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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

24.仲介者が介入する在物神宗教は安全でない

2018年04月07日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

前回、聖書解釈を実りあるものにするには、二つの原則がいる~と述べたね。

 ① 個人の聖句解釈の自由。

 ② スモールグループでの周期的な自由吟味会。

 ~がそれだった。


+++

だが、いきなり「これが実りある」と言われても、わからないよね。

この方法と照らし合わせながら、他の方法を説明する必要があるな。

それをするにつけ、まず、この方法を「聖句自由吟味法」略して「自由吟味方式」と呼ぶことにしよう。

 
 
 

<宗教全般から思考を開始>

もう一つ・・・、聖句解釈に視野を絞るのは後にして、まず、宗教活動全般から考えを進めよう。
 
宗教活動が「実りある」ようになるには、活動の途中に「危険」が潜んでいないことが必要だ。

危険な事態に引き込まれてしまったら、活動は挫折して「実り」に至らないからね。

危険が無い、ということは「安全」ということでもある。

そして、安全な宗教活動というのは、私が今やってる一連の話のテーマ(主題)でもある「安全なキリスト教の学び方」に重なる点が多い。

そこでまず、宗教活動全般における危険と安全から考えを始めよう。





<「見えない影響者」を知りたい願望>


これまでの話の基本的なところをまとめておこう。

① 宗教は「見えない影響者」を知りたいという、人間の根本願望からでる活動だ。

② その影響者を日本では「神」と呼んでいる。

③ 人々は、その神を知りたい、知って悪しき影響から逃れ、よき影響を受けたい~と願って暮らしていく。

④ 神のイメージには、在物神と創造神がある。

⑤ 在物神とは、目に見える物質の中に、染み込んでいるとイメージされる神だ。

 
 

<在物神宗教から考える>

この在物神を神とする宗教から考えよう。

在物神をイメージする時の人間の心理の内容は「じ~ん」と感じる神秘的な感慨だ。

感慨は感情であり、感情は理念・言葉に展開していかない。

そこで、人は「じ~ん」を繰り返すことになる。

 
 

<仲介者への願望>

しかし、人はこの神をもっと知りたいと思う。

その願望が、「この神をよく知る人」を求める気持ちに展開していく。

つまり「神を仲介する仲介者」への期待が産まれる。

それに応じるようにして、自称仲介者が現れ、神の言葉を託宣(神の言葉の代言)をする。

これが繰り返されると、この仕事は職業化する。

すると、彼の託宣は人々の思考や行動を左右するようになる。


 
<仲介者が影響力を持っていく>

彼が本当に神と交信できているかどうかについて、わたくし(鹿嶋)はその正否を断定することは出来ない。
 
だって、鹿嶋自身がそんな認識はできないのだからね。

他者がホントに交信できてるかどうかの判断など出来ないのだ。

だが、現実には、ほとんどの仲介者は、自称しているだけであることは、様々な結果を観察したことから言える。

けれども、この仲介者がその託宣でもって、人の行動を左右することが現実に多い。

社会を動かすこともあり、さらに大きく国家を動かすこともある。

それが危険なのだ。

+++

このように、仲介者が介入する在物神宗教は危険を含む。

つまり、安全でないのだ。

聖句自由吟味方式には、それがない。

個々人が直接聖句にあたって考えるんだからね。

この方式では、各々が思考をやめない。 思考停止がない。


今回はここまでにしよう。






 
 
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23.聖句解読の知恵~人間の限界を知る~

2018年04月05日 | 安全なキリスト教の学び方

 


りんたろうくん。

今回は、聖句の「解釈」について考えておこう。

これまでに述べた聖書の話は、わたし・鹿嶋の私的な解釈だ。

聖書には「天国とはこれこれ」とか「天使とはこれこれ」とかいうように、整理された文がストレートに書かれてはいない。

聖書の中のある部分(聖句)から推察を巡らせて、私が造ったストーリーだ。


 
 

<解読の事例>

たとえばイエスが最後に捕らえられるときに発するこんなことばがある。

「わたしが父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、今私の配下に置いていただくことが出来ないとでも思うのですか」(マタイによる福音書、26章53節)

