正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(十界論私考集)

2005-11-19 | 十界論私考集

『地獄界』地獄界は外界と己心にある

『餓鬼界』餓鬼界は貪る気持ちから起こる

『畜生界』愚癡多き人は命が畜生界である

『修羅界』修羅界は争いを好み諂い曲がった命

『人間界』人間界に生を受けるは希である

『天上界』天界の喜びは一時的である

『声聞界』仏の声を聞いて悟る声聞

『縁覚界』縁に触れて悟りを得る境界「縁覚」

『菩薩界』衆生救済を根本とする菩薩

『仏界』信心で必ず幸福の境界「仏界」を得る


地獄界は外界と己心にある

2005-11-19 | 十界論私考集

 私達の生命の中にも「地獄界」が存在します。宗祖日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
  「瞋るは地獄」(御書647)
と仰せです。私達が縁に触れて、瞋りを感じる時、生命が地獄界になります。更に、この瞋りを感じることによって、様々な結果をもたらします。瞋った勢いにより他人を傷つける場合があります。瞋りを感じたことで周囲に迷惑をかけ、地獄のような生活を強いられます。
 地獄界は、生活環境と私達の心の中と二つ存在します。しかし、生活環境が地獄界であっても、生命が地獄界でない場合や、生命が地獄界でなくても生活環境が地獄界という姿もあります。これは、日蓮大聖人が説かれる一念三千の法門という「十界互具」を知ることで理解できます。
 大聖人の御書に地獄界の様子を知ることが出来ます。特に『顕謗法抄』には、八大地獄が説かれ、地獄界の様子が拝せられます。『顕謗法抄』に、
  「第一に八大地獄(はちだいじごく)の因果を明かし、第二に無間(むけん)地獄の因果の軽重を明かし」(御書274)
と御教示のように示されています。
 「八大地獄」とは、等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・大阿鼻地獄(無間地獄)です。等活地獄が一番苦しみが軽い地獄で、一番苦しい地獄が大阿鼻地獄である無間地獄です。
 八大地獄とは八熱地獄であり、熱気・火炎などで責められる八種の地獄です。長阿含経等に説かれています。地下千由旬に等活地獄があり、その下に順次に地獄が重なって存在するとされます。各地獄の大きさは、無間地獄が縦広八万由旬、他の七大地獄は縦広一万由旬です。それぞれの地獄(大地獄)には縦広五百由旬の小地獄が十六あり、合わせて百二十八地獄となり、更に八大地獄を加え百三十六地獄といいます。
 地獄の種類については、八寒地獄・十六小地獄・百三十六地獄と経典によって様々な種類があります。
 等活地獄(とうかつじごく)が、獄卒に身を斬られ砕かれても、すぐに前と等しく復活して更に責められるところです。
 黒縄地獄(こくじょうじごく)が、黒い熱鉄の縄で身を秤量し、それに沿って斬られ、あるいは鋸で挽(ひ)かれるところです。
 衆合地獄(しゅごうじごく)が、多くの罪人が左右の山にはさまれて砕けるところです。
 叫喚地獄(きょうかんじごく)が、種々の苦しみに叫(さけ)び喚(わめ)くところです。
 大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)が、更に大きな苦しみに叫び喚く地獄です。
 焦熱地獄(しょうねつじごく)が、常に火炎にさらされ身を焼かれる地獄です。
 大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)が、更に極熱で焼かれ焦げる地獄です。
 無間地獄(むけんじごく)が、絶え間なく苦を受ける地獄で、大阿鼻地獄(だいあびじごく)ともいいます。この地獄には、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の一つを犯した者が一劫の間、堕ちて苦しみます。更に正法誹謗の者が無間地獄に堕ち、期間が五逆罪よりも長く無数劫です。もし懺悔しても、千劫阿鼻地獄で苦しまなければいけないと『法華経』に説かれています。「譬喩品第三」において、
  「見有読誦、書持経者、軽賎憎嫉、而懐結恨、此人罪報、汝今復聴、其人命終、入阿鼻獄、具足一劫、劫尽更生、如是展転、至無数劫、従地獄出、当堕畜生(経を読誦し、書持すること有らん者を見て、軽賎憎嫉して、而も結恨を懐かん 此の人の罪報を、汝今復聴け、其の人命終して、阿鼻獄に入らん、一劫を具足して、劫尽きなば更生れん、是の如く展転して、無数劫に至らん、地獄より出でては、当に畜生に堕つべし)」(法華経176)
と釈尊が正法誹謗者の結末が無間地獄に堕ちることを説かれています。


