正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書①)

2005-11-21 | 手引書①

1.人生の迷い悩みは何気ないところから襲ってくる

2.お寺参詣の大切さ

3.信心を持続させる大切さ

4.毎月の御講に参加しましょう

5.総本山大石寺登山の重要性

6.御題目を唱える理由

7.御本尊様から頂く功徳

8.正しい仏法を教える折伏の必要性

9.謗法与同罪を恐れる信心を

10.心の汚れ三毒の貪・瞋・癡

11.信心の信とは

12.修行の行とは

13.教学の学とは

14.人生の苦悩となる四苦八苦


人生の迷い悩みは何気ないところから襲ってくる

2005-11-21 | 手引書①

 人の幸せは永遠の保証はありません。楽しいとき、幸せなときこそ、冷静に現実を見る時間を一日に数分でも持つことが大切です。
 楽しいときや幸せなときは安心し気持ちを緩めがちです。この気持ちの緩め方を間違えると不幸になります。気持ちを緩めるということは、注意力を怠ることになり、何気ないところから迷いや悩みである不幸の原因をつくることになります。
 この何気ない迷いや悩みを事前につくらないようにするには、お寺(日蓮正宗寺院)へ行き冷静に現実を見つめる時間をつくることです。
 仕事場や自宅では、様々な雑念により心を落ち着かせることは出来ません。心の安らぎを得る大切な場所がお寺です。世の中では、お寺の存在を忘れがちですが、お寺こそ今の時代に一番必要な、幸せを永遠のものにするところです。
 人間の智恵や知識には限界があります。その限界を無限にするには、お寺へ行き心と精神を磨き、その上で世間一般の知識を活用することです。
 お寺の存在を忘れられがちな現代、お寺に行くことで心の汚れを洗い流せます。この心の汚れを洗い流すことの出来ない人が、多くの迷いや悩みをかかえ、更に自殺という最悪な結果を招くこともあります。最悪な結果を未然に防ぐ方法は、お寺へ行くことが重要です。そして、お寺の方に人生について問いかけ解決策を見つけ出すことです。その智恵を得るところがお寺です。
 人としての道を外さない教えもお寺には伝わっています。人としての道を外れるために人は迷い悩みます。
 人間は、ちょっとした躓(つまず)きで迷い悩みが生まれます。どのように解決すればいいのか分からなくなります。この状態が迷い悩みの姿です。誰もが経験することです。
 いつも幸せであったり、楽しい気持ちであると、急に迷いや悩みが生まれると何倍にも何十倍にも苦しみを感じます。この苦しみから解放するところがお寺です。世界で最高の仏様の前で御題目(南無妙法蓮華経)を唱える時、苦しみである迷い悩みから解放されます。
 迷い悩みには多くのものがあります。人間関係・対人関係の悩み、仕事上の悩み、家庭における悩み、幸せをつかむはずの結婚が離婚しなければならない悩み、嫁姑による価値観の違いからくる複雑な悩み、子育ての悩み、恋愛からくる悩み、学校の成績の悩み、あげればきりがありません。
 お寺へ行くことで、以上のさまよいから解放される道を切り開くことが出来ます。
 迷いや悩みが生まれる前に、迷い悩みの芽をつみ取る必要があります。つみ取る方法をお寺では教えてくれます。
 その和が世の中に広がれば、社会においても決して崩れることのない幸せをつかむことが出来ます。お寺の参詣を心からお待ちしています。


