「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第218回 音響詩の可能性 永方 佑樹 

2017年12月15日 | 詩客
 先日、バルトロメ・フェランド氏のポエトリーパフォーマンスを見る機会があった。フェランド氏は、バレンシアを拠点に世界規模にパフォーマンスアート、音響・視覚詩の活動をしている、スペインの詩人・アーティストである。
 彼の創り上げた音声詩(母音を省き、子音のみで朗読してゆく、「音」に表現の主軸を置いた詩)やアルファベット詩(アルファベットの一音一音をそれぞれ根とし、種として、声が枝木となって広がってゆくような、音の連関の豊かさを表現する朗読パフォーマンス)は、視覚と聴覚という、本来、詩が持つ二つの性質への目くばせが為されている点でも、また、表現というものが本来持っている特質=「みせる(見せるand魅せる)」という観点からも、非常に興味深いものだった。
 「sound poetry」あるいは「poésie sonore」と呼ばれる音響詩は、ヨーロッパでは、フーゴ・バルのダダイズムを始点として、エルンスト・ヤンドルやアンリ・ショパン等の豊穣を生んで来たのだったが、これらはアルファベットという、共通の概念が欧米の地にあるからこそであるとも言え、そうなると日本語の土壌は、欧米と同様のフォネティックな詩の展開というのは、なかなか発生しづらい環境なのかもしれない。
 そのうえ、現在の日本の詩は、伝統的なものも含めて、音や韻へのある種の「信仰」がある。つまり、音やリズムは詩情として、テキストを読む過程でまなざしを知らず知らずに揺籃するものであるべきであり、こうした詩テキストが内在している美点をたもつためには、もし朗読をするような場合は真摯に、ただ素直に読まなければならないという考え方である。こうした誠実さは実際、日本の現代詩をおおいに深化させてきた要因でもあるのだが、しかし反面、フォネティックな詩やコンクリートポエトリーなどの、オルタナティブな詩型の展開を阻む一因ともなっている。
 また、リーディングパフォーマンスといった面から見た場合も、ポエトリー・リーディングという名称での展開は我が国でも盛んにあるものの、それらは上記の、言うなれば「テキスト」派とはお互い境界を引き合っていて、あたかも別ジャンルであるかのように住み分けを行いがちである為、これらリーディング側からの試みは、音楽に乗せるラップ的なものか、あるいはシアトリカルな朗読であるかのどちらかに行き着くことが多く、ラディカルな試みという観点では、どちらの立場からもなかなか実践がなされて来ない。
 では日本、あるいは日本語において、こうした音=フォネティカルな詩型の発芽や発展は決して起こり得ないのであろうか。
 だがこの点について、私はかえって不自然な感じがするのだ。何故なら、我が国において詩歌は、記紀から連なる歌謡を源としており、さらに言えば、それらはしばしば「文学」としてのみではなく「文芸」として親しまれて来たのだという来歴が、元々あるからである。
 日本語は土着性や感覚を反射させながら巧みに文字だけでなく、音や韻のあそび、果てはしぐさや舞をまじえて、多彩さを実現させてきた。それはある時は和歌と呼ばれ、勅撰集等の「テキスト」として、文字だけで伝達されもしたが、しかしそうした時代においても、実際は実作と共に「声」が重視され、宮廷の公達によって朗詠されたし、さらには今様となって、白拍子の白く華奢なかいなで舞われながら「歌われ」てもきた。果てには、狂言や能に繋がり、舞踊の芸術にも成った。
 もちろんこうした展開が、日本に限ったことではないのは、言うまでもない。言葉というものが「書く」にせよ「話す」にせよ、いずれも「身体」から発せられる行為である以上、人類は多かれ少なかれ、これらの表現の展開を必然として行っていったのだろう。
 だとしたら、私たちは千年前の「可能」を今一時「不可能」に留めているに過ぎないのではないだろうか。
 だいいち、そもそもの「詩」にしても、明治維新後に欧米から輸入し、あれこれ咀嚼してようやく「近代詩」として確立していったのが、今の現代詩の前身なのだ。であれば、音=フォネティカルな詩型の展開が今後日本でも起こり、盛んにならないとは、決して言えないのではないだろうか。
 そしてそれは、もちろん欧米でのアルファベットを基礎としたものとは、別の表現とならざるを得ないだろう。だが、「肉体」という同じ構造を持っている「人」という共通が、我々にも欧米の詩人たちにも変わらず柱としてある以上、言語を超えなければならない表現をするのに、あるいはこうした元々言語を異にしている事実から発する挑戦にこそ、ボーダー(国境)レスな表現が始まる事が逆説的に起こり得るのではないかと、私は少しばかり期待してもいるのだ。