餓鬼界は貪る気持ちから起こる

2005-11-19 | 十界論私考集

 餓鬼界とは、他人の物を貪り所有したくなる、貪欲多き世界です。私達は、本能的に貪る気持ちがあります。食物・衣類・家・貴金属などが欲しいという物質的欲望だけでなく、名声欲・権勢欲に支配された姿も餓鬼界です。
 貪りとは欲望であり、自分自身を律していかなければ、人生を大きく断線させる要素を持ちます。その反面、自分自身を成長させる上で、非常に大切な生命機能でもあります。この貪りにおける善と悪の両面に、しっかりとしたけじめを付けなければいけません。毎日の勤行唱題では、マイナス的な貪りは排除し、プラス面を伸ばしていきます。プラス面を善知識として伸ばしていき、それが成仏に繋がります。
 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
  「貧るは餓鬼」(御書647)
と仰せです。一般的な意味として餓鬼とは、常に飢渇の苦の状態にいる鬼です。腹は山のように大きく咽は、針の穴のように小さく、飢えに苦しむ姿が餓鬼界です。餓鬼界の住処は「正法念処経」に、人中に住する者と、餓鬼世界に住む者があります。餓鬼世界は、閻浮提の下、五百由旬の閻魔王界をいいます。人中の餓鬼は十界の一つで、餓鬼の業因により行く道なので、餓鬼道ともいい六道の一つです。また三悪道や四悪趣の一つです。
 日蓮大聖人は餓鬼界に行く原因について『佐渡御書』に、
「人の衣服飲食をうば(奪)へば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず。正法の家をそし(謗)れば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値(あ)ふ。是は常の因果の定まれる法なり。」(御書582)
と御教示であります。更に餓鬼の業因は、釈尊の十大弟子である目連尊者の母が堕ちたことで有名であり、大聖人は『四条金吾御書』に、
「抑(そもそも)盂蘭盆(うらぼん)と申すは、源(もと)目連尊者の母青提女(しょうだいにょ)と申す人、慳貪(けんどん)の業によりて五百生餓鬼道(がきどう)にを(堕)ち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはな(成)さず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年の座席にして法華経を持(たも)ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏(たまらばつせんだんこうぶつ)となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ。」(御書469)
と仰せです。慳貪や嫉妬などが強いと未来に餓鬼道へ行く結果になります。これは「因果応報」を説かれた部分でもあります。また同抄に餓鬼の種類について、
「総じて餓鬼にを(於)いて三十六種相わかれて候。其の中にかく身餓鬼と申すは目と口となき餓鬼にて候。是は何なる修因ぞと申すに、此の世にて夜討ち・強盗などをなして候によりて候。食吐(じきと)餓鬼と申すは人の口よりは(吐)き出す物を食し候。是も修因(しゅいん)上の如し。又人の食をうばふに依り候。食水餓鬼と云ふは父母孝養のために手向(たむ)くる水などを呑む餓鬼なり。有財(うざい)餓鬼と申すは馬のひづめの水をのむがき(餓鬼)なり。是は今生にて財をを(惜)しみ、食をかくす故なり。無財がきと申すは生まれてより以来(このかた)飲食(おんじき)の名をもき(聞)かざるがきなり。食法(じきほう)がきと申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり。」(御書469)
と御教示です。餓鬼について阿毘達磨順正理論では三種九種が説かれ、正法念処経には三十六種が明かされています。


