正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書⑤)

2005-11-21 | 手引書⑤

60.信仰を持たない人や無神論者の方へ

61.正しい仏様とは日蓮大聖人です

62.折伏成就は、挨拶から始まります

63.正法誹謗者は還著於本人を恐るべし

64.日蓮正宗と創価学会は違います

65.創価学会から日蓮正宗に改宗するには

66.信心は所作仏事が大切

67.信心は謗法払いが必要です

68.仏法は多数決で判断できません

69.仏教が雑乱する中で正しい仏法とは

70.正法時代とは

71.像法時代とは

72.末法時代とは

73.値い難き仏法にあえる因縁を大切に

74.人生の不安を取り除く方法は


信仰を持たない人や無神論者の方へ

2005-11-21 | 手引書⑤

 世の中には、仏様や神を信じず自分だけの力に頼り生きている人がいます。一見、人間らしい生き方でしっかりした立派な人のように見受けられます。しかし、落とし穴があることを理解する必要があります。「落とし穴」とは、慢心や自惚れといった我慢偏執が強くなり、他人を認めず他人より勝ろうといった根性が根強くなることです。この気持ちが原因となって様々な問題を引き起こす要因を持っています。日蓮正宗の信心は、この様々な問題を引き起こす要因の扱い方を説いている宗旨です。 
 仏様や神を信じずに、自分だけの力に頼るところには限界があります。この限界を回避するのが信仰であり信心です。
 自分だけの力に頼る方は、信仰や神に縋る背景に、消極的でひ弱な人間が蠢(うごめ)く姿を、先入観的に固定観念として頭のなかに染み付いているのではないかと察します。これは間違った一面だけをとらえた浅識です。信心に対して勉強不足であることを指摘します。自分自身が経験してきたものだけで、判断できない事が世の中には多くあります。ある一部の生活空間では通用しても、未知の世界へ行けば通用しない場合があります。そして自分自身の未熟さを痛感させられるでしょう。この未熟さを痛感させられても、信心では心の悲痛をバネに力強く生き、間違った方向へ行かないよう、教えて下さっているのが日蓮大聖人です。
 未熟さに痛感させられ人生の壁に当たった時、信仰を持たない人や無神論者は、自分の力だけで解決しようとし、本来は直ぐに解決できるものが遠回りをして軌道に乗せるといった具合になります。信心は更に信仰と違い、奥の深いものです。人生を遠回りせずに仏様から有り難い智慧を頂いき、近道をして問題を解決できる智慧を、御本尊様から御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで頂けるのであります。御本尊様を信じ御題目を唱えれば、自分自身の信じてきた自信と勇気を更に強固なものにします。他の信仰や無神論者で、力不足を感じている人は今すぐに日蓮正宗を信心すべきであります。
 信仰を持たず無神論という人は、世の中に自分を頼りにせず、両親や周りの人に依存する他力本願的な人が横行するので、自分自身に頼らなければといった頑固な一面があると思います。正しい信仰である信心は、心に柔軟性をもたせ難しい人生を柔らかく生きていくことを目指すものです。日蓮正宗の信心と世間一般でいうところの信仰や宗教と同じように考えることは、偏見であり間違いです。日蓮正宗の信心は、他宗で説くところの教えで不満なところを全て補い、完全なものとして日蓮大聖人が説かれています。他宗の教えでは心に不満が残るので、折伏という形で他宗を批判し教えているのであります。
 過去に他の宗教を信仰して嫌な経験をお持ちの方には、宗教などに頼らず自分自身を信じ生きていこうと志した人もいましょう。確かに世の中には人々の財産を食い荒らす邪宗教が存在します。この様な宗教を正していくのが日蓮正宗であり、日蓮大聖人が御教示下さる「折伏」です。間違った宗教を信仰された方は、日蓮正宗を信心し、折伏をしてその宗教を正していく使命があります。周りの人々に間違った宗教を教え、更に正しい仏法を教えてあげることが尊いことであり、自分自身を頼る気持ちが更に強く出来上がるのであります。それが御本尊様から頂く生命力です。信心した人にしか実感できない素晴らしいものがあります。それは「歓喜」という姿で気持ちに現れ、楽しい人生を送ることが出来ます。
 今一度、信仰を持たない人や無神論を主張される方は、正しい信心の必要性を考え直されては如何でしょうか。日蓮正宗の寺院でその答えが見つかるはずです。


