正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書⑨)

2005-11-21 | 手引書⑨

120.日蓮正宗だけにある女性と悪人の成仏

121.折伏は四悉檀を心得るべし

122.心の汚れを落とす方法

123.雪山の寒苦鳥にならない信心を

124.御塔婆供養の意味

125.信行では当体蓮華と譬喩蓮華を

126.信心は「歓喜」を忘れずに

127.天変地夭の因は歓喜を忘れた謗法から

128.私達の五陰が三毒を生成する

129.必ず経験する生者必滅と会者定離

130.教を知る

131.機を知る

132.時を知る

133.国を知る

134.教法流布の先後を知る


日蓮正宗だけにある女性と悪人の成仏

2005-11-21 | 手引書⑨

 女性の成仏と悪人の成仏は、釈尊が説かれた経典多しと雖も、法華経だけに説かれています。『星名五郎太郎殿御返事』に、
 「法華経には女人成仏之(これ)有り。真言経にはすべて是なし。法華経には悪人成仏之有り。真言経には全くなし」(御書364)
と仰せのように、邪宗の代表的な真言宗に女性の成仏と悪人の成仏はなく、唯一法華経だけにあると日蓮大聖人が御指南です。法華経以外の御経を根本としている各宗派も、当然、女性の成仏も悪人の成仏もありません。その証拠に、日蓮正宗を信心しないため、様々な社会悪が世の中を覆っております。多くの女性が愚癡により身を滅ぼし、犯罪をおかす悪人が次から次へと現れる今、正しく末法濁悪の相を示しており、女性と悪人が成仏していない証拠です。
 具体的に、成仏していない証拠とは、女性の場合、主師親の三徳を全く知らないため、家の主である御主人を見下し、家族が一番安らげる家庭を、崩壊させる女性が多くいます。悪人の場合は、謗法から来る邪智が強盛になり、その邪智に酔いしれ、法律の網の目をかわす知恵に生き甲斐を感じ、犯罪を起こすことが動かぬ証拠です。
 成仏する方法は、日蓮正宗を素直に信じることです。三界六道から来る考えや智慧を一切払拭させ、但ひたすら日蓮大聖人の教えを信じ、修行することで本当の成仏が出来ます。つまり女性の成仏と悪人の成仏があるわけです。三大秘法の御本尊様に御題目を唱え、女性であれば、恩を知り、御主人や姑さんに対する愚癡を止め、悪人であれば、他人に危害を加える邪な考えを改め、成仏するために大事な行いを実践する方向へ考え直すことです。我見を差し挟むことなく、一生涯日蓮正宗の信心を貫き通せば、必ず成仏します。あらゆる正しい仏法への疑いを捨て信じることです。
 世の中に仏教が広く知られていても、この女人成仏と悪人成仏を知ることが出来ません。日蓮正宗だけにあり、他宗派では、女性も悪人も葬式を行えば成仏できたと思い込んでいるのが現実です。正しく邪宗教で執行するところの浅はかで邪な葬儀であります。全く仏教の現状を知らない一般の人は悲惨であり、残された遺族だけが葬儀を行ったことに満足し、今生に終止符を打たれた故人には、正法誹謗となる葬儀を行った業を背負い、無間地獄の旅路を歩んでいくのです。
 この悲惨な現状を回避していく大切な修行が「折伏」です。日蓮正宗を信心する私達は折伏を行い、未だに女性の成仏と悪人の成仏を知らない方々に教えていくことであります。つまり邪宗の破折が必要です。邪宗破折が女性の成仏と悪人の成仏を弘める第一歩です。
 女性と悪人が、日蓮正宗を信心した場合に変わる生活の姿は、女性の場合、御主人に対する気持ちが信心しない頃と変わります。「主徳」と「親徳」を身口意の三業に身に付け、四恩を知ることで愚癡が無くなり、怒りの気持ちも平静で禅定な境地へと変化していきます。あらゆる生活を揺るがす悪縁を、少しずつ回避していくことが出来ます。その結果、家族間には柔和で、居心地のよい家庭へと変わり、「我此土安穏」という境界になります。
 悪人の場合は、どんな凶悪犯でも一度正信に目覚めれば、冥伏していた尊い生命、仏・菩薩界が涌現し、以前の人格を完全に変えます。信じ難いことですが、阿育王の生涯が動かぬ現証を示し、如何に三大秘法の御本尊様が素晴らしいかを物語っているのです。
 改心することで悪人の邪智が、正法流布の智慧に煩悩即菩提され活かされていきます。悪人の機根を充分に知り、悪事を行う人の気持ちを完全に知り尽くしています。善良な人は絶対に身に付けることが出来ない、善知識に御本尊様の力用によって変えられます。信心することで、悪人を救済する使命を御本尊様から頂くことが出来ます。
 以上のことは、日蓮正宗の信心を素直に行うところに具わります。多くの女性や悪人は信心をして本当の成仏を志せます。


