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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

旧約聖書の「創世」記述

2022年05月14日 | 永続確信のための聖書解読

 

 「聖書は人間永続の確信を与えるか」の答えを目指して進んでいるのだが、ともあれその書物を開いてみよう。

するとそれが旧約聖書と新約聖書の二部が合わさって成っていることがわかる。

 

 いま筆者の手元にある邦訳の聖書では全体が2070ぺーじにわたる大冊だ。

そのうち旧約と新約の割合がほぼ3対1で、旧約の方が全体の4分の3を占めている。 

  旧約聖書にはたくさんの書物(分冊)が収納されている。 

 

 最初の五冊は、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』となっている。

これらの著者はモーセという超霊感者で、「モーセ五書」と呼ばれている。 

 先頭の書物『創世記』には冒頭に、我々の住むこの世界がどのようにしてつくられたかが記されている。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

「はじめに創造神が天と地を創造した。地は茫然として何もなかった。

やみがおおみずのうえにあり、神の霊が水の上を動いていた。 

創造主は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」 

 (『創世記』1章1-3節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 ~というがごとくだ。 

  

六日の創世と一日の安息> 

 その後、創造主は6日間をかけて天地を創り、7日目には安息された、とある。 

 これを聞くと、「そんな短期間に世界を創ったなんてありえない。やはりこれはおとぎ話の本だ」~と思うのは無理もないだろう。 

 

 +++ 

 でも、考えてみよう。我々はこのとき1日は地球が太陽を一周する時間と考えている。 

 けれども、この創世の時点では太陽も地球もまだできていない。だから、そういう時空概念はあてはまらないはずだ。 

 

+++ 

 それは次のように考えるのが妥当だろう。 

 創造神はまずモーセに深い眠りを与えた。

そして「夢現(うつつ)併存」状態を形成し、彼にひとまとまりの創造の様を見せた。

 

「ひとまとまり」といっても、今現在の我々の時間感覚からすると、超々長期的な期間のわざだが、これがモーセには幻として与えられた。 

終わると、また、モーセは深い眠りに帰った。

その「眠り ⇒夢現併存 ⇒眠り」の最初のセットを創造主はモーセに第一日目と示した。そう考えられるだろう。 

 

<二日目から六日目> 

 

二日目も同じだ。深い眠りの中でモーセは夢現併存状態を与えられ、次のまとまりの創造の幻を現の中でみて、終わると眠りの中に帰る。

このセットが二日目である。 

以下、第三日から第六日まで同様だ。 

 

<安息の日> 

 

 そして次の日には、創造主は創造のわざを行わず、安息された。これが7日目だ、と。 

こういう風に考えると、少なくとも人間、既成概念に縛られなくなり、想像力が飛躍し、頭がよくなるよ。 

 

(続きます) 

 

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自己紹介を少々

2022年05月11日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

ここで自己紹介をしておこう。 

 

 筆者は日本の大学で経済学の研究と教育で生計を立ててきた。30代の前半に助教授になった頃、キリスト教と聖書を平行して探求し始めた。 

 

 それには動機がある。 

日本敗戦後の昭和20年代初頭に筆者は愛知県の片田舎で4~5歳になっていた。 

 

 当時の大人たちは敗戦のショックなど吹き飛ばすように輝いていた。 

 

「もう徴兵にとられることはない!」「空腹と貧しさはたくさんだ。これからは豊かになるぞ!」 

これらの気風に満ちていた。 

 

 その豊かさは進駐軍とよばれていた米兵が体現していた。彼らは超豊かなだけでなく、明るく明晰だった。 

 

ガキだった筆者は「これはキリスト教による」と感じた。その直感はなぜかいつまでも消えずに残った。 

 

 

+++ 

 

 院生時代に日本の教会をのぞいてみた。その都度、「キリスト教がこんなものであるはずがない」と思った。 

 

 就職先の明治学院はミッションスクール(ヘボン式ローマ字のヘボン先生の創設)だったので、米国から派遣された宣教師教授がいた。 

 

 バン・ワイクというその人物に教員ラウンジ(談話休憩室)でぶしつけに言ってみた。 

 

「オレはキリスト教を知りたい」 

 

