正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書⑪)

2005-11-21 | 手引書⑪

150.肉眼に依ると迷いが生まれる(五眼)

151.信じることで智慧を得る「以信代慧」

152.心を塞ぐ五つの蓋「五蓋」

153.人によって見方が変わる「一水四見」

154.我見で推し量る「我田引水」

155.我見を捨てた信伏随従の大切さ

156.我を振り返る信心「観心」とは

157.過因が現果に、現因が未来果へ

158.因果に応じて受ける報い「因果応報」

159.毒を変じて薬と為す「変毒為薬」

160.怪文書や誹謗中傷記事について

161.退転と不退

162.色花ではなく御樒を御供えする理由

163.因縁と共にする人生

164.依正不二とは


肉眼に依ると迷いが生まれる(五眼)

2005-11-21 | 手引書⑪

 私達が、人生に迷う原因は、肉眼を根本とするためです。肉眼は、因果の道理に迷い、善悪の立て分けが明確に出来ず、悪道に進み迷い多き眼です。 
 日蓮正宗の信心をしない多くの人は、肉眼に頼り生きています。学問に志し、知識を身に付ければ天眼や慧眼に通じるものはありますが、最高の仏様が具える「仏眼」は御本尊様を受持し、御題目を唱えなければ得ることが出来ません。
 御本尊様に御題目を唱えることで、肉眼が六根清浄の一分を得て、現実を明らかに見え、悪道に進む原因を断ち、仏眼を具えることになります。
 五眼とは、『大智度論』に説かれている五つの眼力のことです。
①肉眼 肉身に具わる眼。
②天眼 天人が所用している眼。遠近内外昼夜の別なく見る。また未来の生死を知る能力がある。
③慧眼 一切の現象は空であると達観し、その理を見抜く二乗の眼。
④法眼 菩薩が一切衆生を救うために一切の法門を照らし見る眼。
⑤仏眼 真理のすべてに徹して一切に観ずる仏の眼。他の四眼もことごとく具足する。
以上が、五眼です。日蓮大聖人は『五眼御書』に、
 「法華経の行者は肉眼なれども、天眼・慧眼・法眼・仏眼を備ふととかれて候」(御書1674)
と有り難い御指南をされています。法華経の行者とは、御本仏日蓮大聖人だけであり、大聖人の仰せになるままに、私達も信心修行を素直に行えば、迷い多き肉眼が、天眼・慧眼・法眼・仏眼を具えていくことが出来るのです。五眼を頂くことで、成仏が叶うのです。
 迷える肉眼は、折伏のために、迷い多き人々の気持ちを知るため重要な働きをなします。肉眼も大切な役目があります。信心をすれば、肉眼も正しい道筋のもとに活かされるのです。つまり、迷いの根源である煩悩の存在を肉眼で明らかに見つめ、我が身に人生の迷いを体験し、御本尊様に御題目を唱えることで、仏眼を具えて煩悩の正しい扱いを見出します。「以信代慧」によって、智慧が頂けるのです。
 御本尊様を疑うところには、仏眼は具わらず、肉眼だけが常に顔を出し、三毒強盛となり、退転していきます。顕益ではなく冥益を信じて、地道に信心するところに、有り難い仏果となる仏眼を得るのです。
 毎日の勤行唱題するところに、仏眼を具えることが出来ます。気持ちを落ち着け、御本尊様と境智冥合するところに、自然と仏眼を具えていきます。欲望に翻弄された我見を払拭させ、禅定の境地に入ることにより、現実の微妙な変化が五感に感じることが出来るのです。大聖人の御指南を心肝に染め、五感で感じていくことが大事です。我見が中心となった肉眼では、感じていくことは出来ません。同じ勤行唱題をしていても、以上のことを理解しているか、していないかで、自ずと御本尊様から頂く功徳に天地雲泥の差が生まれます。身口意の三業を調え、落ち着いて勤行唱題に精進することが大切でしょう。
 信心をしていても、肉眼と仏眼を混同させることなく、時の御法主上人の御指南を仰いで行くところに、有り難い仏眼が具わるのであります。


