鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.119『天と世は絶対的対立関係にある』(8章)

2006年02月15日 | ヨハネ伝解読

 


 しばらくぶりで、聖書の言葉に当たってみましょう。「ヨハネ伝解読」にもどります。

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=聖句=
「私はわたしの父のもとで見たことを語っているが、諸君は自分の父が諸君に語ったことを行う」(38節)。
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 8章には、聖書の大前提がもう一つ出てきます。それは「天のもの」と「世のもの」とは絶対的な対立関係にあるというものです。

 だから「意識が天に属している存在」と、「この世に属している者」とは、心から出てくる考えが絶対に相容れることはないのだ、ということになります。

 「意識が天に属する者」の代表はイエスです。彼は自らを「創造主から出たもの」といいます。

 「意識が世に属している者」の代表はイエスの話が理解できないユダヤ人たちです。彼らは、世に属するが故に、イエスの話がてんで理解できない。そればかりでない。将来はイエスへの殺意を抱くようになる。そういう殺意が根っこにあるからだ~~とイエスは考えます。

 それをイエスは「あなた方の父があなたがたに語ることを行おうとする」と表現しています(38節)。この父とは「世」の意識であり、世の意識の源は悪魔です。「世は悪魔のもの」であり、悪魔の意識につながっているという思想が背景にあります。これは聖書の鉄則です。


                


すごい論理ですね。どうしてそういう論理になるかを、再び「聖書の空間理念図」でもって理解しましょう。この図は、鹿嶋春平太「聖書の論理が世界を動かす」「誰もが聖書を読むために」(共に新潮選書)や「聖書のことがよくわかる本」(中経出版)に描かれています。ここでは言葉だけで説明します。


                


 万物の創造主であるゴッドは、無限の過去から存在しています。自分以外のすべてを創ったというのですから、まず、自分だけが存在していた時期があるわけです。

 創り主はまた、空間的に無限大の大きさを持った存在です。この方は、自らの無限大の空間の中に、まず天の創主王国(天国)を創ります。天国というのは被造空間なのですね。そしてその大きさは有限です。球体の空間とイメージしていいでしょう。

 創り主はそこに、自らの名を置きます。次いで自分と同質の霊である聖霊でもってそこを充たします。

 次に創り主は、そこに多数の天使(み使い)を創ります。天使は被造霊です。創り主は王としてその国を統治します。天国は民主国でなく、創主が嘔吐してと打ちする王国なのです。

 天使は、王なる創り主の御名を誉めたたえています。天使は、軍隊のように階層組織化されています。各組織には長(天使長)がいます。


                


 ところがある時、天使長の一人が、自分も王になって創り主のように賛美される存在になりたいと欲っするようになります。配下の天使に命じて、天国の一角で自分を賛美させ始めます。天の一角に自分の王国をつくろうとするのですね。

 これは創り主の王国内に起きた一種の反乱ですね。そこで創主の懐から、御子イエスが出現します。彼は、父の王国である天国に入り、反乱していない天使に命じて、反乱軍を追いつめます。そして、天の一角に暗闇の空間を創り、彼らをそこに追い落とし、閉じこめます。

 この暗闇が我々の住む宇宙に相当します。宇宙はそもそもが反乱天使の一味を閉じこめる牢屋だ、というのが聖書の空間理念なのです。


                


 さて、被造霊は創り主から放射される「いのち」というエネルギーをその例に充電することでもって「活きて」存続することが出来ます。そしてエネルギーが霊に浸透して行くには、被造霊は創主に素直に意識を向けていなければなりません。

 ところが反乱した天使は、創主に素直に心を開いていませんから、その霊にいのちエネルギーを吸収することが出来なくなっています。それだけではない。素直でないのみならず、創造主に対抗する意識を持つのですから、その霊には「いのち」と反対のエネルギーが形成されることになります。

 「いのち」と反対のエネルギーとは、「いのち」のマイナスのエネルギーと言っていいでしょう。「いのち」のマイナスのエネルギーとは「死」のエネルギーです。反乱天使は「死のエネルギー」を持つ存在なのです。

 「死」のエネルギーを持つと天使も変質します。その変質した姿が「悪魔」「サタン」です。これに従った天使は「悪霊」となります。聖書にはこれは「天の諸々の悪霊」と記されています。


                


 宇宙はこうした悪魔と悪霊を閉じこめた牢屋です。そこで悪魔は一時いてきながらも王ですから、宇宙という牢屋の牢名主といっていいでしょう。悪魔は宇宙に君臨しているわけです。

 そういう牢屋の中に創り主は地球を創り、人間を創り、アダムとイブを造ります。純朴な二人は、はじめは創り主に意識を向けています。だが、まもなく悪魔に苦もなく騙されて、創り主に意識を向けなくなります。こうして二人は、悪魔の側に属しその支配下に置かれてしまう。二人の子孫である人類も、この意識を受け継いでいるということになる。これがわれわれの住む「この世」の状態です。


                
                


 そんなわけで悪魔は、この地球が出来る前からもう全身、創主への対抗意識で充ちています。その側に属してしまった人間も根底で悪魔の影響を受けています。人は自然なままでは、世(悪魔)の意識を根底で持ちます。

だから、「天(創主の世界)に属す存在」と「世(地上の世界)に属す存在」とは絶対的対立関係にあることになります。これは聖書物語の基底にある鉄則です。そしてそれは、ここでのイエスの話の背景にあるイメージ世界でもあります。

その意味を込めて、イエスは「私はわたしの父のもとで見たことを語っているが、諸君は自分の父が諸君に語ったことを行う」(38節)といっているのです。両者の語ること、行うことは絶対的に相容れない関係にある、というわけです。

スケールの広大な話ですね。


                


コメント
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