正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

臆病にては叶ふべからず

2005-11-20 | 手引書⑫

 人間の心理として「臆病」という、臆する気持ちが縁に触れ生まれるものであります。意味は、ちょっとした物事にもおそれることで、一般的に、使われるところには、消極的で行動力のない、ひ弱な印象があります。
 日蓮大聖人は折伏の姿勢について『教行証御書』に、
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず。彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時、爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何(いか)に況(いわ)んや其の以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや」(御書1109)
と御教示であります。臆病になることなく毅然とした態度で、折伏するように仰せです。
 「臆病」について、考えてみましょう。まず、気持ちのなかに自信がないときに生まれます。不安や恐怖が、心の中を支配するとき臆病になります。臆病にならない方法は、不安や恐怖を取り除くことが大事です。つまり、信心においては、御本尊様に勤行唱題をすることで、自信を付けて、不安や恐怖心を払拭させることが出来ます。
 具体的な方法は、勤行唱題のなかで取り除きますが、臆病となる要素には、縁に触れて、不安や恐怖が生まれますので、その「縁」に対して動じないよう、「禅定」を意識し、更に御本尊様から強靭な精神を涌現させて頂くことで解決できます。心の中で、はじめは葛藤があります。この心の中で起こる葛藤に忍ぶことで、忍耐力が身に付き、不安と恐怖に自然と身心が慣れてきて、克服していくことが出来ます。焦らずに地道に臆病を取り除くことです。また緊張感も緩和できます。
 その他の方法として、一度、臆病になる事柄を完全に忘れ、自信を持って出来ることに集中し、その自信で臆病となる不安や恐怖を徐々に取り除いていき、自信を付けていきます。
 「臆病」とは、もう一つの見方として、生命に危険をさらさないための本能的な防衛機能であります。善知識と考えた場合には、有り難いところもありますので、準備を調えてから行うようにという警告と考えれば、臆病というものも必要であることが理解できます。臆病という言葉に対して、コンプレックスを持つ方には、準備を調えてから行うという警告と考えることが大事です。そこから、自分自身の劣等感から脱出することが出来ます。
 以上の考えは、御本尊様に勤行唱題するところに、臆病という心の迷いを取り除く力があります。信心をしないところには、臆病という心的障害が重くなり、縁に触れてすぐにまた臆病になる姿が多くなります。それがきっかけで、今まで自信を持って出来たことまでが、自信を失い臆病になることもあります。心の病を本当に改善するには、日蓮正宗の信心しかないのです。
 臆病は、一人で悩むところにあります。経験豊かな人と多く交わるようにして、不安や恐怖を取り除く方法を身に付けることです。その有り難い場所が、日蓮正宗の寺院になります。年齢層が非常に豊かであるために、一寸した心の迷いもすぐに解決できます。臆病な心は、寺院へ参詣して智慧を身に付けるところにあるのです。寺院で行われる御講や唱題行に参加することで、様々な方法を学ぶことが出来ます。
 臆病な気持ちを体験することが、折伏に活かされていき、人生に自信を失った人を救う使命があることに気が付きましょう。臆病を克服し、不安や恐怖を取り除き、その経験がすぐに折伏へ通じる智慧に変化し、地涌の菩薩としての使命を御本尊様から頂くことが出来ます。