信じることで智慧を得る「以信代慧」

2005-11-21 | 手引書⑪

 智慧は、生きていく上で必要なことです。智慧がなければ、有意義に過ごすことは出来ません。知識と智慧は、混同されやすいですが、根本的に違います。知識は頭に入っているだけで、智慧は実生活に密着したものです。日蓮正宗の信心は、知識を身に付けるものではありません。智慧を御本尊様から頂き、生活を快適にしていくものです。
 知識だけでは観念的になり、自己満足に終わります。信心を知らない多くの人は、多くの知識に溺れ、その結果、様々な弊害が起き、世の中を混乱させているのが現実です。智慧は身口意の三業にわたるものですが、知識は、意である心の部分で止まる習性があります。知識は、現場で具体的に応用を効かせて行かなければいけません。知識だけでは、宝の持ち腐れであり、頭でっかちで終わります。信心は、知識の弊害を回避して、智慧に変えていき、生活をより快適にするのです。
 信じることで智慧を得るとは、「以信代慧」であり、三大秘法の御本尊様を信じることによって、人生の苦難を生きる智慧を得るのです。人生には四苦八苦という嵐が予期せぬ時に現れます。この苦難に備え、信心をして心の準備を毎日行うのです。それが御本尊様に向かう勤行唱題です。
 勤行唱題する中に、個々の生活に起こりうる、苦難に対する智慧を御本尊様が、冥の照覧のもとに、さり気なく功徳を冥益という姿で注いで下さるのです。私達はここに日々、感謝申し上げなければいけません。それは、毎月の御講に参詣することで、御報恩申し上げることが出来ます。御報恩申し上げなければ、冥の照覧において、冥罰を未来に得ることになります。
 日蓮大聖人は『四信五品抄』に、
 「慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提(いっせんだい)謗法(ほうぼう)の因、信は慧の因、名字即の位なり。」(御書1112)
と御指南であります。「以信代慧」について仰せになられた御書です。不信という、御本尊様を疑えば、謗法の因となって地獄に堕ちる原因をつくります。
 信じることで智慧の原因をつくり、苦難を乗り越える、大聖人の御精神に通じる精神を養うことが出来るのです。人生の苦難を乗り越える精神を養うところは、気持ちが落ち着かない仕事場や家庭では出来ません。様々な雑念が生まれ、正しい智慧を得ることが出来ません。反対に邪智が身に付き、人生を崩壊させる智慧が多く存在します。この邪智に汚染されない智慧を身に付ける場所が、日蓮正宗の寺院になります。現当二世に渡る有り難い智慧を本堂に在す、御本尊様から智慧を頂くことが出来るのです。寺院参詣により、御本尊様の智慧に浴することが出来ます。
 各家庭に安置されている、御本尊様でも智慧を得ることが出来ます。毎日、規則正しい生活の中で、欠かさず朝夕の勤行を行うことです。そして、月に一度は日蓮正宗の寺院に参詣し、本堂の御本尊様に御題目を唱える習慣を持ちましょう。仕事や生活に追われる毎日には、何時の間にか、心に汚れが付くものです。心の汚れがあると、智慧が得難くなります。寺院に参詣することで、智慧を得やすくする働きがあり、智慧は御本尊様を信じて、雑念を払拭させ気持ちが落ち着いたとき、御題目を唱えるところに有り難い智慧が生まれます。 