正しい宗教と信仰

無神論ではなぜいけないのか


正しい仏様とは日蓮大聖人です

2005-11-21 | 手引書⑤

 世の中には、仏様と称しながら根拠が非常にいい加減な仏が横行しています。このような仏には、仏様に具わる本来の力はなく、人生を堕落させるマイナス的な力しか持ち合わせていない邪な仏もいます。邪な仏には十分に注意しましょう。正しい仏様が「日蓮大聖人」であると主張している宗旨は、日蓮正宗だけです。日蓮宗と名乗る日蓮宗各派は「日蓮大菩薩」といい、仏様とは拝していません。この違いは何処からきているかと申しますと、「日蓮大聖人」からの正しい御相承が有るか無いかというところに決定的な違いがあります。
 日蓮宗各派は、日蓮大聖人からの純粋な御相承が伝わっていないので「日蓮大菩薩」と日蓮大聖人を蔑(さげす)んでいるのであります。「大聖人」といわれる由縁は、日蓮大聖人が自ら『撰時抄』に、
 「されば国土いたくみだ(乱)れば、我が身はいうにかひなき凡夫なれども、御経を持ちまいらせ候分斉(ぶんざい)は、当世には日本第一の大人(だいにん)なりと申すなり」(御書869)
という御言葉と『妙心尼御前御返事』に、
 「日蓮は日本第一のふたう(不当)の法師、たヾし法華経を信じ候事は、一閻浮提第一の聖人なり」(御書901)
という仰せから日蓮正宗では「日蓮大聖人」と仏様の称号で尊信しているのであります。日蓮宗各派では日蓮大聖人の仰せに背いていることになります。
 「日蓮正宗」という宗名は、日蓮宗各派と根本的に違いますので「日蓮正宗」と、日興門流富士派である当宗ではいうのであります。「日蓮大菩薩」という日蓮宗各派では、外用の上行菩薩にとらわれており、日蓮大聖人の御化導における途中の姿に本懐があると思い込んでいます。。
 仏様といえば、世間一般でインドの釈尊や阿弥陀如来・大日如来など多く存在します。これら仏様の存在する意味を明確に説いているのは日蓮正宗だけであります。仏様にそれぞれの立場と、ある一定の衆生を導く使命があります。今現在の末法に生まれている人々には、インドの釈尊も浄土宗で説く阿弥陀如来も真言宗で説く大日如来も全く縁がありません。仏典を開いて学び、日蓮大聖人の御指南である御書を拝していけば一目瞭然です。末法時代は「日蓮大聖人」だけが私達の仏様です。他の仏様は架空の仏であり、迹仏であります。本当の仏様である「本仏」ではありません。日蓮大聖人が本仏であり、釈尊は末法では迹仏になり、阿弥陀如来は他方の国土に縁があり、裟婆世界である私達の住むところには全く縁がありません。大日如来は、法身仏であり実際にこの世に生まれてきた仏ではありません。ですから悩み多き人々の気持ちが本当に理解できない仏です。この世に実際に生まれ迷える人々の気持ちを感じなければ救済することが出来ません。真言宗ではこの点を覆い隠し、大日如来を本尊として、開祖空海の神秘的で幻想的な邪義に操られています。 
 以上のことから解りますように、世間では「仏様」について間違った解釈がなされています。更に、この世を去られた人々、御先祖様が全て仏様だという観念があります。これは仏教本来の意味から大きく外れています。仏様と呼ばれるには「修行」をしなければなりません。仏道修行もしないで仏様とは呼べず、成仏したといえません。亡くなれば成仏して仏様になったというのは、仏様が仰せになったのではなく、人間が勝手に言い出した邪義です。
 仏教に関する正しい知識は、日蓮正宗の寺院へ参詣され御住職様の御法話を拝聴させて頂くことにつきます。そして正しい仏教知識を身に付けましょう。正しい知識を身に付けることで本当の成仏が出来るのであります。


