正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

未得謂得 未証謂証

2005-11-20 | 手引書⑫

 「未得謂得 未証謂証」とは、「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり」と読みます。未だに悟りを得ていないのに、得たと思い込むことであります。
 信心において、求道心を失わないように説かれた教えです。また、慢心や増上慢を起こさないようにする、戒めでもあります。
 この「未得謂得 未証謂証」は、向上心を無くし、成仏できなくなり、現状に満足するということです。その結果、最高の仏様が覚られた境界を知ることなく、人生を終わってしまうのであります。
 境界を高めるには、現状に満足することなく、目標を新たに立て、それに向かって行くことです。これは信心で非常に大切なことです。現状に満足すれば、そこから魔の働きが入り込み、三界六道の生活に戻ることになります。
 「未得謂得 未証謂証」の原点は、釈尊が説かれる『法華経』の「方便品第二」にあり、
 「説此語時。会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。五千人等。即従座起。礼仏而退。所以者何。此輩罪根深重。及増上慢。未得謂得。未証謂証。有如此失。是以不住。世尊黙然。而不制止(此の語を説きたもう時、会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起って、仏を礼して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。此の如き失有り、是を以て住せず。世尊黙然として、制止したまわず)」(法華経100)
 更に「勧持品第十三」では、
 「悪世中比丘、邪智心諂曲、未得謂為得、我慢心充満(悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん)」(法華経375)
と説かれています。第六十七世日顕上人は「開目抄」の御説法の折に、
 「『未だ得ざるを為れ得たりと謂ふ』というのは、本当は悟っていないのだけれども、自慢・高慢の慢心によって自分では悟っていると思い込んでしまっておる」
と御指南であります。「自慢・高慢の慢心」が原因で、「未得謂得 未証謂証」を起こす原因には、共通して「慢」ということがいえます。「慢」は、修行において常に誡めながら、精進することが大事です。
 この「慢」は、完全に心の中から無くなることなく、縁に触れて生まれます。その都度、誡めながら信心をするところに、「慢」を成仏の糧にしていくことが出来ます。「慢」は、気持ちを非常に高ぶらせる覚醒作用があります。正邪と善悪の判断基準を見失わせる働きをします。この部分を阻害し、「慢」の善知識となる面を、利用するところに価値があります。「慢」の善知識となる部分は、絶望感や悲観的な心の暗さを、根底から払拭させる力があります。つまり、「慢」が変毒為薬されて薬になるところです。「慢」には、七慢・八慢・九慢があります。
 信心では、「慢」の薬になる部分を活用し、「未得謂得 未証謂証」を誡めながら、一生成仏を目指していきます。勤行唱題では、「慢」に紛動されることなく精進しましょう。そこに「水の信心」があります。