正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書⑫)

2005-11-20 | 手引書⑫

165.悪は多けれども一善にかつ事なし

166.足代を捨て、足代を滅する信心を

167.「命」を大切に

168.信心で祈りは必ず叶う

169.「一念に億劫の辛労を尽くせば」

170.一念三千の法門は日蓮正宗だけに有る

171.陰徳陽報に徹する信心を

172.寺院参詣の心得

173.憶持不忘の人は希である

174.臆病にては叶ふべからず

175.仏法で説く鬼とは

176.信心で過去の罪障を消滅させる

177.加護について

178.神が存在しなくなる神天上の法門

179.上七代と下七代の功徳とは

180.順縁と逆縁について

181.行学の二道をはげみ候べし

182.更に寿命を賜る信心とは

183.血脈相承について

184.広宣流布を目指す信心を

185.未得謂得 未証謂証

186.ローソクに火を灯す理由

187.業について

188.宿業転換は御本尊様への境智冥合

189.常楽我浄の四徳

190.成仏を妨げる先入観と固定観念

191.四つの誓願を志す信心「四弘誓願」

192.真の幸福とは

193.折伏は福田に下種をして育成が必要

194.自受用身とは日蓮大聖人


悪は多けれども一善にかつ事なし

2005-11-20 | 手引書⑫

 「悪は多けれども一善にかつ事なし」とは、謗法は多くても、日蓮正宗の信心をすれば、必ず幸せに成れるという意味です。更に、一善である日蓮正宗の信心は絶えることなく、人生の迷いの根源である多くの謗法は、御本尊様を受持し信心をすれば、多くの火を一水で消す如くに消し去り、過去遠々劫の謗法による罪障を消滅することが出来るのであります。
 日蓮大聖人は『異体同心事』に、
 「悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはき(消)ゑぬ。此の一門も又かくのごとし」(御書1390)
と仰せであります。御本尊様に勤行唱題をすることで、心の中に燃え盛る貪瞋癡の三毒を、一水である血脈法水を信じることにより消すことが出来ます。御法主上人の意に随わない気持ちからの唱題では、心で葛藤する火を消すことが出来ません。
 日蓮大聖人の『異体同心事』の御指南は、同じ御題目を唱えていても、血脈相承である血脈法水を、迷い多き我が身に、疑うことなく信じることで、煩悩の業火を消すことに通じます。故に過去世の謗法罪障を消滅させることです。
 世間には、御題目の南無妙法蓮華経が有り難いということが知られていても、以上の深い意義を理解して信じ唱えなければ、本当の功徳を頂くことが出来ないのであります。私達は折伏で、教えなければいけないところです。
 信心を真剣に行うところ、悪縁が降り注いできても、冥の照覧によって、私達が気付かない間に、御本尊様が遠ざけて下さるのです。これが有り難い御本尊様から頂く「冥益」となります。何事もなく自然に生活できるということは、以上の非常に有り難い、「冥益」という御本尊様の力用が厳然と存在するのです。ここに私達は、御報恩申し上げ、日々勤行唱題に励み、折伏に精進し、日蓮正宗の寺院に参詣して、「下種三宝尊」に御報恩申し上げるのです。
 毎月の御講が「下種三宝尊」に御報恩申し上げる大事な日であります。日蓮正宗を信心する人は、必ず御講に参加しましょう。参加しなければ、御本尊様から頂く「冥益」は自然と働かなくなります。ここが、信心の最も難しいところであり、「難信難解」といわれるところです。毎月の御講に参詣することで、「難信難解」を回避し、有り難い「冥益」を更に頂くことが出来ます。
 御本尊様は、私達の命よりも大切な尊体です。「不自惜身命」の気持ちで御給仕することが大事です。現当二世といわれる、現在と未来に幸せをもたらす、根本的に尊い意味から、御本尊様というのです。
 御本尊様の「仏力と法力」により、世間に蔓延する悪を消滅することが出来ます。「仏力と法力」は、私達の「信力と行力」によって頂くことが出来ます。 更に折伏をして、多くの人の「信力と行力」を引き出せば、御本尊様の「仏力と法力」を頂いて、悪である謗法を滅していくことが出来ます。
 一人の力では限界があります。多くの人が集まって、信心をし異体同心すれば、悪を完全に消滅させ「立正安国」の実現があり、広宣流布へと結びついていきます。
 悪を滅する一善は、日々の勤行唱題は当然のこと、日蓮正宗の寺院に参詣して毎月の御講に必ず参加するところにあります。これを怠れば、悪を滅することは不可能となります。


