正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書⑧)

2005-11-21 | 手引書⑧

106.初心を忘れない信心を

107.正しい認識で、身の供養と財の供養を

108.和合集団を乱す言動は慎みましょう

109.欲望に主導されない信心を

110.日蓮正宗の御葬式の意義

111.日蓮正宗の法事の意義

112.謗法とは

113.人間関係で、お悩みの方へ

114.他人より遅れる不安、劣等感の扱い方

115.人生に目的が見付からない方へ

116.信心を妨げる睡魔について

117.唱題中に思考することは何か

118.十四誹謗を止める信心に成仏あり

119.信心は「立正安国」の精神で


初心を忘れない信心を

2005-11-21 | 手引書⑧

 信心におけるところの大事な初心とは、即身成仏を目指すことです。即身成仏に向かって、志しを忘れずに修行することです。初心となる即身成仏の志を中心として、信心には細かい修行に対する志すべき初心があります。それは勤行唱題であり折伏、御本尊様への毎日の御給仕など、初めに心で決めたことを忘れては前に進みませんし、当然成仏もありません。
 何事においても、志した初めの気持ちを忘れず持続させることが大事です。初心は様々な縁に揺れ動かされます。この揺れ動かす縁が初心の気持ちを大成させる重要な鍵になります。揺れ動かす縁とは、挫折させる事柄です。まず順調に進む方が少ないです。逆に様々な試練を乗り越えることで、初心も本物になり、周りから認められる人格が出来ます。
 御本尊様を持ち信心をすることで、様々な縁が全てプラス思考に変わり、初めに志したことを成就させるのです。
 「初心忘るべからず」という言葉があるように、世間的にも初心を忘れないことが大事です。初めに志すことと言えば、学校や仕事、家庭の中で初めて挑戦することです。初めは誰でもやる気を起こします。このやる気を持続できるかが問題になり、初めに志した気持ちを常に振り返る姿勢が大切です。
 日蓮正宗での勤行唱題は、この信心と生活全般に渡って初めに志す気持ちを御本尊様の力によって思い起こさせるのです。信心で初心を常に心に刻むことが出来、その初めの気持ちを持続させることで「冥益」という姿になって現れます。末法時代におけるところの理想的な御利益です。根気強さや粘り強さが同時に養われ、成仏において大事な精神も出来上がります。
 勤行唱題で初めに志した「初心」を具体的に現実のものになるよう勤めます。心を落ち着け、志したことに対し何が必要になるのか御本尊様から智慧を頂いていきます。特に心得ていくことは、初心を忘れさせようとする悪縁に迷わされない気持ちを常に持つことが大事です。勤行唱題では、悪縁に迷わされない強靱は精神を養います。御利益ばかり御願いせずに、まず悪縁に迷わされない精神を気持ちにつくることからはじめましょう。その精神を具えた上で御利益を御願いするところに、安定した悪縁に紛動されることのない利益があります。不退転という境界と我此土安穏という有り難い功徳があります。
 初心を忘れさせる原因には「欲望」があります。これは悪酒であり、己心の魔が面白半分に挑発してくる働きです。「欲望」は社会のあらゆるところにあります。「欲望」を巧みに操り初心を忘れさせようとしてきます。勤行唱題において己心の魔の働きを洞察できる眼を養い、更に折伏では己心の魔の扱い方を教え抜苦与楽を施していきます。
 世の中には「欲望」を根底におき、間違った初心を持つ人もいます。善悪の基準を持ち正しい志を立てることが必要です。間違った事に志を立て、その初心を貫こうとすれば不幸になります。日蓮正宗の信心は善悪の基準を明らかにして、初心を貫いていくことが出来ます。世の中で使われるところの「初心忘るべからず」という言葉には、はっきりした善悪の基準が不明瞭です。信心をして幸せになれる正しい初心を志していきましょう。そこに即身成仏があります。


