組を拝借することは詩の解釈の一助となる。これは一つの洗練された手法である。(たとえるなら『魔法少女まどか☆マギカ』での美少女戦闘という設定ほどに、固定された枠組み。)ただこれだけの手腕の書き手が、この分野だけを相手に書き続けるのはちょっともったいないように思ってしまうのだが、しかし、伊藤比呂美選だから、伊藤比呂美氏のカラーが遺憾なく発揮された選抜だから、いいのか。山は動かず。
以上。詩の謳い文句で、平易だ、難解だっていうくくりには引っ掛かりを感じるものが多い。それ、本当は読んでいないけどね、くらいの感想に感じてしまう。実際読むとこんぐらい平易で、難解だけど?と言いたくなる。へいいだ、なんかいだ、っていう境界線をね、私も。指差すことができない。