足代を捨て、足代を滅する信心を

2005-11-20 | 手引書⑫

 「足代」とは、高い所へ登るため材木を組み立てて造った仮設物。あしば。あしがかり。基礎。準備。下ごしらえ、という意味があります。
 日蓮大聖人の仏法において「足代」とは、方便の教え爾前権教のことです。つまり、末法の現代には、成仏できない不幸の根源となる教えのことです。
 「足代」である方便の教えを捨てて、正しい仏法を信じ、「足代」である爾前権教に執着する仏教各派を折伏し滅することで、日蓮大聖人が仰せになる「立正安国」の実現があります。
 日蓮大聖人は『念仏無間地獄抄』に、
 「浄土の三部経は、釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出でたり。此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏出世の本懐(ほんがい)にも非ず、唯暫(しばら)く衆生誘引の方便なり。譬へば塔をくむに足代(あししろ)をゆ(結)ふが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。法華を説き給ふまでの方便なり。法華の塔を説き給ふて後は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。然るに法華経を説き給ふて後、念仏に執著(しゅうじゃく)するは、塔をくみ立てゝ後、足代に著して塔を用ひざる人の如し。豈(あに)違背(いはい)の咎(とが)無からんや。然れば法華の序分無量義経には『四十余年未だ真実を顕はさず』と説き給ふて念仏の法門を打ち破り給ふ。正宗法華経には『正直に方便を捨てゝ但無上道を説く』と宣(の)べ給ひて念仏三昧(まい)を捨て給ふ」(御書39)
と御指南の如く、念仏である浄土宗や浄土真宗が説く、浄土の三部経は、法華経という宝塔を作るまでの、足代に過ぎず、宝塔が出来た後、足代は不必要になるのであります。
 浄土宗や浄土真宗を信仰されている方は、日蓮大聖人が仰せになることを深く考えることが大切です。御先祖様が、どの様な経緯で、念仏を信仰されてきたのか、今一度、仏様の言葉と照らし合わせて見るべきです。そこには、厳然と仏様が言うことと矛盾が生まれ、人師である僧侶が我見から主張していることが解るはずです。
 人の言葉は、「足代」の教えに執着している傾向が窺えます。「足代」は一時的に必要でも、永遠に必要ではありません。宝塔である、決して壊れることのない宝塔に住むところ、雨や風を凌(しの)ぐことが出来、宝塔が永遠に必要となります。
 日蓮正宗の信心は宝塔であり、日蓮正宗以外は足代となります。足代では、一時的な利用価値しかありません。そのために、日蓮正宗を信心する私達は、折伏をして足代を捨てるように、信心をして足代を滅する折伏をするよう、教導しているのであります。信心をして宝塔を得ることが大切で、そこに本当の成仏があります。
 大聖人は『頼基陳状』に、
 「観経等の念仏の法門は、法華経を説かせ給はむ為のしばらくのしつらひなり。塔く(組)まむ為の足代(あししろ)の如し。而るを仏法なれば始終あるべしと思ふ人大僻案(びゃくあん)なり。塔立てヽ後足代を貴ぶほどのはかなき者なり。又日よりも星は明らかと申す者なるべし。此の人を経に説いて云はく『復教詔(きょうしょう)すと雖も而も信受せず、其の人命終して阿鼻獄に入らん』」(御書1134)
と御教示のように、足代を尊ぶ念仏を信仰する人は、命終に無間地獄へ行くことを仰せです。
 未だ、日蓮正宗を信心せず、足代である方便の教えを根本にする、仏教を信仰している方は、今すぐに謗法払いをし御授戒を受け、三大秘法の御本尊様を信じ御題目を唱える修行をすることが大事です。