心を塞ぐ五つの蓋「五蓋」

2005-11-21 | 手引書⑪

 「五蓋」は信心を妨げる働きをし、成仏に向かう心に、五つの蓋をします。天上界より上に行かせまいとする、第六天の魔王が使う、通力の一種です。
 また人生には、多くの扉があり蓋(ふた)がされています。それを「五蓋(ごがい)」といいます。その扉は、私達の心の蓋「五蓋」と深い関係があり、一つ一つ蓋を開けながら人生を歩んでいきます。勤行唱題において、五つの蓋を開いて人生を歩んでいくわけです。
 「五蓋」とは、衆生の心を覆い隠し、善法の心を生じさせないようにする五つの煩悩です。「五蓋」は悪道に縁付ける作用があります。悪道を邁進する人は、心に五つの蓋がされていることが理解できます。悪人も改心し信心に目覚め、心の蓋を開けば善人に変わるのであります。それが「悪人成仏」になるのです。
 蓋とは、蓋覆(がいふく)の義。五つの煩悩とは、貪欲蓋・瞋恚蓋・睡眠蓋・掉悔(じょうけ)蓋・疑蓋です。
 貪欲蓋とは、五欲に執着すること。瞋恚蓋とは、いかり、うらむこと。睡眠蓋とは、身心共に眠ったり、積極的に働きかけようとしないこと。掉悔(じょうけ)蓋とは、掉は心がせわしく動くことで、悔は悔い憂いて心が沈むこと。疑蓋とは、法に対して疑い迷うこと。私達が生きていく人生には、これらの「五蓋」という、人生の行く手を阻む蓋がしてあります。一生成仏を目指す、私達には一生涯共に付き合い、善知識として考えた場合、成仏の助縁となる作用をなします。
 心の蓋を取り去る時に、信力・行力が高まり、有り難い力をなすものです。心に生じる「五蓋」に素直に従えば、六道輪廻の生活に戻り、心の蓋を自由自在に開閉でき、化他行においても、相手の心の蓋を自由自在に開閉できるようになれば、そこに、広宣流布への道が地道に開かれるのであります。
 人間関係の難しさは、この相手の心に潜む「五蓋」と、どの様に付き合っていくかということが課題になります。相手の心の蓋を、勤行唱題で明らかに見られるように、日々精進することが大切です。自己中心的になると、相手の「五蓋」は全く見えなくなり、対人関係に亀裂を生みます。教化育成には、講員一人一人の、心の「五蓋」を家庭訪問の折、分析し大まかな把握をすることが大事です。そこに教化育成の円滑化がはかれます。
 折伏では、相手の心を閉ざす「五蓋」に悩まされるところです。三惑という塵沙惑になり、微塵に細かい惑が張り巡らされています。自行において、塵沙惑を取り除くことが必要です。
 法統相続においても、「五蓋」が様々なところで、行く手を塞ぎます。必ず処理しなければいけない問題です。勤行唱題において、蓋を取り除く智慧を、御本尊様から頂き、教化育成することが必要です。夫婦間で異体同心し、よく話し合い、御住職様や講中に於ける諸先輩方に、御指導を頂くことが非常に大事です。世間で、「虐待」が取り上げられていますが、「五蓋」が大きな原因を持ちます。「五蓋」を完全に払拭させれば問題ありませんが、多くの人は信心を知らないため、「虐待」の惨事を招き、人生に後悔をするのです。相談をする相手を持たず、自分で処理するために生じる惨事です。
 日蓮大聖人の教えのもとに、信心をすれば「主師親の三徳」が自然と身に付きます。つまり、心の蓋「五蓋」を取り除く徳が、「主師親の三徳」という御本尊様から頂く徳が具わるのです。「五蓋」は「三徳」を御本尊様から頂くことで、蓋を開くことが出来るのです。
 「五蓋」を取り除く智慧は、寺院参詣にあります。唱題行には、率先して参加しましょう。