お寺参詣の大切さ

2005-11-21 | 手引書①

 御先祖様の供養は非常に尊いことです。御先祖様がおられたからこそ今の私達があります。決して忘れてはならないことです。世の中では御先祖様へ対する感謝の気持ちを忘れ去られている姿があります。それとは正反対に御先祖様のことを尊び敬う姿は、御先祖様もお慶びであると察します。
 御先祖様の成仏を決定するのは、どなたであるか考えたことがお有りでしょうか。お参りの際には、お寺に安置されている御本尊様が成仏して下さることを知ることです。私達の浅はかな力でなく、亡くなった昔の御先祖様が成仏して下さるのでもありません。成仏はお寺にある三大秘法の御本尊様がして下さいます。
 私達はただひたすらに、御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで、亡くなられた身近な御先祖様も遠い昔の御先祖様も御本尊様の偉大な力によって成仏させられます。
 お参りに来られる方で、以外にこのことを知らない方がいます。お参りには、その意義を理解してお参りすることで更に御先祖様に成仏への仏因を結ぶことが出来ます。
 具体的には、お墓や納骨堂にいく前に必ずお寺の御本尊様に御題目三唱することが大切です。そして御塔婆を建て成仏の仏因を確実に結ばせることです。御塔婆を建てることで成仏の縁を結んだ証拠を示します。
 宗祖日蓮大聖人様も『草木成仏口決』に、
 「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(御書522)
と仰せです。御塔婆を建てることで亡くなられた御先祖様の眼を開き、新しい人生を歩ませることが出来ます。私達にはどこで何をしているのか知ることは出来ませんが、御塔婆を建てることによって御本尊様が御先祖様の行く末を見守って下さるのであります。
 お寺へ行かないでお参りだけ済ませる方は、御先祖様に本当の成仏の種を施すことが出来ないのであります。このことはお寺へ参詣しなければ全く知ることが出来ません。世間でも教えてくれる方はおりません。そのためにお寺へ行くことが非常に大切です。
 お墓や納骨堂へのお参りも尊いことでありますが、お寺へ寄られお経を一緒にあげて御塔婆を建てることで御先祖様の成仏が確実になります。


信心を持続する大切さ

2005-11-21 | 手引書①

 世間でも「継続は力なり」といいますように、何事も続けることが大切です。信心においても当然であり宗祖日蓮大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
 「此の経をき(聞)ヽう(受)くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども『憶持不忘(おくじふもう)』の人は希(まれ)なるなり。受くるはやす(易)く、持つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値(あ)ふべしと心得て持つなり。」(御書775)
と仰せです。信心は御本尊様を受けることは容易いことですが、持つという信心を持続することが非常に難しいと御指南です。成仏というのは持つところにあります。受けているだけでは本当の成仏は出来ません。
 具体的に「持つ」ということは信心の実践です。実践しなければ成仏は出来ません。実践をしなければ知らない間に、世間の謗法に染まるおそれがあります。御授戒を受け、更に御本尊様を受けている方は、このことを十分におそれ更に持つという信心の持続を考えることが大切でしょう。
 実践とは、朝夕の勤行唱題・正しい仏法を教える折伏です。更に寺院参詣である寺院へのお参り、御住職様の有り難い御法話を拝聴させて頂き自行化他の両面を向上させていきます。そして総本山大石寺への登山です。本門戒壇の大御本尊様に御目通りさせて頂き、御法主上人猊下に御指南を賜ることが重要です。最低一年に一度は総本山大石寺に登山することが大事でしょう。特に支部総登山には必ず登山すべきであります。以上の実践なくしては成仏は望めません。
 信心の実践に当たり、必ず災いがうまれます。大小様々でありますが、特に己自身の「己心の魔」が災いします。魔の働きである三障四魔は、師子身中の虫である己心の魔が必ず邪魔をします。日々の勤行唱題を疎かにすると己心の魔を好きなようにさせることになり、人生のあらゆる変動や世間の荒波に動揺しやすい人格を作り上げます。この点を信心の実践をしない方は気付く必要があります。つまり知らぬ間に謗法の思想に染まっていくのであり悪道に落ちる要因をつくっていきます。これでは当然成仏は出来ません。実践なくして観念的に成仏できると思い込んでいるだけでは怠慢であり、当然成仏は出来ません。信心は持つという持続がいかに大切であるかということです。持続することであらゆる悪縁を退け、不退の境界を築くのであります。
 日蓮正宗の信心は他力本願ではありません。御本尊様を信じ御題目を唱え、自分自身で人生を切り開いていくことが大事です。そのためにはお寺へ参詣し御住職様の有り難い御法話を拝聴させて頂くことが大事です。毎月の永代経や御講には必ず参加したいものであります。