折伏成就は、挨拶から始まります

2005-11-21 | 手引書⑤

 何気ない「挨拶」が、人と人との繋(つな)がりを変えます。「挨拶」をすることは、仏法を学び修行をする以前の人間として行わなければいけない作法です。信心では「不軽菩薩」の精神を持って「挨拶」することが大切です。
 「挨拶」が折伏の成就にどのような働きがあるのか、疑問に思われる方もおられましょう。この「挨拶」には非常に深い意味があります。深い意味を理解し、折伏に活用することで成就に繋がるのであります。
 この「挨拶」の効果について考えてみましょう。まず丁寧に挨拶されたことにより、相手の気持ちが緩(ゆる)み、閉ざされた心の扉が開くのであります。この折伏する相手の気持ちを緩ませれば動執生疑を起こすことに繋がります。折伏では、相手に与える印象が大事であり、始めの「挨拶」が肝心です。「挨拶」によって親しみを感じ、相手に話しを聞いて貰う姿勢をつくります。「挨拶」を忘れた横柄な態度では、相手の心を閉ざしてしまい折伏成就は期待できず逆効果です。
 「挨拶」は外道の教え儒教でも「五常」という形で説いています。「五常」とは「仁義礼智信(じんぎれいちしん)」です。「五常」の「礼」が挨拶に当たります。低い外道の教えですら「礼儀」である「挨拶」を重んじていますので、正しい仏法を志す人は尚更に「礼儀」である「挨拶」を重んじて折伏することが大事であります。そこに折伏成就の第一歩と始まりがあります。
 特に信心を知らない若者の間では「挨拶」が多種多様であり、基本的な「挨拶」が身に付いていないところもあります。また「挨拶」を軽視する姿が見受けられます。「挨拶」をしないことで人間関係が縺(もつ)れ、相手方の命に三悪道の気持ちを作り上げることになります。「挨拶」のしたしないで醜い争いに発展することもあります。「挨拶」には重要な意義があるわけです。
 違う見方をすれば、非常に効果的であります。「挨拶」は人間の醜い気持ち三悪道の地獄餓鬼畜生の命を沈静化させることが出来ます。そして人界と天上界の命、平らかな気持ちと喜びの気持ちを施すことが出来ます。「挨拶」は人間関係を円滑にする潤滑油です。
 しかし、時として「挨拶」をしても、一闡提(いっせんだい)のような「挨拶」に反応を示さない人もいます。その人の心の状態を考えてみますと、いくつかの原因があります。生活する家庭環境に多大な原因があります。そこには「挨拶」を形骸化させてしまうものがあり、「挨拶」は無くても良いという風潮です。面倒臭さもありましょう。また心の悩みに気持ちが奪われ、周囲の人の行動が目に入らない場合もあります。相手の気持ちを察することが必要です。
 折伏では、以上のことから相手の機根、生命状態を「挨拶」することで察していくことが出来ます。折伏における「挨拶」の意味がそこにあります。「挨拶」により折伏する相手の反応を見て心の状態を知り、どのような環境で生活しているのか大方の予測が熟練すると具わります。家庭訪問をし折伏の回を重ねることで「挨拶」をして相手の様子を察する含蓄が身に付きます。経験を積めば、そこにはある傾向があり法則が見えてきます。それが六根清浄の功徳に磨きがかけられた御本尊様からの御利益です。お金では決して得ることの出来ない有り難い来世まで続く功徳です。そして信心で身に付けた含蓄を更に生活場や仕事場に活用することで「常寂光土」が現実のものになるのであります。
 折伏を成就するための「挨拶」には、以上のような非常に深い意味が秘められています。日蓮正宗の寺院に参詣されることで更に深い「挨拶」以外の教えを、永代経や御講で御住職様から請うことが出来ます。


