「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第158回 長い詩について 瀬崎 祐

2015年07月17日 | 詩客
 朝日新聞一面の小さな連載記事に鷲田清一の「今日の言葉」というのがある。しばらく前にそこで篠原資明の作品が紹介されていた。

 あら 詩

 彼の作品は一つの言葉を分解して別の意味を持たせることを企んでいる。超絶短詩というようだが、このように俳句よりも短いような詩では瞬間だけがある。それらの作品の中で時間が流れるということはない。もちろん作者にとって作品を書きはじめる前に費やした時間があるわけだが、作品が孕んでいるのは瞬間だけである。

 長い詩もある。
 長い詩では、その長さの必然性がどこにあるかということが当然問題となる。それとは別に、長い詩を成立させるためには何が必要とされるかということも興味深い問題となる。実はこの二つは裏表のことかもしれない。
 長い詩が必要とされるのは、たとえば叙事詩のように伝えたいものがある長さを要求してくる場合だろう。しかし、単に長い詩を書いてみたいという欲求のようなものが闇雲に生じてくることもある。伝えたいものが作品の長さを要求するのではなく、作者が要求するものが長さそのものである場合だ。

 1年ぶりに発行された「Aa」8号では5人の同人が長い詩を書いている。萩野なつみが11頁の作品2編を載せ(1頁は18行である)、他のタケイ・リエ、望月遊馬、高塚謙太郎、加藤思何理はそれぞれ20頁から24頁の作品を載せている。

 おそらく、長い詩は何らかの構造がなければ支えきれない。それは叙事詩のような物語性であったりもするのだろう。タケイ・リエ「空洞」では、端的に言えば意識の流れの記録という構造を用意している。その始まりは、

 とほうもないかずかず
 からだのなかにあるはず
 みえないもの 
 さっき死んだ
 と 思ったらもう生まれて
 壊れたそばからなおっているもの


 作品の詩行が時間の流れに沿うように並ぶ以上は、そこに意識の流れがあるのは当然なのだが、単に無意識に(のように)流れを書き留めようとしただけでは(もちろんそこにはある種の技術が必要となるわけだが)かって自動記述などと言われたものに近づいてしまう。
 恣意的に意識を流す様に自分を仕向けていきたい。そこには、流れようとする意識と、その流れを制御しようとする意識のせめぎ合いが生じる。それは意識が表面に浮かび上がって言葉になるときの、偶然性と必然性のせめぎ合いと言うことも出来る。
 作品として成立するからにはそのせめぎ合いが作者にとって必要とされたものでなければならないだろう。端的に言えば、偶然性だけでは他者にはまったく意味を持たないものとなり、必然性だけではあまりにも常識的なものになってしまうだろう。

 そのようにして意識の流れを制御しながら自分の内側からたぐり出せるものがどのような形をしているのか、どのような匂いをしているのか、どのような色彩を帯びているのか。その結果としてそれはどのような言葉として可視的なものになるのか。

 いつも刺されている朝は
 硝子でまぶしく刺されている
 片目閉じて歩いていける距離で
 わたしはもう わたしではない
 ロープ渡ってもわずかな距離


 作者の意識は幻の記憶をたどり、幻の風景をさまよう。確かなものに行き当たらないので、何度も街角をまがる。こうして次の風景を求めていく。
 この作品ではたどりついたものを示すのではなく、たどり着こうとする意志を示している。淀んだり跳んだりしながら話者の時間が流れ、話者の位置も移ろっていく。緩むことはなく、それでいて緊張が過度になることもないので、詩行はむしろ心地よく流れていく。
 意識がたどり着いたところが作品の終焉ともなる。 

 だいすきだったものが
 ある日とてつもなく巨大に醜くなる
 人生からはみだしてゆく
 なにかよく聞きとれない
 愛だと思っていたものが
 はみ出した熱のせいで
 きれいに溶けてしまう


 話者は「たくさんのものを捨て」、「たくさんの更地を抱えて」「空洞になりたいと願っている」のだ。この長さの詩行を描くことによってはじめて自分の中から消すことができたものが、作者にはおそらくあったのだろう。

自由詩時評第157回 中家菜津子歌集『うずく、まる』(書肆侃侃房)の詩篇(や歌)について 高塚謙太郎 

2015年07月08日 | 詩客
 そもそも詩とは豊かな韻律のことだとすると、例えば「意味のわかる」ことを振り払おうとする豊かな韻律を持った詩篇や短歌なんかを楽しめばいいはずだ。
 中家菜津子の歌が評価されるとき、「意味がわかる」や「共感」から成されたものが多いとするなら、それは中家にとって一つの不幸であるかもしれない。


