
人間が知識を得る原点は経験である。
最も確信を持てる知識は、自分が体験することによって得られる。
だが、悪に関する知識に関しては、その方法には難点がある。
悪を体験で知ろうとすると、それに飲み込まれる危険が大きいからである。
端的な例を挙げる。
アヘンなどの薬物を摂取することは法律でも禁じられていて、悪だとみて良いだろう。
だが、その悪の味を体験しようとすると、止められなくなる恐れが大きい。
中毒になってしまう。
すると、本人は人生全般に大きなダメージを受けてしまう。
アヘンの販売を手がけることも悪だ。
それを経験して知ろうとすると、密売社会での人間的繋がりが出来てしまう。
これから抜けられなくなっても人生にダメージを受ける。

<悪からは遠ざかれ>
聖書は悪に対しては、「戦ってこの世から消滅させよ」、とはいっていない。
むしろ「悪からは遠ざかれ」という思想である。
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「ウツの地にヨブという名の人がいた。
この人は潔白で正しく、創造神を恐れ、悪から遠ざかっていた」
(『ヨブ記』1章1節)
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「悪から遠ざかって善を行い、
平和を求めてこれを追い求めよ」
(『ペテロの第一の手紙』3章11節)
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悪の根は深く、とても人間の力では抜き去ることが出来ないと認識しているからだ。
具体的には、聖書は、人間のなす悪は「悪魔よりでている」と洞察している。
聖書では悪魔は架空のイメージだけの存在ではなく、現に実在する存在だ。
この存在はだましの名手で、予想もつかない巧妙な手口を使ってくる。
強力な誘惑力を持っている。それでいて人の目には見えない。
とても創造神の助けなくして太刀打ちできる存在ではない。
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だから「悪からは遠ざかれ」と聖書は教える。
聖書に言われなくても、こういう知恵を多くの大人は、子どもの学校選択で発揮しているように見える。
特に経済的余裕のある親は、自分の子供が将来良き暮らしをするようにと強く願う。
中学、高校の思春期になると、子供が悪に染まることをとても懸念する。
そこで彼らは、子どもを私立の学校に入れたがる。
誤解を恐れず言えば、公立の学校には、どうしても貧困な家庭の子どもが交じっている。
そして現実の話、経済的貧困は、やはり、子どもを悪に近づけやすい。
中には、貧しいが故にたくましく育っていく生徒もいる。
だが、貧困は概して子どもを悪に染めやすいのだ。
悪に染まると人間という生き物は、子どもでもだましを使う。
誘惑にかかったら、我が子も悪の快楽におぼれて染まってしまうかもしれない。
抜け出せなくて再起不能になるかも知れない。
その危険を避けるべく、親は比較的家庭の経済条件が恵まれた子弟の多い、
それも出来るだけ学業レベルの高い私学に入れたがる。
そうやって子供を危険からひたすら遠ざけようとするのだ。

<“良き”社会のパラドックス>
だが、遠ざけるほどに、子供は悪を知らない極楽とんぼになっていく。
それが大きな社会問題を生む。
こういう私学に進学した子弟は、受験社会で有利な戦いをする。
そして学歴社会で、多くは指導的なポストを得ていく。
指導的地位には経済的な権力が伴う。
すると、それを利用しようという悪の勢力が直接、間接に働いてくる。
巧妙な誘惑も仕掛けてくる。
ところが当人は人の悪、この世の悪については無知なままで育ってきている。
だから、容易に仕掛けにはまっていく。
後で気がついたら、「断れない立場に立たされていた」という事が起きる。
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国際社会に出ると、この危険はさらに大きくなる。
日本国内で暮らしが楽な社会が実現できても、世界には貧困と悪の満ちた社会が沢山ある。
それが悪に染まった人間を、沢山産み出している。
彼らの仕掛けに「悪に無知」な人間は、簡単にだまされる。
指導的地位にあるものは、こうして海外で大きな国益を失う。
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社会の指導者のポストを得て、指導者としてとるべき行動がとれなくなる・・・
この問題は、大人が子孫に良き暮らしを遺してあげるほどに大きくなっていく。
戦時などの動乱の時代が終わって、世の中が安定し、社会経済が裕福になるにつれて増大していく。
「悪に無知な」指導者の増大というのは、実は、国家の大問題でもあるのである。
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このパラドックスめいた重要問題に、大人は正面から対峙しようとしてきていない。
「先のことだから」と自分を納得させたりして、この問題を避けて暮らしている。
実のところは、対処策が皆目見つからないから見ないようにしているのだ。

<打開策は聖句吟味に>
だが、この打開策もまた、聖書吟味にある。
悪の知識もまた、聖句吟味によって獲得可能なのだ。
聖書は悪の情報を、人間の心理構造の面からと、悪それ自体の構造の面かの両方から提供している。
そしてその洞察は、比類なく深い。
日本の聖書識者は、「聖書は愛の物語」だと教えている。
たしかにそういう面もあるがそれは枝葉で、聖書という巨木の根幹は、創造神と悪魔の戦いの物語である。
聖書では、最初の書物である『創世記』の冒頭部分からすでに、
創造神の御子(イエス)と悪の根源である悪魔とは、根本的に敵対関係にあることを宣言している。
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「わたしは、お前(悪魔)と女との間に、
また、お前の子孫と女の子孫(御子イエス)との間に敵意をおく」
(「創世記」3章15節)
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がそれである。
人間は基本的に、その両者のうちのどちらの側につくか、でもって分かれることになっている。
悪魔の側に付き続ける人間は、悪魔の影響によって悪をどんどん行っていく。
だから、悪魔の影響下で悪をなす人間の姿も、ふんだんに描かれている。
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兄が弟を殺す事件もある。
弟が母と計って、兄の長子相続権をだまし取る事件も記されている。
娘が父と関係して子をもうける話もある。
天使も甘いだけの存在ではない。王様の預言者の口に偽りを言わせて、王の判断を誤らせ、
一族を死なせてしまうようなこともする。
イスラエル史上最大の王様とされてきた人物も悪を犯す。
部下の戦士の妻の誘惑に負けて妊娠させてしまう。
困った王はその戦士を最前線の激戦地に送って戦死させてしまう。
他にも悪の話は満載だ。

<創造神の正義との対比で示す>
前回に記したように、これらを事例として吟味すれば、事態は立体化してリアリティが増す。
まるで現実の中にいるように、悪を追体験できる。
だが、それを続けるならば、吟味者もまた悪のイメージに引き込まれるだろう。
それもまた道理だ。
だが、聖書はそれだけのものではない。
この書物はそうした悪を、常に、正義の源である創造神と対照させて描いている。
旧約聖書の『ヨブ記』などはその代表だ。
だから読む者は、悪を知り、同時に、創造神の正しさ(義)の知識をも深めて行かれる。
こうして正義感覚(sense of jastice) をも身につけていくようにもなっている。
結局聖句吟味が、悪のイメージに飲み込まれることなくして悪の知識を得る道を、開いてくれるのだ。