愚癡多き人は命が畜生界である

2005-11-19 | 十界論私考集

 世間一般的に動物を総称した言葉を畜生と呼びます。飼い畜(やしな)われて生きるものの意で傍生ともいいます。
 人間界に置き換えた畜生界とは、理性がなく倫理・道徳をわきまえないで、本能的欲求に我が身が支配されている生命状態です。愚癡も自分自身を振り返ることなく、心に感じることをストレートに出す、畜生的な作用があります。 
 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
  「癡かは畜生」(御書647)
と仰せです。因縁により私達は、知らず知らずに愚癡をいい、それが畜生の命だと御教示です。愚癡をいう時の生命が畜生界であることを理解し、理性を失うことなく、感情に左右されないように勤めることが大事です。
 この畜生の命によって人間関係を気まずくします。信心では御本尊様に向かう姿勢で、畜生の命である愚癡を止めていくことが出来るのです。愚癡に費やす言葉が、御題目を唱える言葉に変えることで人間関係を豊かにすることが出来ます。愚癡は我が身を知らぬ間に破壊し、人徳を失います。
 畜生界は、三悪趣・六道・十界の一つで、目先にとらわれやすい命であります。「分別業報略経」や「成実論」には、愚癡・悪口の多い者や淫欲・瞋恚などの盛んな者は、来世に畜生として生まれてくることが説かれています。つまり因果応報です。
 日蓮大聖人も『十法界明因果抄』に、
「第三に畜生道とは、愚痴無慚(ぐちむざん)にして徒(いたずら)に信施の他物を受けて之を償(つぐな)はざる者此の報いを受くるなり。法華経に云はく『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○当に畜生に堕(だ)すべし』文。巳上三悪道なり。」(御書208)
と他人の恩を受けても報いない人は、畜生界に堕ちることを御教示です。自己中心的な言動が畜生界に行く可能性を持ちます。
 また『佐渡御書』に、
「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し」(御書579)
と御指南のように、畜生は弱い人には強く出て、強い人には恐れの気持ちになります。
 日蓮大聖人は畜生の命も成仏できることを『女人成仏抄』に、
「然るに竜女、畜生道の衆生として、戒緩(かいかん)の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり。」(御書346)
と仰せであります。『法華経』の「提婆達多品第十二」に、竜女の成仏を釈尊が説かれています。動物である畜生の成仏は、三大秘法の御本尊様に御題目を唱えなければ不可能です。『法華経』以外の経典では、畜生の成仏は出来ません。
 地獄・餓鬼・畜生を「三悪道」といいます。この三つの生命は貪瞋癡の三毒であり、悪因を積み、悪縁に紛動されやすい命です。信心では、三悪道に通じる命を御本尊様の力用で止めていきます。毎日の勤行唱題が三悪道の道を塞ぐ大事な修行です。