正しい認識で、身の供養と財の供養を

2005-11-21 | 手引書⑧

 「供養」とは供給資養の義であり、供給・供施・供ともいいます。諸物を仏法僧の三宝・父母・師長・死者などに供給する大切なことです。
 日蓮正宗における「供養」の意義は、下種三宝様である御本尊様と日蓮大聖人、日興上人已来の歴代上人に対する報恩感謝の気持ちで供養することが大事です。
 その反対に、これだけ御本尊様に供養したからという慢心や報恩感謝の欠片のない気持ちには、供養の意味がありません。形式だけであり、御供養におけるところの本当の功徳を頂くことが出来ません。過去にこれだけ供養したからという慢心や醜い執着は成仏の妨げになります。供養に対する微妙な気持ち・志しが大きく影響してきますので、供養はいい加減な気持ちで行わないことです。逆に仏罰を被り三悪道の命が強盛となって悪縁に紛動されやすくなります。正しく「持ち難い」仏法であり、御供養に対し、ちょっとした気持ちの違いで御本尊様から頂く功徳に天地雲泥の違いが生まれます。この事を認識し、真心からの御供養に勤めることが必要です。
 「供養」の種類には、二種供養である財供養(飲食・香華などの財物を供養すること)と法供養(仏の所説の如く法を弘め衆生を利益すること)があり、三業供養という身業供養・口業供養・意業供養があります。更に、三種供養といわれる利養供養(香華・飲食をたてまつること)・恭敬供養(仏および法を賛嘆・恭敬すること)・行供養(妙法を受持し、修行すること)があり、それぞれを財供養・法供養・観行供養ともいいます。
 次に事供養・理供養があり、事供養が物を惜しみ、むさぼる事実を破すために財物や時には身体・命までをも捨てる行為をいいます。理供養が慳貪の心そのものを破すために理法の方面を仏道に捨てること、即ち悟りを求める心を起こし、観心の行法に励む等を理供養といいます。この他に四種・五種・十種などの供養があります。
 「身の供養」とは、所作仏事であり、寺院の掃除や、御本尊様在す自宅にある御仏壇の掃除をすることです。掃除をすることで「六根清浄」を得る功徳に繋がります。御本尊様への御給仕に当たる掃除は、「六根清浄」の功徳を得る一番の修行です。 
 日蓮大聖人の教えを弘める折伏などの「身の供養」は、身口意の三業を調えて行じることが大事です。「身の供養」をすることで、同時に口業と意業の供養に繋がり、過去世の宿業を転換することが出来ます。「身の供養」を行うことで、仏様の振る舞いに近づいていきます。「身の供養」を心がける要素には、九思一言や防非止悪、禅定という気持ちの落ち着きが大切になります。
 「財の供養」とは、我慢偏執を完全に払拭させた、真心から金銭などを御本尊様に供養することです。邪宗教は「財の供養」を利用し、金儲けの手段にします。これは餓鬼界の生命であり食法餓鬼です。『四条金吾殿御書』に、
 「食法(じきほう)がきと申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり」(御書469)
と食法餓鬼について仰せです。「財の供養」で身に付く徳は、少欲知足という無駄を省き、節約する気持ちが養われます。生活設計が上手になり、上手になるということは生活が安穏になるということになります。「財の供養」により我此土安穏な境界となるのです。
 身の供養も財の供養も、自ら進んで御本尊様のためにさせて頂く気持ちが大事です。そこに有り難い御本尊様から頂く「六根清浄」の功徳が光り輝くのであります。


