正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書④)

2005-11-21 | 手引書④

45.他宗他門を批判する理由は慈悲行から

46.信心は「発心」が大切です

47.一切衆生 悉有仏性

48.三類の強敵に屈しない信心を

49.御題目の南無妙法蓮華経について

50.横難横死は正法誹謗の罪障

51.生活を煩わす「煩悩」

52.六道輪廻の生活とは

53.寿量品の「毒気深入 失本心故」とは

54.「水の信心」と「火の信心」

55.「我此土安穏」な境界とは

56.心の悪を止める「防非止悪」とは

57.謗法の果報「悪鬼入其身」とは

58.現代は五濁悪世の末法時代

59.私達が積んだ功徳を「回向」するには


他宗他門を批判する理由は慈悲行

2005-11-21 | 手引書④

 日蓮正宗が他宗他門を批判する理由は、間違った教えに依って不幸になり地獄に堕ちるからであります。そのため、折伏という修行が日蓮正宗にあります。 
 これは単なる批判ではなく、仏様の教えに随った「慈悲行」です。他宗他門で主張する教え・教義は一見最もらしい理屈を言っておりますが、長い目で、特に仏様の立場から御覧になられた場合、非常に矛盾した結果があります。
 また、釈尊が説かれている教えと違背しているのが現実です。違背していることを気づかせ、本来の仏法に目覚めて頂くために「慈悲」を持って批判するのであります。間違っていることを見過ごす方が無慈悲です。
 日蓮大聖人は『唱法華題目抄』に、
 「仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとゞまれりとおぼしめせ。諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠(こんけつ)等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕はさずとおぼしめせ。法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍(はべ)り。而るを当世の学者、法華経をば一切経に勝れたりと讃(ほ)めて、而も末代の機に叶はずと申すを皆信ずる事豈(あに)謗法の人に侍らずや。只一口におぼしめし切(き)らせ給ひ候へ。所詮法華経の文字を破りさきなんどせんには法華経の心やぶるべからず。又世間の悪業に対して云ひうとむるとも、人々用ゆべからず」(御書226)
と御指南であります。法華経にのみ人々を本当に救う教えが説かれ、法華経を蔑ろにしている仏教各派は当然不幸の根源であります。
 仏法にあまり詳しくない人が仏教を「我田引水(がでんいんすい)」で考えますと、仏教徒同志で何故批判しあうのか疑問が生まれるでしょうが、仏法を真剣に考え学び、本当の仏教を信じていくと批判せずにはいられない問題にぶつかります。批判して折伏をしなければ私達の成仏が危ういのであります。
 『観心本尊抄』に、
 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(御書662)
と仰せであります。他宗他門を批判する折伏は、仏様の慈悲に適った行であり、本当に成仏できる教えを施し、真の仏法を知らない末代の人々に御題目を唱えるよう教え、成仏の種を施す「下種」であります。
 末代である末法時代は、釈尊の文上脱益仏法では成仏できず、文底下種仏法でなければ成仏できません。この違いを理解して貰うため、他宗他門を批判して理解を求め、改宗するように折伏するのです。
 「慈悲」とは、仏・菩薩が衆生をあわれみ、いつくしむ心。衆生に楽を与えること(与楽)を慈、苦を除くこと(抜苦)を悲といいます。いつくしみあわれむ心。なさけという意味があります。つまり「慈悲」とは「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。日蓮正宗の他宗他門への批判は、単なる批判だけに終止しているのではありません。相手の幸せを心から願うからこそ行う慈悲行であります。
 今の時代は、間違った仏教を一掃させ正しい仏法を示す時です。仏法は時代により、修行の内容が違うことを理解する必要があります。