折伏は四悉檀を心得るべし

2005-11-21 | 手引書⑨

 四悉檀とは、四つの弘教方法を示したもので、世界悉檀(せかいしつだん)・為人悉檀(いにんしつだん)・対治悉檀(たいじしつだん)・第一義悉檀(だいいちぎしつだん)をいいます。悉檀とは遍く衆生に施すことで、日蓮正宗では折伏を意味します。
 人にも多くの方がいます。一方的な弘教だけでは、折伏しにくい面があります。折伏を円滑に行いやすくするために説かれた法義、それが四悉檀です。正法時代の竜樹菩薩が大智度論に説かれたものを、日蓮大聖人が末法に相応しい形で示されました。折伏を行じていくうえで、心得ておく必要があります。
 この四悉檀は、法統相続や生活において人に教えていく場合に非常に役立つ方法です。折伏で身に付いたことは、即生活に活かすことで快適にし、安穏な境地に変えていくのです。それが日蓮大聖人の仏法に於ける醍醐味です。
 世界悉檀とは楽欲悉檀ともいい、衆生の願いや、欲望に応じて法を説き、利益を与えること。
 為人悉檀とは生善悉檀ともいい、衆生の機根に応じて法を説き、善根を増長させること。
 対治悉檀とは断悪悉檀ともいい、三毒を対治するために貪欲の者には不浄を観じさせ、瞋恚の者には慈心を修せしめ、愚癡の者には因縁を観じさせること。
 第一義悉檀とは入理悉檀ともいい、前の三種が段階的な化導であるのに対し、法をただちに説いて衆生に真理を悟らせること。
 この四悉檀を摂折二門といわれる、摂受と折伏に分けられます。世界悉檀・為人悉檀は摂受門となり、対治悉檀・第一義悉檀は折伏門となります。
 日蓮大聖人は『太田左衛門尉殿御返事』に、
 「指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は四悉檀(しつだん)を心に懸けて申すなれば、強(あなが)ちに成仏の理に違はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか。然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」(御書1222)
と御指南のように、時には「しばらく世間普通の義を用ゆべき」ことを、四悉檀と並行し、折伏で考える必要があります。折伏の短所を回避する御指南です。
 「世間普通の義」とは、信心を話す前に常識的な言動を心得、信心の話しをする準備を調えることです。折伏する相手の機根である気持ちを、信心の話しが聞き易い状態に、世間普通の義を用いて下準備を入念に行います。固く閉ざした相手の気持ちを柔らかくさせます。「世間普通の義」には、以上の意味があります。
 準備とは、日々の勤行唱題を根本とするところ、御本尊様から頂く、智慧や御法主上人猊下の御指南、そして御住職様の御指導を賜り行うことです。この準備を怠ることなく、自己中心的な言動を止めていければ、折伏は順調に進みます。
 四悉檀は、自分自身の我見で折伏しないように、誡められたものでもあります。折伏を確実に成功させるために心得るよう、日蓮大聖人が私達に有り難い御指南を残されたのであります。
 具体的な四悉檀の内容は折に触れ、時の御法主上人猊下や寺院の御住職様から御教示いただきます。そして日々の弛まぬ勤行唱題により、折伏に必要な四悉檀の応用が出来るようになります。その応用力が生活に活かされ、「常寂光土」を現実にします。