仏法で説く鬼とは

2005-11-20 | 手引書⑫

 「鬼」とは様々な意味があります。「鬼」とは「隠」で、姿が見えないという意味があります。鬼は人々の心を脅かし、生きる気力を奪う行いをします。
 更に意味を上げると、①天つ神に対して、地上などの悪神。邪神。②伝説上の山男、巨人や異種族の者。③死者の霊魂。亡霊。④恐ろしい形をして人にたたりをする怪物。もののけ。⑤想像上の怪物。仏教の影響で、餓鬼、地獄の青鬼・赤鬼があり、美男・美女に化け、音楽・双六・詩歌などにすぐれたものとして人間世界に現れる。後に陰陽道の影響で、人身に、牛の角や虎の牙を持ち、裸で虎の皮のふんどしをしめた形をとる。怪力で性質は荒い。⑥鬼のような人。⑦非常に勇猛な人。⑧無慈悲な人。借金取り。債鬼。⑨ある事に精魂を傾ける人。⑩鬼ごっこなどで、人をつかまえる役。⑪貴人の飲食物の毒見役。おにやく。⑫紋所の名。鬼の形をかたどる。めんおに。かたおに。
 以上のように世間では、多くの意味が存在します。では、正しい仏法においてはどうであるのか、考えてみましょう。
 日蓮大聖人は『木絵二像開眼之事』に、
 「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。今真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。魔をたと(尊)むゆへに、後生には無間の獄に堕す」(御書638)
と仰せであります。これは創価学会で販売するところの「ニセ本尊」を破折するときに引用される文証ですが、鬼とは、人の命を奪うものであります。鬼は魔と親密な関係にあり、人々が鬼を崇めるところに魔が呼び寄せられ、国が亡ぶ方向にいくのです。日蓮正宗以外で、尊ばれている仏や神は全て鬼神が入れ代わっています。
 鬼神である悪鬼について『御義口伝』に、
 「悪鬼とは法然(ほうねん)・弘法(こうぼう)等是なり。入其身とは国王大臣万民等の事なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者を怨(あだ)むべしと云ふ事なり。鬼とは命を奪ふ者にして奪功徳者(だつくどくしゃ)と云ふなり。法華経は三世諸仏の命根なり。此の経は一切諸菩薩の功徳を納めたる御経なり」(御書1762)
と御指南であります。邪宗で尊ばれる浄土宗の法然や真言宗の弘法が悪鬼です。それらの邪師による教えを信じるために、国王や大臣、そして万民といわれる国民の身に、悪鬼が入り込む「悪鬼入其身」となっています。その証拠が、今現在の様々な悲惨な姿であります。
 「悪鬼」を身から払うには、信心をして御本尊様に御題目を唱え、心の魔に紛動されることなく、精進して信心を貫くことです。「悪鬼」は、人間が本来持つ正常な判断力を狂わせ、「頭破作七分」という状態を作り出します。つまり、精神に異常をきたし、周囲の人に迷惑をかけ、その人の私生活を破壊していきます。これは謗法の害毒が原因です。仏法で説くところの鬼とは、日蓮正宗以外の宗教であり、他宗派を信仰している人も、謗法の害毒によって鬼のような人格に変わり、後生には無間地獄に堕ちるのであります。


信心で過去の罪障を消滅させる

2005-11-20 | 手引書⑫

 過去の「罪障」は、信心をすれば完全に消滅させることが出来ます。御本尊様に勤行唱題することで「罪障」を消滅することが出来るのです。
 世間では、「罪障」を宿命と結び付けるところがあります。信心を知らない多くの人は、生まれ持ってきたものは、変えることが出来ず、宿命である宿業も当然、変えることが出来ないと思い込み、悲観的に人生を送る人がいます。信心をすれば、そのような考えは完全に無くなります。これは邪宗教の考え方であり、人生の行動範囲を自ら狭めることになり、非常に無駄な考えであります。
 邪宗教で説くところの宿命に纏わる教義は、マイナス思考であり生きる希望を失わせる教えを裏付ける間違った教義です。このような教えをまともに信用している人は、今すぐに正信に目覚め、日蓮正宗の信心をすることが必要です。
 日蓮大聖人は『開目抄』に、
「我無始よりこのかた悪王と生まれて、法華経の行者の衣食田畠等を奪ひとりせしこと、かずしらず。当世、日本国の諸人の、法華経の山寺をたうすがごとし。又法華経の行者の首を刎ねること其の数をしらず。此等の重罪はたせるもあり、いまだはたさゞるもあるらん。果たすも余残いまだつきず。生死を離るゝ時は、必ず此の重罪をけしはてゝ出離すべし。功徳は浅軽なり。此等の罪は深重なり。権経を行ぜしには、此の重罪いまだをこらず。鉄を熱にいたうきたわざればきず隠れてみえず。度々せむればきずあらわる。麻子をしぼるにつよくせめざれば油少なきがごとし。今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし。鉄は火に値はざれば黒し、火と合ひぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。睡れる師子に手をつくれば大いに吼ゆ」(御書573)
と仰せであります。日蓮正宗においては、信心をし折伏することで、過去遠々劫の謗法を罪障消滅させることができます。私達は信心以前の、過去世の記憶が全くありません。しかし、信心をして様々な難を経験することで、過去世に謗法を行ってきたことを知ることが出来ます。それを日蓮大聖人が『開目抄』で仰せになられているのです。
 難が現れることで、謗法が罪障消滅されていることを理解し、未来に必ず成仏できることを確信することが大事です。御本尊様に御題目を唱えることで、過去世の罪障を全て取り出すことが出来ます。罪障を消滅することで、六根が清浄になるわけです。つまり、御本尊様からの有り難い功徳を頂くことになります。
 罪障が消滅される文証を上げると『南条殿御返事』に、
 「かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。神力品に云はく『若しは林中に於ても、若しは樹下(じゅげ)に於ても、若しは僧坊に於ても、乃至般(はつ)涅槃したまふ』云云。此の砌に望(のぞ)まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(御書1569)
と仰せで、罪障である宿業という悪が、三徳に変わるのであります。更に『四条金吾殿御返事』に、
 「多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(御書1502)
と御教示のように、寺院に参詣することで、無始已来の謗法の罪障を消滅させ、一生成仏できることを日蓮大聖人が仰せであります。毎月の御講に参詣することで、過去の罪障を消滅させることが出来ます。