修羅界は争いを好み諂い曲がった命

2005-11-19 | 十界論私考集

 日蓮大聖人は『秋元御書』に、
「軍(いくさ)起これば其の国修羅道(しゅらどう)と変ず」(御書1450)
と仰せです。国に争い事や戦争が起これば、その国は修羅界になります。更に『新池御書』にも、
「修羅は闘諍なり」(御書1456)
とも御教示です。人の心に修羅が生まれれば、喧嘩が起こり人間関係を害していき、修羅道を目の当たりにします。信心では修羅の命を止めていくことが出来ます。修羅に働く生命活動を冷静にさせ、御本尊様に御題目を唱えていく言動へと変え、仏因へと変化させます。
 修羅の命が曲がっていることを日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
「諂曲なるは修羅」(御書647)
と仰せです。修羅の命は素直さを失い、他人を見下す自惚れの強い境界です。  
 日蓮大聖人は修羅道について『十法界明因果抄』に、
「第四に修羅道とは、止観(しかん)の一に云はく『若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽(かろ)しめ己を珍(たっと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて視(み)下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚(あ)げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり』文」(御書208)
と天台の『摩訶止観』を引用され御指南です。修羅界の命は、時に良心的で善心を覗かせることがあります。第一印象で優しそうに見えても、豹変して修羅の形相になる人は、正しく修羅界の生命でありましょう。
 更に修羅界の生命について『佐渡御書』に、
「おご(驕)る者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅(しゅら)のおごり、帝釈(たいしゃく)にせ(攻)められて、無熱池(むねつち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し」(御書579)
と仰せです。修羅界の阿修羅は、天上界の帝釈天と争うことで有名です。
 戒である御本尊様を受持しなければ、修羅道に行くことを『祈祷抄』に、
「人間界に戒を持たず善を修する者なければ、人間界の人死して多く修羅道(しゅらどう)に生ず。修羅多勢なれば、をご(驕)りをなして必ず天ををか(侵)す。人間界に戒を持ち善を修するの者多ければ、人死して必ず天に生ず。天多ければ修羅をそ(恐)れをなして天ををかさず。故に戒を持ち善を修する者をば天必ず之を守る」(御書623)
と御教示であります。地球上には、日本以外で争いが絶えない国があります。その国が、修羅界の世界であります。日本に生まれても御題目を唱え御本尊様を受持しなければ、来世には修羅界の国土に生まれる可能性があります。
 日蓮大聖人は真言宗が、修羅の命に支配されていることを『太田殿女房御返事』に、
「即身成仏の手本たる法華経をば指(さ)しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字をを(置)かるゝ条、天下第一の僻見(びゃっけん)なり。此(これ)偏(ひとえ)に修羅根性(しゅらこんじょう)の法門なり。」(御書1473)
と真言宗で立てる即身成仏の法門は、修羅根性であると破折されています。
 争いが好きで諂い曲がった生命が修羅界の命です。地獄・餓鬼・畜生と修羅を合わせて「四悪趣」といい、悪道へ通じる道であります。信心をすることでその道を塞ぐことが出来ます。


人間界に生を受けるは希である

2005-11-19 | 十界論私考集

 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
「平らかなるは人なり」(御書647)
と仰せであり、一念三千における人間界の生命について御教示されたところです。平常で安定している命です。しかし、一時的な生命状態で縁に触れ左右します。大聖人は人間に生を受ける原因を『十法界明因果抄』に、
「人間に生ずること過去の五戒は強く、三悪道の業因は弱きが故に人間に生ずるなり。」(御書207)
と仰せであります。何故、人間として生まれることが出来たのかという、疑問を回避する御指南です。
 大聖人は人間界に生を受けがたいことを『顕謗法抄』に、
「涅槃(ねはん)経に云はく『末代に入りて人間に生ぜん者は爪上(そうじょう)の土の如し。三悪道に堕(お)つるものは十方世界の微塵(みじん)の如し』と説かれたり。」(御書277)
と示され、『祈祷抄』には、
「人間に生を得る事、都(すべ)て希(まれ)なり。適(たまたま)生を受けて、法の邪正を極めて未来の成仏を期(ご)せざらん事」(御書635)
と御教示で『守護国家論』にも、
「夫(それ)三悪の生を受くること大地微塵(みじん)より多く、人間の生を受くること爪上(そうじょう)の土より少なし。乃至四十余年の諸経に値(あ)ふは大地微塵より多く、法華・涅槃に値ふことは爪上の土より少なし。」(御書154)
と人間として生まれることは希であり、更に成仏できる真実の教えに値うことの難しさを仰せです。人間に生を受けたことを感謝し、仏祖三宝尊にも当然御報恩申し上げなければならないのです。恩を忘れるところに、三悪道に堕ちる原因があり、人間界に生まれることが出来なくなるのです。
 そして人間に生を受けても、信心することが難しいことを『新池御書』に、
「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。」(御書1457)
と仰せです。仏道修行は持続させることが大事で、多くの悪縁を克服するところに人の一生成仏があります。
 今生で五逆罪や正法誹謗を犯しても、人間として生まれてくる場合について『呵責謗法滅罪抄』に、
「五逆と謗法とを病に対すれば、五逆は霍乱(かくらん)の如くして急に事を切る。謗法は白癩病の如し、始めは緩(ゆる)やかに後漸々(ぜんぜん)に大事なり。謗法の者は多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生を受く。人間に生ずる時は貧窮下賤(びんぐげせん)等、白癩病等と見えたり。日蓮は法華経の明鏡をも(以)て自身に引き向かへたるに都(すべ)てくもりなし」(御書711)
と御指南です。正法誹謗の業を背負い、未来世において人間に生まれても、貧窮下賤や白癩病を煩い、生涯にわたり辛さを背負い生きなければなりません。 
 人間として生まれ、更に正法に巡りあえることを感謝して、生活していくことが大事です。