信心は「発心」が大切です

2005-11-21 | 手引書④

 「発心」とは、菩提心を起すこと。また一般に、あることをしようと思い立つこと。発意。発起という意味があります。信心は自らの「発心」が無ければ実りませんし、当然成仏もできません。
 「発心」は信心以外にも、世の中のあらゆることに必要な心構えです。発心を忘れて、何かを成し遂げようという横着な人が世の中には見受けられます。発心が有るか無いかで人生も大きく変わってきます。心を発す「発心」は人間生きていく上で大事なことです。この「発心」も善悪を十分心得た上で、心を発さなければ人生を天国と地獄に分けます。善知識と悪知識を理解した上で発心し、気持ちをそのことに集中させることで大成します。
 『一代聖教大意』に、
 「五戒・八戒・乃至三聚浄戒(さんじゅじょうかい)の上に六度・四弘の菩提心を発(お)こすは菩薩なり。仏界の引業なり。蔵通二教には仏性の沙汰無し、但し菩薩の発心を仏性と云ふ」(御書95)
と御教示であります。自ら心を発すことで、仏様の命である仏性が御本尊様の力用により涌現されます。信心でいうところの「発心」は、心を発すことで同時に仏様の命が蘇ります。その信心に則った「発心」を生活のあらゆる場面で活用するところに、経文に説かれる「我此土安穏」があります。
 「我此土安穏」とは『御義口伝』に、
 「我此土安穏(がしどあんのん)とは国土世間なり。衆生所遊楽とは衆生世間なり。宝樹多華菓とは五陰世間(ごおんせけん)なり」(御書1770)
と御教示であります。発心し御本尊様を受持して御題目を唱えれば、住んでいる私達の国土世間が「安穏」になります。つまり仏様が安住する常寂光土に変わります。
 第二十六世日寛上人は「六巻抄」の『文底秘沈抄』に、
「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず。妙楽大師の謂えること有り『仮使発心真実ならざる者も正境に縁ずれば功徳猶多し、若し正境に非ざれば縦い妄偽なけれども亦種と成らず』等云々。故に須く本尊を簡んで以て信行を励むべし。若し諸宗諸門の本尊は処々の文に散在せり、並びに是れ熟脱の本尊にして末法下種の本尊に非ず。」(六巻抄42)
と御本尊様について御指南されています。更に「発心」にも触れられ、「仮使発心真実ならざる者も正境に縁ずれば功徳猶多し」と中国の妙楽大師の言葉を引用され、はじめは発心が真実でなくても正境である御本尊様に縁すれば、功徳を頂いて発心が本物に変わり成仏していくと仰せです。
 日蓮正宗の御本尊様は、末法下種の御本尊様で、今の時代に相応しい御本尊様です。この御本尊様に縁し御題目を唱えることで、志したことがあらゆる障魔を乗り越えて成功していきます。何事に於いても「発心」という心を発すことが大事です。信心をし御本尊様を受持するところ「発心」が本物になります。


一切衆生 悉有仏性

2005-11-21 | 手引書④

 「一切衆生 悉有仏性」は涅槃経に説かれる文証です。一切衆生に悉く仏性有りと読みます。一切衆生は本来、仏性を具えているという意味です。信心をすれば、心の中に眠っていた「仏性」、仏様の命が蘇ります。
 「仏性」とは、仏の性分で仏果を得るための因として一切衆生にそなわっている種子のことです。仏性は、信心から離れ、御本尊様から遠ざかると心の奥深く、唯識で説く九識に隠れてしまいます。隠れた仏性は、勤行唱題によって蘇ります。世の中の多くの人は、発心しないために仏性は眠っています。そのために迷い悩みを繰り返しています。信心は迷い悩みといった心の悪循環を、仏性を蘇らせて循環よくさせます。仏性が心の悪循環をスムーズにし楽しい人生を送る性分になります。この仏性が常に持続されていれば、迷いや悩みが現れても人生が暗くなることはありません。
 日蓮大聖人は『聖愚問答抄』に、
 「所有(あらゆる)一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくるなり。されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時、我が身の法性の法報応(ほっぽうおう)の三身ともにひかれて顕はれ出づる、是を成仏とは申すなり」(御書406)
と仰せであり、御題目の南無妙法蓮華経を唱えることが仏性を呼ぶ方法であります。仏性が出るようにとあまり意識せず、自然体で心を落ち着かせて御題目を唱えることが大切です。
 『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
 「然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して、値ひ難き善知識の縁に値ひて五仏性を顕はさんこと、何の滞(とどこお)りか有らんや」(御書1426)
と御教示であります。仏性には「五仏性」と説かれるように、五つの仏性があります。仏になる五つの因果の性です。正因仏性・了因仏性・縁因仏性という三因仏性に、果性・果果性を加えて「五仏性」とします。
 正因仏性(しょういんぶっしょう)が、全ての事物・事象が本来具えている仏性。
 了因仏性(りょういんぶっしょう)が、本有の仏性を照らしあらわす智慧。
 縁因仏性(えんいんぶっしょう)が、智慧を起こす縁となる行法。
 果性(かしょう)が、菩提の果。
 果果性(かかしょう)が、涅槃の果。菩提の智をもって涅槃を証する故に果の果といいます。
 以上の仏性は、朝夕の勤行唱題と寺院参詣、総本山への登山によって心に隠れた仏性を確実に蘇らせ実らせます。更に折伏で周囲の人の隠れた仏性を、御授戒を受けることで蘇らせる一歩を踏むことが出来ます。
 「一切衆生」とは、人間だけではなく有情と非情にわたって仏性が存在するのであります。一切衆生に仏性が隠れていますから、決して外見で人を判断するのではなく、仏性があることを尊び人間付き合いをしていきましょうという教訓が「一切衆生 悉有仏性」であります。
 故に不軽菩薩の一切衆生を尊ぶ布教精神に繋がります。日蓮正宗の折伏は、相手を見下すのではなく「一切衆生 悉有仏性」を心得、一切衆生の恩や仏性があることを敬いつつ正法への帰伏を促していきます。