加護について

2005-11-20 | 手引書⑫

 「加護」とは、神仏が力を加えて護ることです。「加護」を頂くには、私達の信心が大事で、三大秘法の御本尊様を御護りする「外護」という意識が必要です。
 「外護」とは命をかけて、御本尊様をお護りするということで、「不自惜身命」の精神が大切です。「外護」という気持ちが出来上がると、自然に「不自惜身命」の意味が理解でき、身口意の三業に養われていきます。私達の「外護」の如何により、御本尊様の「加護」が、決定するといっても過言ではありません。
 信心を余り理解していない人には、御本尊様から護って頂くという事だけにとらわれ、「外護」という信心で最も大切なことを忘れている人がいます。御本尊様の「加護」は、私達の御本尊様に対する「外護」があって存在します。
 御本尊様の「加護」だけを望む人は、信心とはいえません。それは「他力本願」になり、正しい信心とはいえないのです。世間で横行する邪宗的発想と、日蓮正宗の信心を混同させるところに生まれる邪義です。これは成仏の妨げになるので、常に誡めなければいけないところです。
 日蓮大聖人は『守護国家論』に、
 「設ひ神通智慧有りと雖も権教の善知識をば用ふべからず。(中 略)故に妙楽大師の云はく『内薫(ないくん)に非ざるよりは何ぞ能く悟りを生ぜん。故に知んぬ、悟りを生ずる力は真如(しんにょ)に在り、故に冥薫(みょうくん)を以て外護(げご)と為すなり』已上。法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外(ほか)の諸仏も顕はれず。故に四十余年の権行(ごんぎょう)の者は仏を見ず。設ひ仏を見ると雖も他仏を見るなり。(中 略)故に衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)の願も満足せず。故に菩薩も仏を見ず、凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕はれず。故に阿弥陀如来の来迎(らいごう)も無く、諸仏如来の加護(かご)も無し」(御書150)
と「加護」について仰せです。つまり、日蓮正宗以外の仏菩薩・神には、「加護」する力がないのであります。その理由に法華経の大事な法門である「十界互具」を知らないからであり、当然、爾前権教に於けるところの「加護」は弱いのであります。
 更に日蓮大聖人は「加護」が弱い理由について『富木殿御返事』に、
 「粗(ほぼ)経文を勘(かんが)へ見るに日蓮が法華経の行者たる事疑ひ無きか。但し今に天の加護を蒙(こうむ)らざるは、一には諸天善神此の悪国を去る故か。二には善神法味を味(あじ)はゝざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に入り梵天・帝釈も力及ばざるか等、一々の証文・道理追って之を進ぜしむべし」(御書584)
と三つの理由をあげられています。一つが、日蓮正宗の信心をする人が少なく謗法が多いため、悪国であるから諸天善神が去るためという理由。二つ目が、諸天善神が法味である御題目を味わうことが出来ないため、「加護」の力を出すことが出来なくなっていること。三つ目が、大悪鬼神が三類の強敵となり、それら鬼神の力が強力なため、諸天善神の代表である梵天・帝釈の力が及ばなくなっているという理由があります。
 この以上の原因を回避するには、信心を強盛にし、折伏をして御題目を唱える人を増やすことにより、諸天の「加護」を強力にすることが出来ます。
 現実に諸天の「加護」が弱いために、地球上に様々な悪い現象が起きています。正しい信心を蔑ろにし、間違った神仏を尊崇するためです。
 「加護」を本当に頂くには、御本尊様に縋(すが)るだけではなく、「外護」という意識を持ち、自行化他に精進するところ、本当に諸天の「加護」があるのです。