正法誹謗者は還著於本人を恐るべし

2005-11-21 | 手引書⑤

 「還著於本人」とは、自分自身が行ったことが自分に全て還って来るという意味です。経典に説かれる「還著於本人」は、他人に向かって行った悪い行いが全て自分に降りかかってくることを説いています。特に「正法誹謗」という、正しい信心をしている人に対して悪口罵詈し妨害や誹謗中傷した人に仏罰が還ってくることです。
 人生の教訓として「還著於本人」を考えた場合、日常、全てにわたって接する人には、意地の悪いことをすれば自分に還ってきますので、自分自身の言動を省みて、四恩を知り感謝の気持ちや慈悲の心を持って行くことが大事です。その行為がまた自分自身に還ってきます。それが善い意味での「還著於本人」です。
 生活のなかでは、この「還著於本人」を考える余裕もなく思ったことを言動に出していくのが私達の欠点でもあります。「還著於本人」を理解し、教訓としていけば人間関係も上手くいくことでしょう。「還著於本人」を心に刻む修行が勤行唱題です。唱題のなかでは御利益主義に溺れることの無いように「還著於本人」のことを自問自答することが大事です。そこに成仏の直道があります。
 正法誹謗者は「還著於本人」を恐るべしということは、更に詳しく説明しますと、正法を行ずる人に対し行った誹謗中傷的言動が、そのまま同じように還ってくるのではなく、地獄で一番苦しい無間地獄に堕ちる苦痛に変わるということです。このことを恐れなければなりません。世の中には日蓮正宗を誹謗中傷している宗教団体がいくつもあります。特にその団体に所属している方々が「還著於本人」を恐れなければいけません。現世では一時的な幸福感に浸っていても、来世生まれてくるところでは、悲惨な人生が待ち受けているのであります。
 『開目抄』に、
 「順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。一闡提人これなり」(御書571)
と仰せの如く、正法誹謗という重罪を造っても現証が出ずに、次に生まれてくるところで正法誹謗の精算をされ無間地獄に堕ちるのであります。無間地獄の苦しみについて詳しく説かれていません。仏様が詳しく説かれれば、人は血を吐いて死ぬと言われています。そのために詳しく説かれていません。
 無間地獄に堕ちる正法誹謗の宗教団体とは、創価学会や正信会、顕正会などが「還著於本人」として、誹謗中傷したその人の身に還ってきます。日蓮正宗を誹謗中傷する宗教団体に所属している人は、直ちに正信に目覚め勧誡されることを望むものです。
 邪な宗教団体に所属している人は、その宗教色である周りの空気や雰囲気に飲み込まれ、心が操られているために実感が湧きません。第六天の魔王の通力が働いているためであり、また指導者のマインドコントロールを受け洗脳されているためです。それが心に深く浸透し、更に人間関係が深くなり過ぎているため身動きできないことでしょう。この心情は理解できても、謗法与同罪は逃れられません。これもまた無間地獄に堕ちる縁を結ぶことになります。周りの同志が様々なことをもって正信に目覚めさせまいと行ってくることでしょう。この同志による魔の働きに打ち勝ってこそ成仏があり、日蓮大聖人の力強い精神が身心に身に付くのであります。正法誹謗という「還著於本人」を心から恐れ、日蓮正宗に改心されることを心から切望します。一日も早く勧誡式を受けられることをお願い申し上げるものです。