三類の強敵に屈しない信心を

2005-11-21 | 手引書④

 世の中には、日蓮正宗の信心に理解をもたない人達が多くいます。信心に理解をもたない人が「三類の強敵」です。特に理解を示さないかわりに、信心することを邪魔する人達です。「三類の強敵」は私達の成仏における大事な修行材料になり、身心を鍛え磨く要素を秘めた有り難い存在です。
 「三類の強敵」とは俗衆増上慢(ぞくしゅぞうじょうまん)・道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)・僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)であります。 日蓮大聖人は『開目抄』に、
 「勧持品に云はく『唯願はくは慮(うらおも)ひしたまふべからず。仏滅度の後、恐怖(くふ)悪世の中に於て、我等当に広く説くべし。諸の無智の人の、悪口罵詈(あっくめり)等し、及び刀杖を加ふるもの有らん、我等皆当に忍ぶべし。悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲(てんごく)に、未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)ひ、我慢の心充満せん。或は阿練若(あれんにゃ)に、納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って、自ら真の道を行ずと謂ひて、人間を軽賤(きょうせん)する者有らん。」(御書563)
と法華経の『勧持品第十三』を引かれ、「三類の強敵」について仰せであります。釈尊滅後、法華経の行者を種々の形で迫害する三種類の敵人です。名前自体は妙楽大師が法華文句記に定義されました。
 俗衆増上慢とは、法華経の行者に悪口を言い罵り、刀杖を加えたりする仏法に無知な在俗の人々のことです。具体的には、家族や親戚の中で信心していない人などから、日蓮正宗の信心について悪口罵詈する人のことです。
 道門増上慢とは、慢心で邪智に富んだ僧侶です。これは日蓮正宗以外全ての僧侶を意味します。世間一般の人と違い、様々な知識をより所に邪智をふるって信心の妨害をしてきます。
 僣聖増上慢とは、聖者のように装い社会的に尊敬を受けている者で、内面では利欲に執着し悪心を懐いて、法華経の行者を怨嫉し、権力を利用し迫害を加える敵人です。
 これら「三類の強敵」は因縁で障害となって現れます。「三類の強敵」には同情せず、日蓮正宗の信心を一生貫いていくことが成仏に結びつきます。
 「三類の強敵」に対する心得としては、信心を忘れ自分を見失い感情的になって、相手の挑発的な行為に乗らないことが大事です。毅然とした態度で、日蓮大聖人の弟子であることを自覚し振る舞っていくことです。その姿勢が折伏に直ちにつながり逆縁を結びます。そして冷静さを持ち落ち着いて行動をとることです。その振る舞いが相手の動揺を誘います。相手はおそらく三毒強盛な命を露わにするでしょう。その姿を「悪鬼入其身」といいます。
 「三類の強敵」が悪口罵詈(あっくめり)してくるときの生命状態は、気持ちが高ぶり冷静さを失い感情的になっています。この点を冷静にとらえ、言わせるだけ言わせて、冷めた目で慈悲をもって対応することです。そこに地涌の菩薩として御本尊様から頂く振る舞いが自然と出来ていきます。心の中で御題目を唱え勝機を伺うことです。その姿勢に相手は動揺するはずです。つまり動執生疑に繋がります。
 「三類の強敵」に屈しない強盛な信心は寺院参詣によって培われます。