毎月の御講に参加しましょう

2005-11-21 | 手引書①

 御講とは、宗祖日蓮大聖人様に御報恩感謝申し上げる法華講員として積極的に参加しなければいけない行事です。本堂に太鼓の音が鳴り響くなか、御住職様による献膳が行われ、読経唱題と有り難い御法話があります。
 御講に参加する意味は、御本尊様に巡りあえた歓びや御題目の南無妙法蓮華経を唱えられることは、日蓮大聖人様の御出現があったからです。お寺へ参詣し御講に参加して日蓮大聖人様に御報恩謝徳申し上げていきます。
日蓮大聖人様は『開目抄』に、
 「何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」(御書530)
と御教示であります。報恩感謝の気持ちが忘れられがちな現代、この報恩を学ぶところが寺院で行われる「御講」です。世の中の人達は、報恩について学びなおす必要があります。報恩を忘れた姿が世の中の悪い現証として起きているといっても過言ではありません。御住職様の報恩についての法話は、世間では聞くことの出来ない日蓮大聖人様の教えが躍動した法話です。私達が経験する人生の障害物を払拭させる智慧を身に付けることが出来ます。そして生活のなかで染みついた心の迷い貪瞋癡の三毒を洗い流していきます。
 また御講で学んだ報恩の意味を教えていくことが「折伏」につながります。折伏をして日蓮大聖人様の報恩の意味を教えて上げ、更に日蓮正宗に入信させて御講に参加させることで日蓮大聖人様に恩を報じることが出来ます。御講では報恩の気持ちを自他共に育成し、報恩の気持ちを持った人の輪を広げていく、日蓮正宗において非常に大事な行事です。御講に参加しなければ報恩の気持ちを養うことは出来ません。
 御講は三大秘法の御本尊様と日蓮大聖人様だけに御報恩申し上げるものではありません。第二祖日興上人様、第三祖日目上人様以来の御歴代上人様にも御報恩申し上げています。それが読経唱題前に行われる献膳の意義です。正しい仏法を学び本当の報恩の意味を学ばせて頂けるのは、御歴代の御法主上人様が正しく御相伝あそばされてきたからであります。この血脈といわれる筋道が途切れていたならば、私達は一切、御本尊様に巡りあうことも出来ず正しい仏法も学ぶことは出来ないのであります。当然以上の意味から御歴代の御法主上人様に御報恩申し上げることは法華講員として当たり前のことです。つまり下種三宝様に御報恩謝徳していくということです。それが御講に参加する重要な意味になります。
 更にその意味を踏まえて御塔婆を立て御先祖様を供養し、日蓮正宗を信心していない方を折伏して恩に報いていきます。御講には以上の意味を踏まえて参加されることが大事です。更に御先祖様の毎年めぐってくる祥月命日忌と毎月の命日忌にも、お寺へ参詣し御本尊様に御題目を唱えることが御先祖様の成仏を確実なものにします。毎月の御講には縁のある方をお誘いし必ず参加しましょう。


