~~本稿は、2006年4月22日の記事「聖書には総論と奥義が併存」と合わせて読むとよろしいようです~~

「エホバの奥義」の本論は、大体前回までですが、すこしアフターケアをしておきましょう。
それは「奥義」というものを扱う知恵についてのことです。
ここで「表義」という語を作って、定義しましょう。その意味するところは「表面に現れやすい意味」です。表義という語は辞書にはないと思いますが、造語として使いましょう。読み方は「ひょうぎ」としましょう。
するとこれは奥義の反対語になります。「奥義」は文字通り、奥にある意味、奥に秘められた意味、です。こちらは「おくぎ」です。

<表義、奥義の出現は必然>
人間社会では物事には表義と奥義が必ずと言っていいほど現れます。
聖書の解釈はその超代表でしょう。この書物は、他に類例を見ないほど内容が深淵広大だからです。人類社会がこれから後何千年つづくかわかりませんが、もうこんな書物は出現しないのではないか~~個人的にはこう思っています。
だから、様々な解釈が成り立ちます。そのうち、字面(じづら)から容易に出来上がる解釈は表義になり、踏み込んで考えてはじめて見えてくるようなものは奥義の位置に来ることが多いです。

<洞察力には差がある>
人間の側からの理由もあります。それは洞察力には人によって差があるということです。その差が素質から生じるか、あるいは、その後の教育・訓練から産まれるのか、おそらくその両方でしょうが、とにかく差があります。
洞察という言葉の「洞」は洞穴(ほらあな)を示しています。察は「くわしくしらべること」「おしはかること」という意味をもっています。ですから「洞察」は洞穴をのぞいて中をおしはかるということになるでしょう。いずれにせよ、表に出ているものを簡単に認識するのとはちがうわけです。
英語ではそれを「インサイト」といいます。「イン」は内側、中の方を意味しますし、「サイト」は見ること、視界、景色などを意味している。やはり「内側のものを見る」ということですね。
聖書の論理構造をみる、などというのは、まさに洞察ですね。家の柱や梁と同じで、構造は表の字面(じづら)には現れていませんから。

<洞察家は常に少数派>
そして、人類社会ではこの洞察力に恵まれている人は、いつも少数派です。ある時代にそうなるのではなく、歴史的にいつの時代にも洞察家は少数派、というのが春平太の認識です。
どれくらい少数派か。経済学などの社会科学の学界の学者さんについてみますと、ホンモノの洞察家は千人に一人という感じです。準ホンモノとなったらもう少しいるでしょうけどね。学者さんでそうですから、全社会に目を広げてみたら1万人に一人といったところではないでしょうか。経営でいったら、京セラの稲盛さんのような方ですね。
これはいい悪いとは関係なく、事実です。実は、春平太はこの現実に非常な関心を持っています。もし、将来、天の創主王国に行かれて創造主にまみえられたら、とにかく次のような質問はなんとしてもしたく思っています。「人類がこういう比率になるようにお創りになったのは何故だったのですか?」と。春平太にはこの構造はそれほど疑問の的です。

<教会とは表義でやっていくところ>
今述べたことが、教会の性質を決めています。教会と言うところは多くの人が集まるところです。ですからそこでは奥義ではやって行かれないのです。
奥義が正しいとしても、そんな話は多数者はわかりません。やったら人が集まりません。だから、表義的な神学でやっていくところとなります。

<教会員としての知恵>
かといって、奥義をつかんでいる人は、教会に行かれないというわけではありません。奥義とは上記のようなものですから、やたら表に出すものではないと悟っていたらいいのです。
鹿嶋は米国南部の教会でそういう人を見ました。アラバマ州にあるフィラデルフィア・バプティストチャーチという教会のスモールグループに参加していたときのことです。
ここでやはり旧約の主(ロードですね)から出た言葉が、創主の言葉としては少しおかしいのではないか、ということが議論になりました。色んな見解が出ました。その中で、特に問題ないと思うと自説を述べた後「この主は、自分は天使じゃないかと見ているから・・・」とちらっと付け加えて話を終えた男性がいました。彼はそれ以上語りませんでした。
バイブルスタディが終わった後、廊下で彼に近寄って話しかけてみました。「あの話面白かったよ。もう少し聞きたかったよ」 彼はぼそっと応えました。「いや、こういうところで言うべきでないことさ・・」
さすがサザンだなあ・・・、と感銘した事象でした。サザンバプティストは奥が深いです。聖書探求に関しては底知れない深さを持った少数者がいます。
でも全ての教会がそうというのではありません。この教会は聖書探求を学術的に行うので、それを知って他教会から移ってくる年配者も少なくないという特殊な教会でした。水曜日夕にシニア担当牧者が行う聖書講義と討議など、鹿嶋が経験した神学大学院での講座以上ではないかと思うほどでした。
だがそういう教会でも、高校、大学生など若いメンバーもたくさんいます。シニアメンバーだって、洞察家はすくないです。教会では表義で交わっていく、と心する。そう悟れば、教会生活を送ることは可能なんですね。