心の汚れを落とす方法

2005-11-21 | 手引書⑨

 心に汚れがたまると、私達は判断力が劣り、人生を大きく断線することがあります。その人生の脱線を止めることが信心です。信心をすることで、御本尊様から非常に有り難い、「六根清浄」といわれる浄化された命を頂くことが出来ます。この浄化された命で濁悪世と言われる、末法時代を生きるところに、明るい人生があるわけです。
 心の汚れを落とす方法は、日蓮正宗の信心で大事な朝夕の勤行唱題です。心の汚れとは、煩悩である心を煩わす悩み迷い、三惑という心の惑いがあります。勤行唱題をすることで心の汚れを洗い流すことが出来ます。具体的な方法は心を静め、御本尊様と同じ、禅定の気持ちになることで、頑固な心の汚れを洗い流します。御経と御題目を唱えることで自然と洗い流され、六根清浄の功徳を御本尊様から頂いていきます。
 注意することは、三毒といわれる貪瞋癡に汚染されないよう、勤行唱題では常に誡めていきます。この三毒を止めることで、禅定を得やすくし、御本尊様からの有り難い智慧を涌現しやすくします。三毒に翻弄されていては、心の汚れを洗い流すことが出来ません。まず、気持ちを冷静にさせることです。気持ちをリラックスさせ、人生にマイナスとなる出来事は一切考えないことです。
 御本尊様に勤行唱題をすることで、根強い頑固な汚れ、元品の無明も払拭させることが出来ます。この汚れは日蓮正宗を信心しなければ洗い流すことが出来ません。無明が法性という悟りの智慧に変化します。信心を知らない多くの人は、元品の無明の取り扱い方法に迷うため、末法濁悪の荒波に揉まれ、路頭に迷うのです。その結果、悲惨な現実を目の当たりにし、絶望感に襲われるのです。勤行唱題は、この現実を止める唯一の働きがあります。そして私達は、折伏をして心の汚れを落とす方法を施していくわけです。
 根強い心の汚れには、多くのものがあります。人生を落胆させる出来事など、世代ごとに異なり、努力と信念だけでは叶わなかった、現実の厳しさを経験したとき、汚れが心に根強く付くのであります。忘れようとしても、忘れられずに脳裏にフラッシュバックが起こり、過去の現実を再現させ、最悪な場合、毒気深入し本心を失っていきます。
 具体的な心の汚れとは、高校や大学受験、就職試験の失敗や恋愛が実らなかった失恋、家族間や仕事に於けるところの人間関係の難しさに、根強い汚れがあります。そして生きる希望を消失させ、悲観的に現実世界を見るようになります。元品の無明が至るところに存在します。
 勤行唱題では、元品の無明の存在を明らかに見つめ、失い欠けた希望を蘇らせるのです。歓喜を御本尊様の御利益で呼び起こし、生命力を活発にさせます。常にプラス思考を心がけ、歓喜という歓びを失うような事柄は、一切考えないことです。
 以上が心に汚れをためない心構えです。不安は消え、自信に満ちた気持ちを維持することが出来ます。未来に希望を持ち、悲観的にならないことが大事です。未来に希望を持つための智慧を得る場所が、日蓮正宗の寺院です。 
 謗法まみれの世間で染み付いた、心の汚れを洗い流す、尊い所が寺院です。
寺院の御本尊様に御題目を唱えることで、心の汚れを全て洗い流せます。