~これから、「ああ、天使は軍団状に組織されているのではないかなあ」という推察が出来る。

そして、その仮説でいって、他の聖句も筋の通った解釈ができると、「天使は軍団状に組織されていそうだ」というストーリーが~暫定的ではあるが~出来上がる。

解読とは、概してそんなもんだ。
 
 
 
 

<唯一絶対の解読に人間は到達不可>

こう聞くと、「その解釈は絶対正しいものか」という疑問が湧くだろう。

答えは「否(ノー)」だ。

おそらく唯一絶対の解釈は存在するだろう。

だが、聖書の述べる世界は、時間に於いても、空間に於いても無限の範囲に広がっている。 さらに、目に見えない霊界にも及んでいる。

そんな記述を相手に、限られた知力しかなく、その寿命も限られている人間が、唯一絶対な解読に達することは出来ない。

+++

できるのは、個々人がそのゴールを遠望して、その時々にいけるところまで行くということだけだ。

(それを生活に活かすにもそうだ。その時点、その時点での解読を踏まえて決断し生きていくのだ)
 
 
 
 

<個人の聖句解釈の自由>

そしてそれを現実に実り多いものにするのは、まず第一に、個人に聖句解釈の自由が与えられてなければならない。

まずとにかく、現時点での知力と霊感を動員して、思う存分な解読が出来る条件を造ってあげるのだ。

これは大切な原則で、英語では Freedom of Personal Interpretation (of Bible)といっている。

 
 
 
<スモールグループ原理>


だが、それだけだと、個々人が「ひとりよがり」の解釈に留まってしまいがち、~というマイナスが生じる。
 
そこで、もう一つの現実的な原理が浮上する。
 
それは~
 
各々が数人でなるグループを任意に結成して、自由な相互吟味の会を周期的に持つのだ。
 
これは英語では、Principle of Small Group Discussion などと言われる。
 
 
 
 
 
<「数人」:経験が産んだ知恵>
 
「数人」という所には、経験からの知恵がある。
 
周期的な相互吟味会が実りあるものになるには、各々が他のメンバーの基本見解を記憶しているのが必要だ。
 
すると、散会後もそれを生かした思考が出来るし、次回の議論での効率が飛躍する。
 
そしてそれには、10人では多すぎる。
 
多くて記憶が出来ないのだ。
 
また、2人や3人だと、「ひとりよがり」を脱却する力が弱い。
 
経験上、5~6人が最適なんだ。
 
 
 
 
 
 
ともあれ、
 
① 個人の聖句解釈の自由。
 
② スモールグループを結成しての相互吟味。
 
~この二つの原則が、限られた知力と寿命を持った人間が、実りある聖句解読を実現するのに最適な方法なのだ。
 
今回はここまでにしよう。
 





 
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22.「宇宙という牢獄」のなかで

2018年04月04日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 
物語を続けよう。
 
 
反乱天使長とその配下の天使たちは、暗闇の牢獄(宇宙)に閉じ込められ、
変質を開始し、ついには、悪魔(サタン)になった。
 
~前回、そこまでを話した。
その続きだ。
 
 
 
 
 
<すべてで対極となる>
 
これで叛乱天使は、単なる反乱者でなくなった。
 
変質した彼は、すべてにおいて創造神に敵対する。
 
創造神が「右」と言えば「左」という。
 
上と言えば下という。
 
+++
 
創造神が愛する者には、反射的に、憎しみを抱く。
 
創造神が手元に置こうとする者は、本能的に引き離す。
 
引き離して自分の影響下に置こうとする。
 
 
 
 
 
<「殺意」を抱く存在に>
 
 
敵対心の極地は「殺意」だ。
 
創造神に対して殺意を抱く存在に、悪魔はなっているのだ。
 
 
 
 
 
<悪魔は牢名主>
 
宇宙においても、悪魔は天使長の性格を持って、「天の諸々の悪霊」となった旧配下の天使への支配権を持ち続ける。
 
牢獄(宇宙)において、いわば「牢名主」のような存在となるのだ。
 
牢名主とは、テレビの時代劇に出てくるあれだ。
 
牢の中で、座布団を何枚も重ねた上に座って、同室の罪人たちに君臨しているあれだな。
 
 
 