神が存在しなくなる神天上の法門

2005-11-20 | 手引書⑫

 現実に本来の神である、諸天善神が存在しないために、世の中が非常に不安定です。その理由が「神天上の法門」に示され、正しい仏法を信じないために起きた、謗法の害毒による現証です。
 「神天上の法門」とは、平和にする神が天に上がることで、御本仏日蓮大聖人が「立正安国論」に説かれます。世の中の人々が、皆正法に背くとき、善神が法味に飢え守護の国土を捨てて天界の本地に戻り、その代わりに神社仏閣には悪鬼・魔神が住み、種々の災難を起こしています。
 私達人間は、食物を食べれば力が出ますが、神の場合は、法味という食べ物(御題目の南無妙法蓮華経)を食べなければ、神の力が一切でないのであります。神に法味を捧げる方法は、正しい仏法を信じ、御本尊様に御題目を唱えることで、神に法味である御題目を食べさせることが出来ます。これを実行しなければ、世の中は本当に善くなりません。
 日蓮大聖人は「神天上の法門」について『立正安国論』に、
 「倩(つらつら)微管(びかん)を傾け聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」(御書234)
と御指南のように、世の人々は謗法を信じ、国を正しく治める正法を信じないため、国を護る善神が法味を貰えないために去り、その結果、魔や鬼神が来て災難を起こしていると仰せです。更に同抄では、
 「而るに盲瞽(もうこ)の輩(やから)、迷惑の人、妄(みだ)りに邪説(じゃせつ)を信じて正教(しょうきょう)を弁(わきま)へず。故に天下世上(せじょう)諸仏衆経(しゅきょう)に於て、捨離(しゃり)の心を生じて擁護(おうご)の志(こころざし)無し。仍(よ)って善神聖人(しょうにん)国を捨て所を去る。是(ここ)を以て悪鬼外道災(さい)を成し難を致(いた)すなり」(御書237)
と邪教を崇める結果、災難が起きていることを御教示であります。
 第二十六世日寛上人も、神が天上界に去る理由について『報恩抄文段』に、
 「問う、開目抄上十に云く『天照大神・正八幡・山王等・諸の守護の諸大善神も法味を・なめざるか国中を去り給うかの故に悪鬼・便を得て国すでに破れなんとす』と云云。太田抄二十五 十五に云く『閻浮守護の天神・地祇も或は他方に去り或は此の土に住すれども悪国を守護せず或は法味を嘗めざれば守護の力無し』等云云。既に『或は去り或は住す』という、何ぞ諸神天上というや。
 答う、或は住する辺ありと雖も、既に悪国を護らず。縦い護らんと欲すと雖も、法味を嘗めざれば威力あることなし。故に住すと雖も住せざるが如し、去らずと雖も去るが如し。故に通じて諸神天上というなり」(御書文段429)
と御指南であります。私達が自行化他にわたり、御題目を御本尊様に唱え、他の人にも御題目を唱えるように勧めることで、神は法味を食することが出来、本来の力を具えて、世の中を安泰にし平和にしてくれるのであります。


