シュルイのブログ「エコ魂」

スケールの大きい小心者のこの私。地球の未来を憂いて早四半世紀。地域活性と持続可能な社会を目指す日々を綴ります。

仮面の告白

2008年01月30日 | Weblog
前回に引き続き、マスクの写真。
今回はガーゼの衛生マスクです。
ここ数年、インフルエンザが猛威を奮っていたり
花粉症でマスクをしている人などを多く見かける様になりました。
モノというのは需要が増えると、それまで実用一辺倒だった商品に
遊び心が加わったりしてバリエーションが広がります。
ドクロ柄のマスクというのも健康に良いんだか悪いんだか(笑)

さて、前回の「『仮面』という響き」では
途中からナゼか恐ろしくアホな話になってしまいましたが
本当はそんなコトを書こーとしてたのではないのです!!
「仮面」から三島由紀夫の著書「仮面の告白」を連想し
三島と言えば自衛隊、
そして前々回の世界平和への道のりについて更に考えたかったのです。

まぁ昨日の話もこの上なく平和な話だったのですが。

前々回の「平和のためのバックキャスティング」に
コメントを寄せていただきました。

以下、ちょっと抜粋して引用させていただきます。

>浜松に居たときも、御殿場に居るときも
>自衛隊の基地が近くにあるので、身近に感じられるのですが、
>基地の中を見学できるとか、基地の中の建物の屋根を自衛官が塗り替えているとか、
>大工仕事をしているとか、戦車の整備をしているとか・・・・・

あ~そうか~。
自衛隊って色んな技術を持ってるんだなーと改めて感じました。
うーむ。
そうすると「平和のためのバックキャスティング」で書いた

>最低限の防衛のみの能力とし、
>実質的には災害時におけるレスキュー隊の様なかたちにする。

に加えて、被災(天災と戦争などの人為的な災害の両方)した土地での
救済活動や復興の為の支援や指導など、幅広い国際貢献も入れると良いですな!!

ん?サマワではそういった事をしていたんだっけ?
サマワでの活動も、現地の人の役に立ったとは思うけれど
それに使った莫大な金額と、その活動がその後どの程度
生かされているのかという成果などを考えると
ちょっとモヤッとしてしまいますな。

色々問題があるとしたら、それは自衛官ではなく
政府の責任なんだよね・・・。

そーいったコトを思うと、自衛隊の持ってる様々な能力を
活かせないってのは勿体ないなぁと強く感じます。
だって、実際にサマワで活動した自衛官一人一人は
本当に現地の人々の役に立ちたいという気持ちを持っていたはずだから。

戦時下での活動だからその内容を政府が決めるのは当たり前なのだろうけど
「国際貢献」として行くのだから現地の自衛隊が
ここはこういう支援が必要だ、とかこの土地にはこの技術を教えたら
生活に役立つな、とか臨機応変に動けたら良いのになぁと思う。

あと、当時ニュースを見ながら迷彩服じゃなくて
作業着、ジャージとかツナギを着ていけば良いのに!!って思ってました。
やっぱり実際に戦争が起こっている国なんだから
「支援」とはいえ戦闘服を着ていったら反感を持つ人がいるのは容易に想像できる。
せめてどんな服装で行ったらいいか、なんてのを実際に現場に行く
自衛官が決められれば良いのになぁ。

「国際貢献」とは何なのだろうか。
もちろん色々な形があるけれど
以前見たTV番組が素晴らしく印象深かった。

残さなくてはならないとわかっていながら
生活のために使う薪として木を伐採し続ける
アフリカかどこかの地域。

その番組で森林破壊についてどの程度紹介していたか覚えていないが
木を切るという事は単純に木が減るにとどまらない。
生態系が崩れ、切った木以外の植物も減り、
そこに生息する生き物も生きられなくなる。
動植物が減ると人間の食べ物も減る。
木が無くなると山崩れや土石流、洪水、暴風の原因にもなる。
災害時は被害が増大するし
二酸化炭素を吸収してくれる木が減るのは温暖化を加速させる。

しかしこの土地の人々にとっては地球規模の被害よりも
木を切らないことには食事をする事すら出来ないのだ。

元々森林が減少したのは日本など先進国への輸出が大きい理由である。
それも現地の人がお金のためにどうぞどうぞと差し出したワケではない。
他の国の業者が、大規模に伐採した結果であり
伐採の許可を出すのはそこで生活する人々ではなく政府の役人である。

自給自足で暮らしてきた途上国の土地の人が
それまでと同じように暮らしていけなくなるのは
先進国の経済活動が引き起こした地球規模の変化による原因が多い。

TVに話を戻すがその土地の人々が火を使う時は
石を並べたところで焚き木をする様なやり方であった。
そこに、少ない薪で効率よく火を使えるかまどを作りに
昔ながらの技術を持った日本人の職人が行ったのである。

大きな設備や最新鋭の器具が無ければ作れないようなモノでは意味がない。
だから「昔ながらの」なのである。
日本で使っていた材料が無い場合はそれに替わる材料を現地で調達する。
実際に使ってみてうまく利用できなければ
ちょうど良い材料が見つかるまで何度も試す。
道具も現地にあるもので作る。
そして職人さんが帰った後も現地の人が自分達だけで
作れるよう、一緒に作業するのだ。

そうして試行錯誤して出来たかまどは薪の量が今までの3分の1で済むというものだった。

その他には子供達が勉強したり絵を描いたりする紙を作る紙漉き職人
カンボジアで汚い池の水を飲んで生活する人々のために井戸掘り職人など。

いずれも、かかったお金も日数もわずかであり、
現地の人々がその技術をしっかりと受け継いでいる。

国際貢献とはこういう事ではないだろうか。
莫大なお金をかけるとか、その時だけお祭り騒ぎの様に盛り上がって終わりなのではなく
その土地の人々が豊かな生活をその時だけでなく
ずっと続けていく為に何をすべきか。

あの人達が来てから生活が変わった、楽になった。
そうならなくては。
行く方ばかりが満足していてもしょうがないのである。

戦争、紛争、平和、防衛、国際貢献・・・
この様な「国単位」の活動の裏に隠された
人間ひとりひとりの生活に目を向けたいものですね。