 
 
 
<そして『創世記』が始まる>
 
さて、これでようやっと聖書の記述を理解する背景が整った。
 
聖書は、旧約聖書と新約聖書の合体本だ。
 
旧約の初めの書物は『創世記』だ。
 
それは宇宙の暗やみに「光あれ~」といって光を造る場面から始まっている。
 
(この光は、後に物理学が明かす「光子」という素粒子)
 
創造神はその宇宙の一角に、光と熱を放射する太陽を造り、その周りを回る惑星をいくつも造る。
 
それが太陽系だ。
 
+++
 
そしてその一つの惑星(地球)に生命体が住まえる環境を造る。
 
そこに、空、海、陸地をつくり、空には鳥、陸には植物や諸動物、海には魚を造る。
 
さらにそこに人間を造り(!)地上のドラマが始まる。
 
 
今回はここまでにしよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
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21.いのちエネルギー方程式と天使変質の論理

2018年04月02日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 



今回は、霊の生死と、いのちエネルギーの論理を考えよう。





<「いのちエネルギー」図式>






 



 
図は「霊のいのちエネルギー充電度」を総合的に示すものだ。

聖書では、霊は「いのちエネルギーを蓄える充電式電池」のようなイメージだ。

「いのちエネルギー」が霊に充電されると、霊に生命力がみなぎる。

+++

図の横軸は時間だ。

縦軸はいのちエネルギー充電度だ。

横軸より上方がプラスの充電度ゾーン、下方がマイナスの充電度ゾーンだ。

+++

右下がりの斜線は、その充電度の移り変わりを示す。

それは左上から下降してきて、斜線が横軸と交わったところが、充電度ゼロの点だ。

それより上の点がプラスの充電度で、下の点がマイナスの充電度だ。

どちらも最高値は100%だ。

上がプラス100%、下がマイナス100%だ。


 

<マイナスの「いのち」とは、プラスの「死」>

横軸の下方の領域は、「マイナスのいのちエネルギー」ゾーンだが、いのちのマイナスとは、反対を意味する。

いのちの反対は、すなわち、死だ。

だから、いのちのマイナスのエネルギーとは、すなわち「死のエネルギー」となる。

そこで斜線の一番右の端は「死のエネルギー100%」ということになる。


 
 
 
<アダムとイブの話>
 
先の話になるが、今の人類の最初の存在はアダムとイブだ。

よく知られた話だから、これを使ってしまおう。

二人はまず、エデンの楽園に置かれる。

そして、創造神をワーシップしながら暮らしている。

創造神に完全に意識を向けて、そのことばを受け入れていた。

+++

すると意識波動は、創造主から放射されるいのちエネルギー波動と完全に協和する。

だから充電状態は完全で、その充電度はプラス100%だったことになる。

それが図の斜線の左の端の点で示されている。

エデンの園での二人は、当初は「いのちエネルギー充電度」が100%だったのだ。
 

+++

だが、愛しい妻のイブが悪魔に誘導される。

「園の中央の木の実を食べるな」という創造神からの命令から意識をそらして食べてしまった。

「食べたら神様のように賢くなって、もういちいち神様の命令に従わなくてもた出し判断がで出来るよ」というのがその誘惑だった。

+++

イブは結局食べてしまう。

そこで、「いのち」充電度が落ちていく。

アダムは仰天したが、イブを溺愛していた。

「堕ちるのも一緒」と思ったか、自分も食べて、自らの霊をも不完全充電にしてしまうのであった。

 
 
 

<霊の資質は男性を通して遺伝>


以後、原題の人間はアダムの子孫ということに聖書ではなっている。

そして霊の資質は父親を通して遺伝するというのが聖書の思想だ。

だから、その後の人類はみな不完全充電となる。

その状態が図の右下がりの斜線の中央よりやや左の人間」というポイントに示されている。

人間の充電度はプラス領域にはあるが下がってきているのだ。

 
 
 