上七代と下七代の功徳とは

2005-11-20 | 手引書⑫

 上七代と下七代の功徳は、御本尊様の功徳が三世である、過去・現在・未来に、厳然と存在することを証明するものです。
 日蓮大聖人は、上七代と下七代の功徳について『盂蘭盆御書』に、
 「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず、子と孫と末七代までもかゝり候ひけるなり。善の中の大善も又々かくのごとし。目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外(ぞんがい)に仏となり給ふ。乃至代々の子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ」(御書1377)
と御指南のように、必ず御先祖様や子孫が成仏することを仰せです。
 上七代と下七代の功徳を確実にするためには、忘れてならないことがあります。それは「法統相続」です。「法統相続」がいい加減であると、たちまち上七代と下七代の功徳が失われます。正法に巡りあえたことに満足することなく、勤行唱題に精進することで、上七代と下七代の功徳が永遠に続くのです。当然、信心を破壊する謗法を信仰するようになっては、上七代と下七代の功徳は消滅し、三悪道に転落する生活になります。
 上七代と下七代の功徳を確実にするには、「法統相続」の他に、御先祖様の追善供養となる法事を行うことと、御塔婆を建立して成仏を願うことが必要です。観念的に、御本尊様に勤行唱題をして祈り、回向をしていればという事だけではいけません。観念で終わらないようにする事が、「法統相続」と「追善供養」という実行です。
 現在生きている私達が、信心の実践をして、御本尊様から功徳を頂き、その功徳を「法統相続」と「追善供養」に施さなければ、上七代と下七代の功徳を流れ通わすことは出来ないのです。
 具体的な実践がない場合、注意しなければいけないことがあります。この点を十分に恐れ信心を持続させることです。信心の実践がない場合に注意する点は、世間の謗法に染まりやすくなります。正しい仏法で説く、人生の困難を乗り越えていく術を知らなければ、謗法に染まり、様々な迷いや悩みが生まれます。この謗法の害毒が、子孫まで繁栄してしまえば、大変なことになります。信心をしない結果、三界六道の生活を余儀なくされるのです。
 上七代と下七代の功徳とは、更に親戚関係へ輪が広がって、「我此土安穏」となり、仏様の境界である「常寂光土」になります。折伏では、上七代と下七代の功徳を説いて、御本尊様の素晴らしさを教えることも大事です。
 上七代と下七代の功徳には、「下種三宝尊」を決して忘れてはなりません。本門戒壇の大御本尊様を信じ、血脈相承を遊ばされておられる、御法主上人に信伏随従することです。これを忘れて、上七代と下七代の功徳を願ってはいけません。
 そして日蓮正宗の寺院へ参詣し、総本山大石寺に登山することで、上七代と下七代の功徳を確実にし、不動のものにしていくのであります。


順縁と逆縁について

2005-11-20 | 手引書⑫

 日蓮大聖人の仏法に縁する場合に、「順縁」と「逆縁」があります。
 「順縁」とは、素直に仏縁を結ぶこと。順は素直、縁は仏縁の意。教えを聞いて従順に信じ仏道に入って信心をすることです。
 「逆縁」とは、毒鼓の縁ともいい、破法・謗法などの悪事がかえって仏道への縁となることです。他の意味に、自分の修行を妨げる縁となること。年長者が年少者を、また生前に仇であった者がその仇敵を、また通りすがりでなんの縁もない人が供養・法事を行うことも「逆縁」といいます。
 「順縁」は、直ちに成仏の因を積み、幸せになることが出来ますが、「逆縁」の場合は、信じることが出来ずに遠回りし、ある縁に触れて目覚めて信心をして、仏因を積み成仏していくことです。
 日蓮大聖人は「順縁」と「逆縁」について『法華取要抄』に、
 「逆縁の為には但(ただ)妙法蓮華経の五字に限る。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり」(御書736)
と仰せです。折伏でも「順縁」と「逆縁」の人がいます。日本の国は大半が「逆縁」です。「逆縁」には、御題目の南無妙法蓮華経を聞かせ、信心の必要性を話すことが大事です。
 『顕謗法抄』に、
 「末代濁世(じょくせ)には当機にして初住の位に入るべき人は万に一人もありがたかるべし。又能化(のうけ)の人も仏にあらざれば、機をかゞみん事もこれかたし。されば逆縁順縁のために、先づ法華経を説くべしと仏ゆるし給へり。但し又滅後なりとも、当機衆になりぬべきものには、先づ権経をとく事もあるべし。又悲を先とする人は先づ権経をとく、釈迦仏のごとし。慈を先とする人は先づ実経(じっきょう)をとくべし、不軽菩薩のごとし。又末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし。同じく悪道に堕つるならば、法華経を謗ぜさせて堕すならば、世間の罪をもて堕ちたるにはにるべからず。『聞法生謗堕於地獄勝於供養恒沙仏者(もんぽうしょうぼうだおじごくしょうおくようごうじゃぶっしゃ)』等の文のごとし。此の文の心は、法華経をばう(謗)じて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙(ごうがしゃ)の仏を供養し、帰依渇仰(きえかつごう)する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり」(御書282)
と御指南のように、慈悲の「慈」と「悲」という説き方があります。末法では「慈」が先であり、不軽菩薩のように実教を説くことです。同じ悪道に堕ちるにも、逆縁を結ばせる方が良いことを仰せです。
 『総在一念抄』に、
 「問うて云はく、一文不通(いちもんふつう)の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口(く)業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むね(胸)の中に収めて必ず出離(しゅつり)の人と成るなり。此の経の諸経に超過(ちょうか)する事は誹謗(ひぼう)すら尚逆縁と説く不軽軽毀(きょうき)の衆是なり。何に況んや信心を致す順縁の人をや。故に伝教大師云はく「信謗彼此決定(けつじょう)成仏」等云云。」(御書115)
と御指南のように、「順縁」と「逆縁」は必ず成仏するのであります。
 私達は、縁ある人に正法の素晴らしさを伝える、地涌の菩薩としての使命があり、御本尊様に縁を結ばせることが必要です。


