正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

陰徳陽報に徹する信心を

2005-11-20 | 手引書⑫

 「陰徳陽報」とは、御本尊様から頂く「冥益」の現れ方を示したものです。信心をしていても、「冥益」ではなく「顕益」を望みたくなる気持ちが生まれる場合があります。
 「陰徳陽報」の意味は、ひそかに善い事を行えば、後日に必ずよい報いを受け、かくれての徳があれば、あらわれての報いがあるということです。故に日蓮大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
 「陰徳あれば陽報あり」(御書1362・1391)
と仰せです。
 角度を変えて考えた場合、かくれた徳ではなく、かくれた「悪」であると大変なことになります。同生同名天という冥の照覧の働きにより、悪い報いを受けることがあります。「陰徳陽報」では同時に、そのことも学ばなければいけません。
 世の中には、因果の道理となる因果応報を無視した人が、多く蔓延る時代です。信心をしない人へ、信心するようにという折伏の意味も「陰徳陽報」にはあります。
 第六十七世日顕上人は「平成三年度 非教師指導会会食の砌」に、
 「大聖人様の御書に『陰徳陽報御書』というのがあり、知っている者もあるだろうが、そこに『陰徳あれば陽報あり』ということを仰せである。
 やはり人間は、『こういうことをしたら、みんなに誉められるだろう』とか『認められるだろう』とか、そのようなちっぽけな感情、こせこせとした考え方を持たないほうがよろしい。とにかく、自分の信じるところを正しくやっていく、そこに正直な気持ちがあるわけであります」
と仰せです。ここで「こういうことをしたら、みんなに誉められるだろう」とか「認められるだろう」という気持ちが、慢心へと豹変することです。信心の難信難解な部分は、この慢心や我慢を如何に扱うかというところにあり、仏様へ通じる境界が隠されています。
 「陰徳陽報」を忘れた命には、魔の働きが師子身中の虫を送り込み、正信を失わせ、悪道へ導かせようと窺うところであります。勤行唱題で、決して見落としてはならない部分です。非常に持ち難い理由に「陰徳陽報」を忘れ、名聞名利に心が揺さぶられるところにあり、名聞名利を得たときの気分に酔いしれ、また味わいたいという、貪瞋癡の三毒である貪欲に心が蝕まれた結果です。
 貪瞋癡の三毒が「陰徳陽報」を破壊する原因を持ちます。つまり、貪瞋癡の三毒の働きを常に察し、適切な信心に於ける処理を施せば、問題はなく御本尊様から頂く有り難い「陰徳陽報」を得ることが出来るのです。
 「陰徳陽報」の繰り返しで、人間関係に於ける人脈のなかに信頼関係を築き、異体同心を信心のもと不動の姿に変えられるのであります。僧俗和合して、支部講中を維持していくには、「陰徳陽報」を忘れてはいけないのであります。ここに「我此土安穏」や「常寂光土」が現実のものになります。