天界の喜びは一時的である

2005-11-19 | 十界論私考集

 六道の世界で一番楽しいところが天界で、日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、  
「喜ぶは天」(御書647)
と仰せであります。天界は快楽に満ちた境界のことで、六道・六趣・六凡・十界の一つです。天上界ともいいます。天界の喜びは仏界に較べると一時的であり、表面的な幸福に過ぎません。信心をせず、天界の喜びに満足している人は、六道輪廻の生活を繰り返します。つまり、地獄に堕ちたり天上界に行ったりと、安定しない境界であります。
 日蓮大聖人は天界である天道について『十法界明因果抄』に、
「第六に天道とは、二有り。欲天には十善を持ちて生じ、色(しき)・無色天(むしきてん)には下地は麁(そ)・苦(く)・障(しょう)、上地は静(じょう)・妙(みょう)・離(り)の六行観を以て生ずるなり。」(御書209)
と天道である天界に生まれる因縁を仰せです。
 天界は、一般に虚空、天空のことで、天・天上界・天道・天趣・天有と同じ意味です。二十八天あり三界(欲界・色界・無色界)中の欲界に六天、色界に十八天、無色界に四天あるとされています。
 天とは、また天界に住する天人や天衆をいいます。諸天善神のことでもあり、天界の代表である、大梵天王と帝釈天と四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)とをあわせて「梵釈四王」といい、仏法守護の善神であります。
 日蓮大聖人は、梵天・帝釈ともに法華経序品において、その会座に列なっていることから、法華経守護の善神とし、三大秘法の御本尊様にも認められています。御本尊様を受持信行するところ、確実に諸天善神の加護があります。 
 欲界の六欲天とは、四王天・忉利天(三十三天ともいい、この天の主が釈提桓因、即ち帝釈天)・夜摩天・兜率天(都率天)・化楽天・他化自在天です。 
 色界の十八天が初禅天の梵衆天・梵輔天・大梵天、二禅天の少光天・無量光天・光音天、三禅天の少浄天・無量浄天・遍浄天、四禅天の無雲天・福生天・広果天・無想天・無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天です。  
 無色界の四処は識無辺処・空無辺処・無所有処・非想非非想処(有頂天)のことです。以上が二十八天になります。
 多くの人は、以上の天界を求め満足します。外道であるキリストの思想は、この天界を恋い焦がれる教えで、本来の仏教に説かれる天界という意味から、相当逸脱しています。世間では天界に関する考え方が繁雑し、人々の心に幻惑作用を起こし、外道的な天界説を信じている人が多くいます。
 信心を知らない多くの人は、天界より更に上の境界(四聖)を、目指そうとしない人が殆どです。信心をすることで一時的な天界の喜びから離れ、現当二世といわれる本当の幸福境界、成仏を得ることが出来ます。
 御本尊様を受持信行するところ、一時的な幸福感に浸ることなく、四聖の境界を志し確実に得ていくことが出来ます。
 天界で一番障害になる天は、欲界の最上に位置する化他自在天の第六天です。この第六天の存在を信心する上で一番注意しなければなりません。仏道を志す多くの人は、この他化自在天の餌食となり、退転していくのであります。  
 師弟相対の信心を忘れることなく、また下種三宝尊への報恩を忘れなければ、自然と仏眼を頂き第六天の魔王の働きに紛動されない信心に根ざすことが出来ます。信心をして御本尊様に御題目を唱えるところ、永遠に続く喜びがあります。