「命」を大切に

2005-11-20 | 手引書⑫

 人として生まれてくることは、非常に稀なことです。折角、人に生を受けたわけですから、人生に悔いを残さない生き方をしたいものです。
 人の命は、非常に儚いものであり、また人生の苦しみに弱い部分もあります。多くの人は、人生の苦しみを耐えうる術を知ることなく、彷徨い迷うわけです。その結果、命に対する重要性を見失い、自ら命を投げ出す人もいます。
 この時の心理は、生きることに対する気持ちが完全に消滅し、生きていること自体に、嫌悪感を持ちます。楽しいことも嬉しいことも、一切感じなくなり未来に期待を見出せなくなります。心がいつも不安定であり、恐怖心や不安と共に生活します。この気持ちが、「命」という存在を軽視させる心を生む、師子身中の虫であります。心が悪因に縁して、貪瞋癡の三毒や三惑が「歓喜」を失わせ、身心が煩悩に侵されているために、生きようとする本能的は気持ちを麻痺させているのです。ノイローゼや心身症などが現証となります。
 信心をしなければ、この気持ちの動揺を正しく扱うことが非常に困難であります。三毒などが体内に充満しているため、毒を変毒為薬していかなければいけません。つまり、御題目を御本尊様に唱え、楽しい事ばかりを心に思い浮かべ、「歓喜」を呼び起こさせます。「歓喜」は、心に生まれた貪瞋癡の三毒を、薬に変える大切な要素があります。三毒を「歓喜」で生まれる脳内物質に依って調合し、生命力を快復させ、更に「歓喜」を持続させていきます。それが信心では可能です。
 「命」が大切であるという、気持ちを芽生えさせ、正信を取り戻させるには、三大秘法の御本尊様に御題目を唱える以外に存在しません。
 釈尊は『如来寿量品第十六』に、
  「一心欲見佛、不自惜身命(一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず)」(法華経439)
と説かれています。私達が朝夕の勤行唱題で唱えるところです。如来寿量品を唱えることで、御本尊様から命の大切さを実感でき、正しい命の方向性を定めることが出来ます。私達の命を、仏様の仰せになる事に向けるのです。日蓮大聖人は、このことを「帰命」と御指南されています。『白米一俵御書』に、
 「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。我が身には分に随ひて妻子・眷属・所領・金銀等もてる人々もあり、また財なき人々もあり。財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず」(御書1544)
と御教示であります。日蓮大聖人は「命」が一番の宝だと仰せで、「帰命」という我が身を、仏様の意に随わせることが、最高の「命」の価値を引き出すことになります。
 正しい仏法に縁しなければ、以上の考え方は生まれません。正しい仏法に縁することが非常に難しくなっている時代です。そのような時代に、縁出来たことは、仏様から「命」の大切さを学び、人生を悲観的に生きることは止め、我が命を「不惜身命」の気持ちで、正しい仏法を弘める折伏行に役立たせて頂くことです。これが最高の「命」のあり方です。
 「命」の大切さは、日蓮正宗の寺院で学ぶことが出来ます。御本尊様に御題目を唱えることで、「命」の本当の在り方を見つめ直し、人生を有意義にさせることが出来るのです。