御題目の南無妙法蓮華経について

2005-11-21 | 手引書④

 『御講聞書』に、
 「今末法に入りて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る。日蓮世間に出世すと云へども、三十二歳までは此の題目を唱へ出ださゞるは仏法不現前なり。此の妙法蓮華経を弘めて終には本法の内証に引き入るゝなり」(御書1844)
と仰せであり、御題目の「南無妙法蓮華経」は宗祖日蓮大聖人によって、はじめて唱えられました。この御題目はインドの釈尊から、日蓮大聖人が上行菩薩として相承された秘法であります。それが「上行所伝の本法の南無妙法蓮華経」です。『御講聞書』に、
  「薬とは是好良薬(ぜこうろうやく)の南無妙法蓮華経なり」(御書1837)
と仰せのように、末法という今の時代に、人々の心の病を治す良薬です。様々な苦悩を取り除き、安楽をもたらすのであります。
 「南無妙法蓮華経」について『御義口伝』に、
 「南無とは梵語(ぼんご)なり、此(ここ)には帰命と云ふ。帰命に人法之(これ)有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉るなり。又云はく、帰とは迹門不変真如の理に帰するなり、命とは本門随縁(ずいえん)真如の智に帰するなり。帰命とは南無妙法蓮華経是なり。釈して云はく、随縁と不変と一念の寂照(じゃくしょう)なり。又云はく、帰とは我等が色法なり、命とは我等が心法なり。色心不二なるを一極(ごく)と云ふなり。釈籤(しゃくせん)に云はく『一極に帰せしむ、故に仏乗と云ふ』と。又云はく、南無妙法蓮華経の南無とは梵語、妙法蓮華経は漢語なり。梵漢共時(ぼんかんぐじ)に南無妙法蓮華経と云ふなり。又云はく、梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧(さだるまふんだりかそたらん)と云ひ、此には妙法蓮華経と云ふなり。薩(さ)とは妙なり、達磨とは法なり、芬陀梨伽とは蓮華なり、蘇多覧とは経なり。九字は九尊の仏体なり。九界即仏界の表示なり。妙とは法性なり、法とは無明なり。無明法性一体なるを妙法と云ふなり。蓮華とは因果の二法なり。是(これ)又因果一体なり。経とは一切衆生の言語音声を経と云ふなり」(御書1719)
と御教示であります。南無とは帰命を意味し、「南無妙法蓮華経」を梵語では「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧(さだるまふんだりかそたらん)」といいます。
 御題目は世間でも広く知られ、日蓮宗各派や新興宗教あたりも唱えていますが、「南無妙法蓮華経」の正しい意味が現在まで伝えられているのは日蓮正宗だけです。それが先の『御講聞書』の「此の妙法蓮華経を弘めて終には本法の内証に引き入るゝなり」という甚深の御指南です。他宗他門では御題目を唱えていても「本法の内証に引き入るゝ」という謂われを一切知りません。
 この「本法の内証」ということが、日蓮正宗に於いて血脈相承という姿で正しく伝えられています。この「本法の内証」である本門戒壇の大御本尊様と御法主上人猊下の御指南に随従していかなければ「引き入るゝ」ことはありません。世間ではこのことを無視して御題目を唱えているのが日蓮宗各派と新興宗教であり、その中でも創価学会が「本法の内証」を全く理解していません。
 一見同じような御題目の「南無妙法蓮華経」でありますが、深い深い意味があります。更に深い意味は、日蓮正宗管長であられる時の御法主上人猊下の御指南を拝聴させて頂くことであります。また日蓮正宗の寺院でも永代経や御講で御住職様が御法話をして下さいます。