和合集団を乱す言動は慎みましょう

2005-11-21 | 手引書⑧

 和合集団を乱す言動とは、自己中心的で周囲のことを考えない言動です。信心を真面目に修行していけば、自分自身を常に省みて、和合集団を乱すような言動は行わなくなりますが、己心の魔や師子身中の虫が邪魔をし、第六天の魔王が手を差しのべ、和合集団を乱そうとするときがあります。過去世に心の奥深く入り込んだ謗法行為が原因です。魔に迷わされることの無いよう耐え忍ぶことが大事です。耐え忍ぶことで日蓮大聖人の御精神に近づくことができます。
 具体的に乱す言動とは、気持ちに落ち着きがなく、愚癡や瞋り貪りという三毒が強くなり、真面目に信心している人に迷惑をかけることです。講中の異体同心を乱し、勤行唱題の輪を乱す行いです。これは信心におけるところの和合集団を乱す例です。
 信心以外にも和合集団を保ち生活する場面が沢山あります。広く考えた場合、全ての生活に置き換えて考えることが出来ます。和合集団を保つということは幸せな社会を築く事に繋がります。他人のことを思いやる気持ちや自分の立場を控え他人を立てることも和合集団を維持する上で大切なことです。つまり恩を大切にし、四恩を重んじるところにあります。信心では生活の場に役立つ智慧が豊富にあります。柔軟性を持つことで多種多様な方途があります。
 気持ちに柔軟性を持つには「水の信心」を心得ることです。信心を怠らないように説かれる他に、水の特性であるどんな器にも順応する心の柔軟性という意味も「水の信心」にあります。信心では三毒を払拭させた、柔和な気持ちを養っていきます。この柔和さが和合集団と異体同心の絆を強化します。
 和合集団を乱した場合、仏様はどのように仰せになられているかといいますと、仏法では「破和合僧(はわごうそう)」といい五逆罪の一つに数えられ、無間地獄に堕ちるとされます。日蓮大聖人は『顕謗法抄』に、
 「此の地獄に堕(お)ちたる者、これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり。業因を云はゞ、五逆罪(ごぎゃくざい)を造る人此の地獄に堕つべし。五逆罪と申すは一に殺父(しぶ)、二に殺母(しも)、三に殺阿羅漢(しあらかん)、四に出仏身血(すいぶつしんけつ)、五に破和合僧(はわごうそう)なり」(御書278)
と御指南であります。和合集団である僧俗和合を乱すことは重大な罪になります。無間地獄という、地獄でも一番悲惨なところで苦しまなければなりません。無間地獄に堕ちないようにするためにも、和合集団を乱すことのないように異体同心を心がけ、周りの人と調和を保つことが大事です。信心では当然誡めなければいけません。勤行唱題で誡めることにより成仏の因を積みます。 
 しかし、謗法を容認するような和合集団については、謗法厳戒を旨とし破折することが必要です。謗法を容認する和合集団を認めると、謗法与同罪になり無間地獄に堕ちなければいけません。正しい和合集団か謗法容認の集団なのか見極める眼を持ちましょう。我見を捨て御本尊様に正しい信心を行うところに見極める眼が具わります。正しい和合集団か間違った邪集団かを見極める眼が出来れば、自然と善悪の判断力が付き、成仏に大切な因縁と、そうでない悪因縁とが明確に見極められるのであります。
 自分自身の信心姿勢を省みて、御法主上人猊下に信伏随従するところに、和合集団を乱さない信心が養われます。