信心で祈りは必ず叶う

2005-11-20 | 手引書⑫

 私達の「祈り」は、善悪の基準を明確にしなければ、御本尊様から有り難い、御利益を頂くことが出来ません。
 心の迷いである貪瞋癡の三毒や三惑が中心になっている「祈り」は、絶対に叶うことがないのです。この点を信心をする私達は心得て「祈り」を御本尊様に捧げることが大切で、そこに祈りが必ず叶う筋道があります。
 日蓮大聖人は『経王殿御返事』に、
 「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。『充満其願、如清涼池』『現世安穏、後生善処』疑ひなからん。」(御書685)
と仰せであります。日蓮大聖人が御図顕された三大秘法の御本尊様に祈念すれば、何事も成就し、願うことが心を満たし、清涼池という、清々しく涼しい池のように、落ち着いた気持ちになれるということです。また、現在は安穏で、未来は善いところに生まれることが出来ます。
 法門的に「戒定慧の三学」が厳然と存在します。正しい「祈り」は、三大秘法の御本尊様の意に通じる「戒定慧の三学」を、私達は信心をもって祈らなければいけません。このところに意識を持ち、勤行唱題に邁進すれば、叶わない祈りはありません。
 時に、祈りが叶わないと言う人は、「戒定慧の三学」を信じず、邪智が拠り所になっている場合があります。「戒定慧の三学」とは、三大秘法の御本尊様のことです。御本尊様に御題目を唱えていても、邪な考えで祈っては、道理から外れ、当然祈りは叶いません。邪な考えは、気持ちから完全に払拭させなければいけません。邪智には、我慢偏執が根底にあり、貪瞋癡の三毒からの願望であります。この汚れた気持ちからの「祈り」は絶対に叶うことがないのです。
 以上のことを理解して、御本尊様に御題目を唱えて「祈り」を捧げれば、日蓮大聖人が仰せになるようになります。つまり『聖愚問答抄』に、
 「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(御書406)
と仰せのように、御本尊様に御題目を唱えれば、滅しない罪はなく、祈念しても来ない幸いはなく、真実であるから御本尊様を信受すれば、必ず祈りは叶うと重ねて御指南であります。
 更に、第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂『正境に縁すれば功徳猶多し』とはこれなり」(御書文段189)
と御指南であります。
 「祈り」は、祈る内容が大事です。「戒」という「防非止悪」のもと、善と悪を判別し、悪を止めて善を生じる「祈り」が大切です。悪に通じる「祈り」は叶わず、善に通じる「祈り」は、信心根本に祈れば叶えられるのであります。御本尊様に向かう姿勢、勤行唱題が「祈り」を叶える私達の心構えです。私達の身口意の三業にわたる、信心の姿を御本尊様が御覧になられ、正しい「祈り」であれば、「祈り」が叶えられ、有り難い功徳を頂くことが出来るのであります。


「一念に億劫の辛労を尽くせば」

2005-11-20 | 手引書⑫

 私達の信心は、「辛労」を尽くすところに、御本尊様から有り難い仏果を頂くことが出来ます。「辛労」を忘れ、怠慢な気持ちが根底にある似非信心では、当然、成仏に程遠いものがあります。
 「辛労」とは、ほねおり。苦労。辛苦。という意味があります。苦労をすることによって、幸せの実感が光り輝きます。端から見て幸せそうに見えても、本人には幸せという実感のない人には、反対に不幸であります。幸せとは、不幸という存在があって言えることであり、幸せと不幸の違いが理解できない生活には、充実感がなく空しい人生となります。
 『御義口伝』に、
 「一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書1802)
と仰せであります。「辛労」とは、具体的に私達が生きていく上で、経験する四苦八苦などの辛い苦しみのことです。「無作三身」といわれる仏様の姿は、「辛労」を経験し、信心をして御題目を唱えるところに現れてくるのです。つまり「煩悩即菩提」や「生死即涅槃」といわれる意味がそこに存在します。
 人生の辛さを経験することで、堕落する気持ちや怠慢な命を封じ、危機感を生活のなかに持つことで、無駄を省き自然と充実していきます。「辛労」を味わうことで、普段眠っていた神経が発動し、境界を高めていきます。そこに成仏の因を積む要素があります。信心は、あらゆる人生に起こる「辛労」を善知識と考え、肥やしにし精神を鍛えていきます。 
 日蓮正宗の信心は、実際に人生の「辛労」を経験する前に、日々の勤行唱題のなかで、世の中の姿を我が身に置き換え見つめていきます。そこに「転重軽受」の法門があり、人生の重荷になる前、心の準備をし、軽く人生の「辛労」を経験して、生活を安穏に送っていくことが出来ます。
 その「辛労」の経験が、私達の信心修行の自行化他を、燃え上がらせる有り難い働きを成すのです。信心をしなければ、薪として燃え上がらせることが出来ず、御本尊様を信じない人には、人生の「辛労」が非常に辛いものと感じ、終いには生きる気力を失っていきます。
 信心は、生きる希望を御本尊様から頂き、生きる気力を気持ちに作り上げます。その方法が、日蓮正宗の修行である勤行唱題です。世の中にある「辛労」によって、失い欠けた気力を充電する時が、御本尊様に向かう勤行唱題となるのです。御題目を唱えて精進するところ、人生の「辛労」を成仏に必要な仏因へと変えていきます。
 「辛労」は、人情として避けたい気持ちが当然起こります。「辛労」を全く経験しない生き方は、人間の人格形成においてマイナスです。ある程度、私達の心に必要な要素です。この「辛労」を適度に感じるところ、私達の精神を向上させていき、信心では、この気持ちを忘れることなく、日々の修行で意識することが大事です。
 「辛労」は、私達の潜在能力を引き出させる作用を成します。辛く苦しい気持ちから解放されたいという思いが、普段使うことのなかった能力を使うことになり、精神が磨かれ、日蓮大聖人の御精神へと近づいていくことが出来るのであります。