横難横死は正法誹謗の罪障

2005-11-21 | 手引書④

 「横難横死」は「横難」が邪に襲ってくる突然に思いがけないところからの難であり、「横死」が不慮の非業の死であります。この「横難横死」は世間の一般論では理解しにくい、「正法誹謗」という仏様が説かれる御指南によって理解できます。私達の記憶にない過去世における、仏様が説かれた正しい教えに対し非難中傷し、更にその教えを信じる人に対して迫害を加えた人が受ける難が「横難横死」です。
 納得しがたい方もいると思いますが、世の中で起こっているあらゆる事件や事故は過去世の記憶にない「正法誹謗」が原因です。また現世に於いて日蓮正宗を信心する人に誹謗中傷し迫害を加えれば「横難横死」の現証を目の当たりにすることがあります。しかし日蓮大聖人は『開目抄』に、
 「順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。一闡提人これなり」(御書571)
と御指南の如く、現世に於いて重罪である「正法誹謗」の罪をつくっても、現証は全く出ずに来世生まれてきた時に現証が「横難横死」という姿で現れると仰せであります。その地獄というのが「横難横死」です。  
 日蓮大聖人は『四条金吾釈迦仏供養事』に、
 「経文に不知恩の者は横死有(あ)りと見えぬ。孝養の者は又横死有るべからず」(御書995)
と御教示のように、真実の仏様に恩を報じず誹謗中傷し、真実の仏様が説かれる教えを信じ行ずる人を誹謗中傷すれば「横死」に遭うことを仰せです。この罪を素直に改め日蓮正宗の信心を行っていけば転重軽受の御利益によって、「正法誹謗」の罪障は軽くなります。日蓮正宗を誹謗中傷する人は、改心し「正法誹謗」の罪を懺悔すべきです。現世に於いて罪を改めれば安心できますが、罪を改めずに今生を終わってしまえば、先の『開目抄』に説かれるような罪障である「横難横死」を身心に抱えることになります。
 「横難横死」の境涯は、三悪道といわれる地獄・餓鬼・畜生の生命になることであり、人間に生まれてきても六道輪廻を繰り返し、更に人間界と天上界の命にはなりにくく、常に息苦しい生活を送ることになります。この苦しさは経験した人にしか理解できない地獄の苦しみがあります。楽しい出来事が起きても、心の奥に染み付いた地獄の経験が全てをうち消します。歓喜が涌かず、周りの人が楽しい気分でも理解できなくなります。終いにはうつ病やノイローゼになり精神異常や精神分裂症などを引き起こし、「頭破作七分」という現証を経験します。「頭破作七分」になると「悪鬼入其身」という餓鬼界の命・悪鬼が心の中に於いて活発化し、「正法誹謗」の現証があからさまになります。
 つまり「横難横死」はこのような生命状態によって、正しい判断が狂ってしまった結果から生まれます。判断が狂うと難を引き起こす確立が高くなり、死に直面する縁が多くなります。いち早く正信に目覚められ日蓮正宗の信心をされることを念願いたします。
 『兄弟抄』に曰わく、
 「文の心は、我等過去に正法を行じける者にあだ(仇)をなしてありけるが、今かへりて信受すれば過去に人を障(ささ)へつる罪によて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳強盛なれば、未来の大苦をまね(招)きこ(越)して少苦に値ふなり。この経文に過去の誹謗によりてやうやう(様様)の果報をう(受)くるなかに、或は貧家に生まれ、或は邪見の家に生まれ、或は王難に値ふ等云云。この中に邪見の家と申すは誹謗正法の父母の家なり。王難等と申すは悪王に生まれあうなり。此の二つの大難は各々の身に当たりてをぼへつべし。過去の謗法の罪の滅せんとて邪見の父母にせ(責)められさせ給ふ」(御書981)