欲望に主導されない信心を

2005-11-21 | 手引書⑧

 人間は欲望がなければ生きることが出来ませんが、行き過ぎた人生を駄目にするような欲望に執着してはいけません。時々勘違いされる方がおりますが、御本尊様を軽視し、自分自身の我見に依る欲望を満足させるために信心をする方がおります。我見に依るところの欲望は、成仏を妨げる要因が多分にあります。勤行唱題では、自分自身の欲望を、明らかに御本尊様から智慧を頂いて分析する能力を養い見ることが大事です。自分自身の心を見つめる「観心」です。欲望の存在を分析し、成仏に欠かせない欲は伸ばし、マイナス的に人生を堕落させる欲望は止める意識が必要です。信心ではこの点を日夜磨き、欲望をコントロールできることが成仏に繋がり、更に家庭も安穏になります。
 我見の欲望とは、貪るは餓鬼の貪欲です。心が貪欲に陥ると満足感がなくなります。そのため満足感をひたすら求めようとします。一種の中毒です。脳の神経回路が、信心を忘れさせ、過去世の謗法行為により頭破作七分の症状を覗かせているのであります。周りから注意を受けても、本人には自覚症状はなく、指摘を受けると逆に怒りだし、瞋るは地獄の生命になります。正しく三悪道の命です。信心は三悪道に堕ちる命を抑える作用があります。私達の脳内に鎮静剤を分泌させ、心の落ち着きや冷静を取り戻す働きがあります。つまり禅定で、間違った欲望を戒と定によって抑えていきます。
 この欲望に主導権を取られますと正常な判断力が機能しなくなり、生活自体が三悪道に転落します。欲望は主に私達の脳が指令を出し、私達の心にある欲望を擽る五感という感覚器がそうです。欲望は五感という視・聴・嗅・味・触の五つから周りの縁によって生まれます。脳内に分泌される、脳内物質に原因があり、私達の五感により外界の縁によって感じ取り、脳内の物質が放出されるのであります。一種の麻薬的な脳内モルヒネが分泌されるのであります。信心では、この脳内に分泌され欲望を操る脳内物質やホルモンを、戒定慧の三学により中和させ軌道修正し、欲望によって人生を堕落させないようにします。欲望に対する集中力を分散させます。唱題行に分散させる働きがあります。
 欲望に主導権を取られますと欲望を誘発させる脳内物質が多量に脳内で発生し、貪る気持ちが強くなります。餓鬼界の生命が心身を包み込み、三毒に汚染され、毒気深入し正気を失うわけです。信心を知らない人は、脳内で生まれる欲望の扱いに迷うため、欲望を満足させる人生に追われ、気持ちを休める時間も作れず、心身が知らぬ間に害され末法濁悪の相、三毒強盛な命に変わります。真面目な人が、途轍(とてつ)もない事件を起こす背景には、以上の心理的要因が潜んでいます。
 御本尊様に向かい勤行唱題をすることが、気持ちを休める一番最高の時です。五感である視・聴・嗅・味・触の五つの感覚のはたらきを正常にし、六根清浄とするのであります。欲望に振り回される人生を制止し、欲望を人生にプラスとなるようにします。法華経の『如来寿量品第十六』に、  
「一心欲見仏、不自惜身命(一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず)」(御書439)
と説かれますように、最高の欲望の使い道は、仏様の仰せになることに欲望を活かすことであります。それにより欲望の持つ本来の正しい意義が具わります。その意義が、心の悩みや迷いとなるストレスを取り除く欲望に変わり、信心で養うことができます。欲望の正しい利用により、煩悩を悟りの智慧に変えることが出来ます。成仏のため、信心修行に欲望を注ぎ、折伏にも欲望を持つことです。欲望も使い方一つで人生を大きく分け、私達の欲望が未来を開く鍵を握っています。心の惑いとなるマイナス思考や絶望感を払拭させる薬が、正しい意義を具えた欲望です。その反面、人生を狂わす要素もありますが、信心では有意義にさせる重要な働きに変えます。
 欲望に主導権を取られない信心の姿勢は、御本尊様に向かう勤行唱題です。それ以外にありません。正しい欲望を生活に活用し、人生を堕落させる欲望を誡めることで我此土安穏と常寂光土の実現があります。


日蓮正宗の御葬式の意義

2005-11-21 | 手引書⑧

 日蓮正宗の御葬式は、最後臨終を御本尊様に御願いする重要な儀式です。一生成仏が出来るか出来ないか決まるのです。日蓮正宗で御葬式を行えば、確実に一生成仏できますが、しかし、信心していても他宗派で御葬式を行うと、一生成仏できません。それだけ日蓮正宗の信心は難信難解という難しさと厳しさがあります。

 宗祖日蓮大聖人は『上野殿御返事』に、

 「御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむか(迎)いにまいり候べし」(御書1361)

と仰せであり、日蓮正宗で行う御葬式には日蓮大聖人が迎えにこられ、寂光土へと導いて下さるのであります。この意味は、日蓮正宗の寺院から御葬式用の導師御本尊様をお迎えすることで、日蓮大聖人がお迎えに来られたことになります。そして御住職様から、即身成仏を証明する死後の名前、戒名を頂きます。戒名を頂くことで三途の川を安心して渡れる通行証明がされます。最後臨終の即身成仏を決定する、導師御本尊と戒名を否定される方は、日蓮大聖人が迎えに来られませんし、戒名の無い俗名では、三途の川を渡ることが出来ず無間地獄に堕ちます。

 日蓮正宗の御葬儀に御安置申し上げる導師御本尊について大聖人は『弥源太殿御返事』に、

「南無妙法蓮経は死出の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はヾ御迎へにまいり候事もやあらんずらん。又さきに行かせ給はヾ、日蓮必ず閻魔法王にも委しく申すべく候。此の事少しもそら事あるべからず。」(御書722)