一念三千の法門は日蓮正宗だけに有る

2005-11-20 | 手引書⑫

 「一念三千の法門」は、日蓮正宗の血脈相承に依り、時の御法主上人に御教示を賜らなければ、一切聞くことが出来ません。「一念三千の法門」は、甚深の御法門であり、仏法の究極であります。「一念三千の法門」を知るところに成仏があります。 
 他宗では知ることの出来ない、貴重な教えなのであり日蓮大聖人は『三大秘法抄』に、
「問ふ、一念三千の正しき証文如何。答ふ、次に申し出だすべし。此に於て二種有り。方便品に云はく『諸法実相所謂諸法如是相乃至欲令衆生開仏知見』等云云。底下(ていげ)の凡夫理性所具(りしょうしょぐ)の一念三千か。寿量品に云はく『然我実成仏已来無量無辺』等云云。大覚世尊久遠実成(くおんじつじょう)の当初(そのかみ)証得の一念三千なり。今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり。予年来(としごろ)己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家(もんけ)の遺弟等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺(のこ)し候。一見の後は秘して他見有るべからず、口外も詮無し。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし」(御書1595)
と御指南のように、「一念三千の法門」が如何に重要であると仰せです。「一念三千の法門」とは、三大秘法の御本尊様のことであります。「一念三千の法門」は、末法時代によってはじめて顕わされ、その文証が『義浄房御書』に、
 「寿量品の法門は日蓮が身に取ってたの(頼)みあることぞかし。天台・伝教等も粗(ほぼ)しらせ給へども言に出だして宣べ給はず。竜樹・天親等も亦是くの如し。寿量品の自我偈に云はく『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘すべし秘すべし」(御書669)
と仰せの如くです。
 他宗にも「一念三千の法門」があるのではという疑問がある方には、このことを理解しておく必要があります。日蓮大聖人は『開目抄』に、
 「華厳(けごん)宗と真言宗との二宗は偸(ひそ)かに盗んで自宗の骨目とせり。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろ(拾)いい(出)ださず、但我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり」(御書526)
と御教示のように、日蓮正宗以外に、華厳宗や真言宗も「一念三千の法門」を盗み入れて自宗の根幹としています。他宗で説くところの欠点は、「一念三千の法門」は、法華経だけに説かれるということです。しかし、他宗では法華経ではなく、爾前権教を依経としており、そこには明らかに矛盾が生じます。釈尊が説かれる意義を完全に無視した形で、華厳宗や真言宗では「一念三千の法門」を取り入れています。
 天台宗や日蓮宗でも、「一念三千の法門」を主張しますが、天台の法門は、法華経の迹門が中心であり、相伝のない日蓮宗では、文上に執着し、更に本門と迹門が一致であると主張しますので、日蓮大聖人が仰せになる本当の「一念三千の法門」が理解できていません。
 故に、『開目抄』で「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」と仰せのように、「一念三千の法門」は、文の底に隠されており、隠れていることを教えて下さるのが、時の御法主上人であります。日蓮正宗だけに正しく「一念三千の法門」が今でも伝えられているのであります。三大秘法の御本尊様に御題目を唱えるところ、私達の身口意の三業に「一念三千の法門」の有り難さを感じることが出来ます。