彼は「グッドボーイ、グッドボーイ」といって手ほどきをはじめてくれた。 

 

 以来経済学に平行して探求を重ね、聖書の紹介本も幾冊か書いた。『聖書の論理が世界を動かす』『誰もが聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』(いずれも新潮選書)はその一部だ。 

 

 賞賛もあった。 

だが筆者には物足りなさ感覚が残った。 

その原因が、根底の「理解の聖書学」志向にあると気づいた。 

 

 聖書の本質は、生きる上で必須なものを与えるところにあるのではないか。 

 

 その「必須なもの」がなかなか見つからなかった。 

このほど「永続確信」だとの見当がついたので、探求を開始したのである。 

 

(続きます) 

 

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確信のベースになりそうな認識

2022年05月10日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

 「聖書が永続確信を与える」課程はどうなっているのか。

従来なされてきていないようにみえるこの探求を、あえて詳細に試みてみよう。 

 

 確信とは物事を認識して「これは確かなことだ」と深く思う感情だ。

そしてこの感情を与える認識の候補は次のようなものだろう。 

 

1.五感認識 

 

 その第一は、五感認識だ。 

 

 生来我々はこの感覚にもっとも明白な認識を得る。

いろいろいうけど、やはり目で見て、耳で聞いて、肌に触れて、鼻で匂いを嗅ぎ、舌で味わうのが一番明確な認識だ。 

 

 確信感情も、これによるリアルな認識が基本となるだろう。 

  

2.夢うつつ併存認識 

 

 五感の対極には霊感がある。だが、前述のごとくその認識能力は微小だ。 

 けれどもそれを補強する方法がある。「夢うつつ併存」とでも言うべき心理状態をつくるのがそれだ。 

 

 昔から「夢かうつつか」という言葉がある。夢とは眠っているときを、「うつつ(現)」とは目が覚めているときをさしている。 

 

 人は眠っているときに夢で~霊感で~幻をみる。 

 だが夢の中のことは覚めてみるとほとんど思い出すことができない。 

 

 思い出すというのは、五感認識したことだけに有効な働きなのだが、この感覚は夢を見ているときには機能しないのだ。 

 人は夢認識とうつつ認識を同時に機能させることができない。 

 

+++ 

 

 基本的にはそうだ。 

けれども人間は努力によって両者が共に働いている状態をある程度形成することができる。

これを筆者は「夢現併存(共存)状態」という。 

 

 

3.共存活動の事例 

 

3-1. <禅> 

 

 具体例を見よう。身近なとこるでは禅はその一つだ。 

人は座禅をして「半跏思惟」の状態を維持していると、幻を霊感で心に得て、かつ、その幻を顕在意識に五感認知することができる。 

 

「花を(霊感で)思えば、花が(五感で)見え、月を思えば月を見る」 

~というのはその心境をいっている。 

 禅は夢現併存状態を形成して行う認識活動なのだ。 

 

 

3-2 <ビジネスマン瞑想教室> 

 

 仕事帰りのビジネスマンらに広がって久しい「瞑想教室」も、夢うつつ併存形成を試みる空間だ。そこで瞑想はこの併存作業を言っているのだ。 

 彼らは昼間は現実(うつつ)の中で、もっぱら五感を駆使した生活を送っている。 

 

 だが霊感領域の情報には独特の効用があり、上層管理者にはそれが開けている人が多いことも悟り始める。 

 悟ったものから瞑想教室に行くものが出る。

 

すると静寂と落ち着きのなかで行われる併存状態形成作業は、心に癒やしを与てくれることをも知る。 

知ったものは教室に通いつづける。 

  

 

3-3 <モーセの「創世記」記述> 

 

 後述する旧約聖書における創世の有様の記述も、夢現共存の中で行われている事例だ。 

 この場合モーセは創造主から天地がつくられる様を幻で見せられ、文字に記録せよと命じられている。 

 

 だが、このときモーセに夢現併存状態がなかったら、幻は見せられても記憶に残らない。 

 だから創造主は先に、モーセにこの併存心理を形成してあげたであろう。 

 

 

3-4<「祈り」も瞑想の中で> 

  

