福田とは、田が作物を生ずるように、供養することにより福徳を生ずる対象。三福田(さんぷくでん)や八福田(はちふくでん)があります。
三福田は、供養すれば福徳を得ることのできる三つの対象。敬田(三宝)・恩田(父母)・悲田(貧苦者)、または報恩福田(父母)・功徳福田(三宝)・貧窮福田(貧苦者)ということです。
八福田が、(これらに施すとよく福を生むことを、田の稲を生ずることにたとえていう) 仏・聖人・和尚・阿闍梨あじやり・僧・父・母・病人に施すことです。異説もあります。
日蓮正宗で説くところの「福田」を考えた場合、折伏や育成、そして法統相続に関係し、人の心の「田んぼ(福田)」に種を植え育てていきます。つまり「下種」です。縁ある人の「福田」に御題目の南無妙法蓮華経を植えていきます。末法は「本未有善」という、未だ善となる仏様の種が命に植えられていない人が生まれてくる時です。信心を知らない人に、御題目を教えていく時代です。「福田」に御題目の南無妙法蓮華経を、植えていくことが非常に大事であります。「福田」に植えられた種を育てるための肥料は、日蓮大聖人が説かれる教えでなければいけません。
末法時代では、法華経以外やまた釈尊の法華経では、「福田」に種を植えたことになりません。末法に下種する種は、釈尊在世の教えでなく、日蓮大聖人の文底下種仏法でなければいけません。釈尊の仏法では、かえって毒となって不幸になります。それは釈尊自らが、大集経において説かれています。それが「白法隠没」ということで、日蓮大聖人は『上行菩薩結要付囑口伝』に、
「今末法に入って仏滅後二千二百二十余年に当たりて聖人出世す。是は大集経の闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)の時なり云云」(御書944)
と御教示のように、末法の人々の「福田」には、末法に出世される聖人が流布する種でなければならないのです。
日蓮大聖人は『衆生心身御書』に、
「ひへ(稗)のはん(飯)を辟支仏(びゃくしぶつ)に供養せし人は普明如来となる。つち(土)のもちゐ(餅)を仏に供養せしかば閻浮提の王となれり。設(たと)ひこう(功)をいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設ひ心をろ(愚)かにすこ(少)しきの物なれども、まことの人に供養すればこう(功)大なり。何に況んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや。其の上当世は世みだれて民の力よわ(弱)し。いとまなき時なれども心ざしのゆくところ、山中の法華経へまうそう(孟宗)がたかんな(笋)ををく(送)らせ給ふ。福田(ふくでん)によきたね(種)を下(くだ)させ給ふか。なみだ(涙)もとヾまらず。」(御書1217)
と仰せです。文底の法華経に基づいた最高の種を「福田」に植えれば、計り知れない功徳があると御教示なのです。
「福田」に下種された種を育成するには、自行化他に精進することだけです。毎日の勤行唱題と折伏、寺院参詣や総本山への登山が大事です。それらを確実に行うことで、「福田」に植えられた種が育ち、成仏の境界へと向かいます。