雪山の寒苦鳥にならない信心を

2005-11-21 | 手引書⑨

 日蓮大聖人は『新池御書』に、
 「雪山の寒苦鳥は寒苦にせ(責)められて、夜明けなば栖(す)つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚(むな)しく鳴くことをう(得)。一切衆生も亦復(またまた)是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。無益(むやく)の事には財宝をつ(尽)くすにお(惜)しからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものう(物憂)く思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきを(競)ふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」(御書1457)
とインドの雪山という山に住む、寒苦鳥の様子を仰せであります。雪山の寒苦鳥の譬は、仏道修行を怠らないための戒めです。日々精進するように説かれ、安穏なときほど気を引き締めることを日蓮大聖人が御教示させています。人間は、逆境にいると能力を発揮し、安穏なときは怠慢な生活を送る傾向があります。しかし、本心を失った多くの人は、雪山の寒苦鳥のように逆境を体験しても、その体験を全く活かしません。末法の衆生をそのまま映し出したのが、雪山の寒苦鳥です。 
 雪山の寒苦鳥とは、非常に寒いインドの雪の山に住んでいます。しかし、住む家がありません。寒さ厳しい夜に、夜を過ごす大事な住まいを、暖かい昼間に作ろうと志しますが、いざ暖かい陽気になると、夜の辛い獄寒も忘れて、夜を越す大事な家を作ることなく、毎日を明け暮れ、また辛く厳しい夜が来て、家を作らなかったことに後悔をし、その繰り返しを何度もするのが、雪山の寒苦鳥であります。昼間の陽気に夜の寒さを忘れてしまい、寒さに苦しむのです。
 信心も雪山の寒苦鳥にならないよう、勤行唱題で自己を見つめることが大事です。特に生活が安定しているときこそ、逆境の辛いときより精進することが大切なのであります。生活が安定しているときに、培った強靱な精神が、いざ逆境が襲ってきても、何の抵抗も感じることなく自然に乗り越えていくことが出来ます。この精神を日蓮正宗の信心で作っていくのです。寒苦鳥が寒さを凌(しの)ぐための家が、人生の苦しみとなる四苦八苦を乗り越える強い精神です。
 生活が安定し恵まれているときは、なかなか難しいことです。如何に恵まれているときに、辛い現実を思い起こして行くかが信心には大切です。その辛く厳しい現実は、折伏をして家庭訪問をするなかで感じていくことが出来ます。家庭訪問をする御家庭には、様々な生活空間があります。今まで経験したことのないことを間接的に体験させて頂き、自分自身の成仏の智慧を家庭訪問では得ることが出来ます。家庭訪問という折伏は、正しい仏法を布教するだけのものではありません。自己の修行である自行を、活性化させる大事な意味があります。
 家庭訪問をすることで、雪山の寒苦鳥にならないように、御本尊様から気付かせて頂けるのであります。この気持ちで家庭訪問という折伏を地道に行うことで自他共に成仏していくのであります。