<「敵対」天使の方程式>

ではサタン(悪魔)はどうか。

彼は元々は、天国で創造神の名を賛美する職務を与えられた天使の長だったよね。

天使は作られた霊、すなわち被造霊だ。

霊だからやはりそれは、いのちエネルギー乾電池の役割を果たしている。

+++

ところが前回に述べたように、彼はあるとき、与えられていた職務を放棄したよね。

そして自分の部下の天使に天国の一角で自分を賛美させた。

+++

これは強烈な行為だ。

アダムは創造神のことばから「意識をそらし」た。

だが、こちらはそんななまやさしいものでない。

人間の場合は、いってみれば「不従順」だった。

ところが、この賛美天使長は、不従順を通り越して創造神に「敵対」している。

そこで、充電度はゼロに向かって落ちていくだけでは収まらない。


天使は直情径行の精神をもった霊だからね。

「もうどうにも止まらない」山本リンダのように、ゼロを通りすぎてマイナスにまで行ってしまう。

こうしてその充電度はマイナス100パーセントにまで至るのだ。

 
 
 

<いのちのマイナスは「死」>

「いのちのマイナス」とはすなわち、いのちの反対で、「死」でもある。
 
悪魔はその霊が「死のエネルギー」100%でみちている存在となる。

この理解は「サタンは死の力を持つもの」という聖句(ヘブル人への手紙、2章14節)にも符合しているよ。

+++

この死のエネルギーを増していくことによって、賛美天使長は変質していくのだ。

そしてついに「死の力」をもった悪魔となる。

+++

従った配下の天使たちも、相応に変質していく。

彼らについては聖書は多くを記していないが、「天の諸々(もろもろ)の悪霊」と記されている。

+++

以上は、いってみれば「いのちエネルギー」方程式だな。

そしてこの原理は、聖書のすべての物語に貫徹している。

悪魔は単に「悪いことした天使がなってしまったんだよ」という、おとぎ話のような存在には聖書ではなっていない。

一貫してながれる論理法則の中で、理解できる存在なんだ。

 
今回はここまでにしておこう。



 
 
 
 
 
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20.霊にも生死がある

2018年04月01日 | 安全なキリスト教の学び方

 



<やっぱ、おとぎ話だよな・・・>


天使の話を続けよう。

賛美の天使長たちは、追い落とされた宇宙の中で、悪魔に変質する。

日本での聖書の解釈は、大体、ストレートに「悪魔になった」という話にいく。

牧師先生も、それはそういうことにして、この悪魔関連のことはパスしてしまう。

+++

だけど、この天使の悪魔化の話は、そのままだとやはり奇想天外な印象のままになるだろう。

その結果、「聖書に書いてあることはやっぱりおとぎ話なんだ」という思いが産まれる。

+++

そこで、ここで少々筋道だった論理内容を示しておこう。

また、しち面倒くさい理屈の話になるけれど、やっておくね

 
 

<霊にも生死がある>

天使は全身が霊で出来た霊的存在だ。

人間は肉体を着てはいるが、その内にあるのはやはり霊だ。

肉体は死ぬと崩壊して消滅するが、霊には崩壊はない。

だが、霊にも生死がある。

 
 

<いのちエネルギーの充電度>
 

聖書では霊は充電式乾電池のようなイメージの存在だ。

充電される電気に当たるのは、「いのち」と記されている実体だ。

これは物理学でいうエネルギーのような概念だから、私は「いのちエネルギー」と言ってるよ。

+++

霊の死は、この「いのちエネルギー」が充電不全で枯渇した状態を言う。

すると霊は「死霊」になる。

逆に充電が十分だと、活きた霊である「活霊」になる。

 
 
 
 
<創造神から放射されている>
 

「いのちエネルギー」は創造神からあまねく放射されている波動だ。

だが、それを吸収・充電するには、霊の意識が創造神のことばを受け入れ、ワーシップ(親愛を持って拝し賛美すること)している状態になければならない。

それがないと、霊は充電不全になっていくんだ。


+++


このあたりをめぐる全体像とその詳細を次回に説明しよう。

 

 

 

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