人によって見方が変わる「一水四見」

2005-11-21 | 手引書⑪

 同じ水でも、四つの見方があります。第六十七世日顕上人は『観心本尊抄』の御説法の折に、
 「一水四見」という言葉がありますけれども、恒河の水を餓鬼は火と見る、人間は水と見る、天人は甘露と見る、菩薩は無量の法門と見るということで、一つの水でもその境界果報によって受け方、感じ方が違うことを言います。」
と「一水四見」について御教示です。意見の食い違いは、この「一水四見」からきています。千差万別という言葉もありますように、「一水四見」が更に人の性格や育ってきた環境により、無尽の見方が生まれます。人間関係の難しさも「一水四見」が原因となっている部分があります。
 折伏では「一水四見」に悩まされるところです。信心に対し、未入信の人は、今までの人生観と価値観で判断するために、折伏成就の弊害になります。つまり、御法主上人が仰せになる「境界果報によって受け方、感じ方が違う」ことになります。ここを回避することで折伏の成就があり、折伏の難しい一面です。
 生活全般に渡っても、他人がもたらす「一水四見」に、私達は迷わされながら生活をしています。お互いの意見があわないのも、「一水四見」が災いしています。多くの人は、一つの見方に執着するために起こります。また、これが「我見」となって、成仏の妨げとなり、凡眼凡智を決定付ける要素を持ちます。
 信心では、「柔和忍辱衣」を心に纏うことで、気持ちを柔軟にし、見方を和らげ、より現実を明らかに見ることが出来ます。凡眼凡智という、偏った見方は我慢偏執であります。柔軟性に欠け現実を歪めて見る傾向があり、更に人間関係に亀裂を生む原因があります。これは、信心において「異体同心」していくため「柔和忍辱衣」は大切な心がけです。信心に志すことで、回避することが出来ます。世の中では、六道輪廻という、三惑がドンヨリとした、欲界に満足する人達が多いため、「一水四見」が広布に向けての壁になっています。
 日蓮大聖人は「一水四見」について『曽谷入道殿御返事』に、
 「此の経の文字は皆悉く生身(しょうじん)妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼(にくげん)なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河(ごうが)を火と見る、人は水と見る、天人は甘露(かんろ)と見る。水は一なれど果報に随って別々なり。此の経の文字は盲眼(もうげん)の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空(こくう)と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色(こんじき)の釈尊と御覧有るべきなり。即持仏身とは是なり」(御書794)
と仰せのように、「一水四見」を譬喩として、御本尊様に対する見方に違いがあることを御指南です。当然ですが私達は、御本尊様を仏様と拝し奉ることです。仏様と崇めるとき、御本尊様から有り難い功徳を頂くことが出来ます。貪瞋癡の三毒が災いし、疑ったりしては功徳はありません。
 「一水四見」は、その時の気持ちと水の性質によって表現された見方でもあります。水は、私達にとって必要な資源です。しかし反面、「餓鬼は恒河(ごうが)を火と見る」と仰せのように、時として災害という姿に豹変すれば、同じ水でも、火のように恐ろしい存在に変わります。この恐ろしい一面を止める働きは、日蓮正宗の信心以外にないのです。それが折伏であります。
 水の悪い面を恐れ、水の有り難いところを生活に活かすことです。そこに成仏の境界があり、「一水四見」の更に深い意味には、人の短所を庇い、長所を褒めることで人間関係が円滑にいくという教訓が隠されています。


我見で推し量る「我田引水」

2005-11-21 | 手引書⑪

 「我田引水」とは、自分の田へ水を引くという意味です。物事を、自分の利益となるようにひきつけて言ったり、したりすること。自己中心的な我見です。
 「我田引水」は成仏の妨げであり、我欲が深く関係してきます。その背景には、自分の利益の他に、自惚れや慢心があり、他人より勝れているといった、人生経験への自信や我慢偏執が窺えます。
 「我田引水」の「我」とは、我見・我慢・我執という、我が中心となり、生まれてから現在に至るまで身に付けた、人生経験が根底にあります。時として、この人生経験が成仏を邪魔し、私達が行う折伏の魔となり変わります。
 日蓮正宗の教義は「我田引水」に依るものではなく、仏様の御指南に添うものです。第六十七世日顕上人は「興教寺移転新築落慶法要の砌」に、
 「末法という時代はむしろ衆生の機根がどんどん落ちて五濁乱漫の世の中であるが故に、むしろ最高の正しい法華経という教えによらなければ救われることができないのであるということを、釈尊自ら仰せであります。そういう点からも、日蓮正宗においては広い教えを偏狭な考えで投げ捨ててしまって、我田引水でこれだけがよいのだというのでは絶対ないのです。南無妙法蓮華経という法華経の根本の教えのなかに小乗教も大乗教も、そのほか一切の教えが全部篭っておるわけであります。それだけに教えが深いのであります。その深い教えをきちっと時に応じて修行することによって、そのほかの一切の教えの用きもそこにくっついて、必ず顕れてくる」
と御指南であります。日蓮正宗の教えは、釈尊の説かれる経典に違背するものではありません。
 「我田引水」は、正しい仏法を自分自身の見解で判断する意味にも使用される四字熟語です。その例として、民主主義や人間主義に陥ったり、「私はこう思う」とか「いや違う」という様々な表現で、「我田引水」を表面化した言語が多種多様にあります。創価学会員の方と対話をすると、多種多様で表現豊かな「我田引水」を学ぶことが出来ます。非常に有り難い善知識です。
 「信伏随従」という信心において、重要な精神が養われていれば「我田引水」は生まれません。成仏し難い仏法となる由縁の一つが「我田引水」です。更に「難信難解」を引き起こす因が「我田引水」となります。何れにしても、「我田引水」は信心においてマイナス作用があります。
 日蓮正宗にある相伝仏法を、浅はかな「我」で判断することは禁物です。「私はこう思う」という、見解は信心において慎まなければいけません。その気持ちが、成仏の道を閉ざします。
 「我田引水」を起こさない信心は、時の御法主上人に「信伏随従」することです。常に自分自身の信心を振り返る姿勢を、勤行唱題で心がけることであります。