仏の声を聞いて悟る声聞

2005-11-19 | 十界論私考集

 十界における第六番目に位置する「声聞界」には、二種・三種・四種・五種という種類があります。声聞とは、声を聞く者の意で、十界のうちの二乗・三乗の一つです。声聞乗のことであり、仏の声教を聞いて解悟し、出家の弟子をいいます。四諦の法門である苦集滅道により、四沙門果の悟りを得、灰身滅智して無余涅槃に入ることを目的とする人々です。声聞と名の付く由来は、「大集経」や「六波羅蜜経」など多くの経典に説かれます。
 声聞界の種類を具体的に上げると、「二種声聞」とは、大乗義章に説かれ、小乗に執して大乗の教えに理解を示さない愚法声聞と、大乗の教えを理解し、大乗に向かう不愚法声聞の二つをいいます。
 「三種声聞」とは、愚法声聞・称実声聞・仮立声聞のことです。愚法声聞は、小乗教の声聞。称実声聞は、大乗始教の声聞で、大乗始教とは小乗から初めて大乗に入った者に説かれた教です。仮立声聞とは、大乗終教の声聞です。
 「四種声聞」とは、法華論に説かれる決定声聞・増上慢声聞・退菩提心声聞・応化声聞の四つです。決定声聞は、久しく小乗を習い、必ず阿羅漢果を得ることが決定している声聞。増上慢声聞は、未だ証得していないのに証得したと思い、慢心を起こす声聞で、向上心を失い自己満足に浸る声聞です。退菩提心声聞とは、もと大乗を修行していた菩薩が、大乗を退いて小乗を学ぶ声聞のことで、退大声聞ともいいます。正しい信心を退いて、低い教えに信仰を変えることです。日蓮正宗から他宗派に改宗することにも当たります。応化声聞とは、仏菩薩が衆生教化のために変化した声聞であり、変化声聞ともいいます。
 「五種声聞」とは、法華経に説かれる大乗声聞(仏道声聞)に、先の四種声聞を加えて五種声聞としています。大乗声聞とは、仏道の声を他に説いて聞かせ、小乗の境地に永く安住することなく仏果に至らせる声聞です。天台の『法華玄義』では、法華経説法の時、次々と領解した法説周・譬説周・因縁周の三周の声聞が説かれています。
 日蓮大聖人が仰せになる声聞について『十法界明因果抄』に、
「第七に声聞道とは、此の界の因果をば阿含(あごん)小乗十二年の経に分明(ふんみょう)に之を明かせり。諸大乗経に於ても大に対せんが為に亦之を明かせり。声聞に於て四種有り。一には優婆塞(うばそく)、俗男なり。五戒を持し苦・空・無常・無我の観を修し、自調自度(じじょうじど)の心強くして敢(あ)へて化他の意無く、見思(けんじ)を断尽して阿羅漢(あらかん)と成る。此くの如くする時自然に髪を剃(そ)るに自ら落つ。二には優婆夷(うばい)、俗女なり。五戒を持し髪を剃るに自ら落つること男の如し。三には比丘(びく)僧なり、二百五十戒具足戒なりを持して苦・空・無常・無我の観を修し、見思を断じて阿羅漢と成る。此くの如くするの時、髪を剃らざれども生ぜず。四には比丘尼(びくに)なり。五百戒を持す、余は比丘の如し。一代諸経に列座せる舎利弗・目連等の如き声聞是なり。永く六道に生ぜず、亦仏・菩薩とも成らず、灰身滅智(けしんめっち)し決定して仏に成らざるなり。」(御書211)
と御指南であり、優婆塞・優婆夷・比丘・比丘尼という仏道を志す人です。
 声聞界の生命は、日蓮大聖人の御指南に添うことで、迷いの六道に戻ることが無く、仏の声となる仏法を聞いて悟っていき、自己を誡め境界を高めていくことが出来ます。声聞界で生まれる魔の働き、慢心を上手く扱い、自信へと変毒為薬していければ、成仏の有り難い原因へ繋げていくことが出来ます。