総本山大石寺登山の重要性

2005-11-21 | 手引書①

 登山するにあたり、御本尊様を信じる信心を根本とした心構えを、十分に理解し登山に望むことが大事です。つまり心の準備を怠ることなく、万全を尽くすことです。登山後、登山で養われた心がけを、更に生活の場で応用していくことで、信心即生活における大切な気構えが生まれます。
 登山に当たっては、事前に予定や計画を立て不備のないよう勤めます。この心がけは、登山だけでなく生活の場において具体的に予定や計画を立てることでスムーズに送ることができます。その予定や計画を具体的に立てる大切な時間が、朝夕の勤行唱題である心休まる時間です。御本尊様を御前にして勤行唱題をするとき、現実を冷静に見ることができ、禅定の境地に入ることが自然とできます。つまり私達の迷い三毒である貪瞋癡を払うことになります。登山に否定的な方は、すでに命が三毒に汚染されつつあることを自覚する必要があります。
 仕事に追われる毎日には、一日に必ず落ち着いて自分の今のあり方や家族のこと仕事のことを冷静に見つめる時間が必要です。その時間が勤行唱題になります。人生のちょっとした戸惑いや気付かない面を事前に御本尊様から智慧を頂いて解決していきます。勤行を怠ると判断力と冷静さを失うことになり、三毒である貪瞋癡に汚染された命になります。この三毒に翻弄されていては、現実を明らかに見ることは一切できません。
次になぜ、総本山大石寺の登山が重要なのかといいますと、本門戒壇の大御本尊様に御開扉を受けさせて頂くことで、先に記した人生の迷いである貪瞋癡の三毒を命の奧から取り払うことができるのです。この命の奧に入り込んだ心の毒を取り除くことで、今までの生活リズムを根本から変革し成仏の境界へと近づく事ができます。そのため総本山大石寺の登山は非常に重要です。自宅の御本尊様や所属寺院の御本尊様に御題目を唱えるだけではいけません。登山をして根本の総本山に在す本家の御本尊様に、御題目を唱えなければ本当の功徳は一切流れかよってはきません。
 総本山大石寺に登山することで、今まで以上に人生を客観的に見つめる眼が具わり、自分自身を常に向上させようとする心構えもできます。信心には向上心が必要です。六波羅蜜に「精進」という言葉がありますが、向上心を養うには、この精進が大切です。精進とは日蓮大聖人様の御精神に添って進んでいくことです。つまり日蓮大聖人様の御書を学んで心肝に染め、更に御法主上人猊下様の御指南を仰いで進むことであります。これが日蓮正宗における「精進」です。登山には本来の精進を養う意味もあります。
 登山で一番大事なことは「御開扉」です。御法主上人猊下様に内拝をお許し戴いて、はじめて本門戒壇の大御本尊様に御目通がかないます。「渇仰恋慕」の気持ちをもって望むことが大事です。六根清浄の功徳を頂き、六根である眼耳鼻舌身意を清めることができます。「御開扉」で頂いた功徳をもって、更に勤行唱題と折伏に精進することができ、生活も安穏になり充実した生活を送ることが可能です。この安心感を縁ある方々に伝えて、登山の歓びを広めることが大切です。支部総登山には必ず参加しましょう。


御題目を唱える理由とは

2005-11-21 | 手引書①

 私達は、人と話すとき言葉を使います。日本人同士であれば日本語で話します。アメリカ人であれば英語で話します。仏様である御本尊様と御話しをするときは、御経である法華経の方便品と寿量品を唱え、更に御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで御本尊様に気持ちを伝えることが出来ます。
 南無妙法蓮華経という御題目を唱えながら、自分の気持ちを伝えることが大事です。また御先祖様に対しても御題目を御本尊様に唱えれば、その思いは御本尊様の力で伝えて下さるのであります。私達の力ではどうにもなりません。御本尊様の力をお借りしなければ、御先祖様に成仏の種を施すことが出来ません。
 南無妙法蓮華経を唱えることで、私達に本来具わっている仏様の命、仏界が蘇ります。日蓮大聖人は『法華題目抄』に、
 「妙とは蘇生(そせい)の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書360)
と御指南であり、御本尊様の南無妙法蓮華経の「妙」の一字を拝して、御題目を唱えていけば仏様の命、仏界が蘇るのであります。御本尊様に向かい正座をして、御念珠をし合掌すれば、仏様の命が蘇ります。
 そして大切なことが、心・気持ちを落ち着かせ冷静になることです。これを仏教用語で「禅定」といいます。気持ちを落ち着かせることで、三大秘法の御本尊様に境智冥合し仏様の生命・仏界が涌現しやすくなります。御本尊様は常に禅定の境地におられます。疑うことなく信じることが大切です。
 これは迷い悩み雑念があると難しいです。気持ちを落ち着かせ冷静になることが大事です。人生における迷い悩み雑念は、御本尊様に向かい正座をして合掌し、御経と御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで静めることが出来ます。
 この御経をあげ御題目を唱える習慣を、生活に取り入れることで安定してきます。入信間もない方や習慣になっていない方の場合、はじめは朝晩必ず御題目の南無妙法蓮華経を声に出して三回唱えることを毎日続けることです。そして習慣付いてきたら、方便品と寿量品の自我偈を唱えるように心がけ、更に長行を唱えられるように段階を踏み、最終的に五座三座の勤行が出来るように精進していきます。
 この段階を踏んで行うことは、全ての人生において、修得していく上で非常に大事なことです。その人生における基本を勤行唱題で学んでいきます。そして御本尊様に御題目を唱えることで、生命力を強化し人生における様々な障害を乗り越えていくことが出来ます。御題目を唱える中で人生設計をし、安穏な生活を築いていきます。努力と信念だけでは限界があります。この努力と信念を本当のものにするのが「信心」です。信心とはつまり御本尊様に御題目を唱え仏界である潜在能力を引き出すことです。毎日欠かさず御本尊様に勤行をして、御題目を唱える習慣を持ちましょう。その先に絶対的な幸福があります。