はるじおん はるじおん はるじおんの字は咲き乱れ、銃声がなる


 これなどは結句がやや狙い過ぎだが、楽しい調べと文字上での遊びがあるだろう。そこに何ほどの「意味」や「共感」もないようにみえる。


木漏れ日の椅子にこしかけこすもすをひねもすゆらす風をみおくる


 韻律上の豊かさを優先したら、たまたま爽やかな像につつまれました、ということだが、像のもたらすある種の鮮やかさや複雑さと「意味」や「共感」は九割がた無関係と思える。


やわらかな月のゆばりを浴びるのはひばりの声をさえぎった窓
うす紅に春のまなこはおかされてさくら、さくらんしているの



 他にもこんな感じでやり過ぎ感はあるものの、いやだからこそこれは歌なのだ、と思わせてくれる。高く評価されるべき歌だと思う。
 もちろん次のように念のいった本格的な絶唱もある。


黒髪が夏至の夕日に燃えるから馬を名のってわたしは駈ける
夕立にシフォンブラウス透きとおり乳房のためのあたらしい皮膚



 これがその価値に見合うだけの高い評価を受けるとするなら、それは「意味」や「共感」を擬態する技術の高さに裏付けられているからだと思う。皆、いいようにだまされて遊んでいたらいい。それが歌の価値になる。
 さて本題、中家菜津子の詩篇の話に入ろう。
 「意味」にとらわれて、実験そのもののダイナミズムではなく、その「成否」や「目的」しか意識に上ってこない、そんな「さもしい感じ」しか持ち合わせていない人には決して読めない詩編として、中家菜津子の作品を紹介したいと思った。歌集『うずく、まる』に収められているいくつかの詩篇から一つだけ読んでみたい。


かさなりあった花びらのうちに渦まいている微(び)や裸(ら)の音が
みどりがかった五月の空の一隅(ひとすみ)を微かに震わせる
一度も衣服をまとったことがない素裸の耳に届くとき
それは大瑠璃、夏鳥のうた



 「散緒」という詩篇の第一聯。「四季」派の詩を想起させる。「」や「」という「」に「」や「」の字をそえているのは、音に意味のようなものを添わせて、一つの美しさを音韻の美しさとして意識させるためではないか、と考えると楽しくなる。もちろん「」は「微か」と、「」は「素裸」と響き合わせているのだろう。もう一つ。ここでは意味上の混乱が仕組まれてもいる。「花びら」の内部に響いていた音が、いつのまにか「夏鳥(大瑠璃)」の「うた」になっている。この手口が「四季」派っぽさと思う。
 二つ目の聯をみよう。



ばらばらになったあばらを海原にばらまけば
渦潮
しばらくは未来にしばられる
一度も晴れたことのない素晴らしい闇に浮かぶ
銀河
そのまばらに散った青い星の上に
荊の蔓を渡るバランスであなたは立っている
散緒(ばらお)が切れるまでのあいだ




 「ばら」という音韻が十二回も出てくる。しかも歌仙を巻くような像の移りゆきが鮮やかであるため、その過剰さが気にならない。
 第三聯にいこう。


かさなりあった花びらのうちに渦まいている美や羅の色は
一度も苦悩したことのない粘膜のもの
泣いているのは予め美醜が定まっていると嘘をつく器官
宇宙ひとつとひとしくつりあう蝸牛が花びらを這い
あなたの顔で微笑んで
まだ蠢いている碧羅(へきら)の春を押し潰した




 「」「」の文字が「」「」になっている。ただ今度は「」ではなく、「」である。そして「美醜」「碧羅」と文字上で響き合っている。


たちこめる花の匂い
五月雨が来る
崩れるときにはあたりを巻き込みながら
あなたと裏返ってゆくはずのばら

その最初の黒い一点に



 これが最終聯。いうなれば春の気配を残しながら初夏を迎えつつある景を単に美しく言いさしただけの詩篇だが、でも詩篇なのだからそれでいいのだ、と信じている。指摘した音韻上の試みは目に見えるものに限られるが、見せつける試み以外のところで流離な韻律が機能しているからこそ、中家のこの詩篇は詩篇たり得ているのだと思う。そこを信じていると私は言っている。ただ、ありもしない「リアル」や奇妙な「気風」を負っているつもりの意識高めの人には思いも及ばないことかもしれない。
 中家はもっと存分に遊べる人だし、現に遊び惚けている。そこをごまかさないようにする能力を持っている、と思う。

※引用市中丸括弧はルビです。