縁に触れて悟りを得る境界「縁覚」

2005-11-19 | 十界論私考集

 縁覚とは、辟支仏・辟支迦羅の訳で、因縁覚とも独覚ともいいます。二乗の一つで、声聞縁覚(メメヨヨ)とあわせて引用されることがあります。
 仏の教導に依らずに自ら理を悟り、自利の行に努め、静寂を好み、利他である他人のことを余り考えない聖人・聖者です。自己中心的になる欠点があります。
 日蓮大聖人は縁覚界について『十法界明因果抄』に、
「第八に縁覚道とは、二有り。一には部行独覚(ぶぎょうどくかく)、仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習ひ、小乗の戒を持し、見思を断じて永(よう)不成仏の者と成る。二には麟喩(りんゆ)独覚、無仏の世に在りて飛花落葉(ひけらくよう)を見て苦・空・無常・無我の観を作し、見思を断じて永不成仏の身と成る。戒も亦声聞の如し。此の声聞縁覚を二乗とは云ふなり。」(御書212)
と御教示です。独覚には「部行独覚」と「麟角喩(りんかくゆ)独覚」の二つがあります。部行独覚とは、前三果の声聞が第四果を得る時、教を離れてひとり勝果を得ることをいいます。麟角喩独覚とは、麟の一角のように独居して百大劫に菩提の資糧を修行して道を悟ることです。
 法華経以前の教えでは、声聞と縁覚は成仏できないと説きます。しかし、法華経では、二乗作仏を説きます。権実相対を示す上で大事な法門です。
 縁覚界の衆生は「飛花落葉」により世の中を悟ります。また「十二因縁」を観じて、断惑証理(迷いを断って法理を悟る)し悟りを得ていきます。
 無仏の世に師なくして独り悟る故に独覚といいます。天台の方では、仏世に十二因縁を観じ悟りを得る者を縁覚とし、無仏の世に飛花落葉などの外縁によって独り悟りを得る者を独覚としています。
 声聞と縁覚の衆生は世の中に、様々な姿で存在します。仏道以外では、勉学に勤しむ人も、声聞縁覚の生命です。学者や識者など世間的にも地位が高い人の命です。 
 大聖人は声聞縁覚が成仏できない根本原因について『開目抄』に、
「大集経に云はく『二種の人有り。必ず死して活(い)きず、畢竟(ひっきょう)して恩を知り恩を報ずること能(あた)はず。一には声聞、二には縁覚なり。譬へば人有りて深坑(じんこう)に墜堕(ついだ)せん、是の人自ら利し他を利すること能(あた)はざるが如く、声聞縁覚も亦復是の如し。解脱の坑(あな)に堕ちて自ら利し及以(および)他を利すること能(あた)はず』等云云。外典三千余巻の所詮に二つあり。所謂(いわゆる)孝と忠となり。忠も又孝の家よりいでたり。孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし。」(御書529)
と仰せであります。二乗である縁覚は、自己にとらわれるため、仏道を志す上で大切な、知恩と報恩を忘れる生命です。この知恩と報恩を忘れるところに、成仏できない根本的な原因があります。故に仏祖三宝尊に対する報恩を忘れていることになるのです。 
 世間の多くの学問に志す人は、他人を蔑(さげす)み恩を忘れている人が多く見受けられます。そこに社会悪が生まれる原因が隠されています。二乗根性といわれる成仏する上で扱いにくい命です。
 二乗は四土の方便有余土(方便土)に住み、見思惑を断じ三界の生死の苦悩を離れた人が住する国土です。未だ、根本的な迷い無明惑を断じておらず、断じ尽くしてないため有余といいます。この無明惑という迷いが、学問に秀でた人を時として悪道に導くことがあります。信心において、二乗の根性を一仏乗である仏界へと変えることが出来ます。