御塔婆供養の意味

2005-11-21 | 手引書⑨

 御先祖様を供養して成仏させるには、日蓮正宗寺院の御本尊様に御経をあげ、御塔婆を立てることが大事です。御塔婆を立てることで、御先祖様の成仏を確実にさせる作用があります。
 御塔婆を立てる事により、御本尊様からの有り難い功徳が、御先祖様の来世に於ける人生に、流れ通うのであります。様々の悪縁を遠ざけ、人生の苦悩となる、四苦八苦を菩提へと転じる働きがあります。つまり、御先祖様に生きる智慧を施すことが出来るのです。挫折や絶望感に直面する前に防ぐことが、御塔婆を建立することで可能です。また挫折しても、乗り越える智慧を施すことが出来ます。
 御塔婆は、御法事や御盆、春と秋の御彼岸だけでなく、故人の月命日にも立てることが大事です。月命日に御塔婆が建立された功徳により、その月に本来、受けるべき宿命的な悪業を、未然に阻止することが出来ます。つまり転重軽受されます。それが月命日に行う、塔婆供養の有り難い御本尊様の功徳です。この意義を理解し塔婆供養することで、私達も安心して御先祖様の行く末を見守ることが出来ます。
 その回向した功徳は、回りめぐって塔婆供養した本人にかえり、今生の悪縁や過去からの悪業を払拭させる力があるのです。
 『中興入道御消息』に、
 「去(みまか)りぬる幼子のむすめ(娘)御前の十三年に、丈六のそとば(卒塔婆)をたてゝ、其の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはな(離)れ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)、其の風を身にふ(触)れて畜生道をまぬ(免)かれて都率(とそつ)の内院に生まれん。(中 略)此より後々の御そとば(卒塔婆)にも法華経の題目を顕はし給へ」(御書1434)
と仰せのように、十三回忌となる法事の時に、御題目が書かれた塔婆を立てれば、安穏な境遇になることを御指南です。法事には、必ず塔婆を立てることが必要です。『草木成仏口決』に、
 「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(御書522)
と御教示のように、今生を全うされた御先祖様には、御塔婆を立てることが大事であり、成仏に欠かせません。「開眼供養」と仰せですが、御先祖様の潜在能力となる仏界を開かせ、その能力を持って人生を明らかに、眼で見ていくことが出来るのです。歓喜の気持ちで生活を送らせることが出来ます。
 『上野殿御返事』に、
 「此の子そとば(卒塔婆)に此の木をつくり、父の供養のためにた(建)て、てむ(手向)けりと見へたり。日蓮も又かくの如くあるべきか」(御書1360)
と仰せの如く、日蓮大聖人も供養のために御塔婆を立てることが必要であることを御指南です。塔婆供養は不必要であると、創価学会では主張しますが、日蓮大聖人は、明らかに塔婆供養をするように御指南であります。
 日蓮正宗では、御先祖様の成仏を確実にするため、塔婆供養は非常に大事です。毎月の永代経や月命日忌には、塔婆供養を心がけましょう。


信行では当体蓮華と譬喩蓮華を

2005-11-21 | 手引書⑨

 「信行では当体蓮華と譬喩蓮華を」ということは、日蓮大聖人が説かれる根本的な仏法の当体は、譬え話である譬喩を理解することで、当体の意味を知ることが出来ます。故に成仏に大切な教学を理解することが出来るのです。
 また折伏でも、譬喩を巧みに引用して、論理を展開することが大切です。様々な人がいますので、受け止める機根、器にあった形で、適切な譬え話となる譬喩を用いて、当体を理解させることが大事です。当体は、尽未来際となる広宣流布の暁まで変わりませんが、譬喩はそれぞれの時代によって、縦横無尽に変わります。その時の状況を、御法主上人猊下の御指南のもと、勤行唱題根本に適切な譬喩を用いることです。そして、折伏する人に納得させ発心を促します。
 『当体義抄送状』に、
 「問ふ、当体蓮華解(げ)し難し。故に譬喩(ひゆ)を仮りて之を顕はすとは、経文に証拠有るか。答ふ、経に云はく『世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し、地より涌出す』云云。地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)の当体蓮華なり。譬喩は知んぬべし。以上後日に之を改め書すべし。此の法門は妙経所詮(しょせん)の理にして釈迦如来の御本懐(ほんがい)、地涌の大士に付嘱せる末法に弘通せん経の肝心なり。国主信心あらんの後始めて之を申すべき秘蔵の法門なり。日蓮より最蓮房(さいれんぼう)に伝へ畢(おわ)んぬ」(御書703)
と御指南であります。経文にも、当体蓮華が理解しがたいために、譬喩を仮りて顕わしていることを説かれています。
 当体を譬喩で理解できたら、その後は譬喩に固執することなく、当体蓮華を根本としていくことが大事であります。難信難解の由縁には、譬喩に執着を起こし、当体を重んじないところにもあります。信心では充分に注意していくことが必要です。時に譬喩が成仏の妨げになる場合があります。つまり、随自意と随他意を明らかにしていくことです。随自意が当体で、随他意が譬喩になります。随自意とは、仏様の立場を中心に説かれたもので、随他意が迷いの多き衆生を中心に説いた教えです。成仏は、随自意の当体を信じるところにあります。『日女御前御返事』に、
 「御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入(いしんとくにゅう)とは是なり。日蓮が弟子檀那等『正直捨方便』『不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)』と無二に信ずる故によ(因)て、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」(御書1388)
と仰せのように、信心の根本となる御本尊様には、疑うことなく信じることが大事です。それが「以信得入」という、信を以て仏道に入れば、成仏の境界を得るのであります。更に、譬喩的意味を持つ、爾前権教に執着せず、正直に方便を捨てれば、御本尊様の有り難い宝塔の中に入り、功徳を自然と得るのです。信心以外の思想に惑うことなく、一途に「信」を貫けば、そこに「常寂光土」があります。
 信行を地道に高めるには、譬喩を理解して、当体を知り、また譬喩を理解して、当体を知るという繰り返しにより、信行が高められ、冥益の功徳のもとに顕現されます。寺院の永代経や御講の御法話には、この「譬喩を理解し、当体を知る」という繰り返しがあります。その意味を覚って寺院に参詣することが、更に信行を深めるのであり、雪山の寒苦鳥にならない気持ちが養われます。