御本尊様から頂く功徳

2005-11-21 | 手引書①

 功徳について『御義口伝』に、
 「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳(さいわい)有るなり。功(く)も幸(さいわい)と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり云云」(御書1775)
と説かれています。日蓮大聖人が御指南される功徳とは、物欲や快楽を満足させるだけの低いものではありません。最高の功徳とは、六根清浄である即身成仏です。私達の六根である眼・耳・鼻・舌・身・意が清浄になることです。
 この六根が清浄になった上から物欲と快楽を考えなければいけません。六根が清浄になり、善悪の判断が明らかに見える上から、少欲知足の精神のもと物欲や快楽を求めることです。そこに我此土安穏な境界があり、御本尊様に御題目を唱えるところに六根清浄の功徳があるのです。 
 『当体義抄』に、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。能居(のうご)・所居(しょご)・身土(しんど)・色心・倶体倶用(くたいくゆう)の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是(これ)即ち法華の当体、自在神力(じんりき)の顕はす所の功能(くのう)なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず」(御書694)
と御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱えると、三つの徳を得ることができると仰せです。六根清浄の功徳を邪魔する、私達の心の迷い煩悩・業・苦の三道は、疑うことなく御本尊様を信じ御題目を唱えるところ、法身・般若・解脱の三徳にかわって、御題目を唱える人の住むところが、仏様が住む常寂光土にかわると日蓮大聖人は御教示です。それが御本尊様から頂くもう一つの最高の功徳です。
 『当体義抄』で「敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず」と二回も繰り返されておられますが、疑うことなく信じれば必ず六根清浄の功徳を得て、仏様の住む境界になれるということです。疑えば六道輪廻の世界をさまようことになり、息苦しい歓喜の涌かない生活になります。六道輪廻の世界に堕ちる前に気が付くことです。
 日蓮大聖人の教えを信じ、御本尊様に御題目を唱えていくところに、歓喜を呼び六根清浄の功徳を頂き、住むところが常寂光土とかわり、更に折伏をして、その輪を広げていくことが大切です。
 本門戒壇の大御本尊様が在す、総本山大石寺が唯一の常寂光土であり、その血脈が流れ通っている御本尊様を受持するところが常寂光土にかわります。御本尊様を信じ、御題目を唱えて有り難い功徳を頂きましょう。