陰徳陽報に徹する信心を

2005-11-20 | 手引書⑫

 「陰徳陽報」とは、御本尊様から頂く「冥益」の現れ方を示したものです。信心をしていても、「冥益」ではなく「顕益」を望みたくなる気持ちが生まれる場合があります。
 「陰徳陽報」の意味は、ひそかに善い事を行えば、後日に必ずよい報いを受け、かくれての徳があれば、あらわれての報いがあるということです。故に日蓮大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
 「陰徳あれば陽報あり」(御書1362・1391)
と仰せです。
 角度を変えて考えた場合、かくれた徳ではなく、かくれた「悪」であると大変なことになります。同生同名天という冥の照覧の働きにより、悪い報いを受けることがあります。「陰徳陽報」では同時に、そのことも学ばなければいけません。
 世の中には、因果の道理となる因果応報を無視した人が、多く蔓延る時代です。信心をしない人へ、信心するようにという折伏の意味も「陰徳陽報」にはあります。
 第六十七世日顕上人は「平成三年度 非教師指導会会食の砌」に、
 「大聖人様の御書に『陰徳陽報御書』というのがあり、知っている者もあるだろうが、そこに『陰徳あれば陽報あり』ということを仰せである。
 やはり人間は、『こういうことをしたら、みんなに誉められるだろう』とか『認められるだろう』とか、そのようなちっぽけな感情、こせこせとした考え方を持たないほうがよろしい。とにかく、自分の信じるところを正しくやっていく、そこに正直な気持ちがあるわけであります」
と仰せです。ここで「こういうことをしたら、みんなに誉められるだろう」とか「認められるだろう」という気持ちが、慢心へと豹変することです。信心の難信難解な部分は、この慢心や我慢を如何に扱うかというところにあり、仏様へ通じる境界が隠されています。
 「陰徳陽報」を忘れた命には、魔の働きが師子身中の虫を送り込み、正信を失わせ、悪道へ導かせようと窺うところであります。勤行唱題で、決して見落としてはならない部分です。非常に持ち難い理由に「陰徳陽報」を忘れ、名聞名利に心が揺さぶられるところにあり、名聞名利を得たときの気分に酔いしれ、また味わいたいという、貪瞋癡の三毒である貪欲に心が蝕まれた結果です。
 貪瞋癡の三毒が「陰徳陽報」を破壊する原因を持ちます。つまり、貪瞋癡の三毒の働きを常に察し、適切な信心に於ける処理を施せば、問題はなく御本尊様から頂く有り難い「陰徳陽報」を得ることが出来るのです。
 「陰徳陽報」の繰り返しで、人間関係に於ける人脈のなかに信頼関係を築き、異体同心を信心のもと不動の姿に変えられるのであります。僧俗和合して、支部講中を維持していくには、「陰徳陽報」を忘れてはいけないのであります。ここに「我此土安穏」や「常寂光土」が現実のものになります。


寺院参詣の心得

2005-11-20 | 手引書⑫

 寺院に参詣する心得として、三大秘法の御本尊様にお詣りするという気持ちが大事です。この気持ちがなく、但お墓詣りや納骨堂に来たついでということであったり、お寺の近くに用事があったついでということは、非常に御本尊様に対し失礼であり、信心に対する考え方を改める必要があります。
 寺院参詣の心得について日蓮大聖人は『三沢抄』に、
 「うつぶさ(内房)の御事は御としよ(年寄)らせ給ひて御わたりありし、いた(痛)わしくをも(思)ひまいらせ候ひしかども、うぢがみ(氏神)へまい(参)りてあるつ(次)いでと候ひしかば、げざん(見参)に入るならば定めてつみ(罪)ふかヽるべし。其の故は神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君へのげざん(見参)は世間にもをそれ候。其の上(うえ)尼の御身(おんみ)になり給ひてはまづ仏をさきとすべし。かたがたの御とが(失)ありしかば、げざん(見参)せず候。此又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人々も、しもべ(下部)のゆのついでと申す者を、あまたをひかへ(追返)して候。尼ごぜんはをや(親)のごとくの御としなり。御なげきいたわしく候ひしかども、此の義をし(知)らせまいらせんためなり」(御書1204)
と仰せであります。
 『三沢抄』の意味を申しますと「内房の尼御前のことは高齢であるのに身延の地まで来られ、気の毒に思われたけれども氏神に参詣したついでということだったので、私が尼御前に会うならばきっと罪を深くしてしまうであろう。その訳は神は所従(臣下)であり、法華経は主君である。所従に会うついでに主君に会うのは世間でも恐れ多いことである。その上、尼の身となられたからには、まず仏を先とすべきである。いろいろなあやまちがあったので会わなかったのである。これはまた尼一人に限ったことではない。そのほかの人々も下部温泉のついでにというので、それらの者も数多く追い返した。尼御前は親のように高齢であり、歎いていることを気の毒に思ったけれども、この義を知らせる為に会わなかったのである。」ということになります。弟子に摧尊入卑を厳しく誡められ、本来あるべき仏法の筋目を御指南遊ばされているところです。
 日蓮大聖人が、何故厳しく仰せになるのか考えてみますと、そこには末法万年といわれる尽未来際まで、正しい仏法を伝えなければいけないという御本仏としての思いからであります。少しの気持ちのズレが、将来において大きな違いが生まれ、広宣流布の道を閉ざすことになるからです。また令法久住のために、日蓮大聖人は、謗法厳戒・破邪顕正という意義から御教示されたのであります。
 総本山大石寺へ登山する際も、周辺の観光のついでにということで、登山することはいけないのであります。本門戒壇の大御本尊様から流れ通う綺麗な功徳を頂くことは出来ません。
 登山の意義を十分に理解していくことが大事です。そこに清々しい気持ちを大御本尊様から頂き、六根清浄の功徳を感じることが出来ます。