我見を捨てた信伏随従の大切さ

2005-11-21 | 手引書⑪

 「信伏随従」とは、信じ伏し随従することです。信心では、正しい師に「信伏随従」していくところに即身成仏があります。間違った思想に「信伏随従」すると不幸になるわけです。
 その反面、自分はこう思うという我見は、三惑が邪魔している証拠です。心に汚れが付着していることを恥じましょう。入信以前に身に付いた、謗法の垢が、見思惑となって現れ、心の汚れである謗法の垢を御本尊様が表面に出して頂いた証拠であります。つまり、心の汚れが洗い流されている段階です。素直に、心の惑いに従うことなく、正しい師に「信伏随従」していく信心を全うしましょう。その惑いは、冥益により徐々に弱められ消滅していき、六根清浄の因を、また一つ積ませて頂くことを歓ぶことです。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
 「信とは無疑曰信(むぎわっしん)明了なるなり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり。所詮今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る行者は末法の不軽菩薩なり」(御書1778)
と「信伏随従」について御指南であります。「信」とは、無疑曰信という、疑い無きを信と曰うことです。疑い信じない人は、信伏随従できません。「伏」とは、法華である「下種三宝」に帰依し伏することです。「随」とは、我慢偏執を改め、心を柔和にして、法華の心である「下種三宝」に、気持ちを冥合させることです。「従」とは、身口意の三業である、私達の身を経の心に移します。つまり、信心以外に生まれる、心の災いを止めていくということになる「戒」の意義があります。そして、御題目を唱えることが口業となり、「信伏随従」には、身口意の三業を調えることが重要であるといえます。
 「信伏随従」することで得られる御利益は、「信」により、素直さや正直さが養われ、「伏」において、我見を誡めた耐え忍ぶ「忍辱衣」が身に付き、「随」においては、柔和という心に柔軟性が出来上がり、変動多き世の中に適応し易い能力が培われ、「従」においては、正しい教えに従うことで、悪道に行く災いを防ぐことになります。以上の御利益があるわけです。この上に、様々な形で、私達の生活の場に、有り難い冥益が目に見えてきます。
 日蓮正宗の信心は、時の御法主上人に「信伏随従」していくことが重要です。そこに、以上の御利益が顕現されます。
 我見が「信伏随従」の妨げとなりますが、我見とは『一代聖教大意』に、
 「見惑とは一には身見亦我見とも云ふ」(御書87)
と日蓮大聖人が御教示のように、三惑である見思惑の見惑です。現実を歪めて見る、見方であります。歪められているものを事実であると見るのが、我見ということになるのです。「信伏随従」することで、我見を払拭させ、歪められたものが明らかなものへと見えるように変わるのです。創価学会の方は、見思惑が心の災いをなすため、物事が正しく見えなくなっています。そのため、日蓮正宗を誹謗中傷するのであります。勧誡を受け心の汚れ見思惑を洗い流すことが必要です。
 お互いが、我見を用いて議論するところには、非常に哀れな感じを受けます。歪められた見解同士が、議論をしても、当然、話は纏まらず、共通点を持たなければ先に進みません。
 日蓮正宗の信心は、我見を捨てた「信伏随従」が大切なのであり、我見を捨て御本尊様を疑うことなく信じるところに幸せがあります。