信心は「歓喜」を忘れずに

2005-11-21 | 手引書⑨

 「歓喜」を忘れた人生は、未来が暗く、絶望感で気持ちが一杯になります。信心の修行、勤行唱題は唯一、「歓喜」を心に蘇らせる働きがあります。御本尊様の功徳により、どんなに辛く悲しい心境であっても、心の迷いを全て払拭させ、「歓喜」で身心を包むのであります。
 本当の「歓喜」が起きない原因は、正法を信じない謗法からです。また、一時的に「歓喜」を感じても、ある因縁で「歓喜」を忘れさせるのも、過去からの謗法に原因があります。信心は、「歓喜」を現当二世という形で持続させます。
 「歓喜」を持続するところに、仏界の生命を涌現させ、人生のあらゆる障礙を乗り越えられるのです。信心することで本当の「歓喜」が生まれます。即身成仏に必要不可欠なのが「歓喜」であり、非常に大事な役目を為すのです。「歓喜」が躍動するところに、人生の障害を乗り越える智慧が、生まれ易くなります。
 同じ信心をしていても、「歓喜」が生まれない人もいます。世間に横行する謗法の思想に命が汚染されている可能性があります。そのため「歓喜」が生まれず、逆に三毒である貪瞋癡が邪魔している場合があります。「禅定」を思い出し、気持ちを落ち着け、御本尊様と境智冥合することが大事です。気持ちが落ち着くことで、三毒の働きが静まり、「歓喜」が生まれ易くなります。勤行唱題では、このことを忘れずに実行することが大事です。
 ある人は「歓喜」を忘れ、怒りの命を根本として唱え、貪る気持ちを中心にして唱え、愚癡の生命で唱える人がいますが、御本尊様から綺麗な功徳が流れてきません。まず、気持ちを落ち着け、三毒の働きを止めることが大事です。止めようと気持ちを発すことで、耐え忍ぶ精神が同時に養われます。
 「歓喜」は、貪瞋癡の三毒を変毒為薬し、煩悩即菩提させる働きもあります。
貪瞋癡に執着し、「歓喜」を忘れた修行は、信心と言えないのです。信心は、「歓喜」が伴わなければいけません。
 「歓喜」には、私達の煩悩を消滅させる作用があり、御本尊様を拝することで、不動の「歓喜」の気持ちを築いていきます。それが勤行唱題です。常に、「歓喜」の気持ちが持続するように、日々精進します。この目的意識無く、勤行唱題をしても、他力本願になりやすく、純粋な功徳が流れてきません。
 折伏は、勤行唱題で培った「歓喜」を、迷える人々に施すことが大事です。日蓮大聖人の信心をすれば、どんなに辛い人生に見えても、「歓喜」で気持ちが一杯になると訴えることです。そして、困難を克服していけるのです。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
 「所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801)
と仰せの如く、御本尊様に御題目を唱えるところに「大歓喜」があると断言されています。疑うことなく、辛いときには、思い悩んでふさぎ込む以前に、御本尊様に向かう姿勢を持ち、御題目を唱えることです。そこに、凡眼で見ていた世界が、仏様の有り難い眼を頂いて、透き通った世界が見えるはずです。これを「仏眼」といいます。御本尊様から頂く尊い六根清浄の功徳です。「仏眼」を頂くと同時に、「歓喜」の気持ちが必ず生まれます。
 よろこびという「歓喜」が、真っ暗な人生を明るく変えるのです。