と仰せであり、葬儀の際、祭壇に御安置される導師御本尊に御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで死出の険しい山道を越えるための杖や柱を施したことになります。さらに大聖人から死後の道案内を賜り閻魔大王にも成仏するように仰ってくださるという有難い意味があります。祭壇に御安置される導師御本尊には特別に常住御本尊と異なり閻魔法王が認められております。大聖人が閻魔大王に故人が成仏するように仰る重要な意義があるためです。また死後の行方を決定される閻魔大王に対しまして恵まれた環境に生まれますようにお願いするという大事な意味もございます。

 大聖人は『妙法尼御前御返事』に、

「しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(御書1483)

と仰せであります。日蓮正宗における正しい御葬式を行うことで、生まれてから今生を全うされるまで、心身に付いた悪業の縁、四苦八苦を全て仏様の種へと変える働きがあります。つまり六根清浄の功徳を得て成仏していくのであります。更に、日蓮正宗の僧侶が御経をあげることで、生まれてから亡くなられるまでに経験した、個人しか知らない人生の辛さや苦悩、心身の病などを綺麗に洗い流すことが出来ます。次の世では生活環境が恵まれ、心身も六根清浄した姿で日蓮正宗の家庭に生を受けるのであります。

 御葬式では、御線香を供え、成仏を願い御焼香をします。故人の生前に心と体に染み付いた悪業の垢を灰と煙にして滅し、一生成仏のお手伝いをさせて頂きます。香を漂わせることで、成仏の悪縁を払拭させ、御焼香の煙は寂光土へと流れ、故人は、この御葬式に参列された皆様の有り難い御焼香の煙と香りをたよりに、中有の旅を歩み成仏の境界へ日蓮大聖人に導かれていきます。

 日蓮正宗では、色花ではなく、常緑樹の「樒」を御供えします。樒を御供えする意味は、邪気を払うことと、来世での長寿を願うものです。色花は枯れやすいですが、「樒」は生命力が強く、その生命力の強さは、正しく大聖人の御精神に通じるものがあります。故人に御樒を施すことで、御本尊様の尊い功徳により故人は来世で長生きします。

 通夜・御葬儀では、僧侶と一緒に御経をあげることが大事です。御本尊様に御経をあげる意味は、亡くなられた方に、御経をあげ御題目の南無妙法蓮華経を唱えなければ私達の気持ちが伝わりません。生きている時は、普通の言葉で分かり合えますが、亡くなられた方には、御経と御題目を唱えて気持ちを念じれば、御本尊様が通訳の役目をして下さり、故人に全てをお伝えしてくれます。

 日蓮正宗の御葬式は確実に故人を成仏させ、日蓮大聖人が直々にお出ましになられる厳粛なる儀式です。



葬儀について(創価学会の冠婚葬祭のはじまりと間違いの破折

 時局協議会文書作成班1班


日蓮正宗の法事の意義

2005-11-21 | 手引書⑧

 日蓮正宗の法事は、御先祖様が来世における人生を有意義に過ごせるよう、御本尊様に御願いする大事な法要です。

 御先祖様が居られたからこそ、今の私達があります。恩を報じる意味においても、法事を寺院で行うことは当然です。法事を行わないことは不知恩という恩知らずであり、信心已前に人間として必ず行う常識です。

 日蓮正宗の法事には、折伏弘教という大事な意味があります。御先祖様への追善供養は当然のことですが、御先祖様の徳によって信心していない人を集めて頂き、折伏の場を作って下さるのです。日蓮正宗における法要の厳粛さを印象付け、動執生疑を起こさせます。信心しない人が普段感じることのない、御本尊様在す本堂の清浄さを感じて頂きます。謗法が渦巻く娑婆世界で生活しておりますと、心の安堵感を忘れます。この安堵感を与えることが日蓮正宗の法事の意義です。安堵感を施すことで心の安らぎを取り戻し、謗法に汚染された生命が浄化されます。「毒気深入 失本心故」という状態を弱めることが出来るのです。法事には変毒為薬の作用があります。この時、信心に目覚め御授戒を受ければ、更に成仏に向かって素直に仏因を積むことが出来るわけです。