衆生救済を根本とする菩薩

2005-11-19 | 十界論私考集

 菩薩とは、無上菩提を求める人のことで、菩提薩靂の略です。三乗・四聖・十界の一つで、声聞縁覚と違い利他を根本とした大乗の衆生を意味します。四土の実報無障礙土が菩薩の住む国土です。
 日蓮大聖人は菩薩界と菩薩戒について『十法界明因果抄』に、
「第九に菩薩界とは、六道の凡夫の中に於て、自身を軽(かろ)んじ他人を重んじ、悪を以て己に向け善を以て他に与へんと念(おも)ふ者有り。仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまへり。此の菩薩戒に於て三有り。一には摂善(しょうぜん)法戒、所謂(いわゆる)八万四千の法門を習ひ尽くさんと願す。二には饒益有情(にょうやくうじょう)戒、一切衆生を度しての後に自らも成仏せんと欲する是なり。三には、摂律儀(しょうりつぎ)戒、一切の諸戒を尽(ことごと)く持せんと欲する是なり。」(御書212)
と御指南です。菩薩の命は、自身を軽んじ他人を重んじる気持ちが強いのであります。折伏で必要になる精神を御指南です。
 一切の菩薩は初発心の際に「四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願成)」を起こし、菩薩の在り方、修行の目的と方向を明らかにします。これに従い菩薩戒(三聚浄戒・十重禁戒・四十八軽戒等)を持ち、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)という修行を積んで仏果を証得します。別教では初発心から解脱までを五十二位等に分類し菩薩の階位を定めています。爾前権教では、長期にわたる段階の修行となる「歴劫修行」が必要ですが、法華経では即身成仏が明かされ、御本尊様を受持信行するところ、仏果が直ちに得られると説きます。
 「菩薩の十法」という菩薩が修行すべき十の法が『涅槃経』に説かれます。
①信心具足。一切衆生および一闡提に悉く仏性がそなわっていると信じること。
②浄戒具足。清浄の戒を護持すること。
③親近善知識。諸の善知識に親近すること。
④楽寂静。寂静を楽うこと。
⑤精進。勇猛に仏道修行に励むこと。
⑥念具足。念仏・念法・念僧・念戒・念天・念捨をすべて具足すること。
⑦軟語。実語・妙語をいう。即ち意を先じて問訊すること。
⑧護法。正法を流布し供養すること。
⑨供給同学。一緒に修行している者が困った時に染衣・衣服・飲食・臥具・ 房舎を自ら供給すること。
⑩具足智慧。一切衆生に悉く仏性がそなわっていることを観ずること。
以上が、「菩薩の十法」です。更に上の仏界を得るためには、「菩薩の十法」に精進するところにあります。
 本仏に教化された菩薩を「本化の菩薩」といい、四菩薩の上行・無辺行・浄行・安立行という地涌の菩薩がいます。迹仏に教化された菩薩を「迹化の菩薩」といい、文殊・普賢・観音・勢至・弥勒・薬王・薬上等の菩薩です。 
 末法濁悪の時代では、迹化の菩薩の力で衆生を救うことが出来ず、本化の菩薩でなければ一切衆生を救済することが出来ません。本化の菩薩と迹化の菩薩では、菩薩における使命感に天地雲泥の違いがあります。
 日蓮正宗の御本尊様に御題目を唱えるところ、地涌の菩薩としての命が養われます。