天変地夭の因は歓喜を忘れた謗法から

2005-11-21 | 手引書⑨

 「歓喜」を忘れると、謗法に汚染された三毒強盛な命になります。その結果「依正不二」により、国土世間という私達が住む環境の気候に異変が起こります。それが「天変地夭」です。
 日蓮大聖人は『一生成仏抄』に、
 「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」(御書46)
と仰せの如く、私達の気持ちに生まれる感情が、環境を大きく作用するのです。その姿は五濁となって現れます。現在、正しく末法濁悪世の動かぬ現証が明白となり、多くの人々の心が汚れ、住む環境も汚染されています。
 謗法の「歓喜」は一時的なよろこびで、様々な苦悩にすぐ打ち消されます。六道輪廻し永遠に続くことがありません。しかし、信心で御本尊様を受持するところの「歓喜」は、現当二世といわれるように、現在と未来に不動の「歓喜」を築き上げるのです。「歓喜」を邪魔する働きを一切払拭させ、戒定慧の三学の意義において、有り難い功徳を得ます。それが正しく「我此土安穏」と「常寂光土」へと通じるのです。
 『新池御書』に、
 「是くの如く善神は此の謗法の国をばなげ(歎)きて天に上らせ給ひて候。心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり」(御書1458)
と御指南のように、謗法が横行するために国土を守護する善神が去ってしまい、その結果「天変地夭」が起きています。心が汚れるのは、法華経である御本尊様を信じず、身口意の三業に、御題目の南無妙法蓮華経を唱えないからです。
 「天変地夭」とは、天変と地夭のことで災害を意味します。天変は天に起こる変動、日食・月食・暴風雨・雷などです。地夭は地に起こる変異、地震・洪水・噴火などです。日蓮大聖人は『立正安国論』に詳しく御教示です。正しい仏法を蔑ろにするために、人々の心が荒み、その姿を嘆いて諸天善神が「天変地夭」という形をもって、私達に警告するのです。
 具体的に、信心しなければ、何故謗法が「天変地夭」の原因であるか考えてみましょう。先に触れたように、「歓喜」を忘れ、貪瞋癡の三毒が人々の心に強くなったからです。この三毒は、国土世間となる環境に大きな影響を持ちます。環境破壊と言うことで、様々な問題が世界で取り上げられています。環境破壊の原因は、自己中心的な己の我慢からきています。つまり十四誹謗を犯すところからです。信心をすれば我慢を正しく律することが出来ますが、謗法の思想に執着するため、貪瞋癡が旺盛になり三毒によって、環境破壊が生まれます。私達の心の中にその原因があるのです。一人一人が気を付ければ問題ありませんが、「一人ぐらい大丈夫」という安易な気持ちを何万という人が持てば、自ずと「塵も積もって」多大な環境破壊へと通ずるのです。
 「歓喜」は、悪を止める「防非止悪」の働きもあります。貪瞋癡の三毒と「歓喜」を同時に出来る人はいません。「歓喜」を持続させるところに、「天変地夭」を防ぐ原因があり、信心しかないのです。勤行唱題で「歓喜」の気持ちをつくることです。寺院での唱題行は「歓喜」をつくる大切な修行であり、唱題行に「天変地夭」を防ぐ働きがあります。


