朝日新聞一面の小さな連載記事に鷲田清一の「今日の言葉」というのがある。しばらく前にそこで篠原資明の作品が紹介されていた。
あら 詩
彼の作品は一つの言葉を分解して別の意味を持たせることを企んでいる。超絶短詩というようだが、このように俳句よりも短いような詩では瞬間だけがある。それらの作品の中で時間が流れるということはない。もちろん作者にとって作品を書きはじめる前に費やした時間があるわけだが、作品が孕んでいるのは瞬間だけである。
長い詩もある。
長い詩では、その長さの必然性がどこにあるかということが当然問題となる。それとは別に、長い詩を成立させるためには何が必要とされるかということも興味深い問題となる。実はこの二つは裏表のことかもしれない。
長い詩が必要とされるのは、たとえば叙事詩のように伝えたいものがある長さを要求してくる場合だろう。しかし、単に長い詩を書いてみたいという欲求のようなものが闇雲に生じてくることもある。伝えたいものが作品の長さを要求するのではなく、作者が要求するものが長さそのものである場合だ。
1年ぶりに発行された「Aa」8号では5人の同人が長い詩を書いている。萩野なつみが11頁の作品2編を載せ(1頁は18行である)、他のタケイ・リエ、望月遊馬、高塚謙太郎、加藤思何理はそれぞれ20頁から24頁の作品を載せている。
おそらく、長い詩は何らかの構造がなければ支えきれない。それは叙事詩のような物語性であったりもするのだろう。タケイ・リエ「空洞」では、端的に言えば意識の流れの記録という構造を用意している。その始まりは、
とほうもないかずかず
からだのなかにあるはず
みえないもの
さっき死んだ
と 思ったらもう生まれて
壊れたそばからなおっているもの
作品の詩行が時間の流れに沿うように並ぶ以上は、そこに意識の流れがあるのは当然なのだが、単に無意識に(のように)流れを書き留めようとしただけでは(もちろんそこにはある種の技術が必要となるわけだが)かって自動記述などと言われたものに近づいてしまう。
恣意的に意識を流す様に自分を仕向けていきたい。そこには、流れようとする意識と、その流れを制御しようとする意識のせめぎ合いが生じる。それは意識が表面に浮かび上がって言葉になるときの、偶然性と必然性のせめぎ合いと言うことも出来る。
作品として成立するからにはそのせめぎ合いが作者にとって必要とされたものでなければならないだろう。端的に言えば、偶然性だけでは他者にはまったく意味を持たないものとなり、必然性だけではあまりにも常識的なものになってしまうだろう。
そのようにして意識の流れを制御しながら自分の内側からたぐり出せるものがどのような形をしているのか、どのような匂いをしているのか、どのような色彩を帯びているのか。その結果としてそれはどのような言葉として可視的なものになるのか。
いつも刺されている朝は
硝子でまぶしく刺されている
片目閉じて歩いていける距離で
わたしはもう わたしではない
ロープ渡ってもわずかな距離
作者の意識は幻の記憶をたどり、幻の風景をさまよう。確かなものに行き当たらないので、何度も街角をまがる。こうして次の風景を求めていく。
この作品ではたどりついたものを示すのではなく、たどり着こうとする意志を示している。淀んだり跳んだりしながら話者の時間が流れ、話者の位置も移ろっていく。緩むことはなく、それでいて緊張が過度になることもないので、詩行はむしろ心地よく流れていく。
意識がたどり着いたところが作品の終焉ともなる。
だいすきだったものが
ある日とてつもなく巨大に醜くなる
人生からはみだしてゆく
なにかよく聞きとれない
愛だと思っていたものが
はみ出した熱のせいで
きれいに溶けてしまう
話者は「たくさんのものを捨て」、「たくさんの更地を抱えて」「空洞になりたいと願っている」のだ。この長さの詩行を描くことによってはじめて自分の中から消すことができたものが、作者にはおそらくあったのだろう。
あら 詩
彼の作品は一つの言葉を分解して別の意味を持たせることを企んでいる。超絶短詩というようだが、このように俳句よりも短いような詩では瞬間だけがある。それらの作品の中で時間が流れるということはない。もちろん作者にとって作品を書きはじめる前に費やした時間があるわけだが、作品が孕んでいるのは瞬間だけである。
長い詩もある。
長い詩では、その長さの必然性がどこにあるかということが当然問題となる。それとは別に、長い詩を成立させるためには何が必要とされるかということも興味深い問題となる。実はこの二つは裏表のことかもしれない。
長い詩が必要とされるのは、たとえば叙事詩のように伝えたいものがある長さを要求してくる場合だろう。しかし、単に長い詩を書いてみたいという欲求のようなものが闇雲に生じてくることもある。伝えたいものが作品の長さを要求するのではなく、作者が要求するものが長さそのものである場合だ。
1年ぶりに発行された「Aa」8号では5人の同人が長い詩を書いている。萩野なつみが11頁の作品2編を載せ(1頁は18行である)、他のタケイ・リエ、望月遊馬、高塚謙太郎、加藤思何理はそれぞれ20頁から24頁の作品を載せている。
おそらく、長い詩は何らかの構造がなければ支えきれない。それは叙事詩のような物語性であったりもするのだろう。タケイ・リエ「空洞」では、端的に言えば意識の流れの記録という構造を用意している。その始まりは、
とほうもないかずかず
からだのなかにあるはず
みえないもの
さっき死んだ
と 思ったらもう生まれて
壊れたそばからなおっているもの
作品の詩行が時間の流れに沿うように並ぶ以上は、そこに意識の流れがあるのは当然なのだが、単に無意識に(のように)流れを書き留めようとしただけでは(もちろんそこにはある種の技術が必要となるわけだが)かって自動記述などと言われたものに近づいてしまう。
恣意的に意識を流す様に自分を仕向けていきたい。そこには、流れようとする意識と、その流れを制御しようとする意識のせめぎ合いが生じる。それは意識が表面に浮かび上がって言葉になるときの、偶然性と必然性のせめぎ合いと言うことも出来る。
作品として成立するからにはそのせめぎ合いが作者にとって必要とされたものでなければならないだろう。端的に言えば、偶然性だけでは他者にはまったく意味を持たないものとなり、必然性だけではあまりにも常識的なものになってしまうだろう。
そのようにして意識の流れを制御しながら自分の内側からたぐり出せるものがどのような形をしているのか、どのような匂いをしているのか、どのような色彩を帯びているのか。その結果としてそれはどのような言葉として可視的なものになるのか。
いつも刺されている朝は
硝子でまぶしく刺されている
片目閉じて歩いていける距離で
わたしはもう わたしではない
ロープ渡ってもわずかな距離
作者の意識は幻の記憶をたどり、幻の風景をさまよう。確かなものに行き当たらないので、何度も街角をまがる。こうして次の風景を求めていく。
この作品ではたどりついたものを示すのではなく、たどり着こうとする意志を示している。淀んだり跳んだりしながら話者の時間が流れ、話者の位置も移ろっていく。緩むことはなく、それでいて緊張が過度になることもないので、詩行はむしろ心地よく流れていく。
意識がたどり着いたところが作品の終焉ともなる。
だいすきだったものが
ある日とてつもなく巨大に醜くなる
人生からはみだしてゆく
なにかよく聞きとれない
愛だと思っていたものが
はみ出した熱のせいで
きれいに溶けてしまう
話者は「たくさんのものを捨て」、「たくさんの更地を抱えて」「空洞になりたいと願っている」のだ。この長さの詩行を描くことによってはじめて自分の中から消すことができたものが、作者にはおそらくあったのだろう。