 本堂で唱えられる御経と御題目の南無妙法蓮華経に浴することで、逆縁を結び未来の発心に期待をかけます。信心していない閉ざされた心の扉を開く重要な鍵が日蓮正宗の法事にあります。この閉ざされた心の扉を開かせることが、法事に参詣された人の苦悩を取り除くことに繋がります。人生の悩みや迷いを取り除く智慧の一分を感じさせ、生きる希望を促します。更に、日蓮正宗の法事に参加することで心の汚れを御本尊様から洗い流して頂くことが出来ます。

 法事では、仏事を行う大切さを学び、御本尊様に対する信心を初心に立ちかえる縁になります。また信心から遠退いている人に仏縁を結びます。法事で寺院参詣の大切さを知り、御供養の意味を知り、御先祖様の成仏には塔婆供養が重要であることを教える教化育成の意義もあります。法事を縁として日蓮正宗の所作仏事を教えることが出来、法統相続にも大事な意味を持ちます。

 法事によって、家族や親戚間の異体同心を深める意味もあり、法事は遠縁の知り合いの方を引き寄せる働きがあります。そして昔懐かしい思いで話に浸ることが出来、この懐かしい思い出を縁に、家族と親戚の異体同心を結び付けるのです。思いで話の中に、法事を行った功徳により、時として様々な智慧が御本尊様から頂くことがあります。更に法事は、折伏しやすい環境を御本尊様の功徳により提供して下さいます。

 信心をして所作仏事を心得ている方は、法事を行った回向により、計り知れない功徳が未来にめぐってきます。その功徳は私達の凡眼凡智では知ることの出来ない、非常に有り難いものです。更に信心を深め精進するところに冥益となり顕れてきます。

 法事は、自行化他の実践です。御先祖様の成仏と自分自身の成仏のために行います。更に、信心していない縁ある方をも折伏して成仏させる力を持ちます。

 以上の意義を心得、日蓮正宗の寺院で御住職様に法事を奉修して頂くことが大事です。

 


謗法とは

2005-11-21 | 手引書⑧

 日蓮大聖人は『四信五品抄』に、
 「慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提(いっせんだい)謗法(ほうぼう)の因、信は慧の因、名字即の位なり」(御書1112)
と正しい仏法を信じない不信が謗法であると仰せです。つまり謗法とは、正しい仏法に背き、御本尊様を信じないことです。正しい法である仏法を謗るという意味が謗法です。謗法の罪は恐ろしく、地獄でも一番苦しい無間地獄に堕ちなければいけません。また正しい仏法を信心している人を、悪く言ったり謗る人も謗法になります。
 謗法の果報は、横難横死という姿で顕れます。予測が付きにくい罪障であります。謗法を容認する集団におりますと、謗法の意識が薄れ冥罰を命に深く刻むことになり、未来に様々な不幸な現証が現れます。これは当然のことです。
 厳密には、日蓮正宗を信心しない人全てが正法誹謗の果報を免れません。これはどの様なことかというと、成仏という幸せになる法則に随っていないからです。幸せになる法則には、私達の心の中の迷いや悩みの扱いを正しく説く方法があります。この法則を無視するために不幸な現証が起こります。人間関係の気まずさなどは、謗法の考えが深く関わっています。時として信心していても、対人関係に不安を感じる人がいます。信心に対する考え方に、未だ信心以前に身に付いた謗法の考えが邪魔しています。
 謗法には、神社の参詣や他宗寺院へのお詣りがあります。信仰を目的としない、謗法破折を目的とした神社・他宗派の寺院見学は問題ありません。謗法の現状を正しく把握するためには、実状を自分自身の目で見ることが大事です。この目的を忘れて、神社の神や他宗派の寺院にある本尊を崇拝するために参詣することは謗法になります。神社や他宗の寺院へ行くという同じ行為でも、目的意識の違いにより、謗法になります。抵抗を感じる方もいますが、謗法厳戒を旨とし、邪宗破折の興学を深める知識を得るために行くことが大事です。謗法の現実を見ることで、更に正しい仏法の存在を明らかにさせることができます。己自身を知り、相手も充分に理解していなければいけません。謗法与同罪を恐れながら、慎重に破折する知識を身に付けることが大事です。
 謗法をおかすことは、世間法である法律などに触れることとなり、罰則を課せられます。謗法をおかすということは、正しい理解力や判断力を失うことになります。正しい理解力や判断力を失えば、当然道から外れる可能性が高くなり、心の中に生まれる欲望に左右され、犯罪を犯すことに繋がります。
 謗法とは広く分かりやすくいえば、人間としての道を外れることをいいます。正しい仏法は、人間としての道を外れないために説かれるのは当然のこと、それ以上に、人間という悩み多き心の問題を解決し、更に境界を高める仏様の教えであります。謗法とは人間よりも尊く有り難い仏様を、疑い謗ることでもあります。仏様を信じないで人間を信じる人が世の中には非常に多くいます。そこに幸せになれない不幸の根本原因があります。
 謗法の詳しい説明は、日蓮大聖人が説かれており、日蓮正宗の寺院でも教えを聞くことが出来ます。謗法を知り、謗法をおかさないよう、日々勤めていくところに、生活の絶対的な安定があり、成仏という幸福な世界があります。