生活を煩わす「煩悩」

2005-11-21 | 手引書④

 「煩悩」とは、私達の身心に一生涯付きまとう煩わしいものであり、生活の中で共に付き合っているわけです。私達の心を思い煩わせ悩ませる存在が「煩悩」です。御本尊様に御題目を唱えれば、「煩悩」が薪となって私達の生活を明るく照らします。『御義口伝』に、
 「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは生死の闇を晴らして涅槃の智火明了(みょうりょう)なり。生死即涅槃と開覚するを「照は則ち闇(やみ)生ぜず」と云ふなり。煩悩の薪(たきぎ)を焼いて菩提の慧火(えか)現前(げんぜん)するなり。煩悩即菩提と開覚するを『焼は則ち物生ぜす』とは云ふなり。爰を以て之を案ずるに、陳如(じんにょ)は我等法華経の行者の煩悩即菩提・生死即涅槃を顕はしたり云云」(御書1721)
と仰せの如く、煩悩の扱い方次第で悟りが開かれるのであります。
 「煩悩」という意味は、衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念。貪・瞋・癡・慢・疑・見を根本としますが、その種類は多く、「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれています。「八万四千の聖教」という言葉がありますが、釈尊が説かれた経典の全てであり、一つ一つの煩悩について全て解決方法を説かれたものです。その究極の教えが「南無妙法蓮華経」であります。
 「煩悩」に身心が害されると、気持ちが平常心を失い、冷静さがなくなり、落ち着きもなくなります。ある縁によって「煩悩」は生まれます。またその縁と自分自身が持ち合わせている、考えや思想によって「煩悩」は生まれます。故に性格的な「好き嫌い」などの感情に大きな原因があります。この感情を完全に無くせば問題はありませんが、実際問題そう言うわけにはまいりません。
 世の中の人は、この「煩悩」の扱い方に迷い振り回されていると言っても過言ではありません。日蓮正宗の信心は「煩悩」をよりよい方向に、生活が快適になるよう取り扱っていくものです。人間が苦しむ原因は「煩悩」があるからです。「煩悩」は残念ながら完全に無くすことが出来ません。「煩悩」を完全になくしてしまえば、この身を殺し死ななければなりません。これでは小乗教の灰身滅智になってしまいます。大乗教である法華経の考えは、完全に滅するのではなく、正しい「煩悩」の取り扱い方法が説かれているわけです。
 世の中には使い方一つで良くも悪くもなる事柄が多くあります。「煩悩」もこの理屈と同じように、悪く考えるから「煩悩」として存在するのであり、良い方向性に考えを向けることで「煩悩」という存在が「菩提」に変わってしまうのであります。それが日蓮大聖人が説かれる教え「煩悩即菩提」という考え方です。
 「煩悩」をよく火に譬えられますが、火も扱い方次第で生活を快適にしますし、一歩間違えると、火事を引き起こし生活を全て失う可能性を持っています。「煩悩」もこの理屈と同じです。
 御本尊様に向かって御題目を唱えるところに「煩悩」の正しい扱いと生活を快適にする方法が見出せるのであります。勤行唱題は、「煩悩」という心に燃え盛る火を、御本尊様から智慧を頂いて大事に至らないよう解決させて頂き、「煩悩」をもって生活を楽しくし幸せにします。


六道輪廻の生活とは

2005-11-21 | 手引書④

 「六道輪廻」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道といい、輪廻とは輪のように廻りめぐることです。つまり、六道をグルグル廻る生活です。
 日蓮正宗の信心は、「六道輪廻」の生活から逃れることが出来ます。更に上の四聖といわれる、声聞・縁覚・菩薩・仏の境界を目指す教えです。
 『御講聞書』に、
 「されば我等衆生五百塵点の下種の珠を失ひて、五道六道に輪廻(りんね)し貧人となる」(御書1845)
と仰せの如く、多くの人々が「下種の珠」である御題目の南無妙法蓮華経を忘れ失っているために、「六道輪廻」を繰り返し貧しい人になっていることを御指南です。具体的に「六道輪廻」の生活とは、日蓮正宗の信心を忘れた生活であることはいうまでもありません。つまり、生活に安定感がなく、いつも不安を持ち、その不安は時として楽しいことで一時的に紛らわされても、また因縁によって心に不安を抱える生活のことです。これが「六道輪廻」の生活です。
 更に、いつもはふつうの人間的生活を隣近所には外見上見せていても、環境が変わる家庭では修羅であったり、また地獄だったり、畜生であったり、餓鬼であったり、楽しい天界の生活であったりします。これが「六道輪廻」の姿です。世間でも時々話題になりますが、幸せそうな家庭が「何故」という出来事が時として起こります。これが正しく「六道輪廻」を現証として世の中に知らしめた動かぬ証拠です。信心をしなければ、天界のような楽しい生活も地獄に突き落とされた生活になる可能性を常に持っています。
 世間の人はこの「六道輪廻」の法則を全く知りませんので不思議がりますが、私達は日蓮大聖人の有り難い教えを学ばせて頂くことで、皆無な出来事も理解させて頂くことが出来ます。日蓮正宗では生活を快適にする教えが説かれています。
 『色心二法抄』に、
 「此の生死、六道・四生・二十五有(う)に廻(めぐ)りて輪廻(りんね)今に絶えず。然るに仏は此の生死を離るゝを以て仏と云ふ。此の生死に遷(うつ)り迷ふを以て凡夫と云ふなり。此の生死を能く能く意得べきなり」(御書23)
と仰せであります。仏様は「六道輪廻」の生活から脱しており、迷える凡夫は「六道輪廻」の生死を彷徨いながら堂々巡りをするのであります。
 時として信心をしていて「六道輪廻」を体験する方がいます。信心する已前の宿業、謗法の罪障でありますが、これを信心して善知識と考えた場合、「願兼於業」と考えるべきです。迷える末法の人々を救うため、有り難い経験をさせて頂いていると自覚することです。まず難しいことでありますが、そこに折伏成就の要因が秘められています。「何故、こんな不幸にならなければいけないのか」と悩まれる方は、自己中心的で現世的・世俗的な御利益主義を完全に気持ちから払拭させ、地涌の眷属たる自覚を持つべきです。そこにまた信心における「六道輪廻」を逃れる道が隠されています。故に成仏の直道がそこにあります。
 「六道輪廻」の迷いから逃れるには、寺院に参詣し唱題会に参加することです。御本尊様に唱題することで、「六道輪廻」の輪の隙間に出来た穴を見つけ出し、仏界へ通じる道が切り開かれるのであります。