憶持不忘の人は希である

2005-11-20 | 手引書⑫

 日蓮大聖人は「憶持不忘」について『四条金吾殿御返事』に、
 「法華経の文に『難信難解(なんしんなんげ)』と説き玉ふは是なり。此の経をき(聞)ヽう(受)くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども『憶持不忘(おくじふもう)』の人は希(まれ)なるなり。受くるはやす(易)く、持つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値(あ)ふべしと心得て持つなり」(御書775)
と仰せであります。
 「憶持不忘」とは、如何なる時も三大秘法の御本尊様や下種三宝尊を心に銘記して忘れないこと、正法受持の義を心に銘記し、如何なる難にもたじろがない信心の姿勢をいいます。
 「憶持不忘」の原点は、釈尊が説かれる『法華経』の「結経」である「仏説観普賢菩薩行法経」に、
  「聞普賢説深法。解其義趣。憶持不忘(普賢の深法を説くことを聞いて、其の義趣を解し、憶持して忘れじ)」(法華経619)
と説かれています。
 「憶持不忘」を毎日の生活に心がけることで、快適な生活を送ることが出来ます。つい仕事や家事の忙しさに心が奪われて、大事なことを忘れてしまうことがあります。信心では勤行唱題において、仕事や生活のなかで忘れてはいけないことを、心の中にしっかりと明記すれば、忘れないでいくことができます。毎日勤行唱題を欠かさないところに、忘れかけていた大事なことが、ある時に思い出すことがあります。これが正しく御本尊様の有り難い加護であり、諸天善神の働きがあることを物語ります。これが「冥益」ということになります。
 「憶持不忘」は、人間関係の絆を深め、信心に於ける異体同心に大切な事であります。「憶持不忘」は、世間に蔓延する謗法の悪縁によって紛動されます。信心では、謗法に通じる悪縁に目を光らせ、「防非止悪」を心得、「憶持不忘」を持続させていきます。
 人との繋がりとなる信頼関係も「憶持不忘」が必要です。仕事に於ける約束事や契約を交わす時にも、日蓮大聖人が仰せになる「憶持不忘」という教訓が関係してきます。「憶持不忘」という心がけが失われれば、お互いの関係に気まずさを生み、終いには信頼関係を損ねることになります。
 人生には、忘れてはいけない事と、忘れなければいけない事があります。「憶持不忘」は、決して忘れてはいけない事になります。その反対に、忘れなければいけない事とは、トラウマ的存在となる、生きる希望を失わせる心的作用を忘れることが大事です。忘れるという、私達に本能的に具わる働きを、迷いや悩みを心の中からなくすために活用することで、忘れるという心の働きを正しく活かし、人生を有意義にすることが出来るのです。
 信心で「憶持不忘」と「忘れる」という利用方法を、御本尊様から智慧を頂き私生活に繁栄させることで「我此土安穏」が現実のものになるのであります。