 おまけである。クリスチャンや牧師さんのいわゆる「祈り」も、この夢うつつ共存のなかで行うべきだ。 

 

 祈りには現実のことへの願いも含まれるから現意識は必要だ。だが同時に、創造神との交信は幻(夢)の中での活動だ。 

 

 ゆえにその作業は瞑想の中で行う必要がある。

これによって、祈りに聞き届けられる可能性が生まれるのだ。 

 

 

(続きます) 

 

 

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「理解の聖書学」を超えて

2022年05月09日 | 永続確信のための聖書解読

進むべき記事の方向が定まらず、また休筆いたしました。

やっと定まったので、再開します。

このたび、自分の聖書探求の根底には「聖書を一般的に理解したい」という志向が根強くあったことに改めて気がつきました。

自分ではいろいろ書いてきたつもりでしたが、「理解の聖書学志向」から抜け切れていませんでした。

 

「理解」だけでは何かが足りない。

 聖書はそもそも人間が生きていく上での根底問題を打破するために創られた書物ではなかったか? 

 その問題とは「人間は永続するか」あるいは「死んでおしまいか」の意識だ。

 

そういう思いに至りましたのでその観点から聖書解読を新しく再開いたします。

そして今回はその転換を忘れないためにも、しばらく「である」調で書いてみようと思います。

 

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 

 

<人は「永続」するか「死んでおしまい」か> 

 

 「人間は永続する」という思いは重要である。 

これが弱いと「人間は死んでおしまい」という観念が心の主役になっていく。 

 

 人は五感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)によって明確な認識をするように生まれついている。 

 五感は物質を認知する能力だから、人間をもっぱら肉体として認識させる。 

 

 ところが肉体は必ず死んで崩壊して消滅する。

 その光景を日頃見続ける結果「死んでおしまい」意識は、人の心に多量に蓄積していく。 

 

+++ 

 

 他方、永続の理念を産むのは「霊感」だ。 

これが「人間は肉体のなかに霊体をもっているのでは?」とか「霊は死んでもなくならないのでは?」という思いを形成する。 

 

 それ故に人は死者を葬式で弔ったり、その後の供養をしたりしている。 

 

 だが、この感覚機能は人間には微かにしか与えられていない。 

 だから、自然なままでは「死んでおしまい」意識が圧倒的に優越するのだ。 

  

<「消滅意識」の影響> 

 

 「死んで消滅」の意識は人生に深い影響を与える。

 たとえば若者には「人間は生きる価値ない」という思いを形成する。 

 その思いは心底において「生きる意欲」をそぎ、ものごとへの「やる気」を弱める。 

 

 熟年者には、日常的に死の恐怖をもたらしているケースが多い。

「人は死の奴隷」という言葉もあるが、その恐怖が卑怯な行動をとらせもする。 

 その記憶が残存し、大人に赤面する意識を抱きながらの人生を送らせる。 

  

<永続確信供与の気配> 

 

 「消滅意識」と「永続意識」は正面から衝突する性格のものだ。

もし「永続」への強い確信があれば、消滅意識は打破されるだろう。 

 

 その可能性は、持って生まれた霊感からは生まれない。

それはせいぜい葬式や供養のアイデアを生む力しか持っていない。 

 

 だが、霊界理論の豊富な 書物にはその助けになるものがあるかもしれない。

 そして永続確信関連となれば、ほとんど唯一の書物は聖書だ。 

 この本は霊界理論が豊富なだけでなく、「無限大」の概念を含んでいる。

 それもあって、人間の永続を確信させてくれそうな気配があるのだ。 

 

+++ 

  

 たとえば世界を見渡すと、欧米、特に米国には聖書の思想に親しむ人が多い。

 そして彼らには、人間永続への確信が比較的強いように見受けられる。 

  同じ恋愛を描いたテレビドラマでも、西欧のそれには背景に「人間は永続する」という哲学が強く感じられる。 

  

 その点、日本のドラマは対照的だ。そこには「人間消滅」の思想~いわゆる無常感~が濃厚だ。 

  筆者の漠然とした体感だが、この対照からも「聖書には人間の永続を確信させるものがあるかもしれない」と我々は予感することができる。 

 

 探求してみよう。 

  

(続きます) 

 

 

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