今回は、地上で展開するイエスの言動の予告編のような話を。
<「世の君」だって?>
前回にみた、劇画のような事件は、霊的な世界での出来事である。
後にこの宇宙の中に創られる人間には、そういう霊的なことは見えない。
人間は霊が肉体を着るようにして創られる。
その結果、五感は明瞭な認知力を持つが、霊感はか弱くその認識は漠然だ。
宇宙の霊的事象は認識できない。
だが、さらに後に、この世界に人の形をとって住まうようになる創造神の子イエス~「人の子」イエス~には、それが見える。
そこで、イエスと弟子たちの間に交信が全く不能な事態も発生する。
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新約聖書には、十字架刑死を前にしたイエスが~
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「この世の君がやってくる」
(ヨハネによる福音書、14章30節)
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~と突然言う場面がある。
弟子たちはチンプンカンプン、何を言っているかわからない。イエスも敢えて説明しない。
後の福音書読者もさっぱりわからない。
上記はそういう場面だ。
<「世」は宇宙>
だが聖書の空間理念のイメージをもつ者には、推測できる。
イエスは「この世」で「宇宙」をいっているのだ。
「君」とは言語上の意味は君主だが、ここでは宇宙という牢獄で、牢名主として君臨する悪魔(サタン)を言っている。
悪魔は時至るまでは、この世の支配者なのだ。
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この意味はこの場だけものではない。
聖書では基本的に「世」とか「黄泉(よみ:暗いところ)」は「宇宙」を示唆しているし、「世の君」「この世の支配者」は悪魔を意味している。
だが、それは聖書全体が示唆している「世界の全体像」を把握しないと見えてこない。
<イエス、悪魔軍団と激闘>
「この世の君」は霊的手段を使って人間を苦しめる。
「人の世」には悲劇がつきない。悪魔はそれが至高の快感という属性を持ってしまった、本源サディストなのだ。
そこにイエスが「天」(父なる創造主の懐)からやってきて、人間が救われうる道をつくろうとする。
父なる創造主は、その仕事を御子が天の王座に就くための試練として与えているかにもみえる。
御子イエスはそのための悪魔との激しい戦いを~エルサレム郊外のゴルゴサという丘のうえで~十字架につるされた状態で行う。
悪魔には配下の軍団が協働し、イエスには天使軍団が援助する。
その激闘は、天地を揺るがし、太陽の光すら通らなくする。
だがそれは物質界に平行して存在する霊界での出来事だ。
五感しか働かない観衆には「地震が起きた」、「午前中なのに一帯が暗くなった」、としかみえない。
丘の上にイエスを真ん中にしてつるした三本の十字架を遠望するのみだ。
その状態で三時間がたち、受刑者は徐々に弱っていく。
そのなかでイエスは救いの道を完成する。
そして「完了した・・・」という言葉とともに肉体の命を終える。
それらの事件を含むイエスの活動、我々に永続を確信させる言動を次回から見ていこう。
(続きます)