行学の二道をはげみ候べし

2005-11-20 | 手引書⑫

 日蓮大聖人は、行学の二道を励むよう『諸法実相抄』に、
 「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。」(御書668)
と仰せであります。非常に有名な御文であり、私達が一生成仏する上で、心に銘記し忘れてはいけない文証です。
 信心は、行学という「修行」と「教学」が必要不可欠です。その御指南が『諸法実相抄』であります。仏法と呼ばれる理由に、「信行学」が存在し、信じているだけであったり、中身のない形式だけの修行だけであっては、本当に信心をしているとはいえません。また教学だけ身に付いているだけでもいけません。持ち難い理由が以上の点にあるのです。
 信心には「無解無信」「無解有信」「有解無信」「有解有信」という四種類の人がいます。成仏できるのは、「無解有信」と「有解有信」です。「無解無信」と「有解無信」は成仏できません。「無解無信」は、成仏し難い四種類の人であり、決定性(けつじょうしょう)の二乗、一闡提人(いっせんだいにん)、空心の者、謗法の者が「無解無信」になります。
 「無解有信」は信じることにより、御本尊様から智慧を得て、理解していくため成仏します。「有解有信」は、信心があって仏法を理解しているため、確実に成仏します。
 しかし、「無解無信」は信心もなく、理解をしようとしないことでは、当然、成仏できません。「有解無信」は、学ばかりで、特に信心修行を全くしない、学者に多く見られます。
 私達の信心は、「無解有信」か「有解有信」になることが大事です。つまり「有信」です。信心を根本とした、行学の二道が更に必要になります。「有解有信」が信心において理想的ですが、「無解有信」の人は、解がない分、行で補い努力し精進すれば、無解が有解へと「冥益」により変わってきます。故に「行学は信心よりをこるべく候」と仰せのように、「有信」により行学が自然と力を付けていくのであります。「無解有信」の人は、信心を持続するところ、「有信」により、自分の長所が活かされる利益を得ることが出来ます。
 行学の二道をはげむには、「我もいたし人をも教化候へ」と仰せのように、自行だけではなく、折伏という化他行も必要になります。世間では、行学の二道を志す人が少ないために、安定しない世の中になっています。安定させるには、信心をしない人に教化して仏法を教え、行学の二道を励ませることが大事なのです。
 「行学」とは、具体的に行が御本尊様に向かう勤行唱題と折伏、学が日蓮大聖人の仏法を学ぶことです。信は、行と学を深めていくことで、更に強盛な信心となります。そして不退の位になり、成仏へと通じていくのであります。
 行学の二道をはげむ大切な場所は、日蓮正宗の寺院であります。