日蓮正宗と創価学会は違います

2005-11-21 | 手引書⑤

 世の中には、未だに日蓮正宗と創価学会が同じ宗教であるという認識をお持ちの方がいます。この考えは一昔前の考えで、今現在は全く違います。どこがどのように違うのか解りにくい方もおられましょう。一見、同じ様な御経と御題目を唱え、御本尊様も同じ様な御本尊様です。我田引水でこのことを判断できません。本質を理解せず自分自身の見解で考えることは避けましょう。
 根本的な違いは、宗祖日蓮大聖人からの伝統である教えに従うか従わないかです。更に信心の根本である、本門戒壇の大御本尊様と唯授一人の御法主上人猊下を信じて修行しているかの違いです。日蓮正宗はこの伝統法義に従い、これからの未来広宣流布の暁までこのまま継続していきます。
 しかし、創価学会は伝統法義とは違う考え、下種三宝を蔑ろにした、民主主義や政治、世間法に重きを置く考えにすり替え、本来の教えから大きく脱線しました。一般の創価学会員には、日蓮正宗から盗んだ非常に難解な教義を巧みに利用して洗脳し、創価学会の正当性を裏付け、学会員の組織における結束を固めています。創価学会でも御書を読んでおります。日蓮正宗本来の意味と違う解釈をし、「御相伝」から大きく逸脱しています。ここがまた根本的に違うところで摧尊入卑しております。
 そして信心の基本、七百年来の伝統である「寺院参詣」を否定し、寺院に行けば創価学会で主張することとは違う現実を目の当たりにするため、あらゆる情報機関を利用し寺院の参詣を阻止しています。創価学会で流すところの情報と本来の日蓮正宗との実態に天地雲泥の差があるので、寺院の現実を見せたがらないわけです。創価学会組織運営の常套手段となっております。邪智に秀でた衆生が犇(ひし)めく宗教団体であり、成仏の妨げとなる我慢偏執に汚染された幹部が多い団体です。
 日蓮正宗において創価学会員が寺院に参詣しなくなったことで、非常に有り難いことがあります。それは本来の姿に戻り「少欲知足」の精神を実践でき、無駄を省き節約する気持ちが養われ、世間の謗法に染まることなく布教できるようになりました。日蓮正宗寺院も荘厳さを増し、本堂では生活や仕事場で失った心の落ち着きや冷静な気持ちを取り戻し、心の汚れを洗い流すことが已前より出来やすくなりました。この荘厳さと雰囲気を本来のものへと清浄にするため、創価学会を破門に伏したのであります。この以上のことを未だに知らない人がいます。目先の御利益主義に徹することなく、あくまでも宗祖日蓮大聖人の御精神を貫くとこらからの破門です。つまり現在、日蓮正宗と創価学会は根本的に違うのであります。
 この清浄な雰囲気に目を覚まさせないように、創価学会では日蓮正宗の寺院へ行かないよう会員に呼びかけ、様々な日蓮正宗における誹謗中傷を繰り広げているのです。創価学会幹部は、巧みに会員の心理を情報操作しているのが現実であり、創価学会にマイナスとなる不味い情報は即遮断します。人間は多くの人が信じる情報を鵜呑みにする傾向があり、この点を巧みに創価学会上層部は心得て利用しています。これは一つの魔の働きとなった第六天の魔王の「利根と通力」です。正しい信心の眼を具えている純真な方は見破り、日蓮正宗の寺院へ参詣され日々勤行唱題に精進し成仏を目指しているのであります。
 創価学会の幹部は、第六天の魔王が用いる「利根と通力」が使えることに酔いしれ、身心が毒され本心を失っています。その背景には、家族を養い生活を維持していくという自己保身も伺えます。自己保身は日蓮大聖人の御精神「不自惜身命」を忘れた精神腐敗です。御書根本と主張しながら、御書と矛盾する点が明らかです。三大秘法の御本尊様から頂く御利益を履き違えている部分です。
 創価学会の間違いに気付かれ、未だ創価学会に所属し、日蓮正宗の法華講に入講されていない方は、寺院で勧誡式を受け正しい信心をされ、現実を明らかに見ることが大事です。そこに本当の幸福があります。


以下の資料から日蓮正宗と創価学会(日蓮世界宗)の違いをご確認下さい。 

破折パンフ一覧

 

創価学会員ヘの折伏教本

時局協議会シリーズ

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す

創価学会の偽造本尊義を破す

H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す 

日蓮正宗の宗名史

 

 