我を振り返る信心「観心」とは

2005-11-21 | 手引書⑪

 信心をしていく過程で、自分自身を振り返る信心が必要です。時が経つと、人の心は様々な縁に触れてぐらつき、信心を忘れたり、化儀でない所作を、化儀と錯覚したりと弊害が生まれます。日蓮正宗の寺院に参詣することで、我を振り返る信心が出来、成仏が確実になります。
 毎日の勤行唱題が、我の信心を振り返る大切な時間になります。悪縁を止め、心の平静を取り戻し、生きていくための智慧を御本尊様から頂く時です。
 「観心」とは、「心を観る」ということです。つまり、御本尊様に対する信心が、確かであるか、我を振り返るという意味です。「下種三宝」に向けられた心の上から「観心」を理解することです。心が我見になってはいけません。故に日蓮大聖人は『兄弟抄』に、
 「心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文なり」(御書987)
と御指南です。私達は「下種三宝」を「心の師」として、「我見」である私達の心を、師としてはいけないのであります。我見を師とするところに、迷いが生まれてきます。私達の心を師とすることは、禅宗で説く「見性成仏」であり、自己の本性が、仏そのものという邪義であります。慢心を助長させる悪因であり、成仏を遠ざける考えです。
 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
 「観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり。譬(たと)へば他人の六根(ろっこん)を見ると雖も、未だ自面(じめん)の六根を見ざれば自具(じぐ)の六根を知らず、明鏡(みょうきょう)に向かふの時始めて自具の六根を見るが如し。設(たと)ひ諸経の中に所々に六道(ろくどう)並びに四聖を載(の)すと雖も、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり」(御書646)
と仰せです。「観心」とは「我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり」ということであります。「我が己心」とは、「我」が御本仏日蓮大聖人であり、日蓮大聖人の心を観じて、私達の心が十界の、どの状態にいるのか、冷静に見つめ、勤行唱題根本に唱えて行くところ、私達の心が明らかに見え、直すべきところや、成仏していく上で失ってはいけない気持ちが、はっきりと見えてくるということです。
 現世利益ばかり求めると、以上のことが全く見えず、悪縁に紛動されやすい人間形成をすることになり、自己中心的な我見が根本になります。
 日蓮大聖人の心を観じるとは、御内証であり、つまり、御法主上人が御相承されておりますので、御法主上人の御指南を拝していくことになります。
 勤行唱題で養った、心のゆとりを継続させることが大切です。そこに「我此土安穏」な境界を現実のものにする因が潜んでいます。信心と生活は、別問題ではありません。「信心即生活」であります。自分自身の心を日蓮大聖人の御指南と照らし見つめることが大切です。


過因が現果に、現因が未来果へ

2005-11-21 | 手引書⑪

 過因が現果に、現因が未来果へということは、過去の原因が現在の結果であり、現在の原因が未来の結果になるということです。
 世の中は、原因と結果から成り立っています。善いことをすれば、善い結果が生まれ、悪いことをすれば、悪い結果が生まれます。釈尊は、因果について『心地観経』に、
 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書571)
と説かれています。今の自分は過去に原因があり、今行っている事柄が、原因となり未来があるということです。信心を知らない多くの人は、この道理を理解できない姿が見受けられます。そこに不幸になる原因があります。
 何をどうすればいいのか、闇雲に人生を生きる人が横行しています。その場限りの欲望に翻弄され、後先考えず、六道輪廻の毎日に投げやりな人生を送っている人もいます。これも、信心を知らないために生まれている現証です。
 勤行唱題において、原因結果を明らかに見ていく眼を養うことが大事です。養うことで、悪因を止め、善因を作ることが出来ます。この積み重ねに、最高の境界、成仏があります。変動多き世の中を、勤行唱題根本に生きていくところ、順応性が身に付くため、適切な行動をとることが出来るのです。
 第二十六世日寛上人『六巻抄』の『三重秘伝抄』に、
 「十如是とは相・性・体・力・作・因・縁・果・報等なり。如是相とは譬えば臨終に黒色なるは地獄の相、白色なるは天上の相等の如し。如是性とは十界の善悪の性、其の内心に定まって後世まで改まらざるを性と云うなり。如是体とは十界の身体色質なり。如是力とは十界各の作すべき所の功能なり。如是作とは三業を運動し善悪の所作を行ずるなり、善悪に亘って習因習果有り、先念は習因、後念は習果なり。是れ則ち悪念は悪を起こし、善念は善を起こす、後に起こす所の善悪の念は前の善悪の念に由る。故に前念は習因即ち如是因なり、後念は習果即ち如是果なり。善悪の業体を潤す助縁は是れ如是縁なり。習因習果等の業因に酬いて正しく善悪の報を受くるは是れ如是報なり。初めの相を本と為し、後の報を末と為し、此の本末の其の体究まって中道実相なるを本末究竟等と云うなり云云」(六巻抄10)
と御教示のように、厳密には、原因結果の背景に、十如実相が深く関係してきます。信心することで、原因結果だけではなく、更に深く現実の本質を明らかに見ていくため、十如実相を見ていきます。日蓮正宗の信心をしなければ絶対に見ることが出来ません。勤行唱題をし、御本尊様と境智冥合するところに明らかに見えるようになります。
 十如実相は、先の『心地観経』と違い、『法華経』の法門です。つまり、権実相対されて、実教においてより勝れた教義になります。
 現実には、原因と結果だけでは、到底、判断しにくい部分があり、その部分を回避したのが『法華経』に説かれる十如実相となります。私達が、朝夕の勤行で唱える「方便品第二」です。
 毎日の勤行唱題を欠かさないところに、御本尊様から智慧を頂き、十如実相が見えてくるのであります。