更に寿命を賜る信心とは

2005-11-20 | 手引書⑫

 信心をすれば、御本尊様から有り難い生命力を頂き、寿命を延ばすことが出来ます。寿命を延ばす秘訣は、人生に悲観的にならず、死を宣告されても善知識と考えることが大事です。死を宣告する人は、お医者さんでありますが、日蓮大聖人ではありません。仏様ではない、お医者さんという、人師がすることに気が付きましょう。釈尊が説かれる『涅槃経』に、
 「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)
とあり、人には本当の生命力を見る眼が、仏様の仏眼には及ばないのであります。この点を考え、御本尊様を信じて御題目を唱えていけば、死魔を克服することが必ず出来ます。
 仏様である御本仏日蓮大聖人は、死の宣告はせずに、寿命を延ばすことが出来ると御指南です。生きる自信を失わずに、寿命を延ばし、お医者さんの仏法に対する浅識を指摘して、地涌の菩薩の自覚に立ち折伏することが大事です。この気持ちが、生命に本来ある自然治癒力を高め、寿命を延ばすことに通じていくのであります。人により、死を宣告されると奪命魔が出現し、生命力を奪う場合がありますが、また一つ境界が高められることに歓びを感じることです。
 日蓮大聖人は『富木尼御前御書』に、
 「病なき人も無常まぬかれがたし。但しとしのはてにはあらず。法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病(ごうびょう)にては候はじ。設(たと)ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし。阿闍世(あじゃせ)王は法華経を持ちて四十年の命をのべ、陳臣(ちんしん)は十五年の命をのべたり。尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心は月のまさるがごとく、しを(潮)のみつがごとし。いかでか病も失(う)せ、寿ものびざるべきと強盛(ごうじょう)にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ」(御書955)
と仰せのように、信心をして御本尊様に御題目を唱えていけば、業病は法華経の力により宿命転換し、寿命を延ばすことが出来ます。その現証を阿闍世王と陳臣の例をあげて御教示なのであります。
 邪宗教では、宿命的な業病を治すことが出来ないと説くところもあります。しかし、日蓮正宗では、業病を治し六根清浄の功徳を得て成仏します。低級な邪宗教と、高度な日蓮正宗の根本的違いです。邪宗教を信じ、宿業を変えることが出来ないと信じている人に折伏する大事なところとなります。
 勤行唱題が何故、寿命を延ばす力があるのか、疑問を感じる人のために説明しますと、勤行で唱える御経は、「方便品第二」と「如来寿量品第十六」です。特に「如来寿量品第十六」に、三大秘法の不思議な力用が隠されています。つまり、文底秘沈ということであり、「如来寿量品第十六」の「寿量」に、私達の寿命を延ばす深い意義があります。御本尊様と境智冥合することで、如来である仏様の寿量という、非常に有り難い生命に浴することが出来、私達は力強い生命力を頂いて、自然と命を延ばしていくことが出来るのです。
 更に、唱題において文底に隠されている、御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで、常に仏様の清浄で力強い生命力を持続させていくことが可能です。故に、毎日の勤行唱題に寿命を延ばす力があり、御本尊様から功徳として頂くことが出来るのです。
 以上の意識を忘れることなく、折伏でも教えることで悲観的な人生を完全に払拭させることが出来るのです。そこに仏様の境界と等しくなる「常寂光土」があります。


血脈相承について

2005-11-20 | 手引書⑫

 「血脈相承」とは、日蓮正宗において、日蓮大聖人の大事な御法門を、師から弟子へと御相伝におき、古来から絶え間なく、一器の水を一器の水に移すが如く、一分も違わずに、現代まで正確に伝えられています。師資相承ともいい、唯授一人の血脈相承のことです。
 他宗でも「血脈相承」といいますが、間違った成仏できない邪義が相承されていることを理解しなければいけません。
 日蓮正宗で説くところの「血脈相承」は、日蓮大聖人が釈尊から相承された御法門を相承しています。故に『生死一大事血脈抄』に、
 「夫(それ)生死一大事血脈とは所謂(いわゆる)妙法蓮華経是(これ)なり。其の故は釈迦多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫(おんのんごう)より已来寸時(このかたすんじ)も離れざる血脈なり」(御書513)
と仰せのように、上行菩薩とは外用で日蓮大聖人のことです。更に同抄に、
 「殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴(とうと)し貴し。此の文に委悉(いしつ)なり、能く能く心得させ給へ。只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(御書514)
と仰せです。私達は信心において、教化育成や法統相続、折伏において正しく伝えなければいけない大事な部分です。
 日蓮正宗の血脈相承に於ける根幹は『日蓮一期弘法付囑書』に、
  「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
   弘安五年壬午九月 日                              日蓮花押            血脈の次第 日蓮日興」(御書1675)
と説かれるように、日蓮大聖人から第二祖日興上人に相承され、更に御歴代上人が御相承されて伝えられてきた、即身成仏のための非常に大事な御法門です。血脈相承に関しては、決して軽視した言動を取ることは許されません。謗法行為に繋がり、成仏の道を自ら閉ざすことになり、無間地獄に堕ちます。
 『立正観抄』に、
 「当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり」(御書770)
と御教示のように、日蓮正宗の血脈相承を知らないため、我見による仏教を説く学者がいることを仰せです。
 『本因妙抄』に、
 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」(御書1684)
と仰せのように、三大秘法の御本尊様に関しては、「血脈相承」に依る時の御法主上人の御指南を仰がなければいけません。「血脈相承」は、「下種三宝」の僧宝にあります。師弟相対するところ、日蓮大聖人の正しい仏法を「血脈相承」の上から御指南を頂くことが出来るのです。
 『生死一大事血脈抄』に曰わく、
 「相構(あいかま)へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益なり」(御書515)