正しい仏法を教える折伏の必要性

2005-11-21 | 手引書①

 折伏とは、腐敗堕落した世の中を正しくていく、日蓮大聖人が御指南される日蓮正宗の伝統的な修行です。世の中における腐敗堕落の原因には、主師親の三徳に報恩申し上げ、敬っていく姿を失っているところにあります。つまり、主人と師匠と親に対する気持ちが形骸化し忘れかけているからであります。
 折伏では、この腐敗堕落の根本的原因である、主師親の三徳を敬う気持ちを教えていく大切な修行です。宗祖日蓮大聖人は、末法の御本仏として後世の私達に欠けている、主師親の三徳について余すところなく御教示下さっております。それが「御書」として残され、師匠について御相伝の上から、御書を正しく学び勉強していくところに、主師親の三徳を学んでいくことが出来ます。
 主師親の三徳については、世界でも日蓮正宗でしか教えていません。世間一般の教育施設学校では、教えない教義が日蓮正宗では七〇〇年間伝わっており、折伏という形で布教し知らない人に教えています。
 折伏は、親に対する感謝の気持ちを育てていきます。現在の日本は、親を親とも思わない風潮が、末法の様相として現証がはっきり出ております。親を親とも思わない背景には、若者を釘付けにする思想や間違った宗教・仏教を信じ信仰するところにあります。
 仏教に親しみのない方には、理解しにくい面がありますが、永い歴史のなかで無意識のうちに命に染み付いた謗法の垢であり、日蓮大聖人は厳しく糾弾されています。今ではその間違った思想・考えが、特に若い世代において常識化しているところもあります。まさしく正しい仏法を学んでいない証拠です。唯一正しい仏法を教えていく行いが折伏です。
 折伏は、私達における不幸の原因を根元から取り去る行為です。不幸の原因を折り伏していくということです。それが折伏です。
 日蓮大聖人は『開目抄』に、 
 「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす」(御書575)
と仰せであります。主師親の三徳を忘れた邪な智慧をもった者、謗法といわれる正しい仏法を無視し破壊する者には、間違った考えをもった人に正しい仏法をもって、折り伏していく折伏が大事であるということです。
 折伏をしないで、自分だけの成仏を願っている人は、知らぬ間に主師親の三徳を忘れた謗法の人から、謗法の考えを貰いやすい体質になっているを心に止めることが大事です。折伏によって、防非止悪といわれる非を防ぎ悪を自他共に止めていくことができます。自ずと折伏をしなければ自分の成仏が危ういことを気付くことが大事です。謗法与同罪になり、無間地獄に堕ちないよう折伏を行じていくことが大切です。


謗法与同罪を恐れる信心を

2005-11-21 | 手引書①

 日蓮大聖人は『秋元御書』に、
 「常に仏禁(いまし)めて言はく、何なる持戒智慧高く御坐(おわ)して、一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵(かたき)を見て、責(せ)め罵(の)り国主にも申さず、人を恐れて黙止(もだ)するならば、必ず無間大城に堕(お)つべし。譬(たと)へば我は謀叛(むほん)を発(お)こさねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪(よどうざい)は彼の謀叛の者の如し。南岳大師(なんがくだいし)の云はく『法華経の讐(あだ)を見て呵責(かしゃく)せざる者は謗法の者なり、無間地獄の上に堕ちん』と。見て申さぬ大智者は、無間の底に堕(お)ちて彼の地獄の有らん限りは出づるべからず」(御書1453) 
と謗法与同に対し非常に厳しい御指南をされており、更に第二祖日興上人も『日興遺誡置文』に、
 「一、謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」(御書1885)
と御教示であります。謗法与同罪を恐れなければいけない理由は、成仏である六根清浄の功徳を得られなくなるからです。『曽谷殿御返事』に、
 「何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にを(堕)つべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹(かに)の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しっぽんしんこ)』とは是なり。」(御書1040)
と仰せであり、謗法があると必ず地獄に堕ちるということです。そのため謗法を恐れなければいけません。
 私達は、生活していく上で同情心を無意識のうちに家族や友人などにもちます。対人関係・人間関係を維持していく上で大切です。しかし、信心においてこの同情心が成仏の妨げになることがあります。謗法の思想・考えに注意して人と接していくことが大事です。そのため日蓮大聖人と第二祖日興上人は謗法与同に対し、厳しく訓誡されております。
 具体的に謗法与同罪を避けるには、「和して同ぜず」ということを心がけることであり、人間付き合いを上手にすることです。一切衆生の恩を心に留めながら、折伏をして謗法の人と付き合うことが必要です。謗法厳戒・破邪顕正の精神をもって接することです。折伏は、一切衆生に恩を報じる大切な修行です。
 この謗法与同が、時として己心の魔と成り代わります。御本尊様に疑いをもつようになり、根無し草のような情報と噂に翻弄されることがあります。信心では、魔の働きに充分に気を付け、謗法与同罪を恐れた信心に徹することです。
 所属寺院へ月に一度は必ず参詣し、御本尊様に御題目を唱えることで、謗法与同罪を逃れることが出来ます。更に毎日の勤行唱題で謗法与同罪を消滅することが出来ます。そして総本山大石寺に在す、本門戒壇の大御本尊様に御目通りすることで、私達の命に染み付いた根本的な謗法の垢を綺麗に落とすことが出来ます。常寂光土を汚す謗法与同罪には、充分気を付けましょう。