創価学会から日蓮正宗に改宗するには

2005-11-21 | 手引書⑤

 創価学会から日蓮正宗に改宗するには、日蓮正宗寺院に於いて「勧誡式(かんかいしき)」を行わなければいけません。そして創価学会とは根本的に違う、七百年来伝統のある法華講に入講され本当の信心を学ぶことが出来ます。また法華講に入講することで、創価学会では出来なかった総本山大石寺への登山と本門戒壇の大御本尊様に「御開扉」を頂くことが可能になります。
 「勧誡式」では、一度入信してから創価学会によって心に染み付いた謗法の垢を、御本尊様在す本堂に於いて御住職様から洗い流して下さいます。
 法華講に入講されるにあたり、創価学会の組織と法華講の組織は違うことを理解して下さい。創価学会は、僧侶ではなく上の幹部の人から否応なく棚ぼた式に教えてくれますが、日蓮正宗法華講は自分自身が切り開かなければ成仏はありません。発心して寺院参詣をすることです。毎月の永代経や御講には必ず参加しましょう。寺院参詣に人生の道を開く鍵があります。
 日蓮正宗法華講の信心は、自らが心を起こさなければ先に進まず成仏は出来ません。そのため創価学会とは違います。この自らが心を起こすところに大事な要素が秘められているのであります。人生を生きる基本です。私達は、周りから物を与えられる生活に慣れている習性があります。この気持ちが人生に大きな壁となり人間としての成長を止めています。創価学会に所属していますと幹部に依存する「他力本願」が根強くなります。日蓮正宗の信心は「自力本願」と「他力本願」を調和した信心です。「自力本願」と「他力本願」のマイナス面を全て排除し、プラス面を向上させる「僧俗和合」「異体同心」であります。創価学会と違い法華講が小さいのは「爪の上の砂」であり、間違った教えは世に弘りやすく、正しい教えは弘りにくいのです。随自意と随他意の違いです。
 「組織」と聞かれると、組織アレルギーを起こし拒絶される方もおられましょう。創価学会という組織に対し過去にいやな経験をされた方はそうだと思います。法華講の組織は、創価学会の組織と体質が違います。巨額な請求が来る財務はありません。この創価学会にある財務の感覚で、日蓮正宗の御供養精神を考えてはいけません。日蓮正宗法華講の組織は「少欲知足」を基本にした御供養精神と組織の運営を行っています。生活を破滅させるようなことは一切しておりません。日蓮正宗法華講に対する間違った報道が横行しています。
 創価学会から日蓮正宗法華講に入講されるにあたり、学会精神と根本的に異なる面があります。御法主上人猊下を疑うことなく本来の日蓮大聖人の仏法に信伏随従していく気持ちが大事です。心に疑いや戸惑いを感じたときは、すぐに指導教師である所属寺院の御住職様にお窺いを立てることが必要です。また、御住職様ですと緊張される方は、支部の講頭さんに相談されることが大事です。
 法華講の信心は、信心に徹し生活も省みながら修行するものです。信心即生活といわれる信心と生活の両立が大事です。そのなかで信心活動をし「我此土安穏」な境涯や「常寂光土」を地道に作り上げていきます。
 信心の直接的な指導は、御信徒がするのではなく本山から任命された寺院の御住職様が御指導されます。御住職様の御指導のもとに支部講中の講頭さんを中心に活動していきます。「師弟相対」の信心がそこにあるわけです。
 創価学会の誹謗中傷に屈することなく脱会して、日蓮正宗法華講に入講し、本門戒壇の大御本尊様に本当の成仏を御祈念しましょう。


信心は所作仏事が大切

2005-11-21 | 手引書⑤

 「所作仏事」とは、私達が朝夕の勤行で唱える『如来寿量品第十六』の経文です。私達の凡眼凡智では知ることの出来ない、仏様の御化導は五百塵点劫の大昔から一度も止まることなく続いています。仏様の振る舞いを真似ることが「所作仏事」であり、あらゆる人生の迷いを消滅させることが出来ます。
 「所作仏事」とは、心の迷いや悩みを煩悩即菩提させる作法です。つまり、迷いや悩みを生む言動を止め、幸せになる言動を行い所作することです。末法の御本仏で在らせられる日蓮大聖人の御指南を拝し信心していくところに「所作仏事」があります。その時代々々で、背景が異なりますので、その時の御法主上人猊下の御指南に従って、その時代の「所作仏事」を行うことです。
 「所作仏事」とは、「所作」が振る舞い・動作・所行のことで、能作に対する語です。能作は所作を発する身口意の三業です。「仏事」が仏の教化、法を弘める行為(弘法・弘通)と日蓮正宗の行事や御本尊様に御供養すること、御先祖様に追善供養することです。それらの所作と仏事を素直に行うことで成仏できます。
 具体的な仏事を成す所作は、勤行唱題を基本とする御本尊様への御給仕や日蓮大聖人の教えを伝える折伏です。御本尊様が御安置される仏壇を常に綺麗にし、朝にはお水や御飯を供え御給仕をします。御本尊様への御給仕は、日蓮大聖人が生きておられることを心に思い浮かべることが大事です。御本尊様は生身の日蓮大聖人の御魂が墨に染め流されております。粗相のない様、丁重に御給仕することです。
 この御本尊様への御給仕で身に付く作法が、成仏に繋がる振る舞い「所作仏事」です。御本尊様への御給仕で身に付けた作法を、御給仕だけに止めるのではなく、生活の場に広げることで落ち着いた行動がとれるようになります。その行動には「防非止悪」という非を防ぎ悪を止める働きがあり、煩悩の根源である貪瞋癡の三毒を静めます。更に成仏を妨げる作用を防ぎ「我此土安穏」な境界へと通じるものです。この振る舞いを一生涯全うすることで成仏が出来ます。
 「所作仏事」が即折伏に繋がり、御本尊様の御利益により人々を成仏へと自然に導くことが出来ます。折伏での「所作仏事」とは、「不軽菩薩(ふきょうぼさつ)」の振る舞いを心がけることです。誹謗中傷・悪口罵詈を受けても同調せずに「忍辱の鎧」を着て振る舞うことが大事です。『崇峻天皇御書』に、
 「不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ」(御書1174)
と仰せであり、『百六箇抄』に、
 「今日蓮が修行は久遠名字の振る舞ひに介爾(けに)計(ばか)りも違はざるなり」(御書1695)
と御指南の如く、日蓮大聖人の御修行は久遠の古仏の振る舞いです。一番はじめの仏様が「久遠の古仏」です。この「久遠の古仏」が中心となって、垂迹仏と言われる様々な仏様が居られます。私達も御先祖様を忘れてはいけないように、仏様の先祖「久遠の古仏」を忘れて他の仏様や神様を崇めていては本当の功徳を頂くことが出来ません。世間の多くの人は、この事を全く知りません。日蓮大聖人だけが仰せになることであり、日蓮正宗だけが世界で主張しているのです。そのため、他宗では成仏できないと折伏をし、布教しているのです。
 その「久遠の古仏」の振る舞いが「所作仏事」であり、常日頃の御本尊様への御給仕もそうです。勤行唱題をして御題目を唱える姿も「所作仏事」であり、寺院参詣により自然と身に付いていきます。