人間関係で、お悩みの方へ

2005-11-21 | 手引書⑧

 私達は生活の上で、必ず他人と付き合う機会があります。世の中は自分一人で生きていくことは出来ず、他人の力が必要になります。必要になるところに、「一切衆生の恩」を感じることが大事です。
 人間関係の悩みには、「一切衆生の恩」を感じる余裕もなく、感情的に流される傾向があります。人間関係にも様々な繋がりがあります。仕事場では、上司と部下や同僚、家庭では御主人と奥さん、そして舅姑さんや小姑さん、子供との関係、近所付き合いなど、学校においてはクラスメイトや先輩と後輩等、多くの姿で世の中に人間模様を描いております。
 人間関係の根本的な問題は、貪瞋癡の三毒という心の迷いから来ております。つまり、正しい仏法を信心しないところからです。人間関係の気まずさは、感情に流される互いの弱さが露呈したものです。「柔和忍辱衣」を忘れ、自己中心的に慢心を起こした結果が現証として顕れます。正しい仏法を学び、生活の場に実践することで人間関係を円滑にすることが出来るのです。
 人間関係で悩むということは、非常に自分自身を成長させる一面も持ち、成仏において重要な糧です。人間関係で揉まれることで、貧弱な精神が鍛えられ耐え忍ぶ気持ちが養われます。しかし、基本的な心構えが出来ておりませんと、マイナス思考に陥り人生を悲観的に生きることになります。この心がけの一寸した違いによって、未来の行く末を大きく分けます。人間関係の気まずさを解決する正しい心構えと智慧を持ち、善知識と考え自分自身を大きく成長させる有り難い機会であると考えるべきです。この気持ちを信心で養うのであります。
 なかにはどうしても強気になれず、弱気になる方もおります。信心をすることで性格が変わります。御本尊様に真剣な御題目を唱えることで必ず性格を変えることが出来ます。一念三千を知り、日蓮正宗の寺院へ参詣し、人間関係を解決する智慧を磨くことです。自殺など考える暇があれば、成仏のために御題目を唱える時間に費やすことです。心の汚れを洗い流すことを先ず考えましょう。
 人間関係の辛さは、経験した人にしか解らない苦悩があります。自分自身に惨めさを感じ、劣等感を嫌というほど味わい、生きる希望を失います。終いには、動くことさえ辛くなります。歓喜が湧かず、心の中が常に不安と絶望が右往左往します。これが人生の悩みであり迷いです。仏教用語では三悪道に堕ちている状態です。人間関係による不安と絶望から逃れたいという気持ちがある反面、今の状況に流される自分がいます。常に相手の顔色を伺い、気持ちにゆとりがなく、緊張した状態が続きます。気持ちに緊張が続くと病気が生じます。人間関係の悩みは、ストレスを増大させ身心を蝕んでいきます。人間関係によって、体の中に毒素を発生させます。この毒素は自律神経をおかし、人の性格や住む環境により症状が様々で、経験豊富な方に助言を求めることが大事です。
 日蓮正宗の寺院が、その助言を求める唯一の場所です。御本尊様から直接智慧を頂くことが出来ます。人間関係を解決する特効薬は、御本尊様に向かって勤行唱題することです。寺院で行われる唱題行は人間関係を円滑にする大切な行です。そして御住職様から有り難い御教示を頂き、歓喜を呼び起こし人間関係を解決していきます。


