鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.29『イエス、衝撃のエルサレムデビュー(2章)』

2005年01月02日 | ヨハネ伝解読
 都エルサレムの神殿に着いたイエスは、広場で衝撃のデビューを飾ります。

 日本でも、大きな寺や神社の門前には屋台の店店が軒を連ねますね。「男はつらいよ」の主人公、フーテンの虎さんの世界です。人がたくさん集まる信仰の地は、どこでもそうなります。

 エルサレム神殿の広場や回廊にも、たくさんの、商人が店を開いておりました。牛を売るもの、羊、鳩を売るもの、両替をするもの、色々おります。

 そこへ一団を引き連れてやってきたイエスは、なんと、突如大暴れを始めます。縄でむちをつくって動物を追い出してしまうわ、両替人の屋台はひっくり返すわ、もう手がつけられません。

 そして、「わたしの父の家を、商売の家にするな!」と言いました。イエスが言わんとする事はこうでしょう。ーーー都の神殿は、創造主の家である。そして、自分はその創主の子だ。だから創主はわたしの父だ。ここは、父を礼拝すべき場所なのだ、と。

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 こういう場合普通ならば、即座に逮捕となるでしょう。神殿を管理するユダヤ教団の守衛さんたちによって、投獄されておしまいです。だが、イエスはすでに多数の教団員を引き連れていました。のみならず、驚くべき奇跡を次々に起こし、人を癒していました。

 噂はすでにエルサレム地域にも広まっていたでしょう。神殿の管理者であるユダヤ教の僧侶は、一応イエスに一目置いた態度で対応しています。

 「あなたは自分にこんなことをする権威があるという。自分が創主の子だからとおっしゃる。だったら、それを証明すべき、奇跡を示してください。そうすれば、損害を被った商人たちも、この人の言うことならと、納得するでしょうけれど」、と。

ーーーまあ、商人たちは被害を被った。だけど、ここでこのイエスという男が、奇跡をやって見せてくれたら、噂は一度に広がって、神殿に来る人は二倍、三倍、四倍と倍加する。そうすれば、神殿は繁栄し、賽銭も激増するだろう。その一部で商人に補償してやればいいんだ。

 ーーーこんなことを考えたかも知れません。奇跡が人寄せショーの役割を果たすと。

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 ところがイエスは「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日で再建して見せましょう」と答えます。要望を頭から拒否したのではありません。ご期待に応えるについては条件がある、といっているのです。あなた方がこの神殿を壊したならば・・・と。

 こうなりますと、今度は僧侶の方が窮地に立つことになります。神殿を壊すわけにはいかないのです。つまり、条件をクリアーできない。

 すると、イエスにこれ以上、奇跡を要請するわけにはいかない。理屈の筋道を踏み倒してことを行うというのは、ユダヤ人はしないんですね。このあたりに厳格なのが、彼らの持ち味です。彼らは引き下がってしまいました。

 こうしてイエスは、イスラエル国教であるユダヤ教の本拠地において、衝撃的なデビューをしたわけですね。のみならず彼は、この時のエルサレム滞在中に様々な奇跡を起こして見せました(23節)。

 また、これによって、多くの人がイエスの教えを信じた、とヨハネは記しています。こうして、イエスの噂はさらに広がっていったでしょうね。

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 ところで、イエスのこの暴力行為はどう理解したらいいでしょうね。聖書に記されたところでは、彼がこういう物的な力を振るうのはここだけです。これをイエスが抱いた只一度の義憤、といって説明するケースもあります。当時のユダヤ教僧侶たちの腐敗ぶりを理由に挙げて。

 しかし、春平太にはどうもそれだけでは納得できないところが残ります。国家宗教の腐敗ぶりなどは、いくらでもみられることです。それに対して、イエスが義憤だけで物的暴力を振るうというのが正当であるとは、いえないでしょう。

 ここは、この時だけであったところに着目すべきに思います。このときイエスは、ユダヤ教の華の本殿で新しい教えをする教祖として、デビューしているのです。それは、出来る限り衝撃的である必要があります。

 なぜなら、イエスは短期間で注目の人となり、かつ、憎まれる存在となる必要があります。近い将来、そのスター性の故にねたまれ、憎まれ、十字架刑で殺されねばならないのです。彼はそのためにこの世に来ている、というのが聖書の大原則です。

 そこにいっそう確実に至るためには、単にエルサレムの神殿に現れて、説教をししるしと不思議を見せるだけでは十分ではありません。それはすでに地方でやっている。エルサレムの人々は伝え聞いています。

 人によっては「ああ、例のあれをやっている男だな・・」で終わってしまいます。ここではやはり、なにか、新しいことをしなければならない。全員の目を引きつけねばなりません。そうして衝撃を与えねばならない。広告学で言えば、“インパクトを高める”わけですね。

 そのために、彼は、こういう形のデビューを飾った。義憤が主動機ではない。義憤でもって物的暴力を振るうというのは、感情的になってセルフコントロールを失っていることを意味するのです。それは正解でないように春平太は思っています。
コメント
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