信心は謗法払いが必要です

2005-11-21 | 手引書⑤

 「謗法払い」とは、正しい仏法に背いている間違った本尊や法具・神棚や位牌などを取り払うことです。信心をし御本尊様を自宅にお迎えするとき必ず行う日蓮正宗の「化儀」です。日蓮正宗を信心する以前に信仰していた本尊や神様は全て三大秘法の御本尊様に納められております。仏像や神様の魂も御本尊様の曼荼羅本尊に墨として魂を染めて流されているわけです。已前お祀りしていた本尊や神棚も三大秘法の御本尊様を御安置することで供養され、更に仏様の有り難い生命を私達に頂くことが出来ます。
 世間一般の仏像や神棚に具わる神様は、限られた仏様と神様の数しかおりません。日蓮正宗の御本尊様は「久遠元初の仏様」である御題目の南無妙法蓮華経を中心とする全ての仏様と神様が、一幅の曼荼羅御本尊様として日蓮大聖人が顕わされたのであります。ですから、世間の仏像や神棚に存在する神様の力とは比較にならない力が日蓮正宗の御本尊様であります。多くの人が崇めているから、素晴らしい神様・仏様であると思いこみ勘違いしてはいけません。
 では、一緒に安置しても問題はないのではと思われる方もおられましょう。一家には主が二人居りますと意見が纏まらず、常に啀み合いが絶えません。また日本の国に総理大臣が二人もいたらどうなることでしょうか。国は纏まらず悪くなる一方です。御本尊様に関しても同じ理屈です。家庭が幸せになるはずが、本尊が二つであったり、仏様と神棚があったりすれば啀み合いが絶えず、幸せな家庭を築くことが出来ません。そのために日蓮正宗では三大秘法の御本尊様をお迎えし、御安置するときは已前お世話になった仏像や神棚を除けて、全ての仏様と神様が具わった御本尊様だけを御安置申し上げます。
 その状態から御本尊様の清浄な功徳が流れ通ってきます。「謗法払い」により、人生の迷いや悩みを同時に払拭させられる智慧を得ることが出来ます。この状態を一生涯通すところに今まで経験したことのない、御本尊様からの有り難い御利益を頂くことが出来ます。
 「謗法払い」を行わない場合、御本尊様からの純粋な血脈という血液が流れ通わなくなります。不純物が血液に入り込むようなものです。不純物が入り込めば動脈硬化を起こしたり、様々な病を誘発させ、更に純粋な血液は流れずに命に危険を及ぼします。「謗法払い」は、譬えるならば動脈硬化などの病を起こす原因である他宗の仏像や神棚を取り除き、三大秘法の御本尊様を御安置して血液を綺麗にすることであります。それが「謗法払い」の意味です。他宗の仏像や神棚は、不必要に取り過ぎた血液中のコレステロールや仕事などの疲労から来るストレスになります。他宗の仏像や神棚を完全に払い、三大秘法の御本尊様だけを御安置すれば体の健康状態を保つことに繋がります。
 正しい日蓮正宗の御本尊様を御安置していても、健康でない方は家のどこかに、他宗の仏像や神棚が祀られていないか確認することをお勧めします。そして、寺院に返納して「謗法払い」を行うことが大事です。その上で勤行唱題をし折伏をすれば健康体は維持できるはずです。
 家庭訪問という折伏は足腰を使う健康的な修行です。歩くことで健康を保ち病気を防ぎます。そこに長寿の秘訣が隠されています。日蓮正宗の信心は健康維持に最適です。


