鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

『誰もが聖書を』8~序章を比較して~~

2007年01月02日 | 著書について
                
新年になりました。話を『誰もが聖書を』の序章に戻します。

                    

前作の『聖書の論理が世界を動かす』の序章は、編集のsさんの指示する項目の各々について鹿嶋が文章を作った、と申しました。この第二作でも序章は必要でしたが、今度は鹿嶋が自分で構成し文章化しました。それにsさんが注文をつけるという方法がとられました。今度は自分でさせて鹿嶋の序章作成力を育てようとされたのかもしれません。


 結果を前作と比べますと、やはり見劣りするように思います。前作では、文章が躍動していました。ぴょんぴょんと跳躍しています。対して二作目の序章は、ウオーキングしているという感じです。跳躍でなく、地をはっているというか。文章のキレが悪い。べたっとしている。リズム感が乏しいです。

                    

<序章はブリッジ>

 後に振り返ってみますと、sさんと鹿嶋とでは、序章というものの役割の見方が違うことに気づいてきました。sさんは、序章はブリッジだと割り切っておられるようでした。どういうことかというと~~

~~著者が述べようとしている本文は、聖書の思想、論理の話です。これ自体は、日本の一般読者の興味とは距離があります。で、そのままでは読者は本を手に取る気になりません。そこでそれと読者の興味あることがらとにつなぎを付けることが必要になります。端的に言えば、著者の関心と読者の興味との間にブリッジ(橋)を架けるわけですね。sさんにはそういう明確な役割認識が序章にあったように思われます。

 対して著者というのは、概してそう明確な位置付けをしていないことが多いのです。その状態で、自己の心情や、本論に到る思考過程を吐露したりするのに序章のスペースを使います。読者の興味とのつなぎも考えていないことはないのですが、それ一本という明確な割り切りがありません。これは今思うとアマチュアの感覚ですね。対してsさんはプロ。本作りのプロでした。

                    

<アマチュアのままで>

 これに気づくと同時に、sさんの「食いつきが・・・」という言葉の意味がわかりました。一作目の序章を作っている途中でこの言葉を聞いたとき、鹿嶋は「なんか一般読者を魚みたいにいうんだなぁ~。食いつきがわるい、なんて~」と漠然と思いました。そしてそれはず~と記憶に残ってきましたが、釈然としないままでした。それが、本作りのプロとアマチュアと言うことに気づいて、その意味がパラリとわかりました。いや~そうだったんだ、とね。

 でも、sさんは、それをわかってて二作目は赦してくれていたのでしょうね。それでいいから、やってみなさい、と。で、アマチュアのままで『誰もが聖書を』はやらせていただいたといまわかります。

 鹿嶋は、この機に言いたいことをできるだけ活字にさせてもらおうというスタンスでした。あれかこれかでなく、あれもこれも盛り込もうとした。アマチュア丸出し。結果、予想以上の厚い本になりました。前作の1.5倍近くになったんじゃないかなあ。

 ・・・で売れ行きは? 近く機会をみて書くかもしれません。

                    

コメント
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