寿量品の「毒気深入 失本心故」とは

2005-11-21 | 手引書④

 『御義口伝』に、
 「毒気深入(どっけじんにゅう)とは権教謗法の執情(しゅうじょう)深く入りたる者なり。之に依って法華の大良薬を信受せざるなり。服せしむと雖も吐(は)き出だすは、而謂不美(にいふみ)とてむま(美味)からずと云ふ者なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は而謂不美の者に非ざるなり」(御書1768)
と仰せであります。「毒気深入 失本心故」とは、毒気という謗法の命が心の深くには入り込み、信心に目覚める気持ちを失った状態を言います。
 折伏では、毒気を取り除く作業が必要です。信心の話をして、一見納得したような態度を見せても、心に染み付いた過去からの謗法の思想に染められ、信心に大切な発心が育たない場合があります。また周りに縁する人によって発心が育たない場合があります。折伏における一つの壁です。
 この壁よって私達の信心を、御本尊様から強盛にさせて頂くことが出来ます。壁にぶつかったときの判断が未来を左右します。他に迷いや悩みがなく「毒気深入 失本心故」した人を折伏することだけに悩めることは、非常に幸せなことであります。見方を変えた場合、他の生活における悩みは自然と御本尊様から護られている証拠です。この折伏に悩めることが「現世安穏 後生善処」です。折伏の悩みがもてることで、生活が安定していることを理解しましょう。
 『御講聞書』に、
 「本心と云ふは法華経の信心の事なり。失と申すは謗法の人にすかされて、法華経を捨つる心出来するを云ふなり。されば天台大師云はく『若し悪友に値(あ)へば則(すなわ)ち本心を失う』云云。此の釈に悪友とは法謗の人の事なり。本心とは法華経なり。法華経を本心と云ふ意は、諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり。而るに此の本心を引きかへて、迷妄の法に著するが故に本心を失ふなり。(中 略)失とは無明の酒に酔ひたる事なり。仍(よ)って本心を失ふと云ふなり。此のえ(酔)いをさますとは権教を捨てしむるを云ふなり云云」(御書1857)
と御指南のように「本心を失う」ことについて仰せです。折伏の他に、家庭訪問における教化育成や法統相続には、本心を失った人を育てるのに思い悩まされることでしょう。これが三惑の塵沙惑になり、信心する上での惑いです。 
 世間の謗法の思想に酔いしれ、本心を失った人の気持ちを十分理解していくことが大事です。相手を知らずして教化育成は成就しません。家庭訪問を地道に繰り返すなか、動執生疑を誘発させる機会を窺い、更なる発心をうながすことです。「毒気深入 失本心故」した人には、地道な家庭訪問しかありません。家庭訪問の中でいつもの雰囲気と違うものを感じ、「四苦八苦」の苦しみを取り除くことで「毒気深入 失本心故」した命に信心を目覚めさせる気運があります。
 「毒気深入 失本心故」した人と生活を共にしていく時は、謗法の考えに汚染される可能性があります。日々勤行唱題を怠らず精進するところに汚染されない気持ちが出来上がります。