仏法は多数決で判断できません

2005-11-21 | 手引書⑤

 日蓮大聖人は『聖愚問答抄』に、
 「世間・出世善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり。然れば何ぞ強(あなが)ちに少なきをおろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり。木皮は充満すれども布絹は些少(きしょう)なり。汝只正理を以て前(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ」(御書402)
と明確な御指南をされておられます。「汝只正理を以て前(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ」という御指南が大事です。
 正しい仏法は、仏様の御意を蔑(ないがし)ろにし、人の心を中心とする多数決で決められないので、日蓮正宗には「唯授一人の御法主上人猊下」がおられるわけです。民主主義の時代に逆行していると言われるかも知れませんが、人間を根本とする民主主義と仏様を根本とする仏法は根底から違います。人間の心は縁に触れ常に変わる欠点があります。仏様が説かれる仏法は、縁に触れて変わる心の欠点を排除して説かれています。政治を見てもお分かりのように、民主主義の考えには纏まりが欠落し、不安定が露わになっております。
 仏法と世間法を混同して考えてはならないところがあります。それが先の『聖愚問答抄』の御指南です。日蓮正宗に疑問を持つ方は、世俗的な世間法に染められている部分があります。世間法を否定するものではありませんが、日蓮大聖人の教えは、今まで経験され身に付けた世間法で推し量るこが出来ません。仏法に関わらず、未経験のものは年の差に関係なく経験された人には適わず、経験された方に教えを請うことが世間的にも礼儀であります。
 「唯授一人の御法主上人猊下」とは、釈尊が説かれた仏法や宗祖日蓮大聖人の教義を全て究められた世の中で一番尊い御方です。正しい仏法に関しては「唯授一人の御法主上人猊下」の御教示下さる御言葉を拝し学ぶことです。
 その御言葉は「信」である信じる以外にありません。間違った教えについて信じれば不幸になりますが、正しい仏様が説かれる教えに確信を持って信じれば必ず幸福になります。特に創価学会等が署名運動をもって抗議してきますが、人々が判断する多数決に固執することなく、多くの土砂に埋もれた宝石を見つめる信心が大事です。その宝石が仏法であり、日蓮大聖人の教えです。そして「唯授一人の御法主上人猊下」が御内証において仏法の宝石を御所持されておられます。世間法や多数決に拘る考えは多くの土砂と同じです。
 世間法も確かに大事でありますが、仏法の上に世間法を考えなければ、世間法が具えた本来の意味を成しません。世の中は邪智が横行しています。世間法を巧みに利用して聖者を装い、裏では何を考えているか解らない人が多い世の中です。そのためにも仏法は多数決できません。唯授一人の御法主上人猊下の御指南を信じ励むことで、そこに「即身成仏」があります。
 唯授一人の御法主上人猊下がおられるのは、時の流れに左右されやすい、民主主義による世間法に染まらないよう純粋に仏法を持つためであります。つまり「不染世間法 如蓮華在水」という法華経の精神を未来永劫まで地球上に持つためです。そこに正しい仏法を多数決で判断できない謂われがあります。御法主上人猊下を誹謗中傷する宗教団体に所属されておられる方は考え直しましょう。