私達の五陰が三毒を生成する

2005-11-21 | 手引書⑨

 私達の五陰が三毒という貪瞋癡を生成し、四苦八苦の「五陰盛苦」という、生きていく苦しみを作り出します。
 私達の生命活動を構成する五陰が、因縁に依って三毒をつくり、信心をしない人は、貪瞋癡の三毒を菩提へ転ずることなく、八邪(邪見・邪惟・邪語・邪業・邪命・邪方便・邪念・邪定)からくる間違った考え思想を持つのです。それが、冥罰となって謗法になります。三毒が、現実を明らかに見えなくする根本で、現実を曇らせる色眼鏡となります。その結果、正しく見ることが出来ず、人々の言動が乱れ、環境破壊に繋がり、大聖人が仰せになる「天変地夭」となって顕れます。
 信心は八つの邪な考えを止め、仏様の仰せになる正しい考えを持ち、人生の迷いや悩みを解決します。
 日蓮大聖人は「五陰」について『一念三千理事』に、
 「五陰(おん)とは、新訳には五蘊(うん)と云ふなり。陰とは聚集(じゅじゅ)の義なり。一には色陰(しきおん)、五色是なり。二に受陰(じゅおん)、領納(りょうのう)是なり。三に想陰(そうおん)、倶舎に云はく「想は像(ぞう)を取るを体と為す」文。四に行陰(ぎょうおん)、造作是行なり。五に識陰(しきおん)、了別是識なり」(御書102)
と仰せです。つまり「五陰」とは、色陰・受陰・想陰・行陰・識陰です。外見である色(外見)においては、沢山の色があります。外見の裏となる内面では、受・想・行・識という「陰」が内面で働きます。貪瞋癡の三毒は、外界のある因縁により、受陰という心に受け止めることで発生します。受け止めたところに、心で思い巡らす想陰で、様々な感情が心で働きます。この時に悩みや迷いが生じ、三毒が生成されます。その感情が衝動にかられ、行陰という姿となって行動に出るのです。色心不二がそこにあります。識陰は、心の本体であり、三毒と深く関わってきます。三毒に対する正邪・善悪の命令は、識陰が成すところです。信心では、識陰の部分を日蓮大聖人の御指南にそって、根底から意識を改革し、勤行唱題で五陰を清浄にします。つまり信を持ち九識を観じるのです。それが『日女御前御返事』に、
 「只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都とは申すなり」(御書1388)
と御指南です。改革することで、三毒を止め菩提へと転じ、成仏へと繋げていきます。邪な人生を堕落させる気持ちは、識陰で過去世の業と複雑に関係し、表面化するのです。人間を外見や第一印象で安易に判断できない面がそこにあるのです。折伏では、相手の五陰を正確に分析することが必要です。この分析力が生活のあらゆる場面に役立つはずです。それが「信心即生活」で、「常寂光土」の実現に繋がります。
 この信心の意識が世界に弘ることで、環境破壊や「天変地夭」を防ぐことが出来ます。具体的に、その方法が『御義口伝』に、
 「されば妙法の大良薬を服する者は貪瞋癡(とんじんち)の三毒の煩悩の病患(びょうげん)を除くなり」(御書1768) 
と御指南です。御本尊様に御題目を唱えることで、貪瞋癡の三毒を除くことが出来ます。三毒を除き、六根清浄を得た命で生活することにより、安定した社会が築き上げられます。『始聞仏乗義』に、
 「苦果の依身は其の根本を探り見れば貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒より出ずるなり。此の煩悩・苦果の二道に依って業を構ふ」(御書1208)
と御教示のように、私達が苦しむ根本原因は、貪瞋癡の三毒であると大聖人は仰せです。三毒を菩提に変えられるよう、勤行唱題で磨いていきます。
 御本尊様を受持するところに、五陰を知り、三毒という体内で生成される毒素を変毒為薬していくことが出来ます。