他人より遅れる不安、劣等感の扱い方

2005-11-21 | 手引書⑧

 他人より遅れをとり、劣等感を感じるときは、気持ちに焦りが生まれます。それが縁となり心を煩わす迷いや悩みが生まれます。人の性格により劣等感の受け止め方と扱いが異なります。育つ環境や縁する人生の先輩からの助言により違いがあります。後の人格形成にも大きく影響していきます。
 劣等感は、考え方次第で人生に於ける大切な糧にもなり、扱い方を間違えると三界六道輪廻という苦しみの境涯にもなります。日蓮正宗の信心では、劣等感を人生の生きる肥やしとし、自分自身を成長させる大事な役目と考えます。つまり、最高の境界である「成仏」に必要な要素である善知識(プラス思考)と考えます。「成仏」という姿を完成するためには、様々な要素が必要です。その一つが他人より遅れをとる劣等感です。劣等感も利用価値があり、その目的にあわなければ役目を果たさず無駄となり煩悩という形で終わりますが、しかし、日蓮正宗の信心では、劣等感である迷いの煩悩を菩提へ転じ、善知識というプラス思考へと変え、人生を安楽な境界へと演出します。
 劣等感は他人と自分を比較するところから生まれます。他人の能力と自分の能力とを比べます。劣等感を感じたとき、その後の考えに二通りあります。一つは、負けてなるものかと対抗意識を持つ場合、もう一つはもう駄目だと絶望や悲観的になり人生を投げ出す場合があります。何れかに当てはまります。
 人の性格に大きく左右されて、劣等感の扱いに違いが生まれます。特に劣等感に対し、もう駄目だと絶望や悲観的になり人生を投げ出す場合の扱い方を考えてみましょう。この場合は、孤独感が生まれ周囲の人から孤立し、全てが暗く見え、生きる気力を失います。これが絶望感や悲観的な気持ちに襲われた心理です。体験したことがなければ心の悲痛は理解できません。
 劣等感を持つ人に対しても、周囲の捉え方が二分します。温かく見守ってくれる人と、見下して更に絶望の底へと押し込める無慈悲な人がいます。特に扱いに困るのが、後者の見下して更に絶望の底へと押し込める一闡提といわれるような人です。この様な人は「還著於本人」を恐れるべきです。その行為は自分自身の命に深く刻まれ、同生同名天がしっかりと記録します。未来で自分自身に、他人にした行い以上のことを体験します。それが「還著於本人」です。
 心ない人から言われたことは、劣等感を持つ本人の脳裏に深く焼き付けます。これが正しく、心の惑いといわれる三惑です。見惑思惑となり人生の生き方を迷わせ、大きく揺さぶります。日蓮大聖人の教えは心の惑いを、御本尊様に御題目を唱えることで全てを払い、気持ちをスッキリさせます。劣等感は心の汚れです。心の汚れはそのままにしておくと、ストレスとなり脳の思考回路が正しく機能せず、心の惑いが更に進行し、被害妄想や精神的な病に発展することがあります。更に四大不順を起こし病気になります。劣等感がなくなるまで日夜御題目を御本尊様に唱えることが大事です。思い悩み時間は無駄です。その時間を御本尊様に向かう唱題の時間に変えましょう。必ず道が開かれます。
 劣等感を感じる種類はたくさんあります。人生は劣等感とどの様に上手く向き合っていくかが課題です。上手く処理できれば楽しい人生が送れ、処理が上手くいかなければ人生は楽しくありません。正しい仏法を学び信心をしなければ、心に生まれる劣等感を正しく扱うことが出来ないのです。その方法が、御本尊様に向かう姿勢であり、勤行唱題に尽きるのであります。