因果に応じて受ける報い「因果応報」

2005-11-21 | 手引書⑪

 「因果応報」とは、過去における善悪の業に応じて、現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずることです。
 第六十七世日顕上人は「開目抄の御説法」で、
 「善因善果、悪因悪果といって、善いことを行えば善い結果が現れ、悪行は悪果を呼ぶということでありまして、この因果応報の法則を信ずるのが仏弟子でもあり、また、人間の人間らしい姿でもあるわけです。」
と御指南であります。私達、日蓮大聖人の弟子は、当然「因果応報」の法則を信じることです。信心をすれば必ず成仏できるということも、「因果応報」に繋がっていきます。原因と結果に応じた報いが、全てにおいてあるのです。
 インドの釈尊はある日、十大弟子の一人、神通第一の目連に、亡き母の果報についてこういいました。「目連よ、常々よいことをしていれば良い結果が報いられ、悪い種子をまけば悪い実がみのるのです。お前の母は、自分の欲ばかりに目がくらみ、恵みということを知らなかった。だから死んだ後までも欲心にしばられて、そのように苦しまなければならないのです。」といわれ因果応報を説かれています。
 「因果応報」を全く無視した世の中になっております。多くの人は、その場限りの欲望に翻弄され、その先に訪れる結果や報いを考えない人が横行しています。そこに不幸を招く原因結果が厳然とあります。これは末法濁悪の世相であり、信心をしなければ治ることのない心の病です。信心をしないため、更に悪循環を生み、三毒強盛な生命の濁りに、身心が汚染されているのであります。私達は折伏をすることで止めることが出来、三毒という心の汚れの感染を防ぐことが出来るのです。
 勤行唱題により、「因果応報」の生活に於けるあり方を見つめていくことが大事です。その報いとして現当二世である「現世安穏・後生善処」が現実のものとなります。
 「因果応報」の原理を眩惑する働きが、三毒や三惑になります。つまり煩悩であります。因果関係を混乱させ、人生を不幸にさせる根源となります。信心では、この根源を御本尊様から智慧を頂き明らかに見ていき、因果関係を明確にし、三毒や三惑の働きに迷わされることなく人生を歩んでいきます。
 私達は、この世に生を受ければ、必ず四苦八苦を経験します。この世に生まれた原因により、苦しみという結果が生じるのです。苦しみの結果によって応じる報いがあります。信心をすることで、苦しみが根源となる「因果応報」の流れを全て煩悩即菩提させ、智慧に変えていきます。また、勤行唱題で流れを明らかに見つめ、苦しい方向に流れる向きを変え、人生を明るくする薪の役目に利用します。それが煩悩即菩提であります。
 生老病死は、人により苦しみの結果に応じて受ける報いに違いがあります。そこには、更に複雑な因縁果報があり、「十如実相」という法華経だけに説かれる難解な法門があります。しかし、怠ることなく勤行唱題を勤めることで「十如実相」を自然と知ることが出来ます。「十如実相」を知ることで、「因果応報」の流れを明らかに見ることが出来ることになり、唱題行にその道を開く鍵があります。